花々はなぜ美しい

新約聖書には、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6章26〜29節)とある。
自然の営みの中に、注意深く神の存在を見出しなさいということだが、人の営み(ソロモンの栄華)に対比している点で、含蓄のある言葉だ。
さて、金子みすずの詩には、自然の営みを注意深く見守ったものがある。
//だれにもいわずにおきましょう。
朝のお庭のすみっこで、
花がほろりとないたこと。
もしもうわさがひろがって、
はちのお耳へはいったら、
わるいことでもしたように、
みつをかえしにゆくでしょう//。
街のネオンや提灯が「花々」に見えてしまうこころ寂しきオジサン達は、こういう詩を読んで、「宇宙の拡がり」に気持ち一新をしたいものだ。
かくいう自分も年を重ねるにつれ、自然の営みのいかに「驚異」に満ちたものか、あらためて目を凝らしてみたい気分になってきた。
特に、小学校の時に習った「受粉」という、愛おしいばかりの「自然界の営み」の神秘には心奪われる。
「受粉」とは雌しべにある柱頭に、花粉がつくことをいい、受粉をした花には、変化が起こる。
「子房」の中には、胚珠があるが、柱頭に花粉がつくと、やがて「子房」が膨らんでいき、そして実になる。実のなかには、種があり、この種は元々、胚珠だったものだ。
アサガオでは、雄しべと雌しべが同じ花にあり、花が開くと、雄しべの花粉が、雌しべにふりかかる。
このような仕組みの受粉を「自家受粉」という。
自家受粉では、虫や鳥などの助けはいらない。
その一方で、「受粉」の中には、他の「運び屋」の力を借りるものがあり、これを「他家受粉」という。
これは、雌しべの柱頭が、他の花の雄しべから出た花粉を「受粉」をすること。
花粉を運ぶ方法は、昆虫によって運ばせたり、風によって飛ばしたり、水に流したりするなど様々ある。
他家受粉は、花の蜜を吸いにきた虫に、「花粉」がつくようにする方法で、このような仕組みで花粉を虫にはこばせる花を 「虫媒花」 という。
虫媒花では、虫の体に花粉が都合がよくつくよう、花粉がねばねばしていることが多い。
また、虫媒花の花の色や大きさは虫に気付かれ易くするために、目立つものが多い。
虫媒花は、虫をひきつけるために「蜜」をだすが、よく似たものに「水媒花」や「鳥媒花」などがある。
その他、風によって花粉を運ばせる「風媒花」では、 風に飛ばされやすいように、花粉はサラサラしていて軽いものが多い。
スギ、 イネ、マツ 、ムギ 、ヤナギ などで、花が目立たつひつようはなく、花に含まれる蜜は少ない。
ただし、人間にとっては「花粉症」などを引きおこす原因となっている。

歌謡曲のヒットで有名になった花は、思いつくだけでも、くちなしの花、シクラメンの花、サボテンの花、ひなげしの花、マンジュシャゲ、サルビアの花、などある。
美しい花には「トゲ」があるどころか、美しい花には「益」もある。
つまり、花々は単に美的(詩的)な存在であるばかりではなく、「実用価値」をもって、この世に花を咲かせている。
例えば、刺身の「つま」として添えられているものに「食用菊」がある。
実は、刺身に使われている菊の花は、ワサビ同様「殺菌作用」のある薬味として添えられていて、花弁を醤油に落として食用にすることも可能なのだ。
海外でも花を食用とする国は少なくないが、刺身に添えられている「黄色い花」が食べられることを知る人は少ない。
なにしろ「菊花紋章」は皇室の代名詞とされるぐらいだから、食用とすることには抵抗がある人がいるかもしれない。
「くちなし」は、日陰でもよく育ち、秋の終わりごろには黄赤色の実が熟し、オリエンタルな雰囲気を醸す花で、晩のしとやかな暗がりの中では、楚々としたこの花の姿がくっきりと浮かびあがる。
初夏には、なやましき芳香をふりまいて雪白の六弁花が咲くが、その香りこそが渡哲也のヒット曲「くちなしの花」では、旅路の果てまでついてくる「香り」として表現されている。
実用面では、くちなしの果肉中には色素クロチンが含まれ、「黄色」に染めることができ、平安時代から衣服の「染料」として使用されてきた。
さらに、江戸時代からは、沢庵付けや強飯(こわめし)などの食品染色料として用いられ、天然色素でありながら「無害」というのは、自然食が見直される今日、価値が大きい。
大分県臼杵地方では、実を乾燥した粉末を混ぜて炊く「黄飯」が郷土料理となっており、くちなしの花の実で染められた贅沢な「ご飯」が供せられる。
我々にとってさらにの身近なのは、正月料理の「栗きんとん」の色で、くちなしの花の実により染められているのだ。
「くちなしの花」は、ヨ-ロッパやアメリカでは、イギリスの医師の名前に由来し「ガ-デニア」とよばれ、ガ-ルフレンドに贈る最初の花である。
渡哲也の歌の「指輪が回るほど痩せてやつれた」という薄幸のイメージとは少々はずれている。
「くちなしの花」は、赤黄色の果実が熟しても割れないため「口無し」という和名の由来となったという説がある。この「くちなしの花」を愛し、頭につけて歌ったのが、アメリカの伝説のジャス・シンガーであるビリ-ホリデイだった。
そのビリ-・ホリデイの代表曲が「奇妙な果実」だったのも、「くちなしの花」を連想させるものだ。
ただ、ビリーホリデーのジャズ・シンガーとしての名声はともかく、その生涯は「薄幸」を絵に描いたようなものだったといってよい。
布施明のヒット曲「シクラメンのかおり」の中の「真綿色したシクラメンほどすがしいものはない」という歌詞はデタラメだ。
だいたい「真綿色したシクラメン」など存在しないし、シクラメンは「かおり」を発しない花なのだそうだ。
その昔、この歌詞を真に受けてカラオケで熱唱している人ほど「ウブなものはない」。
実は「シクラメンのかおり」は、作詞家・小椋桂の遊び心が溢れた歌で、布施明に曲を作るという話が持ち込まれた時のことを次のように語っている。
エルビス・プレスリーの歌で、一番の始まりが「朝見る君ほど素敵なものはない」、二番が「昼見る君ほど素敵なものはない」、三番が「夜見る君ほど素敵なものはない」という歌があり、そこから「○○○ものはない」というフレーズをつかった。
それから言葉は、北原白秋の詩集に黄色いマーカーを引いて、それを集めてアレンジしてはめ込んだという。
そのうち、自分でもなんだかウソ臭いと思い始め、ウソをついていることをどこかでチャント言っておきたい気分に襲われ、タイトルにわざわざ「シクラメンのかほり」と香りのある花にして、「うす紫のシクラメン」という、ありもしない花色をもってきたのだそうだ。
もっとも、この曲の大ヒットで「品種改良」がなされ、白やピンクなど様々な色のシクラメンが登場しているという。
シクラメンは元々地中海沿岸、トルコからイスラエルにかけて原種が自生している。名前は花茎がはじめ丸まった状態で発生することから「サイクル(Cycle)」から命名された。
古来は花ではなく、塊茎の澱粉を注目され「アルプスのスミレ」などの美称があり食用とされていたが、大航海時代以後ジャガイモがもたらされると、シクラメンを食用にする習慣はなくなったという。
ただ興味深いことに今なお「豚のえさ」などに使われているらしく「豚の饅頭」という別名まである。
「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味で、おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ている。
サンスクリット語からついた曼珠沙華は日本では「彼岸花」とよばれ、田んぼの畦道などに群生し、9月中旬に赤い花をつけるため、お彼岸の頃に咲く花として親しまれている。
開花期間が1週間ほどなのに、秋の彼岸と時を同じくするかのように開花する彼岸花は、あの世つまり彼岸とこの世つまり此岸が最も近づく時期に咲く花でもある。
山口百恵のヒット曲「曼珠沙華」は、今でも何人かのアーティストがカバーしている名曲で、阿木曜子・作詞のこの歌は「まんじゅしゃか」が正式な曲名である。
阿木さんといえば、歌詞がなかなか思い浮かばずに、「バカにしないでよ~」と怒りを原稿用紙にぶちまけたら、それがそのまま歌詞として定着したというエピソードの持ち主。
大ヒットした「プレイバック Part2」「美サイレント」などの世界などドライな女性を描いて「これっきりですか」と思っていたら、「マンジューシャカ 罪つくり 白い花さえ 真紅にそめる」などという歌詞は、情念の世界を思わせ、「曼珠沙華」で新境地を開いた。
作詞家は、この花がにぎやかに咲けば咲くほどに悲しさ深まるこの花に、人間の「業」を見たということか。
この花は、土葬をモグラや野ネズミなどから守る意味もあって墓地などによく植えられているため、「死人花」「地獄花」「幽霊花」のような、怖い呼び名もついている。それが、「不気味」「妖しい」などと様々な言われ方をする所以である。
実は、江戸時代の「天明の飢饉」では、この花を田んぼの畦道などに植えたという歴史がある。つまり救荒食としてこの花を植えたのには、「妖しくも」なんでもないご先祖様の「実用的配慮」であったわけだ。
さらに、アグネスチャンの歌で知られた「ひなげしの花」は、「虞美人草」(ぐびじんそう)ともよばれるようになった有名なエピソードが残っている。
秦末の武将・項羽には「虞」と言う愛人がいた。項羽が劉邦に敗れて垓下に追い詰められた時に、死を覚悟した項羽が詠った垓下の歌に合わせて舞った後、自刃した。
彼女を葬った墓に翌夏赤くこの花が咲いたという伝説から、ひなげしの花を「虞美人草」とよんでいる。

幾多の花が歌謡曲の題材となっているが、花粉の重要な「運び屋」たる昆虫が歌われるのは少ない。
思いつくのはせいぜいチェリッシュの「てんとうむしのサンバ」ぐらいだ。
最近、昆虫や動物が花粉を運ぶことなどで市場にもたらす価値は世界で年間2350億~5770億ドル(約27兆~66兆円)に上ると、国連の科学者組織が発表した。
「ハチの減少」が報告されている上、絶滅の危機にある種も多く、花粉を運ぶ役割が失われることで、将来の食料生産や生態系への影響を示唆している。
報告書を公表したのは国連の呼びかけで2012年に世界の科学者が集まってつくった「生物多様性および生態系サービスに関する政府間科学政策プラットホーム」という組織。
温暖化対策の土台となる報告書を定期的にまとめている「国連気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)のような役割を期待されており、「生物多様性版IPCC」とも呼ばれる。
その「報告書」によると、花粉を媒介するのは2万種以上のハチのほか、チョウ、カブトムシなどの昆虫、鳥やコウモリなど。
コーヒーやアーモンド、果物など、世界の作物生産量の5~8%がこれらに依存している。
生産量は過去50年で300%増加しているという。
日本国内でも同様の推計を農業環境技術研究所(茨城県つくば市)がまとめた。
昆虫が国内の農業にもたらす利益は、年間約4700億円。畜産業を除く農業産出額の約8%に相当し、うち7割は野生の虫が稼いでいた。
額が大きかったのはリンゴ(911億円)やメロン(677億円)、スイカ(513億円)、ナシ(400億円)など。
セイヨウミツバチなど人為的に放たれる昆虫以外の野生種に頼っている分を推計すると、リンゴとナシでは9割前後を占め、全体の合計は約3300億円になったという。

野に咲く可憐な野草、あるいは花瓶に生けたゴージャスな花々。それはどちらも美しいけれど、そもそも、なぜ花は美しいのだろうか。
人間は古来、植物を寡黙な存在だと思ってきた。「花は植物の生殖器官」という発見が広く認められるようになったのは18世紀に入ってからのことである。
一番大事な花の機能は、子ども(種子)を残すこと。そのために美しくなった。
動物には雄と雌がいて交配することによって子どもを残すが、多くの植物にも動物と同じように性がある。
種子をつくるためには遺伝子交換が必要で、植物はそのために花を咲かせる。
遺伝子の詰まった「花粉」というカプセルをつくり、それを昆虫や鳥などの「生き物(送粉者)」に託して同種の植物に届けてもらうのだ。
花粉を「送粉者」に託すというのは、植物の進化の歴史の中で、非常に大きな発明であった。
それによって、花々の「多様性」の理由を説明することもできる。
いろいろな美しい花があるのは、植物がさまざまな動物に花粉を運んでもらっているからである。
それぞれの花粉の運び屋に合せて、色々なかたちの花が進化し、多様化してきたのだ。
その進化の歴史は、植物と動物(送粉者)がお互い相手に合わせて、「チューンナップ」しながらつくってきたといえる。
例えば、鳥に花粉を運んでもらいたい植物は赤い花をつけていることが多い。
「鳥は赤が見やすいといわれており、ほかの色が見えないわけではないが、鳥は自分の花は「赤い」ということを認識しているかのようだ。
花粉の送粉者となる昆虫の中でも、特にミツバチなどのハナバチの仲間は一生花の「蜜」と「花粉」に依存して暮らす。
つまり、一生涯、花から「食べ物」を得ている、特異なグループの一つといってよい。
重要なポイントは、彼らが自分のおなかをいっぱいにするためではなく、巣にいる仲間や子どもたちのために「花粉」を集めていること。
自分の食べる量よりずっと多くの蜜や花粉を集める「働き者」なので、植物からみてもありがたいのだ。
身体をおおうふわふわした毛は、おそらく「花粉集め」に都合よく発達してきたものと思われる。
このような植物と動物のパートナー関係が「密接」であればあるほど、花粉を運んでくれる動物の数が少なくなってしまうことは、植物は繁殖にとっての「危機」を意味することになる。
そうした危機に備えて花々も栄養の「貯蓄」や「保険」のようなことを行っている。
例えば、「送粉者」に来てもらえず種子が作れなくても、多年草の場合は「種子」を作るために使うはずだった養分を取っておいて、来年の種子に回すことができる。
一方、1年で死んでしまう一年草は、来年にまわすということができないので、他の花から花粉を運んでもらえなかった場合に備えて、自分の花粉で種子を作る仕組みを持っていることが多い。
しかし、「送粉者」の極端な減少は、花々にとって「想定外」のことに違いない。
「世界でたったひとつの花」を咲かせるのにも、花自体の努力や戦略では、どうしようもない部分があるのだ。