マイ・ハーフ

人というものは、どこまで「ひとつ」になれるのか。
人間がある種の組成で成り立っていると考えるならば、一方の欠落部分をもう一方が完全に埋め合わせる、そんな組成をもった人間が存在しうるのか、ということである。
実際には、人間は恋人にせよ友人にせよ夫婦にせよ「ひとつ」になれるほど単純なものではない。
現実には、ズレ・カンチガイ・カケチガイ・イキチガイ・ゴミのすて忘れ・掃除機のカケワスレ・新聞の取り忘れ、もうゴメン。
男と女の間の暗くて深い河に佇み、男はひとり口ずさむのサ、「舟歌」を。
♪♪魚はアブったイカでいい、女は無口な人がいい、灯りはぼんやりともりゃいい♪♪
(ロシア民謡風に「黒の舟歌」もあり。♪♪ロー・エンド・ロー♪♪)
とはいいながら、スポーツにおけるダブルスの連携の絶妙さやアイス・ダンスのペアの引き込まれるような至芸を見せられた時に、本当に「人間の融合」がおきているのではないかと錯覚させられる。
そして、片方ぬきでの自分というものが考えにくい至極のパートナーというものが、この世の中には確かに存在するにちがいない、と思う。
こういう場合、相手のパートナーのことを「マイ・ハ-フ」(我が片割れ)と呼ぶことにしよう。

トム・ワトソンはアメリカを代表するゴルフプレイヤー。1949年9月4日生まれで、6歳から父の影響でゴルフを始めた。
1970年に全米アマチュア選手権5位の資格でマスターズに出場した。
学業の方でもスタンフォード大学に進学し、心理学で学士号を取得。1971年に大学を卒業し、その翌年プロ・デビューした。
プロ2年目の23歳となったワトソンは、練習場で一人の青年に「僕を、あなたのキャディーにしてくれませんか?」と声をかけられる。
18歳のブルース・エドワーズで、高校時代にアルバイトでキャディを経験し、間近で見るプレーの迫力に酔いしれて、プロのキャディの仕事を探していた。
その熱意に押され、ワトソンは青年を専属キャディとして採用した。
当時のキャディといえばバックを担ぎ、クラブを渡せばそれで充分だった。
今でこそ、キャディが戦略的アドバイスをするのは当たり前になったが。
実はエドワーズこそ、プレイヤーにアドバイスを与える近代キャディの「草分け的存在」になっていく。
実際に、ワトソンとエドワーズは、時として意見がぶつかり合った。
例えば、グリーン手前に池のあるコースで、3番ウッドで池越えを狙うか、池を避け6番アイアンでコースを刻むルートを選ぶかなど。
意見を譲らないワトソンに、エドワーズは3番ウッドと6番アイアンを置き、「好きにすればいい!」といい残して立ち去ってしまう。
結局、ワトソンは、エドワーズがすすめた3番ウッドで打つと、ボールは池を超えて見事グリーンに乗った。
こうしたことが重なって二人は、信頼を深めていった。
そして、ワトソンとエドワーズのコンビで8度のメジャー大会優勝を果たし、エドワーズはそれまでのキャディのあり方を覆す存在となるのである。
その後、ワトソンとエドワーズは快進撃を続けるが、ワトソンは1987年の30歳を過ぎたあたりから、長期スランプに陥り、出場を見合わせる試合が増え、優勝からは遠ざかっていった。
試合に出なければ、キャディであるエドワーズの仕事もない、才能溢れるキャディを、飼い殺しにするわけにはいかない。
そこでワトソンは、エドワーズのために、他のプレーヤーにつくことを提案した。
ワトソンはもう昔のようなプレーはできないと弱音を吐き、エドワーズは「諦めるのか!失望したよ」とワトソンの元を去った。
その後、エドワーズは、当時、世界ナンバーワンだったグレッグ・ノーマンからのオファーを受け、彼のキャディとなった。
その結果、ワトソンについていた時に比べて、エドワーズのギャラはおよそ2倍になった。
その一方、ワトソンは、相変わらずスランプから抜け出せていなかった。
コンビ解消から2年後のある日のこと、エドワーズから「トム、誕生日おめでとう!」と電話がかかった。
その時、でエドワーズは、ノーマンのキャディを辞めることをワトソンに告げた。
ワトソンは、キャディとして最高の舞台と今の生活を捨てるのかとエドワーズに念をおした。
エドワーズは「不調の時こそ一緒にいるべきだろ。頼むよ、ボス!」と応じ、そしてエドワーズは苦しみ続けるワトソンの元に戻ってコンビが復活した。
それから4年後の1996年、46歳になったワトソンはスランプを抜け、世界最高峰のツアーで、9年ぶりに優勝を果たした。
エドワーズも結婚を決め、全てが充実した日々が続くかに思えた。
2002年のある日のこと、ワトソンからボールを渡されたエドワーズの手からボールが落ち、その落としたボールを、掴もうとするがうまく掴めない。
ワトソンは、エドワーズに検査を受けさせ、その結果「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)ということが判明した。次第に筋肉が委縮し、話すこともできなくなるという難病で、余命3年と告げられた。
迷惑をかけまいと、キャディを辞めることを告げるエドワーズに、ワトソンは「諦めるのか!失望したよ」とスランプの時もらった言葉をエドワーズに返した。
するとエドワーズは、「でもどうせ立つなら、君と立っていたいんだ」と告げた。
ワトソンはALSがどんな病気かを勉強し、解決の道があるのではと必死に探した。
しかし、病気の進行は恐ろしいほど早く、残された命を振り絞るようにして、彼らは最後の大舞台に立った。
それは、2003年の全米オープンで、余命を宣告されて5か月後のことだった。
招待選手としての特別参加で、カートの使用も認められたが、エドワーズは、自分の足で歩くことを決めた。
エドワーズは、立っているのもやっとの状況であったが、寄り添うように、2人は、穏やかな表情で戦い続けた。
ワトソンは、トップの成績で初日を終えた。最終日には、惜しくも首位から転落してたが、2人を迎えたのは、スタンディング・オベーションであった。
そして、ギャラリーから拍手と大歓声が送られたのは、プレーしていたワトソンではなく、キャディを務めたエドワーズに対してのものだった。
翌年の2004年4月8日、 ブルース・エドワーズは49歳で他界する。
しかしワトソンによれば、人々との会話の中で、エドワーズはいまだに登場するという。
「やってやろう!」「道を見つけよう!」。
トム・ワトソンは、今もアメリカを代表するプロゴルファーとして60半ばをすぎても「現役」を続けている。まるで、何かに後押しをされるように。

2008年2月に テレビのハイビジョン特集「本田美奈子:最期のボイスレター~歌がつないだ“いのち”の対話~」という番組があった。
この番組で、本田美奈子が白血病におかされ「ボイスレター」を通じて、最後の対話を交わしたのが岩谷時子という女性であったことを知った。
そのボイスレターに収められた「アメイジング グレイス」が「AC 公共広告機構 骨髄バンク白血病広告機構」のCMを通じて我々の耳にも届くことになった。
岩谷時子は、本田の当たり役「ミスサイゴン」の歌の日本語訳などを行った作詞家であり、その関係で本田とも交友があった。
個人的にそのことを知って以来、「岩谷時子」の名前を意識していると、数々の大ヒット曲に「作詞家」としてその名が冠せられていた。
さて、岩谷時子の経歴のなかで、きってもきれない関係にあったのが、シャンソン歌手越路吹雪で、二人はそれぞれの「マイ・ハーフ」であった。
岩谷は作詞家としてばかりではなく、越路吹雪のマネージャーとして芸能界に関わった。
もっと有名な大ヒット曲「愛の賛歌」は、原曲エディット・ピアフの訳詞を手がけ、越路吹雪に歌を提供したのものである。
岩谷が宝塚出版部に勤めていた頃に15歳の越路と知り合い、意気投合した。
越路が宝塚を辞めた際に岩谷も一緒に退社し、共に上京し東宝に所属した。東宝の社員として籍を置いたまま越路のマネージャーも勤めたという。
越路は戦中から戦後にかけて宝塚歌劇団の「男役スター」として活躍し、 肝の据わった女性と思われがちだが、さすがにリサイタルの直前は極度の緊張におそわれた。
そのため、緊張を紛らせるために煙草を燻らせ、コーヒーを飲んで、リサイタルに臨んでいた。
ステージに出る際は緊張も極限に達し、岩谷時子から背中に指で「トラ」と書いて貰い、「あなたはトラ、何も怖いものは無い」と暗示をかけて貰ってからステージに向かっていたという。
岩谷は歌詞ばかりではなく、「人生」を越路吹雪に捧げたといっても過言ではない。
越路は恋多き女で、彼女が1959年に結婚するまで、岩谷がずっと「恋の使者」であり、恋が終わるときも、相手方に「引導」を渡しに行かされると語った。
あくまで「越路が好きだから支えていた」という岩谷は、越路が亡くなるまでマネジメント料としての報酬は一切受け取らなかったという。
だが実際は、「恋泥棒」だった。越路の多彩な恋愛体験をネタに歌詞にするという意味においてであるが。
作曲家のいずみたくは、岩谷が果たした恋の「キューピット役」が、学校の先生のような雰囲気の岩谷時子の「作詞力」を磨いたのではないかと書いている。
例えば、ピンキーとキラーズの大ヒット曲「恋の季節」に、「夜明けのコーヒー、二人で飲もうと」という歌詞がある。
越路が、ある男性から「夜明けのコーヒー一緒に飲まないか」と声をかけられ、即OKした。
越路が早朝、その男の部屋を訪ねると、男は目を真っ赤にして「君をずっと待っていた」言われたという。このエピソードから、このフレーズが生まれた。
越路が日本の「シャンソンの女王」とよばれたのも岩谷あってのことであった。
また岩谷はマネージャー業の傍ら越路が歌うシャンソンなど外国曲の訳詞を担当した。
エディット・ピアフが歌った「愛の讃歌」は元歌詞が「愛のためなら盗みでもなんでもする」という背徳的な内容であるのに対し、岩谷訳詞では一途な愛を貫くという内容となっている。
「愛の讃歌」のほかに「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」などは岩谷の優れた訳詞によって、大ヒットとなった。
演出家の浅利慶太によると「越路さんのような天才は、二度と出てこないと思うのは、岩谷のようなマネージャーが、今の世の中にはいないからだ」と語った。

こんなに笑って感動して泣ける映画に出会えるなんて!人生はまだまだ楽しみに満ちている!、生きる活力が湧いてくる!というコメントが並んでいる。
数年前に公開されたフランス映画「最強のふたり」という映画の評である。
「偽善の匂いも居心地の悪さもない、笑って泣ける痛快コメディ」という評もあった。
この映画は、全身麻痺となった富豪フィリップとスラム街出身で前科のある黒人青年ドリスという、おおよそ出会うはずのない「対照的」な二人が、強い絆で結ばれるという「実話」を元にした映画である。
黒人青年ドリスは、「不採用通知」欲しさにある富豪のヘルパーの面接にやってきた。「生活保護手当」が不採用通知三つで出るからである。
ところが90人に近い応募者の面接のなかで、富豪フリップが選んだのはナントこのスラム出身の黒人青年ドリスだったのだ。
黒人青年ドリスの両親は離婚し、叔母から育てられる。叔母は朝早くから遅くまでビル清掃の仕事で、一人で子供たちを養う。
スラムの集合住宅の中で乱暴者として生活をしてきた。一方、富豪のフリップは首から下の身体は、神経麻痺、夜中に発作も起こる。
援助がなければ食事、入浴、排泄など、基本的な日常生活は不可能。
貧困家庭で育ったドリスが職業安定所で見つけた仕事は、この紳士の日常生活、身の回りの全世話役であった。
紳士を世話する女性秘書から「この仕事に1週間、我慢できる人はいない」と告げられる。
紳士は、応募者から彼を選んだが、親しい友人からは、ソンア素性のわからない、不良青年を雇うことは、やめたほうがいいとアドバイスされる。
富豪のフリップは、ソンナまわりの心配をよそにそんなドリスを採用し、ドリスは豪華な一人部屋をあてがわれ、「貧困生活」から別れる。
そして、あまりに対照的な生活環境で育った二人のちぐはぐなコンビ生活が始まる。
子供がそのままデカくなったようなドリスは常識や偏見に縛られず、「障害者を障害者とも思わぬ」言動でフィリップを容赦なくオチョクル。
これまでの世話人と全く異なり、全身麻痺となっていたフィリップに対して同情も遠慮もしなければ容赦もない。
体を洗うにも、まるで「洗車」でもしているかのような洗いカタをする始末。
熱湯を紳士の素足に溢し、無反応・無表情の紳士に驚きカツ面白がって、再び熱湯をかける。
しかし青年ドリスの紳士フィリップへの態度は、しだいに信頼関係を深め、二人はそれぞれの「過去」を語っていく。
ある日、ドリスがフィリップに「どうして自分を採用したか」について問うた時に、二人の心に「絆」のようなものが生まれていく。
フィリップは90人の応募者の中でドリスだけが自分を「病人」として見ていなかったからだという。
結局、腫れ物に触れるような接し方をされる「屈辱」より、同情のかけらも見せないドリスの言動がフィリップにはヨホドありがたかったのだ。
ドリスの方も、フィリップに友達が一人もいない自分が初めて友達を持つことができたと語る。
「最強の二人」は、卑屈になっていたかもしれない二人が、信頼を深め対等な関係を築くプロセスが描かれ、笑顔のまま涙が滲んでくる。
実はドリスのモデルになった実在のヘルパーは黒人ではなく、アルジェリア移民なのだそうだ。
紳士は、不可能だと諦めていた散歩、高級車でのドライブ旅行など世界旅行を青年と共にするようになる。
映画でフィリップが妻と離婚して別の女性に格調高い文章を書くときに冷やかすシーンがあるが、モデルとなった「実在の」富豪の話は違っている。
実際は、妻が重い病気にかかりベット生活を強いられていたが、富豪はそんな時にハングライダーの事故で体が動かなくなってしまった。
そのため、妻の前に自分の姿を見せることを恐れていたのだが、実際のアルジェリア移民の青年は、妻の病院に無理やり富豪を連れて行く。
そして妻は夫と会うことができたことを喜び、青年に好きな女性が出来たら、この「役」から降ろしてやるように夫と密かな約束を交わす。
富豪と青年は時々保養地に出かけ、同じホテルばかり予約する青年を不思議に思っていたら、その青年がホテルのフロント係りの女性を好きになったことを知る。
それによって富豪は青年との別れの時が来たことを悟り、富豪は妻との約束どおり青年をこの「役」から自由にするのである。
その後、青年はこの女性と結婚し、青年は今でも富豪の家を訪れ、今でも心温まる交流は続いている。