糸島発、伊勢行き

「魏志倭人伝」の史料をよむといつも疑問に思うことがある。
「自女王國以北、特置一大率、検察諸國畏揮之。常治伊都國」という記述なのだが、なぜ学者はこの箇所にもっと注目しないのだろうか。
邪馬台国は、「一大卒」が置かれた福岡県糸島よりも南に位置するということが、ハッキリと書いてあるというのに。
それと、魏志倭人伝にある邪馬台国への行程は、伊都国まで具体的に詳細であるにもかかわらす、伊都国以降は、突然に大雑把な記述になる。
ということは、書いた人の確実な情報源は「伊都国」までで、それ以降は不確かな伝聞や推定に基づくものであるといってよい。
しかし少なくとも、上述のように邪馬台国が伊都国よりも「南」にあるということ、さらに言葉からうける「感じ」からして伊都国に遠くないということだ。
ところが今や、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が近畿の纏向(まきむく)遺跡の「箸墓古墳」というのが最も有力な説となっている。
2009年奈良県桜井市の纏向の地にて、300を越える柱穴の大型建物群の跡が出てきて、東西12.4メートル、南北19.2メートル、三階建てほほどの高さの高床式の建物の存在も確認できる。
運河の総延長は2.6キロあり人口は7千人と推定される。
その壮大な遺跡群からして「邪馬台国」を想起してしまう。
また、歴史博物館の「炭素14年代測定法」により、箸墓古墳の築城が従来通説290~320年説から一気に240~60年に遡ることができたことが大きい。
「魏志倭人伝」により、卑弥呼が死んだ年は247年とはっきりしており、時代的に一致する。
しかし、こうした年代測定は、どの程度信頼できるものだろうか。
「卑弥呼の墓」確定を功績にしたい学者の作為が働いていないのか。
現在、科学者達はC14年代測定法は、局所的にムラを生じ、日本では古墳出現期を含む1~3世紀に最大約100年ズレルという結果をだしている。
仮に、箸墓古墳を「卑弥呼」の墓と仮定してみよう。
「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼の居所には「宮室、楼観(たかどの)、城柵をおごそかに設け、とあるが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡とは異なり、そろって見つかっていない。
また、「常に人がいて、兵器を持ち守備をしている」「兵器には矛(ほこ)を用いる」「竹の箭(や)は鉄の鏃(やじり)あるい骨の鏃である」などと記されている。
ここで見逃せない事実は、AD300年以前に出土した鉄鏃、鉄刀、鉄剣、鉄矛、鉄戈といった道具や武具の数は圧倒的に福岡県が多くて、奈良県の出土例はほとんどゼロに近いということだ。
また、纏向の箸墓古墳からは大量の木製農具が見つかっており、それらは鉄器の存在によってはじめて製作が可能となるものである。
そういう点から推測すると、「卑弥呼の墓」は箸墓古墳どころか近畿であろうはずがない。
卑弥呼の時代に鉄器が出土するのは北九州であり、邪馬台国は伊都国の南にある吉野ヶ里や平塚川添遺跡の方が可能性が高いといえる。
では、ナゼこの「纏向」の地にこのような大規模な遺跡が存在するのだろうか。
実は、この「纏向」の地は、第11代天皇の崇神天皇とその子の垂仁天皇の本拠地というべきところである。
古事記によれば、崇神の没年はAD318年説であり、箸墓の墓の被葬者は、従来どうり崇神天皇関連例えば「倭迹迹日百襲姫」などとした方がよほど信頼できる。

2年ほど前に、NHK「歴史秘話ヒストリア」で放映された「女王卑弥呼はどこから来た?二つの都の物語」は、とても刺激的な内容であった。
実は、「女王の墓」といえば福岡県糸島の地にもあり、前原市の「平原遺跡」がそれにあたる。
魏志倭人伝に曰く「倭国は三十国に分かれ、争うこと七十年、八十年」だが、卑弥呼をたてたところようやくオサマったという。
。 この三十国のひとつが福岡市西部の糸島にあった伊都国で、そこに「一大卒」が置かれ周辺諸国を監視していた。
冒頭でいったように、魏志倭人伝には「女王国より以北には、特に検察せしむ。諸国これを畏憚す」とあるので、邪馬台国は伊都国より南になければならないはずだ。
かつて、魏志倭人伝の邪馬台国への行程は「距離」が間違っているので九州、方角が間違っているので近畿とか、導き出したい結論に合わせるような議論がなされた。
しかし、伊都国を起点にして「方角、国名、距離」の記載順序に変化が見られ、放射状に方位や日数、国名を読むことが有力な説となっている。
さて、その伊都国の中心が2世紀の三雲、井原遺跡で、その規模は60ヘクタールと大きく、一般の国の支配者の住居でさえ竪穴式の時代に、ここは高床式住居が多いのが目立つ。
そしてなんといっても圧巻は「平原古墳」である。
1965年に最初に発掘され、首飾りやなどが続々と出土し、古代中国(後漢)の女性の墓からしか出土しない装身具などが発見され、伊都国の王は「女性」であることが定説となった。
平原王墓の造られたのは約200年ごろで、卑弥呼が大和で死んだ247年との開きは約50年である。
卑弥呼の時代のすぐ前の時代にあたるため、この墓の主は卑弥呼の母親や姉の墓とも推定されている。
もしも、平原の女王の「娘」が伊都国で生まれて、邪馬台国の卑弥呼として即位したのなら、年代からしてそれほど不自然ではないわけである。
平原王墓はわずか径14メートルほどの方形周溝墓だが、王墓の側には40枚もの鏡があり、一番大きな鏡は直径46.5センチ、重さが8キロあり、それが5枚も出土した。
その中央部には光の反射の絵柄と、8つの花びらと8つの葉っぱが描かれている、いわゆる「内行花文八葉鏡」である。
平安時代の書物に、伊勢神宮にある三種の神器「八咫鏡」(やたかがみ)について「8つの花弁と8つの葉っぱ」と書かれているが、それと一致しているのである。
さて前述のNHK「歴史ヒストリア」の番組で、一人の考古学者が「糸島(伊都国)で行われてきた考古学的な習俗(風習)が大和(纏向)で突然出現する」といった驚くべき発言をされていた。
この風習とは、太陽崇拝や銅鏡との関係にあるようだ。
糸島の考古学者・原田大六氏が「女王の遺体は糸島(旧前原町)の東にある日向峠に向かって足を向けて横たわっているが、これは冬至の太陽の昇る方向であり、生命再生の意味を持つ」と述べられていることは、個人的に大変インパクトがあった。
これは推測だが、埋納されたたくさんの大鏡に太陽の光を反射させ、遺体の横に寝かされた新たな巫女に降り注ぐことで後継者としての霊力を移したのではないだろうか。
その一方で平原遺跡の発掘で最もショッキングなことは、日本最大の「内行花紋八葉鏡」が叩き割られて埋められていることである。
役割を終えた鏡を叩き割るという行為は、亡くなった女王の霊力を封じるという意味なのだろうか。
ともあれこの伊都国の女王が、当時の日本で最高クラスの巫女であったことには間違いない。

さて日本の初代天皇は神武天皇で、九州の「宮崎」から八咫烏に導かれて大和に移り「橿原宮」で即位したことになっている。
この「神武東征説」は、神武という「神話」上の天皇であるため、その信憑性が薄められるようにも思えるが、倭の勢力が南九州から大和奈良に移動したということは、何らかの「史実」を映しこんだものではなかろうか。
実在可能性が見込める天皇というのが、実は「纏向」の地と縁が深い第10代崇神天皇(すじんてんのう)で、3世紀から4世紀初めにかけて実在した「大王」(おおきみ)とみられている。
さらには、日本史研究の立場からは崇神天皇と神武天皇と同一人物であるとする説が有力である。
なにしろ神武天皇の「ハツクニシラススメラミコト」の称は、崇神天皇の称とまったく一致しているからだ。
初代天皇・崇神と皇子の垂仁一族は、ちょうど神武天皇の東征の話と重なるかのように「大倭」を率いて大和へ東征し、これにより奈良に「大和政権」が誕生したのではなかろうか。

さて、「古事記」を読むと、アマテラス以前に数々の神々が生まれたことが書いてある。
その中で天皇家が重視する十六の神をまつる「十六天神社」というものがある。
発音からして「地禄神社」と関係あるのカモとおもったりするのだが、この「十六神社」というのは圧倒的に福岡の糸島に多く、その次に鹿児島の川内や宮崎に多いという。
以前、数理統計学的手法で考古学の研究しておられる東京都立産業技術高等専門学校の石井好教授の話を聞いたことがある。
「纏向は4世紀の古墳」と主張される石井教授は、「十六天神社」の位置から「東征」以前に倭国の中心的な勢力が、中国大陸や朝鮮情勢の「緊張」からか、伊都国から鹿児島経由で宮崎に移住して行ったという。
個人的には、随分昔聞いたことのある「新田義貞挙兵」について語ったある学者の話を思い出した。
ある文書では、新田義貞が「本拠地」で挙兵したと書いてあるのに、別の文書では別の場所の寺で挙兵したと書いてあるという。どちらが本当なのか。
学者は、新田義貞が寺にて兵を「結集」したという記述に注目した。地元で手勢を率いて挙兵することも、他所で兵力を集めることも、等しく「挙兵」という言葉が使ってあったにすぎない。
もしも崇神の勢力が「九州内」を移動していたとするならば、それは「対外関係の緊張」ではなく、大和への東征にむけて「兵力」を集めていたのではなかろうか。
自勢力で出発したのが北九州で、日向(宮崎)に移動してソコカラ兵を結集して「東征」したということである。
足利尊氏でさえ、九州までやってきて兵力を集め「捲土重来」をはかったのだ。
実は、箸墓古墳のある纏向遺跡で大変興味深いことがある。発掘された土器が、四国、山城、近江、吉備など九州北部から関東地方に及ぶ地域からの物が混在していて、住民が列島各地から「移住者」であることである。これは、崇神天皇「東征」を裏付けるものではなかろうか。

日本史でこの垂仁天皇はあまり重視されないが、伊勢神宮を創設した天皇である。
父は崇神(すじん)天皇。母は御間城姫(みまきひめ)。
「日本書紀」によると、都は纏向の珠城(たまきの)宮。
伊勢に斎宮をたて、殉死を禁止して埴輪に代えさせ、農業のために池や溝800余をつくり、田道間守に不老長寿の香菓(橘)をもとめさせたという。
ところで、伊勢神宮の「式年遷宮」での際に思い出す風景がある。神職ら百数十人に守られ 伊勢神宮、遷御の儀があった。
午後8時、旧正殿を出た神体の「八咫鏡(やたのかがみ)」は、白い絹の布で覆い隠され、神宝の太刀や盾、鉾(ほこ)などを持った神職ら百数十人に前後を守られるように進んだ。
伊勢・内宮のご神体、八咫鏡とは、天照大神が天の岩戸に隠れた岩戸隠れの際、石凝姥(イシコリドメ)命が作ったという鏡。
天孫・邇邇芸(ニニギ)命が降臨し、天照大御神は三種の神器を授けられ、その一つ八咫鏡に、天照大御神のご神霊がこめられる。
この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇のお側に置かれれていた。
その後各地を移動したが、垂仁天皇の時代に現在の伊勢神宮内宮に鎮座した。
一応「八咫鏡」は天皇でさえ見たことはないことになっている。
とはいっても、この鏡は、明治初年に明治天皇が天覧したそうで、あらためて内宮の奥深くに奉置されたが、明治天皇は、「我が子孫は今後見てはならない」と意味深なことを言っている。
ちなみに明治時代の文部大臣・森有礼は鏡の裏側にヘブライ語で旧約聖書の言葉「在って在るもの」と書いているのを見たといっている。
ともあれ、八咫鏡は天照大神(太陽神)の象徴であり、聖なる御魂(みたま)を宿したレガリア(神器)なのである。
「日本書紀」によると、前述の第10代崇神天皇(すじんてんのう)は、天照大神の勢いを畏れて八咫鏡を宮中の外に祀ることにした。
そして、八咫鏡は豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託され、笠縫邑(場所については諸説ある)に祀られた。
この時、新たに剣と鏡の「形代」(かたしろ/複製品)が作られ、その形代が天皇の護身の御璽として宮中に祀られ、「皇位」のしるしになった。
そして第11代垂仁天皇のときに、笠縫邑に祀られていた八咫鏡は、こんどは倭姫命(やまとひめのみこと)に託され、伊勢国の五十鈴川(いすずがわ)のほとりに斎宮が建てられ、そこに八咫鏡が奉安されることになった。
これが神宮(伊勢神宮)の始まりである。
八咫鏡にとって最大の危機は、平安時代末期1185年に訪れた。
壇ノ浦の合戦で平家が滅ぼされたとき、僅か6歳の安徳天皇は平清盛の妻時子に抱かれて、三種の神器もろとも入水した。
これにより、三種の神器は海に沈んでしまったが、後に鏡は大納言時忠によって回収されたという。
その後、何度も宮中が火災に見舞われることあったが、その度に八咫鏡は難を逃れ、現在、本物の八咫鏡は伊勢神宮に、そして崇神天皇が作った初代の八咫鏡が修復されつつ、現在の皇居賢所に、それぞれ奉安されている。
さて、糸島半島の北部、県道54号線沿いに二見ヶ浦に進むと、海岸沿いに大きな夫婦岩と大鳥居が目につく。
伊勢を訪れた人ならば、誰もが伊勢志摩の夫婦岩を思い出すにちがいない。
糸島の「夕日の二見ケ浦」伊勢の「朝日の二見ケ浦」といわれるが、糸島半島の東部は「志摩」とよばれ、伊勢志摩と地名が一致している。
ちなみに、糸島は、伊都と志摩が合わさってできた名前である。
「二見ケ浦」を見て、観光客の多くは、糸島が伊勢の真似をしたぐらいにしか思わないかもしれない。
しかし糸島と伊勢はそんな皮相な関係にはない。
糸島の志摩の久米には、聖徳太子の実弟「来目皇子」の墓もあるし、また二見ケ浦の近くには桜井神社がある。
伊勢神宮の用材は、20年後の式年遷宮後の後、深い縁のある全国の神社に譲り渡されるが、桜井神社の鳥居は伊勢神宮の用材が新品同様に削り直されて使用される。
倭の中心勢力が伊都国(糸島)から日向(宮崎)へ向かい、そこから神武東征に仮託された実際の「崇神東征」によって纏向の地(奈良)へと移動したとするなら、糸島の平原王墓と伊勢神宮の「内行花文八葉鏡」や糸島および伊勢の「二見ケ浦の夫婦岩」の奇妙な一致も、それほど不思議なことではない。
糸島平原遺跡の日本最大の「内行花文八葉鏡」が叩き割られているのも、別の「内行花文八葉鏡」が伊勢に納められたということと無関係ではないのかもしれない。
ともあれ、古代文化の移動のベクトルは伊都から伊勢に向かったもので、糸島が伊勢のマネゴトをしたわけではないということだ。