憎しみを返さず

アメリカの大統領選挙戦において、人々の憎しみや分断をあおるような言説でアピールしている候補者がいる。
票が伸びているのも、この世の中で「憎む」ことを教えられた人々が増えているからかもしれない。
いずれにせよ、民主的手続を経て選んだ大統領であるならば、国民が望んだ結果ということになる。
それが「憎しみ」の集積の結果だとしたら、民主主義とはナントモこわい制度なのだ。
国民が選んだ責任がない指導者の方が、割り切って批判もできる。
また、近年の世界の動きをみると、民主国家が戦争をせず、独裁国家(全体主義)が戦争しやすいなんていう単純な構図は描けない。
アメリカが、大量殺戮兵器の存在を掲げてイラクと戦争を起こしフセインを公開処刑したことや、911テロを起こしたオサマディン・ラディンを襲撃したことに対して、裁判も開かず公開処刑または夜襲するなど人権考慮のカケラもなかった点で、違和感を覚える。
それらの行動に対する直接の批判はなく、あったとしても、せいぜい「この行為は憎しみの連鎖をうむだけだ」という内容だった。
そのとうりだが、それを委細構わず実行するのが民主国家アメリカの姿である。
民主国家にあって、テロ行為に対して報復しない大統領は、「弱腰」と批判されて政権維持が困難になるが、それは独裁者は国民に絶えず「戦果」を訴えて国を束ねばならぬことと「等価」である。
実際に、「弱腰」という批判を恐れて、民主的指導者が戦争へと向かったケースは歴史上、枚挙にいとまがない。
さて昨年末にフランスのパリで、妻を殺されたひとりの男性の一文がフェイスブックに投稿され感動を呼んだ。その全文を紹介すると次のとおり。
「金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。
君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮をした。
もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。
だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。
君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。
君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる。
今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。
もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。
でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。
君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。
私と息子は2人になった。
でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。
彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから」。
ここで男性は、「憎しみ」を返すことは、テロリストと同列に立つことだとして、自分はあえて「憎しみ」をかえさず、結果「憎しみの連鎖」を断つことを表明している。
人間にとって、「憎しみ」という感情の火種は、そうやすやすと消え去るものではない。
それでも、人間の英知と強い意志によって「憎しみ」が共感と感動へと席を譲ったケースがある。それは、精神の高さが、「憎む者」を恥じさせ、ついにはその感情を捩じ伏させたのである。

日本の明治時代、 貧しい農村に住む人々が仕事を求め、世界中に渡った。
カナダにも8000人を超える日本人が移住し、西海岸のバンクーバーには「リトル東京」と呼ばれる日本人街が形成された。
ただ、 日系人はカナダ国籍を取得しても選挙権は得られないなど、法的な差別を受け続けた。
カナダへの移住が開始された当時、やって来た日本人の多くは林業や漁業など肉体労働に精を出した。
安い賃金でも勤勉に働く日本人は、重宝されたのだが、皮肉にも日本人達が働けば働くほど、仕事を奪われた白人達の憎しみは募っていった。
1907年、ついに5000人もの反日デモ隊が暴徒となり、日本人街を襲撃した。日系人達は、家族を守るために団結し、暴徒を力で撃退せざるをえなかった。
白人暴徒に抵抗した結果、日系人は危険な民族だという認識が広まり、 カナダ政府はこの事件以降、日本からの移民を厳しく制限することになる。
さて、当時カナダで一番人気のスポーツといえば野球であった。 国内にいくつものアマチュアリーグが存在し、日本人チームもあったが弱小チームに過ぎなかった。
日系人有力者の支援で、強力な日系人チームを作ろうと、15歳前後の少年達が集められた。
そして誕生したのが「バンクーバー朝日」である。学校が始まる前、放課後、ひたすら少年達はボールを追い続け、朝日軍は、日系人社会最強のチームへと成長した。
バンクーバー朝日は27年間にカナダのリーグを席巻したが、全盛期には5軍まであったというから、日系2世はほぼバンクーバー朝日軍に入るのを夢みていたといってよい。
このチーム発足当初から一目置かれた存在が、ハリー宮崎であった。ハリーは幼いころ、白人によって日本人街が襲撃された事件を目の当たりにして育った青年だった。
そしてチーム設立から4年後、白人達の下部リーグへの出場が許されることになった。
とはいえ白人チームに「ジャップに野球ができるのか」と侮られてながらの戦いだったが、白人チーム相手に連戦連勝し、翌年のリーグ戦で、参戦2年目にして初優勝を果たしたのである。
その翌年、朝日軍はさらにレベルの高いターミナルリーグへ招待されたが、白人チームは朝日軍に乱暴なプレーを仕掛けてくるようになった。
試合のたびに、日系人とカナダ人、それぞれの「憎しみ」が球場でぶつかり合い、審判も白人チームびいきの判定を下す状態だった。
その年 朝日軍は連戦連敗で、リーグ下位に沈んだ。
ただ皮肉なことに、朝日軍がリーグ参加の資格を剥奪されることはなかった。
白人チームが日系人チームを打ち負かす構図が多くの観客に受けていたためだ。
悪役プロレスラーを打ち負かすのとおなじで、 白人に翻弄される日系人を見に来る客で球場は埋まったのだ。反対に、バンクーバー朝日軍は崩壊・解散の危機に直面していた。
そんな時、チームのリーダーのハリー宮崎の「提案」を聞いて、メンバーは奮起した。
皆に推されてハリー宮崎が新監督に就任するや、白人のパワーに、機動力と組織力で対抗する「スモールベースボール」を目指した。
だがそれ以上に重視したことは、「フェアプレー精神」の徹底だった。
だが、結果はなかなかでなかった。日本人が抵抗しないのを良いことに敵はやりたい放題だった。
日系人の観客からは、あそこまでやられてなぜやり返さないのかと詰め寄られた。
だがハリーは、13年前に見た暴動を心に刻み、憎しみを憎しみで返すのは、憎しみをさらに増すことだと答えた。
どれだけ乱暴なプレーを受けても、偏ったジャッジにも、どんな時でも朝日軍ナインはフェアプレー精神を貫き続けた。
どんな不利な状況でも正々堂々と闘い勝つ、それが日系人の本当の姿だと人々に示したかったのだ。
しかし、翌年もその次の年も朝日軍は最下位であった。
そんな中、ある事件が起こった。
その試合で朝日軍は、勝利を目前に控えていた。だが3点リードで迎えた9回ウラ、朝日軍はランナー満塁のピンチ。
その時、白人チームが走者一掃のロングヒットを放ち、 打ったバッターもホームへ突入した。誰が見てもアウトのタミングだったが、審判はセーフの判定を下した。
その時、日系人チームは信じがたい光景を目のあたりにした。審判に抗議するために乱入したのは白人観客たちの姿だった。
いつしか、敗戦を繰り返しながらもフェアプレーを貫く日本人の精神が多くのカナダ人の心までも魅了するようになっていたのだ。
その後、ハリー宮崎の監督就任から5年め、バンクーバー朝日軍は、ついにターミナルリーグ初優勝を果たした。
応援に駆けつけた5000人を超える日系人とカナダ人の観客は、一つになって喜びを分かち合った。
それは朝日軍が、憎しみ合っていた日系人とカナダ人の架け橋になった瞬間だった。
それから3年後、ハリー宮崎は朝日軍の監督を引退するが、その後もバンクーバー朝日軍は快進撃を続けた。
だが太平洋戦争が勃発し、カナダの日系人2万人は、敵国の人間として全財産を没収され、カナダ各地の強制収容所に送り込まれた。
バンクーバー朝日軍は、事実上の解散に追い込まれ、戦後も再結成されることはなく、その栄光は歴史の中に埋もれてしまったかに思えた。
しかし、それから60年あまりが経った2003年、朝日軍のカナダ野球殿堂入りが発表された。
殿堂入りするのは、ほとんどメジャーリーガーなど超一流選手。 単に強かったというだけではなく、そのフェアプレー精神がカナダ人を感動させたことを覚えている人々がいたのだ。
さて、もうひとつの野球を通じて人種間の「憎しみ」を捩じ伏させたのは、アフリカ系アメリカ人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンの物語である。彼も野球殿堂入りしている。
アメリカ映画「世界を変えた男」(2013年/原題:「42」)はジャッキーロビンソンを描いた映画である。
、 1947年、ブルックリン・ドジャース(ロサンゼルス・ドジャースの前身)のゼネラルマネージャー・ブランチ・リッキーは、ニグロリーグでプレーしていたアフリカ系アメリカ人のジャッキー・ロビンソンを見出し、彼をチームに迎え入れる事を決める。
リッキーは、多くの黒人には野球ファンが多いことに着目し、その決断が批判攻撃されてもかまわないとロビンソンを迎え入れたのだ。
それにしても、球団の白人ジェネラル・マネージャーであるリッキーは、自らも「攻撃の矢面」に立ってまで、どうして黒人に門戸を開けようとしたのだろうか。
ロビンソンが或る時ソレを訪ねると、リッキーは黒人選手にまつわる苦い「過去」を語った。
リッキーは、ロビンソンに野球のプレーを磨くよりも、予想される差別に耐え抜くことこそが絶対条件であることを伝えた。
仮にどんなに不条理な差別であったも、もしもロビンソンが「反撃」するようなことがあれば、黒人に「野球プレーヤー」の道は開けないという厳しい要求でもあった。
当時アメリカで起きていた人種差別の壁は高く、当時のMLBは白人選手のみのリーグとして存在し、黒人選手はニグロリーグでプレーすることしか許されない時代だった。
それでもジャッキーは類まれな野球センスで、28歳のときにドジャーズに昇格したが、メジャーリーグは白人だけのものだったことから、彼の入団は球団内外に予想された以上の大きな波紋を巻き起こすことになる。
ロビンソンは他球団はもとより、味方であるはずのチームメイトやファンからも差別を受け孤独な闘いを強いられる。
球団の移動も別行動、食事もシャワーの使用も別行動、そして球場で浴びせかけられる野次は耐え難いものであった。
ビーンボールを受けたり露骨な敵意のこもったスライディングを受けたり、ひどい野次を受けたり、脅迫状を受けたり。
さらには「黒人お断り」のホテルが並ぶ中、彼はチームと別に一人で宿探しをすることもあった。
それでも、ロビンソンはそうした差別を、観客を魅了するプレーで打ち消してていく以外に、生きていく道はなかったといえる。
控え室でバットを叩き割るようなこともたびたびであったが、リッキーとの約束どうりあらゆる中傷に対して反撃しない「自制心」を貫き通す。
それが、後続の黒人がプロスポーツへの扉を開く道であるという思いからだった。
そして、そんなロビンソンのプレーに、批判ばかりしていたチームメイトやファンたちはひとつになり、黒人ばかりではなく白人をも魅了していった。
そしてロビンソンの「孤軍」の戦いは次第にチームメイトの共感をよび、球場内の殺気だった差別的雰囲気の中にあって、ロビンソンへの野次に反撃する者や、あえてロビンソンの肩を抱いて、自分の気持ちを観客に表明する選手も現れていった。
そして野球人生を通じ、ジャッキー・ロビンソンは、ナショナルリーグMVP1回/ 新人王/ 首位打者1回/ 盗塁王2回/MLBオールスターゲーム選出6回/など「黒人プレイヤー」のパイオニアとして、あまりあまる成績を残している。
ちなみに、原題のタイトルの「42」はロビンソンが付けていた背番号である。
現在アメリカの全ての野球チーム、すなわちメジャーはもとより、マイナーリーグ、独立リーグ、アマチュア野球に至るまで「永久欠番」となっている。

国家に「人徳」に匹敵するような「国徳」のようなものはない。国家は集約した「利害」で動くものだからだ。
今日、韓国の朴政権が「従軍慰安婦問題」を蒸し返さないことで合意したことも、中国の強大化や北朝鮮の核開発を意識して、日本との融和を大切にしたものだと考えられる。
また個人として刻まれた憎しみとは違って、国民として潜んだ「憎しみ」を打ち消す方向で国をまとめられる指導者なんて、ほとんどいない。
むしろ、何らかの「憎しみ」を煽ることが、政権の維持・存続に効果的だからだ。
とはいえインドのマハトマ・ガンジーや南アフリカのネルソン・マンデラなど、指導者個人レベルの「精神の高さ」が、憎しみの解消へと向かわせたケースがないわけではない。
1951年9月6日、敗戦国日本の独立を求めるサンフランシスコ講和会議での演説で、セイロン(現スリランカ)の大蔵大臣ジャヤワルダナ氏は、ブッダの言葉を引用して、日本軍のよる経済的損害など、その資格があるにもかかわらず、日本に対する「戦後賠償」を放棄したことを表明した。
新聞記事は、その演説は、称讃の嵐となり、窓ガラスが割れるほどであったと伝えたが、彼が引用した仏陀の言葉は次の言葉であった。
「まことに、怨みに怨みをもって報いるならば、この世においては、怨みのしずまることがない。しかし、怨まないことによって、怨みはしずまる。これは、いにしえより続く真理である」。
そして1996年、死を迎えたジャヤワルダナ氏は献眼と角膜提供を申し出て、「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」と遺言した。
左目は氏の望み通り、角膜移植手術によって、長野在住の女性へおくられている。