文化の渦巻き

我が「博多」の地名の由来は諸説あるが、最近の街の様子の変化を見る限り、「人や物が多く集まり、土地が広博であるから」という説を支持したい。
最近、博多の街を闊歩するアジア系の人々のナント多いことか。
特に、博多駅周辺のコンビニの店員には、かならずアジア系の人がいるし、若者が多く集まる天神の飲食街も、彼らのエネルギーで眠ることを知らないようだ。
博多のイメージの変化は最新の街の様子ばかりではない。博多近辺の古代遺跡の発掘により、博多の「過去」もイメージを一新しつつある。
さて連日、博多駅近くのキャナル・シティには、多くの中国人観光客が「爆買い」に訪れ、その長いバスの列が名物になるほどだ。
そうした客を多数乗せたクルーズ船が着くのが商業展示場マリンメッセに近い博多埠頭である。
そこには、ワイングラスを扁平にした形の、およそ20メートルほどの高さの「赤い塔」が聳え立っている。
この「赤い塔」は、終戦間もない頃、在外日本人が引き揚げをしてきた記念塔で、博多港は日本最大の「引き揚げ港」であった。
この塔の赤い色は、人々がようやく繋いだ命をシンボライズしているかのようだが、特に最近この「赤い塔」がよく目につくのは、中国からの巨大クルーズ船の白色をバックにした、赤と白の鮮やかなコントラストのせいかもしれない。
それは、同時に戦争と平和のコントラストでもある。
実は、戦後まもなくこの博多港に向かった人々の流れの多くは、朝鮮半島の京城(現在のソウル)にあった。
京城は多くの日本人でごった返し、栄養状態の悪い人も多かったため、当時京城帝大の日本人助教授らが、博多港までの一貫した「援護体制」を組織した。
こうして生まれた援護施設が福岡市博多区御供所町の聖福寺に設けられ、引揚者向けの「聖福病院」や孤児の面倒をみた「聖福寮」が誕生した。
この聖福病院は現在の千早病院(東区千早)と浜の町病院(中央区舞鶴)に繋がっている。
さて聖福寺は日本最古の禅寺で、鎌倉時代の禅僧・栄西の建立だが、この寺はもともとは太宰府の四王寺山(大野山)の麓(ふもと)にあった。
四王寺山は、大宰府を守る要害と知られるが、日本が百済とともに戦った白村江の戦いに敗れたために、戦った唐や新羅の脅威と対抗するために、四王寺山頂に大野城という山城を築いたのである。
またここに四天王を奉納して「四王寺」を建立したのも、新羅が日本をのろうのを防ぐという「霊的」な目的があったという。この「四王寺」は現存しないが、多数経筒が出土している。
昨年11月九州国立博物館で開催された「新羅王子がみた大宰府展」では、新羅の高級食器「佐波理匙」(さはりさじ)や新羅様式の金銅製の冠やはきもの「飾履」(しょくり)の煌びやかさが人々の目をひきつけ、インド・アフリカ原産の物品も含まれ、新羅商人の活発な活動を印象づけた。
その中でも一番驚いたのが、四王寺山から月隈丘陵にかけて多数見つかった「新羅土器」の展示である。
四王寺山(大野山)の趣旨(?)は、新羅や唐から大宰府を守ることにあり、そのために大野城や、祈祷のための四王寺が存在したのだ。
その場所に新羅土器が出土するとは、一体どういうことなのだろうか。
多くの人々の古代歴史観では、日本と百済との「友好」および新羅との「対立」が定着しているが、前述の九国博の展覧会は、そうした観念を覆すものだった。
663年、新羅は日本・百済連合軍を破った。5年後に新羅は日本との交流を再開したが、両国の関係はなかなか改善しなかった。
そこで752年3月、新羅の王子・金泰廉(きんたいけん)に率いられて7隻の船で来日した使節団総勢約700人が日本を訪れた。
これまでの新羅使節団としては最大規模で、那の津(現在の博多湾)にあった筑紫館に入館し、歓待を受けた。
この筑紫館を管理する大宰府は朝廷に報告し、入京の許可が下りた一行は都に向かい、孝謙天皇に謁見し、7月に帰国の途についている。
また昨年3月、福岡県古賀市で6世紀後半頃の古墳から朝鮮半島の新羅産と見られる金銅製馬具が出土し、大きな注目を集めた。
この時代、倭と呼ばれた日本と新羅は緊張状態が続いたとされてきた。
しかし出土した馬具は新羅の権力者が装備するほどの豪奢な物で、これが当時の九州に贈られたとすると、これまでの常識とは異なる朝鮮半島との交流の姿が浮かび上がる。
そういえば、平和台球場あたりに、たまたま「遣新羅使」の歌を刻んだ歌碑を見た覚えがある。
実は、この遣新羅使が詠んだ歌の内容から、九州大学医学部教授の中山平次郎が「筑紫館」(後の鴻臚館)の場所を推測し、平和台球場敷地の発掘によりその推測の正しさが証明されたのである。
さらに近年、日本式の「前方後円墳」が韓国で多数見つかり、古代日本文化の半島への移入の可能性を示すもので、日朝間の文化が渦をまいているようだ。

井上敦の小説「天平の甍」(1957年)の中に、己の能力に限界を感じた日本人留学生が、せめてもの仕事に「仏教の経典」を写して日本に持ち帰る話がでている。
自分が理解できない内容でも、誰かが理解できれば、自分が苦労して留学した価値もあろうというものだ。
昨年11月の新聞に興味をそそる記事があった。
中国のひとりの学者が、遣唐使などによる「日中間の交流」を、シルクロードになぞらえて「ブックロード」と名付けた。
当時の中国にシルク(絹)というモノを求めた西域に対し、日本は書物を求めた。
そして特質すべきことは、54の国が唐に使節を派遣し、多くが皇帝からの褒美を喜んで持ち帰る中、日本人はそれを売って書物を買い求めたことだ。
この学者は浙江工商大学東亜研究院の院長であるが、研究のきっかけになったのは、唐代の詩人・王維が詠んだ送別詩やその序文に、日本が同じ文明を持つ国として描かれている点であった。
今では当たり前と思われがちだが、当時の中国人が、海を隔てた日本に精神的な繋がり感じたのには、余程のことがあるに違いない。そして学者が見出したのが「ブックロード」というものであった。
その当時、遣唐使や入唐僧は「虚往 実帰」つまり空っぽの船で渡り、宝物を満載して帰ると高く評価された。しかしそれは言葉の上での話で、遣唐使の船は空舟ではなく、入唐僧も手ぶらで海を渡ったのではない。
書物を求める日本人は、日本の書物を中国へ持ちこんでいる。
ただ、中国の「亜流」または「格下」の日本の書籍が果たして中国で読まれるのかという疑問もおきるが、その学者は次のような事例をあげている。
例えば「勝鬘経」というお経はインドから伝わり、 中国で翻訳されて各地に広がった。それを読んだ中国の僧侶は各々の見解を入れていくつかの注釈書をつくる。
そして、それらの注釈書は朝鮮半島に輸出され、朝鮮の僧侶は自分の理解で新しい注釈をつけ加える。
中国と朝鮮 の注釈書がさらに日本へ伝わり、聖徳太子は「勝鬘経 義疏」をつくり、それを中国 に逆輸出する。
中国の明空という僧侶は これに啓発を受け、「勝鬘経 疏義私鈔」を著わす。そして入唐僧の円仁は、これを書写して日本に送ったのである。
ここには、まるで文化の「渦巻き」が生じている。
学者によれば「ブックロード」は、おそらく漢の武帝がBC108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、その地に楽浪郡などを設置してまもなく、中国と朝鮮半島の間に開かれたと考えられている。
それがさらに東へと伸びてくが、 日本列島に到達する時期 につ いては、応神朝に「千字文」と「論語」をもたらした王仁の伝承をはじめ、5世紀末ごろから6世紀 初めにかけて、百済人が書籍を 日本に持ってくる記事などが、記紀などに散見される。
中国の「隋書(倭国伝)」には、文字を知らなかった日本が百済から仏教を得 てはじめて文字を知ったとある。
「文字」とあるのは、今ではただ「漢字」と解釈されているが、当時では文の意味的集合体である「書籍」をさすもので、そこには書籍が担 っている「文明」の意味合も多少な りとも含まれていた。
ここで注意すべき点は、百済は中国の南朝とくに「梁」「陳」から文化を受けとっているという事実である。
たとえば、百済が用いている暦は「元嘉暦」というものだが、これも南朝系で、これらの書物がさらに百済から日本へ運ばれることとになる。
つまり、中国の南方から百済を経由して日本に至るという「ブ ックロー ド」が成り立ち、 この書籍の道はだいたい5世紀末ごろ、 もしくは6世紀の初めに開通されていたと考えられるという。
重要なことは、海上の航路を通じて運ばれる「書物」は、シルクとは対照的に商品価値 がないこと。
裏を返せば、書物を越境させる「原動力」となったものは、商業的な利欲ではなかったという点である。
そして書籍の輸出輸入の誘因のひとつとされるのが、いわゆる「佚存書」の存在である。
中国では、唐末の乱世を経て「書籍散逸」 の惨状は目を覆うものがあった。
唐につづいて「五代」の時代になると、呉王や越王は使者を海外に遣わして「散逸書」を求めさせた。
その結果、高麗の諦観 、日本の日延の二人は、それぞれ自国にあった書籍 を中国に送りとどけている。
その時の 日延の肩書きが「繕写 法門度送使」で、写し取った書籍を送る使者の意味である。
遣唐使の一側面は「書籍を求める使者」もしくは「書籍を送る使者」であったのだ。
さて明治時代の日本は西洋化のあまり、伝統な文化は軽く見られる傾向にあったのだが、この時期、多くの中国人が書籍を求めて来日し、「佚書探し」のブームを引き起こしたことはあまり知られていない。
彼らは、奈良時代の「写経」など国宝級のものを安い値段で買い取り、中国に持ち帰ったのである。
そして面白いのは、奈良時代に日本で「写経」に従事していたのが、朝鮮からの渡来人もしくは難民であったという事実である。
実は、676年に朝鮮半島を統一したのが新羅だが、その過程で敗れた百済や高句麗などでは多くの難民が生じ、日本にやってきていた。
正史ではないが、「正倉院文書」から8世紀の写経所で働く難民の子孫の姿が見えてくる。
ところで「正倉院文書」の内実は何かというと、労務管理のための事務帳である。
働く人々の作業記録や給与支払いの書類が多くあって、そこには正史でおなじみの氏族とは異なる、より多彩な姓が認められるという。
その姓の内わけをみると、745年の写経所で働いていた経師41人を見ると、4から5人に1人は百済・高句麗からの難民の子孫であり、3人に1人は難民・移民の子孫だったという。
彼らは、鬼室や王など姓は本国のものをそのまま使っているが、個人の名は「小東人」(おあずまひと)とか広麻呂(ひろまろ)といって、すっかり日本風である。日本生まれの二世・三世であるのだろう。
写経所で働く経師らは、「試字」という文字を美しく書けるかどうかの試験を受けて、採用された。
彼らは泊まり込みで働き、一緒にご飯を食べて共同生活を送っていた。
机の前に並んで、同じように足をしびれさつつ、毎日ひたすら文字を写していたのである。
個人的に、福岡市西区周船寺の公民館で宮崎安貞の「農業全書」(1697年)を見せてもらったことがある。その微細なまでの作物の絵がいまだに脳裏に焼きついている。
宮崎は、周船寺近くの女原(みょうばる)で農作物研究に勤しみ、その成果を書物にしたのだ。
実はこの「農業全書」は、中国の明の時代に書かれた徐光啓「農政全書」(1639年)に多くの知識を得ながらも、宮崎の体験に基づき日本の実情に合うように執筆されているという。
宮崎安貞著「農業全書」は、日本史の教科書にも載るほど後世への影響も大きいが、これもブックロードの所産といえるかもしれない。

日中関係同様に、日韓関係においてもKポップやデジタルコンテンツといった「文化の力」が、両国間の政治的な溝を埋める力として作用している。
しかし朝鮮は地理的には最も近い国だが、文化的には遠い国のようにも感じることがある。
例えば日本人は、言外の意味を汲み取ることが、コミュニケーションにとって重要な能力となる。
日本人は贈りもを渡す場合に、つまらないものですがというが、韓国では贈り物をする際に、何を贈りかが大切なことはいうまでもなく、どのような物をどれだけ苦労して手に入れたかということが、贈る側ともらう側のどちらにとっても大きな付加価値になる。
そしてそれをはっきり伝えることがとても重要になってくる。
とはいえ、日朝間は古代からの「人的交流」を通じた文化基盤をシェアしていることも事実である。
ところで最近、難民や移民についてのニュースがない日はないといっていいくらいだ。
日本はといえば、最近法務省が発表したデータでは、昨年「難民認定申請」を行った人は7586人で、認定されたのはわずか26人であった。
現在とは時代背景が全く異なるが、7~8世紀の日本は多くの難民を受け入れていた。
前述のように新羅勢力の拡大にともない、660年に滅亡した百済や668年に滅亡した高句麗から、二千人を超える人々が海を越えて移住してきたからである。
正史である「日本書紀」や「続日本紀」によると、百済の王族や貴族らはその知識や技術で官僚に登用されたし、それ以外に近江国に400人とか700人、東国に2千人もの百済人が集団移住し、農業に従事していた。
さて、滋賀県(近江)蒲生郡蒲生町石塔(いしどう)には、百済様式の三重石塔が立っている石塔寺(いしどうじ)がある。
司馬遼太郎は、著書「歴史を紀行する」で、この塔のことを、「塔などというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである。朝鮮風のカンムリをかぶり、面長扁平の相貌を天に曝しつつ白い麻の上衣を着、白い麻の朝鮮袴をはいた背の高い五十男が、凝然としてこの異国の丘に立っているようである」と表現している。
石塔寺から東北へ約10kmのところに百済寺がある。高麗や百済の僧が百済系渡来人のために、百済の龍雲寺を模して創建したとされる近江の最古刹である。つまりこの一帯にも、当時既に百済からの渡来人が集住していたのである。
石塔寺や百済寺のあるこの湖東地域には、八日市、五個荘、愛知川、蒲生、近江八幡、彦根など、近世「近江商人」を輩出した地域が集まっている。
また、湖西の石積み職人「穴太衆」のルーツが渡来人であると同様、湖東の近江商人のルーツも渡来人であるという説がある。
石塔寺や百済寺の起こりをみても分かるように、湖東地方にも早くから朝鮮半島からの渡来人が集住して高い文化が形成されていた。
そのことが計数に明るい多くの商人を生んだことと無関係ではなかろう。
ちなみに、近江商人の流れをくむ日本企業は、次のとうりである。
住友財閥・大丸・高島屋・藤崎・山形屋・伊藤忠・丸紅・日商岩井・西武・ニチメン・トーメン・兼松・ヤンマー・日清紡・東洋紡・日本生命・武田薬品・ワコールなどなどである。
この中には、皮肉なことに戦争中に軍部と結びつき中国大陸や朝鮮半島に進出した企業も含まれており、ここにも文化の「渦巻き」を見る思いがする。