イドラと「物証」

フランシス・ベ-コンは人間の認識における陥穽を「四つのイドラ」としてまとめた。
「洞窟のイドラ」「劇場のイドラ」「種族のイドラ」「市場のイドラ」だが、「イドラ」とははラテン語で偏見や先入観を意味する。
プラトンの「イデアの世界」が澄んだ認識でとらえられるものならば、イドラは人間の認識の「曇り」の問題であるといえよう。
さて、プラトンは、人間は洞窟に映しだされる「影」を真実だと思いこんで一生を過ごしていくようなものと譬えた。
結局、人間は光に照らされた真の「実在」(イデア)の存在さえ知ることもない「洞窟の住人」なのだという。
ベーコンはこうした人間の状態から起きる誤謬を、プラトンに倣って「洞窟のイドラ」と名づけた。
さて、最近ではDNA鑑定をはじめとする科学調査の発達により、様々な「物証」から、人間がいかに「イドラ」の陥穽に陥りやすいかを垣間見せてくれている。
2013年9月NHK放映の「坂本龍馬 暗殺の瞬間に迫る ~最新研究から描くミステリー~」という番組は、インパクトが強かった。
それは「掛け軸」に残った血痕から、「竜馬暗殺」の真相にアプローチしようという「オブジェクト(モノ)指向」の手法である。
幕末の京都の旅館で起きた坂本竜馬暗殺。いまだに、その犯人や黒幕は謎に包まれている。
ひとつには、佐幕派にも討幕派にも、竜馬を抹殺したいと思う「犯人候補」がたくさんいたからだ。
京都のある旅館に保存してあるひとつの「掛け軸」には、竜馬暗殺の際に飛び散った竜馬の血痕が残っている。
問題は竜馬の血が掛け軸の下方の部分にきれいに「水平」に飛び散っているのだ。
つまり竜馬は座った状態のまま、水平に刀を振られて殺されたことがわかるのだが、その位置関係からして面会して座談するほど親しいもの、すくなくとも「顔見知り」の男であることが予想される。
ある程度気を許せる男から突然に刀を抜かれ、何もできないまま不意に切られたという状況が浮かんでくる。
では犯人は誰だったのか。いまだに結論はでていない。
ただ、掛け軸の血痕が物語るのは、そういう状況だということである。
さて、かつて大河ドラマ「竜馬が行く」で見たように、北辰一刀流の竜馬が刺客と格闘したという剣豪のイメ-ジからは、この「掛け軸」がものがたる事実は異なっている。
剣豪のイメージを崩さぬためか、竜馬は鳥目で暗いなかではものがよく見えないということも話として残っている。
こうした話も、人々の「ヒーロー願望」から生まれるのであろう。こういう認識の歪みを、ベーコンのいう「劇場のイドラ」とでもいうべきか。

科学調査によって、コンピュータの画像解析が果明らかにした真実で出色だったのが、同じくNHK放映の「キャパの真実」(2013年2月)であった。
戦場カメラマンといえば、自殺願望でもあるかのように「最前線」に躍り出て行ってシャッターを押し続けたロバート・キャパ。
連合軍のノルマンディ上陸のDデイを地べたからの目線で写した写真がよく知られている。
なにしろ、キャパは多くの戦士たちとともに真っ先に「ノルマンディ上陸」を敢行し、敵の砲撃を雨アラレと受けた「先頭部隊員」だったのである。
なぜソコまでするのか、そこまでデキルのか、ということは誰もが抱く疑問だった。
キャパの人生の謎を追い続けた作家の沢木耕太郎氏は、その疑問を「一枚の写真」とその前後に撮られた写真から解き明かしていった。
その写真こそが、スペイン内戦におけるワンシーンを撮った「崩れ落ちる人」で、フォトジャーナリズムの歴史を変える「傑作」とされた。
創刊されたばかりの「ライフ」にも紹介され、一躍キャパは「時の人」になった。
何しろ兵士が撃たれ崩れ落ちる瞬間を真近で捉えている写真だったからだ。
しかしこの「奇跡の一枚」は、これが本当に撃たれた直後の兵士の姿なのか、長く「真贋論争」が絶えないものであったらしい。
素人目にも、撃たれたというより、バランスを崩して倒れかけているように見えるのだから。
ところが、この写真の謎の解明が始動した理由は、この写真が取られる直前の「連続写真」が40枚近く見つかったことによる。
NHKの番組は、この写真がスペイン内戦の時期であることに間違いなく、それらがアンダルシア地方の「山の稜線」と特定するところから始まる。
そしてわかった真実は「衝撃的」なものだった。兵士は銃を構えているものの、その銃には銃弾がこめられていない。
さらに番組では、CGを使って兵士たちが山を駆け下りる角度やカメラの位置などの探査が行われた。
そしてわかったことは、「崩落する兵士」は実践訓練中のもので、戦場でとられたものではないことが判明した。
つまり崩れ落ちる兵士は、「撃たれ」たものではなかった。
実は、「ロバート・キャパ」という名前自体、アンドレ・フリードマンという男性カメラマンと、5歳年上の恋人・ゲルダ・タローの二人によって創り出された「架空」の写真家なのである。
そして1937年、ゲルダはスペイン内戦の取材中に、戦車に衝突され帰らぬ人となった。つまり、戦場取材中に命を落とした最初の女性カメラマンということである。
それ以降「ロバート・キャパ」という名前は、アンドレ・フリードマンという一人の男性カメラマンただひとりに帰すことになる。
ただし、アンダルシアの40枚の連続写真の時点では、ロバート・キャパには、たえずゲルタ・タローが随行していた。
主としてキャパの使ったカメラはライカであり、ゲルダはローライフレックスを使っていった。
そして二人の使ったカメラの種類から、「崩れ落ちた兵士」は、ロバート・キャパではなく、ゲルタ・タローによって撮られた可能性がきわめて高いことが判明した。
つまり、ロバート・キャパことアンドレ・フリードマンを世界的有名にした「崩れ落ちる兵士」は、戦場で撮られたものではなく、撃たれた直後の写真でもなく、さらにはキャパが撮ったものでサエなかったのだ。
キャパが憑かれたように最前線に躍り出てシャッターを押し続けた理由。自分を世界的に有名にしたアノ写真とバランスをとろうとしたのもしれない。
そして自らも崩れ落ちた。1954年ベトナムで地雷を踏んで亡くなっている。
そういえば、沢木耕太郎には「テロルの決算」という作品がある。
社会党委員長の浅沼稲次郎を刺殺したまだ17歳の少年を追跡したものだ。
あの刺殺寸前のシーンは「迫真」といってよい。壇上にあがり浅沼氏を刺さんとする少年と、腰砕けになりながらも、なんとか刃を避けようとする浅沼委員長の表情は、どんな言葉によっても表現できない。
そして少年の動きを阻もうとする人々の姿が「臨場感」いっぱいに捉えられている。
この写真が「正真正明」の本物であることは、場面の背景と周囲の人々の表情によって疑問のないところだ。
ところがロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の背景には、「山の稜線」しか映っていないのだ。
ネガは勿論、オリジナルプリントもキャプションも失われており、キャパ自身がその撮影の経緯について確かなことは何も語っていない。
つまり、一体誰が、いつ、どこで撃たれたのか全くわかっていない。
それでは、「ライフ誌」はそんなアヤフヤナ写真をなぜ載せたのかが不思議である。
ひとつの世界に住んでいるとかえって見えなくなるものがあるのかもしれない。この写真が「ライフ誌」の一面を飾ったことが何よりおおきかった。
人間はみたいものを見、聞きたいものを聞く。「劇場のイドラ」でもあり「洞窟のイドラ」もうかぶが、むしろ人間一般の陥穽たる「種族のイドラ」というべきところか。

ロマノフ王朝最後の皇女アナスタシアが発見されたというニュース。アナスタシアの父親はロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世である。
ニコライ2世は、大津津事件(1891年)で日本とも接点がある。
さて、このニコライ2世と妻アレクサンドラとの間に四人の娘が生まれ、その末娘こそがアナスタシア・ニコラエブナであった。
父母は、娘達に深い愛情を注ぐのだが、夫婦そろって社交嫌い。特に母のアレクサンドラは、ロシア宮廷の堅苦しいしきたりに馴染めず、世継ぎも生めないことから肩身も狭く、公式行事の参加を嫌がった。
ただ夫妻はレクサンドル宮殿に行くのが楽しみで、宮殿の裏の湖の「子どもたちの島」で、姉妹達はそれぞれ自分の家を持って遊んでいた。
末娘のアナスタシアは4姉妹の中でも一性格が明るく茶目っ気たっぷりで、よく人の真似をして笑わせるのが好きな子だった。
しかし、アナスタシアが3歳になろうとする1904年2月に日露戦争が始まる。しかし、ロシアは日本に破れ、ロシア全土で敗北への抗議が広がっていった。
その一方で、同じ年の8月に皇室にとって「男子誕生」の喜ばしいニュースがあった。
男の子アレクセイ・ニコラエヴィッチの誕生は、ロマノフ家に幸せを運んできてくれたように思われたが、アレクセイは「難病」を抱えた非運の皇太子であった。
そしてこの難病は、予想以上にロマノフ王朝に暗い影をなげかけることになる。
父ニコライ2世はよき家庭人ではあったが君主としての資質に欠けていた。
そうした王室の心の隙間に入り込んだのが、怪僧ラスプーチンである。
皇后アレクサンドリアは、皇太子アレクセイの病をきっかけにラスプーチンに出会った。
ラスプーチンは最初に宮廷に呼ばれた時、ベッドのアレクセイに何事かを話しかけると、アレクセイは急に見違えるように元気になり、その話に耳を傾けたという。
この怪人物は、いつしか「超能力者」として見られることになり、皇后や皇女たちや、お付きの女医、さらには多くの女性の心を魅了して、宮廷内に深く入り込む。
しかし、皇后のラスプーチンへの偏愛ぶりは、ラスプーチンを嫌う他の聖職者や権力者の憎しみと反感を買うことになる。そしてラスプーチンは、1916年についに暗殺された。
こうした王室の乱れは、ロマノフ王朝から知識人や国民を離反させ、「反体制グループ」が台頭する一因を成した。
さらに第一次世界大戦への参加により国民生活はますます困窮し、ロマノフ王朝はまさに風前のともしびとなった。
民衆の不満は最高頂に達し、宮廷の内外でもテロや陰謀が頻発していた。
そして1917年早春、ついにその日はやって来た。手に手に武器を持った民衆が、粉雪の舞う広場になだれ込んでゆく。
人々は口々に「自由を!」「平和を!」などと叫びながら走っていた。 「ロシア革命」勃発である。
かくして2月革命によって樹立された臨時政府は、独裁君主体制の廃止を宣言。ここに皇帝ニコライ2世は退位し、ついに300間続いたロマノフ王朝も終焉の時が訪れたのである。
臨時政府によって監禁された皇帝一家は、ウラル地方のエカテリンブルクに移送され、そこにある大きな館に幽閉された。
この頃、ニコライ2世の家族は長女のオリガ21才、次女のタチヤナ20才、三女のマリア19才、四女のアナスタシア17才、唯一の男子であった皇太子アレクセイに至ってはまだ14才だった。
そして1918年7月、エカテリンブルクの館にて裁判手続きを踏まぬまま、銃殺隊によって家族・従者とともに銃殺された。
だが、ロマノフ王家は滅びたものの、なぜか末娘アナスタシアだけは生きているという噂が広がった。
彼女に好意を持つ兵士によって密かに助けられ、どこかに匿われたというのだ。
アナスタシアという名前には「復活」の意味が含まれていたからかもしれない。
そして、皇女アナスタシアの生存に関する書物が数多く出版された。
そしてハリウッドでは、アナスタシア生存を題材にした1928年公開の映画「Clothes Make the Woman」を制作して反響をよんだ。
そのリメイク版は、イングリッド・バーグマン主演の「追想」(1956年)でさらに知られた。
ロシア帝国の元将軍(ユル・ブリンナー)がニコライ2世が4人の娘のためにイングランド銀行に預金つまり、ロマノフ家の遺産に目をつける。
元将軍はセーヌ川に身を投げて救助された「記憶喪失」の女性(イングリッド・バーグマン)を生存が噂されるアナスタシア皇女に「仕立て」て遺産を手に入れようする。
それでも人々はアナスタシア伝説をある種の「都市伝説」に過ぎないと思っていた。
ところ、映画の展開に合わせたかのように、一つの「衝撃的事件」が起こった。
氷もまだ溶け切らぬベルリン市内を流れる運河のほとりに一人の女性が流れ着いたのだ。
その女性は体に深い傷を負い、軽い記憶喪失にかかっており、そのうえ精神錯乱に陥って衰弱が激しかった。
やがて、介抱され自分を取り戻した女性は、信じられないことを口にし始めた。
自分は、かのロシア皇帝ニコライ二世の4女アナスタシアで、革命政府によって処刑されるところを運よく逃げて来たと言うのである。
そして病院を抜け出した彼女は、精神錯乱の末、市内を流れる川に飛び込み自殺を計った。
しかし、彼女は運よく助けられることになった。
しばらくして、回復した彼女は、自分はかのロシア皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタシアで、ボルシェビキ政府によって殺されるところを、間一髪、命からがら逃げ出して来たと主張し始めたのである。
事実、その女性が持つロシア宮廷に関する知識は驚くべきものだった。
足がひどい外反拇趾であること、額に小さな傷跡があるという「身体的特徴」も一致した。
それに加えて、彼女は、アナスタシアしか知り得ないと思われるようなことを知っていたりした。
そして「アナスタ・ブーム」が巻き起こった。
その後、彼女はアンナ・アンダースンと名乗り、ドイツで「ロシア王室遺産」をめぐる訴訟を起こす。
裁判は長期化する様相をみせるが、その間彼女こそアナスタシアだと信奉する人々から、手厚い施し物を受けて生活することができた。
彼女は1984年に84才で亡くなるまで、自分は正真正銘のアナスタシアだと主張し続けた。
果たして、彼女は本物のアナスタシアだったのか。
1991年になって、エカテリンブルク近郊で、ロマノフ家の遺骨が発掘され、 皇帝一家が全員殺害されており、一人も生存していないことが明らかになった。
それらの遺骨は、その後の「DNA鑑定」で皇帝一家のものと判定された。
一方、アナタスシアを名乗ったアンナ・アンダーソンも、その死後10年の1994年、「DNA鑑定」でアナスタシアの一家との血のつながりは否定された。
こうして、「DNA鑑定」という最新の法医学の判定によって、数十年の長きに渡って論争された「アナスタシア伝説」も、ようやく幕を閉じた。
「アタナスシア伝説」も、情報過多の都市伝説など、流言飛語の混乱の中で起きた、ベーコンいうところの「市場(いちば)のイドラ」か。

アインシュタインは自分の学問について、神という想像を絶する知性の持ち主がつくりあげたこの宇宙を、わずかの知識によってその片鱗を理解しようとしたものにすぎないと語った。
アインシュタインの理論は、我々の日常の常識をはるかに超えたところで成立しているように思えるが、「洞窟」から「外界」に目をむけようとした努力の一つであったようにも思う。
私が高校時代に聞いた月面着陸に成功したアポロの宇宙飛行士も講演会で同じようなことを言っていた。宇宙に出て「壮大な知性」を体験した、その知性を神の存在と結びつける他はないと。
アインシュタインや宇宙飛行士は、「信仰」を語っているに過ぎないというかもれいない。確かに人間の経験を超えた認識という意味では「信仰」という他はないが、二人の場合磨かれ澄んだ知性の到達点がそうした「信仰」なのだ。
信仰と理性は相反すると思う人が多いが、彼らの理性は「信仰の裏づけ」なのだ。
事件が起こったのは、1867年11月15日、報せを聞いた土佐藩士が向かったのは、京都河原町の醤油商・近江屋。
被害者は3人、土佐出身で幕末変革の立役者となった坂本龍馬(33)はすでに絶命、従者の山田藤吉(19)も出血多量で翌日亡くなる。龍馬の盟友で土佐藩士の中岡慎太郎(30)も瀕死の重傷であった。
犯人は既に逃走しており、行方は分からない。
龍馬が暗殺された部屋は、屋根裏の隠し部屋。天井が斜めになっており低く、刀を振り回す事が出来ない。つまり、敵の多い龍馬には最適な隠れ家であった。
龍馬は更に強力な武器を携帯している。1866年それ以前に、旅館の寺田屋で幕府の役人とその手下に囲まれた際、龍馬は懐に忍ばせていたピストルを発砲、役人の手下2人を殺害し逃走している。
暗殺時の遺留品から当日も鉄砲を携帯していた事がわかる。何故か玉が込められたままで発射された形跡がない。
刀を収めた鞘(さや)も抜く間もなく割られている。
剣豪としても名を馳せた龍馬が殆ど抵抗てない点も奇妙である。
11月15日におこった龍馬暗殺だが、一緒に殺された中岡慎太郎は、2日間息があったため、土佐藩士たちは実行犯の聞き取りを行っている。
中岡が襲撃犯と考えたのが新撰組、当時、幕府の元で京都の警備活動を行っていた剣豪たちの集団である。新撰組犯行説は当時、広く信じられ、恨みを抱いた土佐藩士によって局長の近藤勇は、後に斬首に追い込まれている。
ところが明治3年、驚くべき証言が出てきまた。幕府の役人だった今井信郎という人物が「龍馬暗殺に加わった」 といい出したのだ。
東京大学資料編纂所・維新史料室には新政府・兵部省で聴取した今井の証言記録が残されている。
「坂本龍馬を殺害したのは、見廻組である…そしてその指図は組頭・佐々木唯三郎によるものである」。
見廻組とは当時、京都の治安時事を担っていた幕府の役人たちからなる警察組織である。
今井の証言は、事件直後の状況と符合するところが多く、また当事者しか知りえない事も含まれていた。
更に別の見廻組隊士も詳しい証言を残していた。その為、今では多くの研究者が龍馬暗殺の実行犯は見廻組であると確実視している。
暗殺事件の直前、佐々木は隊士の中から精鋭を選び出す作業をしている。これは見廻組隊士の桂早之助という人物が佐々木に提出した記録、初公開資料である。
書かれたのは暗殺の5か月前(慶応3年6月)自らの経歴を詳細に記した、いわば履歴書であった。
桂はこの中で自らの目覚ましい実績について記している。
「御城中(二条城)での剣術」…上様の前で良い結果を出し、褒美として白銀5枚をいただきました。
桂は3年前、二条城で行われた御前試合で一流の剣豪を相手に20人抜きを達成、400人いる見廻組の中でも飛び抜けた剣の腕を持つ事を示している。
別の資料には、桂が用いた剣術についても記されている。
その流派の名は、「西岡是心流」。西岡是心流は現在絶えており、どのような剣術かはわかっていない。しかし、その記録には一つだけ興味深い記述がある。
「右は小竹刀にて使うなり」通常は長太刀を持つはずの右手に短い小太刀を持つという、かなり特殊な二刀流なのである。
この短い小太刀が威力を発揮できるという場所、それは狭い空間、佐々木が龍馬暗殺の首謀者とすれば隠れ家での戦闘に備え、最適な人物を選んでいた事になる。
抜擢された桂にとっても名を上げるチャンスでした。
桂家は代々、二条城の門番を務めていた同心、役職としては高いものではない。この同心クラスの役人が家柄ではなく、腕だけで重要任務を任されるのは、大変名誉な事である。
では、8畳間で何が起こったのか。
1867年11月15日、この夜、龍馬捕縛に参加したのは7人(今井信郎の供述より)。事前の偵察から河原町通りの近江屋が龍馬の潜伏先だと分かっていた。
張り込みを担当したのが佐々木が抜擢した桂早之助。中には3人の来客があり、龍馬が一人になる機会を覗っていた。
夜8時を回った頃、2人がさった。一人客が残っているようだ。
この頃、近江屋内部では、二階奥に龍馬と中岡慎太郎、その下には主人夫妻、板の間には龍馬のボディーガードだった山田藤吉がいた。
9時過ぎ襲撃者たちは、リーダーの佐々木を伴い、客を装い近江屋の戸を叩く。藤吉が対応、佐々木たちは偽名の名刺を差し出す、藤吉が龍馬のもとへ来客を告げぬ行く。桂らが藤吉の後を付け、龍馬の居場所を確認。
部屋から出てきた藤吉を斬捨てる…ここから先、8畳間で何が起こったのかを証言と物証を元に再現してみる。

九州博物館で、「100」のモノに語らせる歴史というものがあった。
BSでアメリカ映画を見ると、なぜか「物証」を追求する番組が多いのに気が付く。
「科学捜査班」や「骨は語る」などである。
「お助けマーニー」も、トゥール達のものがたりである。
「ヘンデルとグレーテル」の物語で、「お菓子の館」が出てくるのも、食べることへの執着が見られる。
ちなみに、インターネットの世界で「パンくずリスト」というものがある。
あるWEBページのサイト全体の中での位置を、階層構造の上位ページへのリンクを順に並べて簡潔に記したもので、トップページからそのページまでの経路を示すことにより、訪問者がサイト内での現在位置を直感的に把握するのに役立つ。
名称の由来は童話「ヘンゼルとグレーテル」で、森の中で帰り道が分かるように「パンくず」を少しずつ落としながら歩いたというエピソードである。
 その奇妙な事件は今から13年前、アメリカ・アーカンソー州で起きた。 事件が起きたのは、閉店後の銀行。 犯人は入り口のガラスを叩き割って侵入したものと思われた。
しかし、現金は金庫内に保管されていたため、仕方なくそのまま逃走したらしい。
犯人は、マイケル・ブラウン。 わずか1週間前にも宝石店に強盗に入っており、警察がその行方を追っていた男だった。 過去に傷害で逮捕歴があったため、名前は分かっていたものの、警察はブラウンの居所を掴めずにいた。
 そして、現金の被害はなかったものの、ポータブルラジオ1台と、銀行がサービスで置いていたキャンディが盗まれていた。 現金が盗めなかった腹いせに手近なものを持っていったと思われた。
そして驚くことに…何と事件発生からわずか2時間で警察はブラウンの居所を突き止めたのだ。 目撃証言は一切無かったにも関わらず、なぜ彼の居場所が分かったのだろうか?
それは、ブラウン逮捕のおよそ30分前。 刑事はある物に気がついた。 それは、ブラウンが逃走中に食べて捨てたキャンディの包み紙だった! 銀行からブラウンの家までは約400m、そこに10枚以上の包み紙やキャンディの棒が道しるべのように落ちていたのだ! そして、わずか2時間でなんとブラウンの家までたどり着いてしまった!
まるで、グリム童話のヘンゼルとグレーテルのような逮捕劇だった。 結局、ブラウンには強盗の罪で懲役10年が言い渡された。 自分が捨てたキャンディのゴミで、警察に協力してしまった間抜けな犯人。 まさに甘すぎる、おバカな強盗だった。
歯形は物証か。
服が濡れたから?電話されて20年前の不正を暴露されたから?それがいったい何の証拠になる? 証拠はないのかと問われたコロンボはないと。 だが、すぐに請求していた逮捕状が届き、前例として噛み癖のあった犯人の死体にあった歯形によって有罪を立証出来るとしてフィンチが噛んでいたガムを事務所から回収してきたと。 そのガムの歯形とステイプリンの家にあった食べかけのチーズの歯形が一致したと。

モノには特定の見方が自然に付着している。例えば蛇口はどうみても蛇口でありそれ以外に見えようが無い。こういう存在を「即自的な存在」
ところが色んな見方を誘発する存在もあり、それを「対自的な存在」という。
人間は「対自的存在」の典型で、先生とみて欲しいとか、妻とみて欲しいとか、女と見て欲しいとか、患者と見て欲しい、などと自然に色々な見方を求めている。
「対自的な存在」とは認識の自由度が高い「あり様」ともいえる。
ただ「即時的な存在」も、条件を変えると「対自的存在」となりうる。普通の状態では「便器」は「便器」以上の何物でもないが、実験的に他の美術品に並べて展示しておけば、便器もはじめて芸術品として見られうる。
見る側の「認識のスイッチ」が切り替わるのだ。
そして見る側は、便器のラインのなんと美しくエロチックなことか、などと生まれてはじめて感嘆するかもしれない。
前衛芸術の要素の一つは、そういう人間の認識のスイッチを切り替えることにある。
olor=red>私のいう「市場のイドラ」とは市場でモノの価値が定まるように、社会に通用しているある側面の価値のみでモノの価値をはかるという認識の陥穽である。(ただしベ-コンは「市場のイドラ」を言葉の混乱としている)
いい大学を出た人間を立派な人間だと思い込むのもそれにあたる。
そういえばオノヨ-コの芸術の中に、たくさんのお尻の「表情」を捉えたものがあった。一般に表情は顔と結びつけられるが、お尻は顔ほど自己主張が強くないものの、ちゃんと表情があるというわけだ。
お尻は控えめであり柔和である。オノヨ-コが好きな「平和のシンボル」ともいえる。
むかしコマ-シャルに、糸居重里の「お尻だって洗ってほしい」というコピ-があったが、そう捉えるとお尻の表情に反応して、「お尻だって笑ってほしい」し、「ビミョ-に泣いていほしい」のだ。
「市場のイドラ」は人間の固定的な価値観の陥穽を示し、逆に視点を少しズラせば「新たな価値」が見えてくるということを教えてくれる。
世間で「業界人」という言葉を聞くが、この業界人という言葉に特に修飾語がついていない場合には、「テレビ業界」(または芸能界)の人々をさしているらしい。
こういう人々の間では、一般に通じない言葉が交わされ、それらを業界用語という。元々、使われ始めた経緯には、「他人に聞かれたくない」「知っているもの同士で」といった内向的な意向があったが、いつしか、各々の業界内での意思疎通を図る意味合いを持つようになった。
例えば、かぶる(先に行ったことと同じキャラ) きえもの(食べ物飲み物のような消耗品)、ロケハン(下見)、板付き(演者が既にステージの定位置にいる状態のこと)などなど色々ある。
私には、こういう言葉を使って日々仕事をしている人々がなにか特別な「種族」のようにも見える。
そして「種族」には種族独特の物の見方や考え方があって、その種族独特の生態の中である種の「イドラ」が形成されたりするのではないか、などと思うのである。
そしてそれは学問をする人々の集団(学界)とも無縁ではない。
ところで歴史の常識(イドラ)はしばしば「物証」によって突き崩される。
「物証」としてまず思い浮かぶのが、「岩宿の発見」である。
関東地方では更新世(氷河時代)と完新世をわける土層は非常に分かりやすい。更新世末期に多くの火山が噴火しているので、更新世/完新世は赤い層(関東ロ-ム)によって判別できるのだ。
「岩宿の発見」まで日本では更新世(氷河時代)の人類は存在しないという固定観念があったから、人々が赤い層にぶつかるとそれ以上に掘り進むことはなかった。
このイドラを打ち破ったのは、近くを自転車で行商していた青年であった。
切り通しの赤い土の中に確かに石器が存在していたのだ。その後本格的な調査が行われ「岩宿の発見」につながった。
もしもこれが学閥配下の考古学者であったならば、果たして石器を見たか、見たとしても認識したか、「見た」事実自体を否定しなかったか、などという色々な疑問が湧く。
また大いにあり得るのは、その事実を青年のように正当性をもって素直に主張したであったろうか、という疑問だ。
学問を飯のタネにしているものがその発見をおおっぴらにして騒ぎ立て、かえって袋叩きにあうことを恐れたかもしれない。
「種族のイドラ」とは、特定の集団(例えば学者という種族)がもつ伝統的な見方あるいは特有な見方にしばられていると、見落としや誤謬がおこるというものである。
「岩宿の発見」は「種族のイドラ」を如実に示しているのだが、こういう性格のものはいたる処に見られる。

舞台で演じられる演劇やパフォ-マンスはその劇場の中だけで成立するファンタジーである。人々に夢を与えるためにそれは作り出される一方で、マスコミや人々の噂が作り出す「虚像」が日々多くの人々を傷つけている。このように生み出される実像とは異なる虚像のことを「劇場のイドラ」という。
虚像が一人歩きして人々が踊らされするのも、「劇場にイドラ」に捕らわれているからである。
犯罪捜査にとって「劇場のイドラ」に注意しなければならない。そうした「イドラ」をできるだけ排除するために「物証」が求められる。
そして「物証」として提出されたモノは、前述の文脈からすれば「対自的存在」となる。部屋に落ちていた一本の髪の毛は、単なる髪の毛(「即自的存在」)ではなくなるのだ。
ところでベーコンのいう「洞窟のイドラ」は、井伏鱒二の「山椒魚」を思いださせる。
迂闊にもズ-タイが大きくなりすぎて岩屋から出られなくなった山椒魚であるが、最初は岩屋からでようともがくが、出られないと分かると外界つまり光あり命あるものからできるだけ目を避けようとする。
この小説はいかようにも読める自由度の高い作品だと思う。山椒魚のズ-タイが大きくなったことを持ち物が多くなったとか、勲章が多くなったとかに読み直してみたらどうだろう。
山椒魚の姿が、ベ-コンのいうところの「洞窟の住人」と重なった。

ところで、掛け軸に残された血痕から推測されるのは、龍馬は座ったままであったこと。小太刀の名手・桂早之助が客を装い8畳間に入る。
桂は長刀を右に置き、敵意がない事を示して龍馬と向かいあう。しかし、小太刀は左脇差しのまま。
そして小太刀を抜き放ち ”一閃” …右手で振るった桂の小太刀は、座ったままの龍馬を確実にとらえ致命傷を負わせた。
更に、二度三度。防いだ龍馬の刀の鞘(さや)を割って中の刀身を削り取るほどの激しいものであった。
見廻組隊士、の一人、渡辺篤の証言によれば、男たちは土佐藩士の追撃を恐れ、すぐに近江屋を後にしました。
龍馬が殺された後、徳川家を新政府から排除しようという動きが急速に強まる。
1868年1月3日、龍馬暗殺から1ヶ月半後、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、新政府軍と旧幕府軍が激突します。…この戦いで見廻組の佐々木只三郎や桂早之助など暗殺に関わった隊士の多くが命を落とす事になる。
研究者の磯田道史さんは、龍馬暗殺は結果的に徳川家の滅亡を早めたと考えている。
「龍馬は、徳川慶喜を新しい政府の中で位置付ける…その作業をやっていた人物です。龍馬は危険に見えて実は徳川家を守ってくれる人でもあったのです。彼らは龍馬を斬ったと喜んでいるものの、実は徳川家の命脈を縮めていた。
「むしろ誤った誤爆、味方を討ってしまった、敵失、オウンゴールであった」。
暗殺直前、龍馬はある人物と頻繁に会合をしています。
徳川慶喜の側近であった永井玄蕃、恩師勝海舟の上役にあたる幕府開明派の重鎮である。
龍馬はその永井と何度も密会を交し、来るべき新政府の構想を練っていた。
この時、龍馬は永井に対し、新政府の中枢に慶喜を迎えるべきだと進言している。
最後に龍馬は自らの暗殺を覚悟してある言葉を残している。姉・乙女あて 龍馬書簡(文久3(1863)年6月29日、日本を今ひとたびせんたくいたし申しそうろう。

人それぞれ大切なものがある。モノは物言わず、我々によっていいように使われる。そうして酷使されたモノに対して、我々の側の感謝の念なり 罪障感なりがモノに投影して、モノが悲しんだり痛みを訴えたり、モノ扱いするな、と叫んでいるように思えたりもするのである。
そのせいか、いくつもの服を縫製して使われつくした針を供養する伝統が日本にはある。針供養という儀式は、針さんご苦労さんという気持ちをこめて、同時に使った人の魂も神経もその針に宿っているという意識もあっての供養だと思う。
あるモノが担った時間なり経過を知れば、もう少し大切にしなければと思うモノはたくさんある。

ところで、掛け軸に残された血痕から推測されるのは、龍馬は座ったままであったこと。小太刀の名手・桂早之助が客を装い8畳間に入る。
桂は長刀を右に置き、敵意がない事を示して龍馬と向かいあう。しかし、小太刀は左脇差しのまま。
そして小太刀を抜き放ち ”一閃” …右手で振るった桂の小太刀は、座ったままの龍馬を確実にとらえ致命傷を負わせた。
更に、二度三度。防いだ龍馬の刀の鞘(さや)を割って中の刀身を削り取るほどの激しいものであった。
見廻組隊士、の一人、渡辺篤の証言によれば、男たちは土佐藩士の追撃を恐れ、すぐに近江屋を後にしました。
龍馬が殺された後、徳川家を新政府から排除しようという動きが急速に強まる。
1868年1月3日、龍馬暗殺から1ヶ月半後、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、新政府軍と旧幕府軍が激突します。…この戦いで見廻組の佐々木只三郎や桂早之助など暗殺に関わった隊士の多くが命を落とす事になる。
研究者の磯田道史さんは、龍馬暗殺は結果的に徳川家の滅亡を早めたと考えている。
「龍馬は、徳川慶喜を新しい政府の中で位置付ける…その作業をやっていた人物です。龍馬は危険に見えて実は徳川家を守ってくれる人でもあったのです。彼らは龍馬を斬ったと喜んでいるものの、実は徳川家の命脈を縮めていた。
「むしろ誤った誤爆、味方を討ってしまった、敵失、オウンゴールであった」。
暗殺直前、龍馬はある人物と頻繁に会合をしています。
徳川慶喜の側近であった永井玄蕃、恩師勝海舟の上役にあたる幕府開明派の重鎮である。
龍馬はその永井と何度も密会を交し、来るべき新政府の構想を練っていた。
この時、龍馬は永井に対し、新政府の中枢に慶喜を迎えるべきだと進言している。
最後に龍馬は自らの暗殺を覚悟してある言葉を残している。姉・乙女あて 龍馬書簡(文久3(1863)年6月29日、日本を今ひとたびせんたくいたし申しそうろう。
松本清張の作品には人間の認識の「盲点」をついたものが多い。というより、ほとんどがそうだ。
大分で起きた保険金殺人に材をとった「疑惑」という作品では、マスコミが一度つくりあげた「悪女」「妖女」をある女性記者が「正義」として追い詰めていく。
その「悪女」が過去に行った慈善活動や被疑者とされた殺人事件で被害者に如何に愛されていたかという事実が、故意に削除されて報道される。
さらに松本清張の小説が「紐」という題でTVドラマ化されたが、犯行に使われた紐がとても面白く扱われていた。都会の海岸でみつかった絞殺死体には首に紐が巻きつけられていた。
ただ刑事は一つの点に注目する。
殺人という急場にしては紐があまりにも丁寧に巻かれていた事実である。
検視の結果、絞殺であることは間違いないが、あまりに「情」を感じさせる紐の結び方であったのだ。
そして紐に「乱れ」がないのはなぜなのか、つまり犯人の側に「情」があったとしても抵抗されることはなかったのか。一本の紐により通常の「絞殺」にまつわる「イドラ」がすこしずつ崩されていく。