大海人と宗像族

博多から小倉に向かう鹿児島本線が宗像を通る時、JR「東郷駅」の名が日露戦争の指揮官「東郷平八郎」に由来することは、宗像沖の日本海海戦を知る人なら推量できるであろう。
あるいは、百田尚樹の著書「海賊と呼ばれた男」のタイトルから、石油王・出光佐三が生をうけたコノ周辺の古代海人族「胸形氏」の存在を想起する人もいるかもしれない。
しかしながら、東郷駅に近い「宗像三社」のひとつに掲げられた「ひと文字」から、壬申の乱の勝者・大海人皇子(後の天武天皇)の名を連想する人は、マズいないにちがいない。
その文字とは、「瀛」(おき)という一文字。意味は、大きくて広いうみ、つまり「大海」である。
たったひとつの「文字」の存在が、玄界灘に雄飛した海人族と天皇家との関係をあぶりだす。
まるで、網にかかった深海魚の腹の中から予想外なモノが出てくるように。
最近あったNHK「世界遺産~沖ノ島」という番組で、古代海人族「宗像(胸形)氏」が、実は大海人皇子(天武天皇)と深い関わりがあることを知った。
その「繋がり」を暗示する文字こそ、上述の「瀛」という文字なのだ。
実は、天武天皇の皇子当時の名は「大海人皇子」(おおあまのみこ)だが、「天武天皇」という漢風諡号も、また「天渟中原”瀛”真人(あまのぬなはらおきのまひと)」という和風諡号も、正しくその「出自」を示しているという。
まずは、「武」は九州を出自とする天皇につけられ、大海人と「大」がつくのは、古来からの「海人族」を意味している。
「漢委奴国王」の金印が発見された志賀島(しかのしま)がある博多湾は、古代海人族の拠点であった。
ことに志賀島の安曇族(あずみ族)が有名で、宗像や関門海峡付近を拠点とし、住吉大神の海人族とともに双璧をなしていた。
安曇族の神々と住吉大神は、アマテラスやスサノオに先駆けて生まれており、「日本書紀」も彼ら海人族がヤマト政権以前から勢力を持っていたことを認識していたようだ。
海人族の先駆けであるが故に「大海人」と呼ばれるようになり、「大海人皇子」が九州の海人族に関わる出自であったことが推測できる。
ただ由緒正しき海人であったがゆえに、「海賊とは呼ばれたくない」人々であったに違いない。
さて、宗像地方に人が住み始めたのは約3万年前の旧石器時代と言われ、弥生時代には釣川沿いに広がる肥沃な平野では、多くの人々が定住していた。
古代から海上ルートの拠点であった宗像地域は、「海のシルクロード」と言われていた。
古代より「道の神様」として信仰された「宗像大社」の名は、日本書紀にも記され、遠く大陸に渡った遣唐使なども航海安全のために必ず参拝をしていた。
「日本書紀」によれば、スサノオが、姉のアマテラスに別れの挨拶に来ることを、高天原(たかまがはら)を奪いに来ると思って、天の安川でスサノオに「誓約(うけい)」を強いた。
スサノオはアマテラスの疑いを解くために、まずアマテラスがスサノオの持っている十拳剣を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から「三柱の女神」が生まれた。
この美しい女神をみてアマテラスは、スサノオに悪しき心がないことを知る。
この時にスサノオから生まれた神々こそ、宗像大社に祀られた「三女神」である。
宗像大社は、それぞれに三女神が祀られた宗像田島の「辺津宮」、筑前大島の「中津宮」、沖ノ島の「沖津宮」三社の総称で、日本書紀には、天孫を助け奉るために「海北道中」に降ろしたと記されいる。
その中でも、沖ノ島は、宗像市の沖合約60Kmの玄界灘に浮かぶ絶海の孤島で、4世紀後半から10世紀初頭の「祭祀遺跡」が見つかっている。
この周囲4Kmほどの無人島には、宗像大社の沖津宮が置かれ、宗像三女神のひとつ「田心姫神」(たごりひめのかみ)を奉り、神官一人が交替で詰めている。
今でも女人禁制の島で、この島で見聞きしたことは、一切他言してはいけないとされる。
また、一木一草一石たりとも島外に持ち出すことはできないことになっている。
島の南部、標高80mに位置する「沖津宮」では、毎年5月27日の大祭に200名程が、素裸になって海水で禊(みそぎ)の後に上陸できるが、その時以外は原則上陸できない。
1954年から学術調査が行われ、その結果、中国製の青銅鏡や、朝鮮半島は新羅製の金製指輪・金銅製馬具など、約十二万点の遺物が出土し、すべてが国宝と重要文化財に指定され、沖ノ島は「海の正倉院」とよばれるようになった。
というわけで沖ノ島の「沖津宮」にはメッタなことではいけないのだが、それが許された人ならば、そこに「瀛津宮」(おきつみや)との名が記されていることが目に留まるであろう。
この中の「瀛」の文字こそ、大海人皇子の和号「天渟中原”瀛”真人」に見出される一文字なのだ。
滅多に見ない文字だけに、個人的には宗像氏と大海人皇子との深い関わり暗示しているように思える。
さて「日本国」の名が登場したのは、7世紀天武天皇の時代といわれる。しかし「日本書紀」では、後に「天武天皇」として即位する「大海人皇子」の正体をほとんど明かしていない。
蘇我氏は、「乙巳(いっし)の変」で645年に滅びた。その後7世紀後半の歴史の主人公は、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子、後の天智天皇に移った。
その中大兄が「白村江の戦い」で大敗北し、日本を「国家存亡」の危機に陥れながらも、天皇に即位できたのは、大海人皇子のバックアップが大きかったからだといわれる。
正史(日本書紀)によれば、天智天皇死後、子の大友皇子(近江方)と弟の大海人皇子(吉野方)の勢力争いがおき、672年の「壬申の乱」へと発展する。
この戦いにおいて大友皇子の勢力基盤がせいぜい畿内「大和国」とその周辺でしかないのに対し、大海人皇子の勢力地盤が広範囲にわたっている。
つまり、大海人皇子への援軍が多方面からあったため、勝敗の行方は最初からわかっていたともいえる。
そして、壬申の乱の帰趨を決定的にしたのが、ナント宗像氏からの援軍だった。
実は大海人皇子の后こそ「宗像族」の后・尼子郎娘(あまこのいらつめ)であり、尼子郎女を通して宗像氏は瀬戸内海からを通って「援軍」にかけつけたのである。
では、これだけの勢力基盤をもつ大海人皇子は一体何者なのだろうか。それは「天智天皇の弟」というだけで片付けられる存在とは思えない。
「歴史は勝者によって書かれる」というが、天武天皇の子「舎人親王」が「日本書紀」編纂の総裁を務めていたという事実を忘れてはならない。

ここで時間を壬申の乱(672年)から逆回ししてみよう。
弥生時代も後期になると、稲作技術の発達と、大陸からの渡来人の流入もあって、北部九州の人口が増えると、水田耕作地の不足が生じるようになる。そうしたとき、波穏やかな瀬戸内海がハイウェイとなって、多くの人民を近畿地方に送り込んでいった。
この史実を元に「神武東征説」が生まれ、九州出身の天皇には「武」という文字がつくといったとうり、ヤマト政権は3世紀の後半に九州から移住した集団の長によって誕生したものと考えることができる。
しかし全部が近畿に移住したわけではなく、九州王朝(筑紫王朝)は依然として存在しており、本貫を離れて勢力を伸ばすヤマト政権に対して「対抗意識」を持つようになったに違いない。
それがもっとも端的に表れるのが527年の磐井の乱である。
527年、近江毛野が軍6万人を率い、任那に渡って新羅に奪われた南加羅を再興して任那を合併しようとした。
これに対して、筑紫君磐井が反逆を謀って実行する時をうかがっていると、それを知った新羅から賄賂とともに毛野の軍勢阻止を勧められた。
そこで磐井は火国(のちの肥前国・肥後国)と豊国(のちの豊前国・豊後国)を抑えて海路を遮断し、また高句麗・百済・新羅・任那の朝貢船を誘致した。
そしてついに毛野軍と戦いになり、その渡航を遮ったという。
528年、磐井は筑紫御井郡(現在の福岡県三井郡の大部分と久留米市中央部)において、朝廷から征討のため派遣された物部麁鹿火の軍と交戦したが、激しい戦いの末に麁鹿火に斬られた。
磐井の子の筑紫君「葛子」は死罪を免れるため糟屋屯倉(現在の「福岡県糟屋郡」を朝廷に献じたという。
以上が「磐井の乱」のアラマシだが、ヤマト政権は糟屋(粕屋)の地を得ることで、大陸交易ルートの確保に成功した。
それでは、「糟屋の地」は政治的取引がなされるほど重要な地であったのか。
実はこの地は「対朝鮮交渉」における要衝の地であったといってよい。
例えば、京都妙心寺の梵鐘には、「戊戌年四月十三日 収糟屋評造春米連広国鋳鐘」とある。戊戌年は698年にあたり、この糟屋の地に金属鋳造の技術をもった集団がいたことがわかる。
そのことは周辺を流れる多々良川の名が「タタラ製鉄」を連想させるし、多々良川流域の地域は古墳時代から豪族によって大きな古墳が造られている。
糟屋の海沿いの地域では、宗像氏と同じく海人族「安曇氏」が志賀海神社をまつり、この周辺を本拠として活動していた。
そして海人族・胸形(宗像)王の地位は、「磐井の乱」以降九州王朝内で格段に向上し、やがて筑紫王家とも姻戚関係を結びようになり、640年頃には、胸形(宗像)系の「筑紫王」を輩出するに至る。
「大海人」という存在も、こうした筑紫王との関係ので、九州で生まれたのではなかろうか。
その証拠となりうるのが、宮地嶽神社すぐ近くに存在する「宮地嶽古墳」である。
天武天皇(大海人皇子)の第一皇子、「壬申の乱」の将軍となって戦う高市皇子(たけちのみこ)であるが、「日本書紀」ではその母こそ「胸形君徳善(とくぜん)の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)」であると記されている。
この「胸形君徳善」が、宮地嶽(みやじだけ)古墳の主であろうと推測されており、日本一の大きさを誇る巨石古墳と副葬品の豪華さは、明らかに「天皇陵」を示唆している。
そこで少々気になるのが、志賀島を本拠とする安曇氏と宗像氏との関係であるが、663年白村江の戦いに参加した安曇氏だが、その長・安曇 比羅夫(あずみのひらふ)は、この戦いで戦死している。
律令制の下で、宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官を務めた。
これは、古来より神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされたのである。
その後、安曇氏は全国に散らばる。その代表が長野県の小美術館の宝庫・安曇野だが、ナントこの穂高神社に安曇連比羅夫が祀られているのである。
そしてこの信州安曇野が、全国に散らばった安曇氏の本拠地とされている。
この神社は内陸にあるのだが、毎年9月27日に「お船祭り」が行われる不思議の背景はソコにあるのだ。
この神社の「説明書き」で読んだ記憶があるが、ヤマト朝廷の移住政策によって、この地にやってきたと書いてあった。
宗像氏と関係が深い大海人皇子が天武天皇として即位したのが673年である。
仮に、天武天皇がライバル安曇野氏の勢力を削ろうと、内陸部しかも東国に追いやった結果だとすれば一応の説明はつく。
古代史は、資料が少ない分、勝手な推測が出来るのが楽しい所以だ。

宗像神社は、時の経過と共に「道の神様」というよりも、「武運の神様」になっていった感がある。
1336年の豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫した足利尊氏が、九州に下った際に宗像大社を参拝し、その後多々良浜の戦いにおいて菊池武敏らを破って勢力を立て直したことから「武運の神様」としても知られたからだ。
江戸時代は、福岡藩や唐津藩の参勤交代の道である唐津街道の宿場町「赤間宿」が栄え、1864年(元治元年)の第一次長州征伐(幕長戦争)に際しては、西郷隆盛と高杉晋作が太宰府へ移送中の三条実美に会うために、赤間宿を訪れている。
ちなみに、この赤間宿の藍問屋で生まれたのが、「海賊と呼ばれた男」出光佐三である。
大英帝国の影響下にあったイランは、第二次世界大戦後独立していたものの、当時世界最大と推測されていたその石油資源はイギリス資本の元にあり、イラン国庫にも、国民にも利潤が充分に回らない状況にあった。
その中で、イランは1951年に石油の「国有化」を宣言。
反発したイギリスは、中東に軍艦を派遣し、石油買付に来たタンカーの撃沈を国際社会に表明する。
イラン国民の貧窮と日本の経済発展の足かせを憂慮した出光佐三は、イランに対する経済制裁に国際法上の正当性は無いと判断し、極秘裏に日章丸を派遣した出来事は、世界をあっと驚かせた。
イランと秘密裡に交渉し、船員にも行き先さえ告げずにイランのアバダン港に入港し、熱烈な歓迎を受けたのだ。
また、明治時代には、旧薩摩藩士で日本海軍の司令官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献した東郷平八郎も宗像大社で必勝祈願をしている。
1905年、日本艦隊を率いる東郷平八郎が、ロシアのバルチック艦隊を撃破した日本海海戦が行なわれた海域は「沖ノ島」の沖合だった。
JR駅「東郷駅」は、福津市の大峰山の山頂付近に「東郷神社」にちなむものだが、日露戦争時、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り講和のきっかけを作った元帥海軍大将の「東郷平八郎」を祭神とする。
生前の東郷との親交もあり、東郷の偉業に感銘した宗像郡津屋崎町(福津市の前身)出身の獣医師の提唱により1922年に計画され、1971年5月に創建されたものである。
東郷が英語が得意だったことにちなみ、この神社のおみくじは表は日本語・裏は英語で書かれているのがユニーク。
日本海海戦が行われた日である5月27日(旧海軍記念日)には春季大祭が、東郷の誕生日である12月22日には元帥誕生祭が行われる。
神社の周辺は東郷公園(大峰山自然公園)として整備され、日本海海戦の戦場である玄界灘を眺めることができる。
また、大峰山の山頂には戦艦三笠の艦橋を模した「日本海海戦紀念碑」が建っている。
さて、宗像大社を篤く崇拝していた出光佐三は、戦前の荒廃した宗像大社の姿に心を痛めて復興を誓い、私財をも投じて「昭和の御造営」を成し遂げる。
彼が最初に取り組んだのは「宗像神社史」の編纂で、そのため沖ノ島の調査も実施した。
発見された8万点の出土品は国宝となって、今は宗像大社の「神宝館」に収蔵されている。
ちなみに、出光佐三の遠祖は、大分県宇佐であるが、実は宇佐は宗像氏と深い関わりがある。
宇佐神宮の宮司の宇佐氏は筑紫国の「宗像三女神」の子である菟狭津彦の後裔とされているからだ。
さて最近、「嵐」が登場するコマーシャルで、夕暮れ時に現われる「光の道」がとても美しいと全国的に評判になったのが宮地嶽神社である。
宗像族と大海人皇子の関連を示す宮地嶽神社境内から「光の道」が玄海灘に一直線に照らし出す様は、海人族「宗像族」の通った道筋をそのまま映したかのように見えた。