アシャが来た

NHK連続テレビ・ドラマで「広岡浅子」の名は日本中に知られたが、日本名「朝子」と呼ばれたインドの娘・バーラティ・アシャ・チョードリについては、ドラマ化でもされない限り、まず知られることはないであろう。
1928年の神戸生まれ、両親はインド人で、「希望」を意味するヒンディー語で「アシャ」と名付けられたが、日本では「朝子」と呼ばれて育った。
もともと詩や文学の世界に浸っていた少女だったアシャが、1945年3月、17歳の時に詠んだ歌がある。
「新しく 生まれ変わりて 一兵と なりたまりしも 心淋しき」。
これは女性でありながら、「インド独立の兵士」として祖国につくしたいもどかしさを詠んだものである。
当時、インドは英国の植民地となっており、国民は圧政と搾取に苦しんでいた。「非暴力・無抵抗主義」を掲げるマハトマ・ガンジーとたもとを分かち「武力闘争」を掲げた人々がいた。
その代表者が、チャンドラ・ボースで、若くして独立運動に身を投じ国民会議派に属したものの、「敵の敵は味方」「対英武装闘争をも辞さず」との固い信念から、「反ファシズム」「非暴力」に固執するガンジー、ネールら「主流派」との対立を次第に深め、やがて会議派を追われた。
そんな折、チャンドラ・ボースが結成したインド国民軍と協力して「独立運動」を支援しようとした一群の日本人がいた。
ちょうど、孫文の中華革命を支援した志士達とおなじように、彼らもまた西欧の列強の圧迫からアジアひいては日本の独立を守ろうとしたのだ。
そこでインドから、日本に身を寄せ独立運動の拠点をつくろうとする人もいた。
アシャの父アナンド・サハイもそのひとりで、1923年から日本にやってきて神戸に身を寄せていた。
戦時下の「アシャ」の家は日本の家庭そのものだった。日本人と同じ配給を受け隣組にも参加した。
娘姉妹はモンペをはいて登校し、千人針を縫い、家族で戦勝祈願の神社参りもした。
母はカレー用の豆や小麦粉を防空壕に隠し、多忙な父がたまに家にいると、祖国の料理をふるまった。
アシャは神戸の小学校を卒業後、東京の>昭和高等女学校(現昭和女子大)に進学する。そして2年の時に「インド独立運動」に身を投じるに際してつくったのが前述の歌である。
そして、父サハイは、日本でインド独立の機運を盛り上げようと、カリスマ的存在であるチャンドラ・ボースの招請を画策した。
そのために妻と「偽装離婚」し、当時インド中部のコルカタにいたボースの元に「秘密裏」に送り、訪日を促した。
ボースはそれに応え、大時化のインド洋上で潜水艦を乗り継ぐという「離れ技」を演じるなどして、念願の来日を果たした。
そして、チャンドラ・ボースは集まった日本人に語った。「いまこそインド国民にとって、自由の暁のときである。日本こそは、十九世紀にアジアを襲った侵略の潮流を止めようとした、アジアで最初の強国であった。ロシアに対する日本の勝利はアジアの出発点である。アジアの復興にとって、強力な日本が必要だ」。
チャンドラ・ボースの来日は、アシャに新しい生命を与えた。
初めてボースに会った日、アシャはインド式に礼を尽くしその足先に手を触れようとした時だった。
ボースは、自分たちは長い間奴隷のように頭を下げているのに、まだ下げ続けるのか、インドが独立するまで誰にも頭を下げてはならないと叱った。
この日から、アシャ姉妹同士の挨拶でも国民軍の合言葉「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」とした。
そして、チャンドラ・ボースはインド国民軍の最高司令官となり、シンガポールで「自由インド仮政府」を樹立して独立を宣言した。
さらに1944年3月より日本軍と「インパール作戦」を行い、デリーの英軍攻略をめざした。
実は、アシャが出征を決意したのは、この「インパール作戦」の時で、居てもても立ってもいられず、アシャは妹とともにボースに志願。
するとボースが「花のような娘たちが戦えるのか」とからかうので、ムッとしたアシャは「私たちが国のために死ねるのを閣下は知らない」と言い返した。
結局、アシャだけ入隊を認められ、1945年3月、軍服姿のアシャは日の丸と万歳三唱で見送られた。
母の顔を見れば涙があふれそうで目をそらし続けたという。
バンコクで念願のインド国民軍女性部隊へ入隊するものの、インパールから飢餓や感染症で壊滅状態となった日本とインドの兵士が次々に戻ってくる。
アシャは、訓練を終え「少尉」になった矢先、マラリアにかかってしまい、病み上がりで終戦を迎え、日本は戦争に負けた。
それはアシャにとって信じられないことだった。
その後、アシャは1946年にインドに入国し、日本にいた家族とも再会することができた。
しかし、1947年インドは独立したものの、パキスタンを失っての独立は、チャンドラ・ボースらが目指した「独立」とは違った。
そして、チャンドラ・ボースはソ連軍に投降して祖国独立の新たな活路を模索しようと大連へと向かうが、「悲劇」が襲う。
その途中、台北・松山飛行場で、離陸直後の飛行機墜落事故がもとで、帰らぬ人となる。
チャンドラ・ボース48歳の死は、独立革命の志半ばの、あまりに突然の死であった。
だが、インドではガンジーら現与党・国民会議派と対立し、ボースの立場は微妙だっただけに、いまだに事故死の「信憑性」を疑う人も多い。
日本の敗戦で台湾も極度に混乱するなか、遺体は荼毘に付され、台北市内の「西本願寺」に運ばれた。
その、時参謀本部から、事故から生還した者達には「遺骨を捧持して大本営に引き継ぐべし」との任務を与えられ、日本本土に飛ぶ最後の軍用機に乗り込み、福岡・雁の巣飛行場に向かった。
そして福岡で列車に乗り換え、食事もせず、一睡もしないまま、東京の市ヶ谷の参謀本部に到着した。
そして参謀本部にて、遺骨と遺品とが提出され、それらは翌朝、インド独立連盟日本支部長で自由インド仮政府駐日公使を兼務するラマムルティとサイゴンから飛んできたS・A・アイヤーとに渡された。
ラマムルティらは進駐軍への敵対行動ととられないよう、「控えめ」な葬儀を計画する。
そのため、アシャの偽装離婚した母親・サハイ夫人の自宅がある荻窪周辺の寺を探しだが、イギリス官憲がマークする戦犯容疑者との関わり合いを恐れて、首をタテにふるところがない。
そこで、ようやくたずね当てたのが杉並区日蓮宗・蓮光寺である。この寺は、地下鉄・新高円寺の近くにあるが、何も知らないでこの寺に足を踏み入れたら、境内にどうしてチャンドラ・ボースの「胸像」があるのかと驚くに違いない。
それを一言でいうならば、運命のイタズラという他はない。
当時の蓮光寺の住職は「霊魂に国境はない。死者を回向するのは御仏につかえる僧侶の使命である」とその場で快諾したのである。
9月18日の夜、サハイ宅から蓮光寺まで葬列が組まれ、百人を超えるインドと日本の関係者が参列して、「密葬」がいとなまれた。
その時、新宿中村屋のお菓子や白米、酒など、リンゴなどの供物が運び込まれた。
葬儀のあと、ラマムルティが住職に「遺骨をあずかっていただきたい」と申し出る。
住職はあくまで「一時的」なものと思い、それも すんなりと受け入れた。
しかしその後、インド独立連盟に関係した在日インド人たちは「国家反逆罪」の容疑で本国に送還され、ボースの「遺骨」だけが日本に取り残されることになる。
というわけで、チャンドラ・ボースの遺骨はこの蓮光寺に安置されてきたのである。
ただ、この半世紀、寺の住職や旧日本軍関係者によって、ボースの遺骨を祖国インドに返還しようという運動が熱心に展開されてきたが、いまなお実現されていない。
実は、アシャの夢は、チャンドラ・ボースの遺骨をガンジス川に流すことだったらしいが、ガンジーの「誉れ」とは裏腹に、ボースの遺骨はなぜ祖国に帰ることがいまだ許されないのか。
ひとつ考えられる理由は、独立後、政権を長らく担当してきた国民会議派、とくにネールにとってボースは「政敵」であり、積極的にはなり得なかったこと。
またもうひとつの理由は、親族も含めて、インド国内にボースの死を認めたがらない人たちがいることである。
ところで戦後、アシャはインド人男性と結婚し、2人の息子に恵まれた。そして子育てが一段落した後、祖国の言語と歴史を学ぼうと、ヒンディー語を勉強し直し、女子大学の通信講座で古代インド史の学士号を取得している。
1974年には、日本語で書き綴っていた日記をヒンディー語で出版し、さらに2010年には母校の昭和女子大が「アシャの日記」としてまとめて出版した。

東京新宿は24時間眠らない街だが、新宿の繁華街のド真ん中に「新宿中村屋」がある。
昭和のはじめ、新宿は急速に盛り場へと変容し、デパートや映画館はにぎわいをみせていた。
明治時代にカレーは英国流のもが伝わっていたが、日本風にアレンジされていたが、この店は「純インド式」にこだわり、「カリー」という発音にしたのも、本場の味を意識したものだった。
実際、日本人にとっては、「カリー」の味は衝撃的で、「恋と革命の味」として一躍評判になり、中村屋のカリーを食べるのは文化人や学生のステータスとまでいわれた。
中村屋の女主人、相馬黒光(こっこう)は、自由で進歩的な考えを持ち、「新しい女」といわれた。
彼女を慕い、中村屋はいつも芸術家や文学者、役者たちで賑わった。
人々は、いつしかここの集まりを「中村屋サロン」と呼んだ。
この中村屋にインド独立の志士が匿われていたというのは知る人ぞ知るで、実はこの店の人気メニューの「カリー」には、格別の歴史が秘められているといって過言ではない。
この人物とは、ラス・ビハリ・ボース。インド独立の志士として広く知られるチャンドラ・ボースとは別の「もう一人のボース」のことで、最近では「中村屋のボース」の方がとおりがよい。
ところが「インド総督」を爆殺しようとした事件などの首謀者として英政府に追われる身となり、逃亡先として彼が目をつけたのが、当時国力を高めていた日本の地で、1915年に来日した。
そしてアシャの両親は、この1910年代のインドを代表する過激な独立運動の指導者ラス・ビハリ・ボースの「側近」であった。
やがて第一次大戦が終わったため、「中村屋のボース」は、検束の危険から解放され、以後インド独立への活動に、身を挺することとなる。
そして、西欧の支配下からアジアを奪還するため、極東の地から「インド独立」の世論を盛り上げんと、広く言論の輪をひろげようとしていた。
ところが「日英同盟」を楯に、イギリス政府は執拗にボースの「身柄受け渡し」を要求する。
日本政府も、ボースを国外退去させようとするが、世論は反発した。
そんな時、中村屋の女主人、相馬黒光(こっこう)が新聞でニュースを知って、「軟弱外交」と憤った一人だった。
日本にいた中国の革命家・孫文や右翼の大物達がとりもって、相馬黒光は約4カ月間、中村屋の裏庭にあったアトリエにボースを匿うことになる。
「中村屋のカリー」はこのとき、命がけでボースを守った相馬家にボースによって伝えられたものである。
ボースは中村屋を出たあとも逃亡を続けたが、イギリスの官憲や探偵の手からボースを守れる人はいないかと、支援者たちが白羽の矢を立てたのが、黒光の長女・俊子だった。
英語を話せ、それまでボースとの連絡係を務めていたが、ボースと俊子は次第に心引かれ合う仲となった。
1918年、周囲の祝福を受けることもなく密かに結婚した。
32歳のインド人男性と20歳の女性との国際結婚であるが、夫は多額の懸賞金をかけられた「お尋ね者」で、隠れ家を転々とする新婚生活を余儀なくされた。
しかし時間がたつにつれて、官憲の追求も緩くなり、ボースは日本に帰化する。
その一方で、心労を重ねた俊子の体は、しだいに病に蝕まれていく。
家を建て、1男1女に恵まれ、つかの間の幸せを味わが、俊子は肺を患い1925年に26歳の若さでこの世を去る。
ところで、日本人の多くが、「中村屋のボース」(ラスビハリボース)と「チャンドラ・ボース」とを混同している。
「中村屋のボース」が病に倒れ、バトンを渡すかのように呼び寄せ、運動の指揮を委ねたのがチャンドラ・ボースなのである。
その際に、アシャの父・サハイが「偽装離婚」して、サハイ元夫人がインドにわたってチャンドラ・ボースを日本に呼び寄せるきっかけを作ったのである。
そして「中村屋のボース」は、日本軍部が米英と対立を深め、太平洋戦争でついにインド独立という夢がかなう時が来たと考えた。
1930年代後半以降の中村屋のボースは、インド独立の実現をするために、日本による「アジア解放」戦争を推し進めるための言説を繰り返した。
当初、日本の帝国主義的動きをある程度追認するのだが、ボースは中国に対する日本の姿勢を厳しく批判するようになっていく。
1937年になって日中戦争が始まると、インド独立とイギリス憎しの思いが強まって、日本を支持する立場に回る。
1942年、マレー半島で結成されたインド国民軍の代表になるためにバンコクへ赴いた。
ところがボースは日本本国とインド側の双方の板挟みになり、日本の傀儡扱いされて信望をなくす。
後をドイツからUボートとイタリアの潜水艦を乗り継いできたチャンドラ・ボースに「インド独立」の夢を託して東京に戻るが、過労のために病で寝つくようになる。
つまり、ラス・ビハリ・ボースは当初「国民軍」を率いていたのが、日本の傀儡とみられることで「求心力」を失い、もう一人のチャンドラ・ボースに、その役割を託したというのことである。
そして前述のとうり、チャンドラ・ボースを呼び寄せるに際して大きな役割を果たしたのが、中村屋のボースの側近であったアシャの父サハイである。
1944年に後を託したチャンドラ・ボース率いるインド国民軍と日本軍は「共同」してインドに突入するが、その「インパール作戦」は、前述のように「大敗」に終わってしまう。
1945年1月、ラス・ビハリ・ボースもまた、結核のため、熱望していた「インド独立」を見ることなく、その生涯を終えた。
その2年後にはインドが悲願の独立を果たされることになる。
祖国インドのの土を二度と踏むことなく、日本に骨をうずめたが、その墓は多磨霊園にある。
ところでボースと俊子の間に一男一女が生まれていた。長男は沖縄で戦死し、長女(哲子)は母親が亡くなった時に2歳だったため、父の口から母の思い出話を聞くことはなかった。
ただ父ボースは、子に対して「平凡に暮らせ」が口癖だったという。「中村屋」の主人である相馬夫妻の娘で妻の「俊子」を若くして失った運命の過酷さが、そういう言葉となって出たのだろう。
一方、サハイ夫妻の娘アシャもまた、歴史の荒波に激しく象られた女性であった。