日英「交叉点」

三浦半島西部に位置する神奈川県葉山町は、人口3万人程の小さな町。皇室の「葉山御用邸」で知られるこの町は、夏は海水浴客で賑わい、鎌倉、江の島へ向かう海岸道路は常に渋滞するほど人気だ。
国内指折りのセーリング・スポットで、石原裕次郎・北原三枝の主演の映画「狂った果実」(1956年)の舞台としてもよく知られている。
数年前、海岸近くの森戸神社に「石原裕次郎記念碑」があると聞いて行ってみた。
そしてこの「記念碑」から海岸を見渡した時、「狂った果実」のモノクロームの映像がカラーで眼前に拡がるのを見て、少々感動を覚えた。
磯辺より沖合に浮かぶ小さな島があり、そこに映画のハイライト場面となった「灯台」が建っていた。
自分より二まわりほど上の世代「太陽族」にとって「懐かしさ」さえ覚える灯台ではなかろうか。
さて、江戸時代まで遡るが、この三浦半島に大きな痕跡を残したイギリス人がいる。その名はこの半島名にちなんで「三浦按針」と名付けられた。
関ケ原の約半年前の1600年、大分県臼杵に一隻のオランダ船リーフデ号が流れ着いた。
出発時には100人を超えていたが、大分に到着した時は24人になっていた。
その乗組員の一人がウイリアム・アダムス、すなわち「三浦按針」である。
イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれで、船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁に弟子入りした。
造船術よりも航海術に興味を持ったアダムスは、1588年に奉公の年限を終えると同時に海軍に入り、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船の船長として「アルマダの海戦」(イギリス対スペイン)に参加している。
その後、バーバリー商会ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海に従事している。
航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深め、ロッテルダムから極東を目指す航海のために航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟と共にロッテルダムに渡り志願した。
その航海は、「ホープ号(希望)」「リーフデ号(愛の意)」「ヘローフ号(信仰)」「トラウ号(忠誠)」「フライデ・ボートスハップ号(陽気な使者)」の5隻の船団で行われることになった。
これがアダムズにとっての「運命の航海」となった。
なにしろ航海は惨憺たる有様で、トラウ号は東インド諸島でポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、一隻だけはぐれたヘローフ号は続行を断念してロッテルダムに引き返している。
生き残った2隻で太平洋を横断する途中、ホープ号は沈没し極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻だったのだ。
そのリーフデ号も、食糧補給のために寄港した先々で病気が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、アダムスの弟もインディオに殺害されてしまう。
こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていたのだ。
リーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着したものの、自力では上陸できぬ者もいて、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏むことができた。
太田は長崎奉行の寺沢広高に通報し、寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。
この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻「処刑」するように要求している。
5月中ごろより、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士らの注進で当初「リーフデ号」を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、彼らと何度か話すうち、すっかり誤解を解いた。
そして、執拗に処刑を要求するイエズス会宣教師らの意見を黙殺し、彼らを釈放し江戸に招いたのである。
アダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。
その代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。
結局、帰国を諦めつつあったアダムスは、1602年頃に日本橋大伝馬町の名主で家康の御用商人の娘、お雪(マリア)と結婚し、二人の子を授かっている。
やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、アダムスは「船大工」としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。
アダムスは、伊豆半島の伊東に日本で初めての「造船ドック」を設けて80tの帆船を建造した。
これが1604年に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年には120tの船舶を完成させる。
この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの「旗本」に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見(へみ)に領地を与えた。
同地(現・横須賀市西逸見)にある「濤江山浄土寺」がアダムスの菩提寺があり、この地にちなんで「三浦按針」の名を与えられた。「按針」の意味は、彼の職業である「水先案内人」の意である。
家康に信頼された按針だったが、1616年4月に家康が亡くなり、後を継いだ徳川秀忠をはじめ幕臣たちの方針で貿易を「平戸のみ」に制限し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となった。
イギリス商館の開設に関わるものの、それ以降の役目は「天文官」のみとなり、按針は憂鬱な状態のまま55歳で平戸にて没している。
1954年、イギリス商館跡近くの崎方公園(平戸市大久保町)に「三浦按針の墓」が建立された。
1964年、アダムスの生誕400年に際し、イングランドの妻の墓地より小石を取り寄せ、夫婦塚とした。
毎年5月下旬には墓前で「按針忌」が催される。
ところで、栃木県佐野市上羽田町の龍江院に伝来してきた古い木像がある。
長年、古代中国の伝説上の船の発明者である「貨狄」(かてき)の像とされてきた。
しかし1920年足利市の郷土史家により「耶蘇教僧木像」と紹介され、更に写真が1924年から2年間、バチカンで催された世界宗教博覧会に「在日本キリスト教聖人像」として出品され学者達の注目を集めた。
その際、バチカンでの指摘や歴史家らの調査によって、この像は1600年3月16日に豊後国(大分県)の浜辺に漂着したオランダ船リーフデ号の「船尾飾り」であり、オランダの人文学者「エラスムスの像」である事が判明した。
エラスムスは、マルチン・ルターにも多大な影響を与えた当代一の啓蒙思想家で、「船の飾り」になるほど尊敬を集めていたのだ。
さて、リーフデ号は堺を経由し浦賀に回航され、ここで解体されたと推定されるが、ウイリアム・アダムスから砲術を指南されたのが、徳川家の旗本・牧野成里である。
牧野はこのとき「エラスムス像」をもらいうけ、長らく牧野家の裏門近くの「お堂」に置かれていたという。
総高121cm、像高105cm。頭にかぶり物をし、右手には巻物を持つ。巻物には文字が欠けているものの「ERASMVS(エラスムス)」「ROTTERDAM(ロッテルダム) 1598」と読むことが出来る。
1598年はリーフデ号がオランダロッテルダムより就航した年である。
エラスムス像は現在も龍江院が所有しているが、東京国立博物館に「寄託」されている。

ドコカで見たカタチがあって気になって調べてみたらピタリという体験がある。
長崎にいってグラバー邸の横にリンガー邸がある。これは、幕末の「死の商人」グラバー商会の「幹部」だったリンガー氏の自宅である。
リンガー氏は、グラバー商会が没落すると独立して、長崎市内に「リンガー商会」を設立した。
リンガー邸に佇んでいて「既視感」に襲われた。そして、それがチャンポン店「リンガーハット」の店の「カタチ」と同じなのに気がついた。
気になったので、リンガーハット本社広報部にメールで問いあわせたら、会社の創業者が長崎で繁盛した「リンガー商会」のような元気な会社になりたいという願いをこめて「リンガーハット」と名づけたのだという。
辞書で調べると、英語の「ハット」は帽子のスペル(hat)とは少し違う、「屋敷」(hut)だった。
リンガーハットとは、なんと「リンガー邸」という意味だったのだ。
さて、リンガーの主人にあたるのがグラバー邸の主トーマス・グラバーである。グラバーが日本に残した痕跡はあまりにも大きいが、その末路は悲劇的だ。
戊辰戦争で一挙に財をなしたグラバーだったが、その後、事業はうまくいかず倒産する。
内戦の長期化を見込み大量に武器を輸入したが、予想外に内戦は短くして終わった上、事業を広げすぎたのが倒産の要因である。
というわけで、グラバーが日本に残した事の中には、「死の商人」での武器売買以外にも多岐に渡った。
グラバー家は本国イギリスでもともと造船業を営んでいたため造船技術の知識は豊富であった。
薩摩藩の五代友厚らと共同発起した船舶修理場からスタートして、1868年には小菅のソロバンドッグの建設を始めた。 翌年、政府がこれを買い上げ、1887年には三菱造船会社の所有となり、これが「三菱長崎造船所」のはじまりとなる。
またグラバーは、上海の展示会に出品されていたイギリス製鉄道機関車を日本に取り寄せ、現在の長崎港税関あたりからのちの高島炭鉱の所属地までレールを敷き、日本ではじめて鉄道機関車を試走させている。
さらには1869年、アメリカ人によって開設されたビール醸造所を、1885年、ビール産業の将来性に着目して買い取り本格的なビール醸造に乗り出しジャパン・ビリウリ・カンパニーを設立する。
この会社が後の「キリンビール」となる。
その後、グラバーと妻・ツルは長崎から、1893年頃東京に移り住む。
今も観光客が絶えないグラバー邸には息子・倉場富三郎とその妻・ワカが残った。2人の間には子供はいない。
この夫婦は、二人とも、母が日本人のハーフである。倉場富三郎が71才の頃、日本はアメリカとの太平洋戦争に突入する。
南山手のグラバー邸からは、軍事工場ともなっている三菱造船所がまる見えだ。
当然外国人である富三郎に対して厳しい監視の目が向けられた。
スパイ容疑をまねかないように、富三郎は諏訪神社の氏子として、戦勝祈願などに顔をだし 同じハーフの妻であったワカは愛国婦人会に加わって、出兵兵士の送迎、千人針、戦地への慰問袋などに協力した。
しかし、日本の敗戦色が強まる中、倉場(グラバー)一家に対する不信の目におびえたワカが自宅で急死。
その後、1945年8月9日午前11時2分、松山町上空490メートルで原子爆弾が炸裂した。
幸い爆心地から5キロ離れた南山手地区は被害は軽微であったものの、「死の商人」と評されるグラバー家のなんと皮肉な「めぐり合わせ」。
長崎の街にも、米英軍が占領軍として上陸するという噂が流れ様々な風聞が飛び交った。
そんな中、富三郎は今度は逆に日本への戦争協力の姿勢が占領軍に糾弾されるのではないかという不安にさいなまれていく。
終戦の年1945年8月26日午前4時頃、トーマス・グラバーの子倉場富三郎は洗濯物の紐を首に巻きつけ自殺。74歳9ヶ月の生涯であった。
グラバ-家の軌跡は、戦争が一族に仕向けた皮肉なめぐり合わせ、戦争で財を成したが、戦争でグラバー家が終末したことになる。
また昭和の時代に下って、グラバーが基礎を作った「三菱長崎造船所」で建造された「日章丸」によって、出光佐三はイギリス監視の目をくぐって、石油をイランのアバダン港に運んで、イギリスを中心とするメジャーの石油支配に風穴を開けたのも、日英の皮肉な「交叉点」ともいえるかもしれない。

幕末、1863年島津久光の行列を4人のイギリス人が横切った生麦事件に端を発した「薩英戦争」は思わぬ展開をみせた。
1863年8月の薩英戦争で敗北した薩摩藩は、講和交渉で英国に留学生を派遣することを提案した。
これには英国側も驚くが、戦った相手から学ぼうとする姿勢を評価し、薩摩藩と英国は急速に懇親を深める。
薩摩藩はすぐに留学生の選考を始め、4名の視察員と15名の留学生が決定した。
この中には、薩英戦争で捕虜となった「後の大坂の父」五代友厚や「後の外務卿」寺島宗則などもいた。
彼らは1865年3月に薩摩を出発し、5月にロンドンに到着。
日本からの留学生たちがUCLに集まったのは、当時イングランドでは1826年創立のロンドン大学(UCL)だけが、信仰や人種の違いを超えて、すべての学徒に門戸を開いていた大学(カレッジ制)だったからである。
オックスフォードとケンブリッジの両大学は、英国国教徒にしか入学を認めていなかった。
UCLの自由な学風と進取の精神は、異国の地で学ぼうとする日本人留学生たちにも大きな影響を与えた。
彼らを迎え入れてくれたアレクサンダー・ウィリアムソン教授は、弱冠39歳にしてロンドン化学協会の会長を務めた気鋭の化学者であった。
ウィリアムソン教授の薫陶を受けつつ、勉学の合間にお互い交歓を重ね、さらに山尾庸三が「造船」を学ぶためにスコットランドのグラスゴーへ赴くときには、薩摩藩の留学生たちが1ポンドずつ出し合って貸し与えたとか。
かつて戦火さえ交えていた長州藩と薩摩藩だが、「薩長同盟」が結ばれるより前に遠く離れたロンドンでは、既に藩の枠を超えて日本人という一つの国家の国民としての意識に目覚めていたのである。
1993年にUCLの中庭に建立された記念碑には、長州藩の5名、薩摩藩の19名の名前が刻まれている。
さて、1902年、日英同盟においてイギリスは「光栄ある孤立」を捨てているが、イギリスは日本の教育界においても立教大学をはじめ、九州の鎮西学院・活水女子短期大学などの設立に「その痕跡」を残している。
さらに九州といえば、鹿児島県坊津・秋目海岸は、ジェームスボンド「007は二度死ぬ」の舞台となったところである。
ボンドが日本人海女と「偽装結婚」して暮らした家が今も残っているが、この海女を演じたのが、日本人初のボンドガール浜美枝である。
秋目海岸で「鑑真和上上陸記念碑」近くの駐車場入り口に行くと、そこには立派な「007は二度死ぬ」の記念碑がそびえ立っている。
そこには制作者の故アルバート・ブロッコリ、故丹波哲郎、ショーン・コネリーのサインがある。
この記念碑は、秋目の青年たちでつくる「青風会」によって1990年に建立された。
ロケ当時は、スタッフや出演者が通うヘリコプターが出入りし、海女に扮した水着姿の若い女性エキストラや全国からのたくさんの007ファンで、普段静かな秋目の漁村が大騒ぎとなったそうだ。
ちなみ「007作品」原作者のイアン・フレミングは、芭蕉の句「人生は二度しかない。生まれた時と、死に直面した時と」から、これが映画のタイトル「原題:You Only Live Twice」とつけたという。
それではなぜ、鹿児島(薩摩)の地が007映画の舞台となったのか。
その理由を、薩英戦争とかロンドン大学への留学生19人の存在などからくる両地の「歴史的関係」に求めるならば、一笑にふされるかもしれない。
なにしろアメリカ映画なので。
とはいえ、映画の中で「タイガー田中(丹波哲郎)の別荘」として使われたのが、島津家(分家)の「島津重富邸(現在は結婚式場)」であることなどにも、日英両国の「数奇な交叉点」を見る思いがする。