ウルトラマンと三味線

最近、別の県にそれぞれ「金城」(きんじょう)と名のつく大学があることに気がついた。
その一つは愛知県名古屋の「金城学院大学」、もうひとつは石川県金沢の「金城大学」。
愛知や石川に「金城」なる城でもあるのだろうかと調べてみると、確かにあった。
愛知県の名古屋城といえば金の鯱(しゃちほこ)。それで名古屋城を金鯱城とか「金城」ともいうらしい。
石川県金沢の方はもっと単純で、金沢城を短縮して「金城」というのだそうだ。
そこで思い浮かべたのが、沖縄には「金城」という姓が多いことだが、沖縄にも「金城」なるものが存在するのだろうか。
首里城に続く城下町が「金城町」なので、かつての琉球王国の王宮を「金城」という名で呼んでいたと推測できる。「金城」の姓もそこに由来するのだろう。
ただし今は「キンジョウ町」でも、 半世紀以上前までは「カナグスク町」と呼んでいた。
「キンジョウ」という呼び方に変わったのは1950年ごろで、そのことは沖縄で発行された名簿でハッキリと確認できる。
ではなぜ「カナグスク」が「キンジョウ」に変わったのか。
そのカギは県外のウチナーンチュ(沖縄人)で、大阪では「金城」は「カナシロ」「カネシロ」という読み方が一般的だが、東京では「キンジョウ」と読み替えられている。
東京周辺や軍隊で「キンジョウ」に読み替えられた(もしくは呼ばれていた)人が、その呼び名をもって沖縄に帰ってきた。
そして、都会らしい響きをもつ「キンジョウ」が爆発的に広まったのではないかと推測できる。
さて、沖縄出身の「金城(キンジョウ)」という名で思い起こす人がいる。
TV番組「ウルトラマン」の脚本家・金城哲夫(きんじょうてつお)である。
今考えると、この人の名が「キンジョウ」であることの中に、彼の生涯の「悲劇性」が暗示されていたのかもしれない。
金城哲夫は、1938年生まれ。沖縄県島尻郡南風原(はえばる)町出身だが、生まれたのは東京港区の芝で「東京タワー」の麓で生まれたことになる。
金城が手がけた「ウルトラマン」は、金城が幼き日に体験した「沖縄戦」の戦中・戦後の記憶を色濃く映している。
金城の母は1945年3月、南風原の自宅で米軍の機銃掃射に逢い左足を失っている。6歳の金城は母を残し、砲弾をくぐって山中に逃れた。
戦火に追われた沖縄の住人の中には、数多くの者たちが日本軍の「聖戦」の犠牲となった。
そのため金城は主人公たるウルトラマンの「敵」たる怪獣や異性人を、一方的な「悪」として描くようなことはしなかった。
そしてウルトラマンによって、建物や国土を破壊する怪獣や異星人を抹殺するのではなく、宇宙に送り帰した。
その「ウルトラマンシリーズ」は高度成長期の真只中の1960年代の後半に大ヒットした。
その一方で金城らはブラウン管の外の「現実」に苦悩を深めていった。
故郷の米軍基地からは連日、ベトナムの空爆機が飛び立ち、反基地運動と安保闘争が全国で激化していた。
さらには、日本周辺の海域がヘドロの海と化し、公害問題が表面化していた。
1972年に沖縄返還(祖国復帰)が実現したものの、沖縄の住民が求めていた「本土並み」返還は実現しなかった。つまり、沖縄の米軍基地はそのまま残留したのである。
ウルトラマンやセブンが地球を無償で守る構図は、安保体制化で米国と日本、さらには本土と沖縄との姿が下敷きとなっていた。
米国や祖国の正義と善意への無条件の信頼が崩れたとき、金城らはこれ以上書き進めることができなくなり、どこかで「区切り」をつけるべきだという思いを抱くようになる。
そんな金城らの気持ちが反映されたのか、これまで順調に視聴率を上げてきた「ウルトラマンシリーズ」が、大人向けの特撮を目指した1968年製作の作品で低迷し、挽回を図った「怪奇大作戦」で視聴率は回復したものの、スポンサーからの支持はえられず早期打ち切りとなった。
円谷プロは経営状態の悪化に伴い大幅なリストラを敢行し、金城らがいた「文芸部」も廃止された。
そして金城はシナリオライターではなくプロデューサーに専念することを迫られたため、1969年これを機に金城は円谷プロを退社する。
ウルトラマンから離れた金城は、沖縄で復帰を迎え本土と沖縄との「架け橋」になりたいという思いを抱いて故郷へ戻った。
そしてラジオパーソナリティーや沖縄芝居の脚本・演出などで活躍し、1975年開催の「沖縄海洋国際博」の演出を引き受けた。
金城は、これを沖縄を発信する好機会と捉えたが、漁師らから「本土の回し者」とナジられた。
地元では、海洋博は環境破壊と批判されていただけに、金城は沖縄と本土との間で引き裂かれて、酒量はしだいに増えていった。
1976年2月23日、泥酔した状態で自宅2階の仕事場へ直接入ろうと足を滑らせ転落。直ちに病院に搬送されたが、3日後に脳挫傷のために亡くなった。享年37であった。

沖縄の歴史を見るかぎり、沖縄を引き裂いてきたのは、本土との関係や米軍基地との関係ばかりではない。その深層にあるのは、中国との関係もしくは中国への意識なのではなかろうか。
14世紀には、今の沖縄本島に3つの政治勢力が生まれ、大陸に成立した「明王朝」に朝貢しつつ、互いに勢力を争ったが、1429年には統一されて琉球王国が成立した。
この琉球王国は、自国民には貿易を禁じていた明に貿易を代行する役割を与えられ、東南アジアや室町時代の日本、朝鮮に船を送ってさかんに交易をおこない、東南アジアの香料や日本の刀剣などの品ものを朝貢と通じて中国に供給し、おおいに栄えた。
おそらくこの頃に、首里城や石畳の城下町は「金城」(カナグスク)とよばれるようになったに違いない。
しかし16世紀の半ば以降、中国人による「密貿易」がさかんになり、ポルトガルやスペインやマカオやマニラに貿易の拠点を築いて日本との貿易に乗り出すと、琉球の中継貿易は翳りをみせた。
そして1609年、薩摩の島津家は琉球に侵攻し、支配下におさめた。
ただ琉球の洗練された文化が保存されたのは、日本側の都合にもとずく意外な理由からであった。
琉球は徳川幕府から薩摩の領地の一部と認定されたが、他方では中国と日本との関係を取り結ぶため、中国への朝貢を続ける「異国」とも位置づけられた。
この「日中両属」という関係は、明が滅んで清となっても変わらなかった。
そうした微妙な関係の中で、徳川幕府と島津家は、「国内向け」に、日本が「異国を従えているよう」に見せるために琉球を利用した。
琉球の使節が島津家にともなわれて江戸に向かう時は、中国に近い「異国風」の姿をするように求め、そのためもあって日本の内地とはかなり異なる文化が保存・強化されることになったのである。
今の沖縄の人々の中国への意識はどうであろうか。今の翁長県知事は2005年、那覇市の姉妹都市である中国福建省福州市から「名誉市民」の表彰を受けているし、前知事仲井県知事もそのルーツは中国である。
さて、首里城で最も目立つ中国式の門の屋根に掲げられた額には「守禮之邦(しゅれいのくに)」という4つの文字が書かれている。
これは「琉球は礼節を重んずる国である」という意味であるが、明朝第13代の皇帝・万暦帝が琉球に贈った詔書の中の文字から名付けられたものである。
さらには、首里城正殿は正面が南向きではなく、中国が位置する方向(西向き)に建てられている点。
これは建築士のミスではなく、琉球にとって当時の宗主国であった中国が西側に位置するため、中国に「敬意」を表すために、琉球王朝のすべての建築物の正面が「西向き」に建てられているのだ。
また沖縄の至る所に見るシーサー(狛犬)を置くという風習は14世紀に中国から伝わったとされる。中国と同様、沖縄の人もシーサーが魔除けの効果を持つ「守り神」だと信じていた。
那覇には「守礼門」やシーサー以上に沖縄と中国との関係を端的に物語る石碑が立っている。
沖縄県の県庁所在地・那覇市の東海岸に「松山公園」という公園があり、その公園の向かい側には、中国福建省福州市が建設を支援した中国庭園「福州園」がある。
これら両園を隔てる道路脇に「久米村発祥の地」と刻まれた石碑がたっている。
この石碑は、中国明朝時代に福建から沖縄に移り住んだ人々を記念するもので、コノ移住者たちは「久米三十六姓」と呼ばれている。
当時の琉球において、先端文明をもった移住者である「久米三十六姓」の政治的・経済的な地位は極めて高く、その末裔は今もなお、沖縄で大きな影響力を持っている。
久米村は誕生後、琉球王国の対外貿易の拠点・要塞となり、琉球内においては、当時の先進文化・生産技能を普及する中心地となった。
1609年に薩摩藩が琉球に侵入して以来1879年まで、琉球は日本に支配されたが、久米村の住民の多くが清朝側を支持した。
親清派は久米村を拠点に日本による併合に反対すると同時に、琉球王朝の復活に協力するよう、清朝に願い出たりもしている。
しかし「甲午戦争」(日本名・日清戦争)で清朝が敗れ、清朝を支持していた久米村住民の多くは、清に「亡命する」という道を選んだ。これを機に、久米村の斜陽が始まったのである。
とはいっても、沖縄文化の中に中国的な要素が色濃いという事実は、「久米三十六姓」と切っても切り離せない。
世界的に有名な空手道のルーツも、「久米三十六姓」から始まっている。
「久米三十六姓」の子孫は、毎年孔子を弔っていて、那覇にある孔子廟は、天妃廟と隣接している。
ちなみに前知事の仲井眞弘は、「久米三十六姓」のひとつ「蔡氏」の子孫であることは広く知られている。

沖縄には「三線(さんしん)」と呼ばれる独特の楽器がある。これは福建省の伝統的な楽器「三弦(サンシェン)」と非常によく似ている。
「琉楽」と呼ばれる沖縄の伝統音楽のうち、「琉球御座楽」は明・清時代に伝わった音楽であり、中国の冊封使が訪れた際に用いたものだという。
ところで、沖縄民謡と現代ポップスの「融合」した曲といえば、喜納昌吉の「花」やTHE BOOMの「島歌」を思い浮かべるが、いずれも「三線」を奏しながら歌っている。
ちなみに「島歌」の島は、沖縄ではなくて奄美大島であるが、「沖縄ポップス」の流れの一つと考えていいだろう。
本土では、小椋桂など琵琶奏者の子からミュージシャンとなったものもいるが、沖縄にも「三線」奏者またはその子どもがミュージシャンとして活躍する者も多い。
喜納昌吉のもうひとつの代表曲は「はいさい オジサン」だが、中学時代に作曲したデビュー曲で「こんにちは、おじさん」の意味である。
酒飲みのおじさんと少年とのユーモラスの掛け合いを歌詞にしたもので陽気で元気がつく歌とばかり思っていた。
しかしその歌が出来た経緯は、そんなアマッチョロイものではなかった。
息子の喜納昌吉は、沖縄市(旧ゴザ市)島袋という地に生まれたが、少年のある日、近所で起きた凄惨な事件が起き、事後とはいえその現場を「目撃する」ことになる。
それは、7歳の娘が精神を病んだ母親に首をきり落とされるという事件であった。この母親の夫はしばしば喜納家に「お酒」をセビリに出入りしていた人物であった。このオジサンこそが、「はいさいオジサン」のモデルとなった人物で様々な苦しみをかかえながらも、ツキヌケて陽気だった。
児童文学者の灰谷健次郎は1971年ごろ、大坂で17年間勤めた教師をやめ、沖縄を南西諸島をめぐった。当時身内を相次いで失い、自責の念に駆られていた灰谷を救ったのは島の人々が語った「生者も死者も繋がっている」という世界観だったという。
それを「兎の目」「太陽の子」などの児童文学に「凝縮」させた。
さて、沖縄県の石川市は、沖縄本島のほぼ中央にあって、第二次世界大戦後に沖縄で最初にできた「市」である。
人口2000人足らずの静かな農村であったが、戦争が終わった1945年、米軍によってここに「難民収容所」が設置され、沖縄各地から戦火に追われたたくさんの人々が集まってきた。
そのため、人口は数ヵ月で3万人にふくれ上がり、今日の「石川市」となったのである。
しかし、人々は戦争で受けた心の傷を癒やす間もなく、その日その日を生き延びることで精一杯だった。
軍の作業に駆り出され、食料と物資を手に入れることに追われて疲れきり、毎日希望を失ったまま暮らしていた。
そこに突然に、小那覇舞天(おなはぶーてん)と名乗る風変わりな男が現れた。
舞天は本名を小那覇全孝(おなはぜんこう)といい、今の県立那覇高校の第1期卒業生で、日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)を卒業して歯科医となった。
舞天は、白衣を着ている時や家では口数の少ない人であったが、一歩外に出ると風変わりな「漫談男」にヒョウ変する。
この、小那覇舞天が毎晩のように舎弟・照屋林助を呼び出し「三線」をひかせた。まだ起きている家を見つけては甲高い声で「ヌチヌスージサビラ」(命のお祝いをしましょう)と、「三線」が鳴り響き、歌が始まるのである。
その場でつくった歌を民謡の節に乗せ、この地方独特の「琉球舞踊」モドキを踊る。最初はアゼンとするばかりだったが、やがて舞天のユーモラスな「踊り」に乗せられ、家の者もツイツイ一緒に踊り始める。
ところが舞天がある屋敷を訪問した時、位牌の前で家主が涙を流している場面に遭遇した。
家主は舞天に、こんな悲しいときにどうして歌うことができるのか?戦争が終わってからまだ何日も経っていないのに位牌の前でどうして「お祝い」をできようか?と問うた。
すると舞天は、「あなたはまだ不幸な顔をして、死んだ人たちの年を数えて泣き明かしているのか。生き残った者が生き残った命のお祝いをして元気を取り戻さないと、亡くなった人たちも浮かばれないし、沖縄も復興できないのではないか。さあ遊ぼうじゃないか」と答えた。
すると家主の表情には明るい兆候が表れた。
舞天の存在は沖縄中に知られ「ブーテン」の愛称で親しまれるうち、いつしか「沖縄のチャプリン」ともよばれるようになった。
「沖縄芸能」の復興は小那覇舞天・照屋林助コンビによって始まったことを物語るように、国立民族学博物館にて照屋林助・林賢コーナーが展示されている。
この舞天と行動を共にしたのが照屋林助の子が「りんけんバンド」の照屋林賢である。
「りんけんバンド」は1977年結成され、1987年にプロ・デビューしている。
三味線や島太鼓など沖縄の楽器と現代の楽器との融合した「沖縄ポップ」の先駆者といっていいバンドだ。
ちなみに照屋林助の姪が、元・ミスインターナショナル世界第二位の「知花くらら」さんである。
そして照屋林賢の土台の上に、今日の沖縄出身のミュージシャン達の「BEGIN」や「ORANGE RANGE」が続いていく。
沖縄の心が生んで本土の心を掴んだ2つのシンボル。
「守礼の邦」への侵略者を迎えうつのが「ウルトラマン」なら、遠方からの「まれびと」を優しく迎えるのが「三線」(三味線)といえようか。