bookreader.js

主権者と経済人

最近、選挙権年齢の引き下げが実現し「主権者教育」の必要性が取り沙汰されている。
現在、60代の選挙に行く人の比率が70パーセント弱、20代で選挙に行く人の比率が50パーセント弱で、 高齢者は数が多い上に選挙に行く比率が高い。
若者は数が少ない上に選挙に行く比率が低いとなると、「シルバー民主主義」などと揶揄されても仕方がない状況が生まれている。
世代間で、全体に占める1票の割合の差が生じるため、もう一つの「一票の格差」問題といえる。
いま仮に18歳、19歳が有権者となって20代に加わり、60代なみに投票所にいけば、それほど老若間の投票数には大きな差は出ないという。
だとすれば、政治にまったく無関心な10代に、選挙にいけば「何が」変えられるかぐらいの自覚をもたせれば、1人でも多く投票所に足を運ぶことにはなろう。
ここで「何か」が変えられるとは、例えば行き過ぎた高齢者医療費から若者支援の方に予算をまわすなどである。
とはいっても、実のところ「主権者」という言葉に違和感をおぼるている。
それは、ちょうど経済学の世界における「経済人」と同じように、「仮想的人間像」でしかないからだ。
それは人間というものが、非合理的行動に走ったり、情報操作に踊らされやすいからばかりではなく、今日の社会がアダムスミス以来の「経済人」や、JJルソー以来の「主権者」などを想定した社会とは、かなり隔たった社会だからである。
現代は、自己の経済的利益追求が全体の経済的利益にかなうスミスの「予定調和」とか、国民全体の利益にかなうルソーの「一般意思」とかを見出しうるほど、同質な社会ではないということである。
我々がもしそれを期待するのであれば、ルソーのいうとうり「自然に帰ら」ねばならない。

我々は「国民主権」という言葉を当たり前のように受け入れているが、国民が主人となってものを決めるとは一体どういうことか。
また、それが本当に素晴らしいことなのか。
この点を考える上で、大正時代の若者の圧倒的支持を集めた政治学者・吉野作造の思想は「主権」の座標をズラシていて興味深い。
吉野によれば、政治にとって「主権」がどこにあるかは問題ではなく、政治がどこを向いているかこそが重要だという。
つまり誰の福利を最終的な目標ととして政治が行われるがが大事であり、「天皇主権」のもとでのそうした政治のことを、民主主義とは区別して「民本主義」とよんだ。
リンカーンの有名な言葉「人民の人民による人民のための政治」の「人民による」の部分をハズシた思想ともいえる。
したがって、この思想は、質の低い「民主主義」よりも、賢者(哲人)のよる「民本主義」の方が、よほどマシである。
ここでいう「賢者」とは、人の意見をよく聞く存在で独裁者とは区別するが、いうまでもなく「仮想的人間像」である。
我々は、こうした「賢者」を一般意思として見出し、さらに選ぶことは困難なので、致し方なく「国民主権/民主主義」を選んでいると考えてもよい。
ただし、チベット社会でダライ・ラマという指導者(賢者)を選ぶ方法や、それが一般に受け入れられているのは「驚き」というほかはない。
また政治は、「国民の意思」たる世論に従うべきだというが、「国民の意思」というものが如何に形成されているのかを考えたとき、世論ほどアヤウイものはない。
つまり世論が「国民の意思」の集合体などといえるほど、人々は「自律的」な選択を行っいるわけではないからだ。
人々はまず、自分の社会的の立場や威信、特に給料が悪くならないような選択をする。
それ以外のことについては自分が「賢者」だと認めている人々の意見をとりいれて、なんとなく意思を形成しているのだ。
そうなると、世論というものは、少数の「賢者」の意見のうち一番受け入れやすかったかで「世論」が形成されているにすぎない。
つまるところ、「世論」の実体は「少数者」のオピニオンリーダーの意思を「組み合わ」とみることができる。
その意味でいうと、マスコミの自ら「取捨選択/編集」してその意見を伝える性質上、その影響力が極めて大きいのはいうまでもない。
また、政治行動を分析するときに、経済学の考え方を導入する試みが行われているが、しばしば使われるのが「情報の費用」という概念である。
人々は「情報の費用」を考えると「知ること」よりも「知らない」ことを選択する。
ここでいう「情報の費用」とは、知りたいが時間と金(本代など)がかかるコストもあれば、「今さら知ってどうなるのかしら」から「暗い気持ちになることは知りたくない」などの精神的なコストまである。
一位とは、情報のコストやリスクを避けるためにあえて「知らない」ことを選択する。これを「合理的無知」といってもいい。
現在の「代表民主制」あって、我々は個々の政策については自分の利害に関わること以外は、せいぜい自分が「託するに足る」人物を選択しているにすぎない。
そこで、もし「民主主義の失敗」ということをいうならば、「真の賢者」を選ばないということだ。
なぜなら人間は目先の利益によわく、長期的な視野が必要なエネルギー政策、財政の世代間負担、世界情勢などについて、「大衆迎合(的)」な言葉に耳を傾けようとすることである。
そのことを見透かしている賢者は、自ら「選挙」にかってでようなんて思わないはずである。
結果、「代表者の質」いいかえると民主主義の質は、「国民に質」によって決まるということである。
ソクラテスほどの「賢者」は、アテネ民主社会から抹殺されざるをえないというのが、歴史の教訓である。
また、民主主義は数発のテロによっても壊れ去るのも歴史の教訓である。
今日の社会は右傾の傾向があることが指摘され、世界的にみても「ヘイスト・スピーチ」など排他的な感情が渦巻いている。
このことがさらなるテロを誘発するなど「悪循環」に陥っている。
この風潮から思い浮かべるのが、日本の昭和初期の殺伐とした時代である。
昭和初期にテロが横行した時代にあって、内閣総理大臣や財界の代表者が次々に右翼テロの凶弾に倒れた。
その結果、大正デモクラシーで芽生えつつあった「民主主義」の息はすっかり息を止められた。
しかし、政治家や財界人が右翼のターゲットになったのも、当時の政党が財界と結びつき腐敗していた結果であり、より清廉と思われた「軍部」に期待する風潮が高まったという面もある。
こうした傾向とも関連して、精神分析のフロイトやフロムは、人間の政治行動にたいして「驚くべき」知見を提供している。
格差社会にあって、貧困層は格差を広げて自身の生活を苦しめる政府に反対すると考えがちだが、そうした人々はなぜか「強い政府」を肯定しようとする場合があるということである。
フロイトの精神分析によれば、自分が惨めであればあるほど自分を徹底的に「無化」することによって、大きな存在(強い政府)と一体化することで、自己の自信(誇り)を回復しようとする心理があるという。
またフロムがいうように、人間は目の前の自由という「孤独」に堪えられず、国家権力と自身を一体化するかのように自由から逃走し、「奴隷化」の道を辿るというのだ。

世界史から選挙の起源を考えた時、それが「政権交代」を平和かつ速やかに行うためにほかならない、
かつて貧しかったら虐げられたりした人々は、革命や暴動、一揆で富の再分配を求めた。
これだとその都度、社会が混乱して大変だから、すべての人に「1人1票」という政治的リソースを与え、「選挙」という機会をつくったのである。
とはいえ、ほぼ世界的な傾向として普通選挙が実現する前に、「制限選挙」が行われた。
つまり、財産(納税額)によって選挙権を「制限」したのも、貴族階級や富裕層が「数の力」でその地位を脅かされたり、財産を奪われたりすることを恐れたためである。
今、格差社会が進行して「貧困層」が拡大しているのならば、平等に「1人1票」が与えられているのだから、もっと「貧困者寄り」の政策が行われてもよさそうなものだ。
しかし、最近の「消費税率アップ/法人税率ダウン」などに見るとうり、そうはなっていない。
人々が本当の「主権者」として行動しているとはいえないのだ。
そこで、この世界の本質的な問題としてあげられることは、「資本主義」と「民主主義」が競合するということである。
つまり1人1票の「平等主義」と、資本主義下の「金の力」による不平等が競合しているといえる。
しかし数年に1度の「選挙」は、政治参加のほんの一部であるにすぎず、それ以外の場面で、政治的意思の多くが「金の力」に呑みこまれている。
例えば様々な利益団体は、日常的に政治家に「政治献金」をしたり、「天下り先」の確保などのエサで官僚に働きかけて、政策に影響を与えている。
最近では、日本歯科医師連盟が政治資金の規制にかからないように参議院議員に「迂回寄付」していたことが発覚した。
事件の背景にはそれなりの理由があった。歯科医師が過剰となる一方で、予防などがすすんで虫歯などの疾患が減り、現行の保険制度で歯科特有の事情が配慮されず、保険点数が低く抑えられている点である。
医科では高度な機械が開発され、それに応じて点数も伸びたが、しかし、歯科は目による診断が中心で、治療も手仕事で技能の要素が高いが、今のような画一的制度では「職人技」は正当に評価されない。
このため、歯科医師会は政治団体をつくり、国会に議員を送り歯科保険点数のアップをを図ろうとしたのである。
アメリカの政治経済学者のA・ダウンズ氏は、「民主主義国家における政府の政策には、ほとんど常に、反消費者、生産者支持の傾向が見られる」といっている。
これを「ダウンズの命題」というが、情報の収集・分析や政策に影響を及ぼす政府への働きかけには費用がかかる。
一般消費者はこれを負担しようとしないため、政府・与党の政策決定に影響を及ぼすことができない。
しかし、生産者は情報の費用負担に意義を見出し、負担能力もある生産者は政策にも精通し、利益団体を作るなどして、影響力を行使するのである。
ちなみに、自民党の政治資金団体の2014年政治資金収支報告書によると、企業・団体献金は約22億1千万円で、このうちトップ100企業・団体の献金が77%を占めているという。
こうした大企業は、経営に必要な情報や資金をマスコミへの「人脈」づくりに使うことができる。
スポンサーになって「原発反対」などを内容とする番組を排除して、主要な「情報源」たるマスコミを支配してきた。
一般市民は、選挙以外の場面で「政治参加」のための機会や情報を得たりするなどの金と時間を費やすことができないため、前述したように「合理的無知」をきめこむことになる。
とするならば、「民主主義」の装いを脱ぐまでもなく、政治的意思はそのスポンンサーたる大企業や富裕者の方におのずから傾くことになる。
数年前の東北の原発事故は、究極的に「金の力」が、「少数者の意見」をいかに「多数者の意見」に変えていったのかを如実に物語った出来事であった。
政治家や官僚も学者もマスコミも「一丸」となって世論作りをしたといえる。
そして「原発推進」の意思が定着して走りだしてしまうと、それに反対する人間はつまはじきにされ、不遇の身をかこつことになった。
歴史家の会田雄次は「決断の条件」の中で次のようなことをっている。
「私たちが個人として独立性を持たず、孤独を極端におそれる反面、管理組織で同志的結合であれ、いかなる集団徒党と化し残虐の性格を露呈するのもこの基本的性格の現われだといわなくてはならぬ。こういう基本的性格から、常に仲間を求め、一人のときは強度にシャイであり、流行に弱く、絶えず身体を動かしていないと不安という日本人特有の症状も説明されよう」と、手厳しい。
さて、アメリカの社会学者リースマンは1950年の「孤独な群集」の中で人間の行動類型を過去の伝統に依拠する「伝統指向型」、自分の信仰や信念に忠実であろうとする「内部指向型」、そして他人の評判や意向に左右される「他人指向型」というように分類した。
リースマンは産業革命による新しい社会の登場によって過去にとらわれず自分の信仰や信念によって道を切り開いていこうという「内部指向型」の人々が多く登場したが、大量消費・大量生産の進展にあって社会が均質化・平均化していくにつれ、人々は他人が何をしているか何を買っているか何を楽しんでいるかなど絶えず他人の行動にアンテナをはり他人の行動によって自分の行動をきめる「他人指向型」の人々が圧倒的多数を占めるようになったとしている。
このような社会で人々は簡単に雪崩をうったように一つの方向に動いて行く危険性があることを指摘している。
日本社会は「同化圧力」がとても強く、リースマンいうところの「他人志向社会」が非常によくあてはまる社会ではなかろうか。
リースマンは1950年の段階で、早くもマスコミが行う政治的な「情報操作」や煽情主義の危険性をも指摘している。
それは現代社会が「大量生産/大量消費」によって均質化し、ひとつの方向に流れやすい危険性を察知したからである。
しかしそればかりではない。彼がドイツ系ユダヤ人であることから、ナチスの「情報操作」が強く脳裏に焼きついていたにちがいない。
ところで、カール・セーガン制作の実話にもとづいた映画「コンタクト」(1997年)に、ドッキリさせられる場面があった。
地球最大の電波望遠鏡を備えた天文台に勤務している女流天文学者(ジョディ・フォスター)は、電波探査のプロセズをモニターしている画面に、奇妙なパルス信号が横切った瞬間を見逃さなかった。
コンピュータで解析すると、電波の発信先が26億光年離れたヴェガという星とつきとめられた。
信号を解読した結果、ある不可解な画面が浮かび上がってくる。
そこには、ナチの鉤十字とリズミカルな歓呼の声をあげている群集に手を振るアドルフ・ヒットラーの姿であった。時々カスレはするが、確かにドイツ語をしゃべっている。
それは、なんと1936年のオリンピック大会の開催宣言をしている場面なのだ。
26億光年離れた星から、なぜヒットラーの映像が送られたのだろうか。
我々のテレビ電波は円形の波となって、ちょうど池の小波が広がるように、この地球を離れて広がっていく。
そのスピードは光速に等しく、永遠に飛び続けている。
どこかに文明の栄えている天体があるとして、彼らの受信機の感度がよければ、遠くにいても我々のテレビ電波をとらえることができる。
ベルリン・オリンピックの開幕式がヴェガに届くまでに26年、それからさらに26年後に同じ映像が地球へと戻ってきたのだ。
カール・セーガンは、こうした可能性がアリとしてこの話をある登場人物に託して語らせたものだが、現在のスマホ時代にあっては、我々のプライバシーは完全に宇宙に筒抜けで、保存までも可能である。