携帯と和紙

最近、携帯画面上で、とりあえず返事を送るための「言葉」が通用しているらしい。
例えば、「OK」という言葉を、「おけ」と書く人がいる。実は、「OK」という言葉自体、間違ったスペルから生まれたいわくつきの言葉なのだ。
アメリカ建国の頃、ある新聞社が「了解」を意味する言葉の"All correct"を"Oll korrect"と誤って表記したことから生まれたという経緯がある。
さら近年では、Okie-dokie (Okey-dokey、 Okey-doke、オキドキ) という言葉も生まれ、意味はOKと同じで、 dokey (doke) の部分は意味がなく、言葉遊びとして一般に広がった。
また聞いた話では、携帯画面の世界では「り」という一文字でのやりとりもあり、「り」は理解した、了解したという意味らしい。
それならいっそ「りふ」で理解不能とか、「りむ」で理解が難しいとでもしたらよい。
「媒体」が新しい文化を生んでいる。あるいは形式が中身を創っているといってよい。
しかし、こうした携帯画面のやりとりは「形式」の問題ではなく、とりいそぎ「返事」を書かねばという差し迫った心理的圧迫が背景にある。
となると、これは携帯が生んだある種の「病理」が生んだ「略語」ともいえる。
唐突だが、サッカーのスーパースターであるメッシの「契約書」のことが思い浮かんだ。
サッカーのアルゼンチン代表メッシが、八方ふさがりの状況から新たな局面を開いてシュートにもちこむ場面は、「芸術的」という言葉ではおさまらない。
人々がサッカーの一流選手を「ファンタジスタ」と称するのも、そういう感じから来るのだろう。
さて、今なお途上にある「メッシ伝説」は一枚のペーパー・ナプキンに書かれた「契約書」からはじまっている。
メッシが13歳くらいの頃、バルセロナの入団テストを受けた。
すると、入団担当者はそのあまりの天才ぶりにすぐにもメッシ選手と契約すると言った。
しかし、契約書が無いので、ともかく近くにあったペーパー・ナプキンで「代用」したというものである。
コノ話本当の話なのかと疑っていると、あるテレビ番組でソノ「ペーパー・ナプキン」の存在が紹介され、そこには、「いかなる障害があろうとも、メッシと契約する」と書かれていた。
この「いかなる障害があろうとも」には特別の意味があった。
当時バルセロナはメッシ選手の入団を望んでいなかったらしい。何しろメッシは当時140cm程度しか身長がなく「低身長症」という病気であった。そんな病気を持つ子供が活躍できるかどうか、バルセロナとしては不安視していたのだ。
実際、メッシのバルセロナ入団はすぐには受け入れられず、3ケ月待たされた。
そんな若いメッシの不安を払拭するために入団担当者が、必ずメッシを入団させるという約束の印がこの「ペーパー・ナプキン」だったのである。
この「ペーパー・ナプキン」の法的な形式を満たしているとは思えないが、この才能を絶対に逃したくないという思いの一心がこの「ペーパー・ナプキン」凝縮されている。その意味で、「メッシ発見」の証拠文書であり、その価値にとんでもない値がついていた。
ところで「媒体」が新しい文化を生むことにつき、日本に漢字の「草書体」が生まれ、それが「ひらがな」に発展したのも、さらさらと墨で書ける質のいい和紙があったればこそではないか。
日本人がいかに質のいい紙を使い慣れているかという点について、一番実感できることは、日本銀行券の感触をドルやポンドやユーロ紙幣との感触の違いを比べてみればよい。
日本の紙幣はなかなかシワがよらないし、崩れない。各段の質の違いだ。
さて、以前たまたま庭に来た猫の耳を触ったところ、「高級和紙」のような感触だと思っていたら、梶井基次郎の短編に次のような文章があった。
、 「猫の耳というものはまことに可笑しなものである。薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮のように、表には絨毛が生えていて、裏はピカピカしている。硬いような、柔らかいような、なんともいえない一種特別の物質である。私は子供のときから、猫の耳というと、一度"切符切り"でパチンとやってみたくて堪らなかった」。
梶井は続いて、「この感覚は残酷な空想だろうか?」と問うているが、ホッチギスで止めようなんて思わなかった分、まだ穏当かもしれない。
実際、猫は耳で吊り下げられても、痛がらないようで、引っ張られるということに対しては、猫の耳は特別な構造を持っている。
その「特別な耳」と、高級和紙の触感が似ていると感じた自分は、変なのだろうか。
谷崎潤一郎は、「陰翳礼賛」の中で、「和紙」について次のように書いている。
「同じ白いのでも、西洋紙の白さと奉書や白唐紙の白さとは違う。西洋紙の肌は光線を撥ね返すような趣があるが、奉書や唐紙の肌は、柔かい初雪の面のように、ふっくらと光線を中へ吸い取る。そうして手ざわりがしなやかであり、折っても畳んでも音を立てない。それは木の葉に触れているのと同じように物静かで、しっとりしている」。
「和紙」という媒体が、日本人の文化に与えた大きさは、我々が想像する以上に大きいかもしれない。
谷崎は同著で、仮に日本人が「万年筆」と西洋紙を使わなかったら、「我等の思想や文学さえも、或はこうまで西洋を模倣せず、もっと独創的な新天地へ突き進んでいたかも知れない。かく考えて来ると、些細な文房具ではあるが、その影響の及ぶところは無辺際に大きいのである」とまで書いている。

パスカルは、「人間は考える葦」であるとして、人間のあやうさと強さを同時に表現した。
紙つまり「ペーパー」の語源は、古代エジプトに繁茂していた「葦」すなわちパピルスであり、植物性の繊維でつくられたものが始まりである。
確かに、紙はすぐに破れるものあったのだが、7世紀の初め中国から日本に伝えられた紙の製法は、日本ではまもなくその製法や材料が大きく変わり、畳んだり広げたりしても破れない、柔軟で美しい紙が作られるようになった。
和の伝統に「折方」(おりかた)というものがある。「折方」は、物を包む紙の「折り方」の作法 折りたたみの技は、世界のどこにもない「扇子」にもっともよく現われているし、それに経典を書いて神社に納めた究極の一品が「平家納経」である。
そして、日本人が折ったり曲げたりすることに耐性をもつ「和紙」を作りだしたことは、日本に「折り紙」という文化を生み出すことにもなった。
日本で「折り紙」がいつごろから作られるようになったのかは正確にはわからないが、手紙を折り畳んだり、紙で物を包むときに折ったりするようなことは古くから行われていた。
それらが武家社会で発達して様式的に整えられ、実用的また礼法的な折り紙の文化を生み出した。
「鶴」や「舟」など、具体的な物の形に見立てて折るものを遊技折り紙と言う。
それらはもともと、病気や不幸などを人間に代わって背負ってくれるようにと江戸時代に入ったころからはじまった。
元禄の頃より折り鶴や数種類の舟などの折り紙が衣装の模様として流行し、さかんに浮世絵などにも描かれるようになる。
ヨーロッパでも、12世紀に製紙法が伝えられて、やがて独自に「折り紙」が生み出されているが、日本ほど広く厚い折り紙文化の層を持っていた国はない。
「逆説の日本史」の著者・井沢元彦は、折り紙こそ日本文化、つまり作り変える力の象徴である、とまでいっている。
必ず正方形の紙を用い、のりやハサミも決して使わない。非常に制約された技法の中で美を競う折り紙こそ、まさに諸外国にない日本文化のオリジナリティーの象徴である。
日本には、「折り紙」という伝統文化があったが、現代では急速に忘れ去られ、贈り物に付ける、赤と白の紙を折った飾りである熨斗(のし)などが残っているにすぎなかった。
ところが、日本に留学したアメリカ人が、この折り紙を「数学の問題」として考察し、今やそれが「ハイテク技術」の中に生かされようとしている。
例えば、人工衛星を少しでも軽くするために、アンテナの畳み方に応用され、「折り紙」は現代数学のいち分野をさえ形成している。

丈夫な和紙の存在は、「ふすま」や「障子」として日本家屋に生かされた。
遠藤周作は、フランスに留学した時、家主から「日本の家は木と紙でできているのですか」と聞かれて、どう説明してよいかわからず、その通りだと答えたところ、雨の日はどうするかと聞かれた。
表現がままならない遠藤は、返事に窮して、「張り替えます」と答えたという。
さて谷崎は、日本の家屋における「障子」の影響について次のように書いている。
「光源の全面を拡散フイルターなどで覆うと、広く覆えば覆うほど物体も物体を取り巻く環境の全てが限りなく柔らかな陰影空間になる。日本の伝統的な家屋は日中、明かり障子によって仄明るい半影を空間に創造してきました。そのような和紙を透過した光は室内のものを柔らかく見せ、人々の表情をやさしくする」。
個人的には、障子や襖から、「影絵」という遊び文化を生んだのではないか、と推測する。
近年の映画「白夜行」では、影絵がストーリーの「伏線」で巧みに使われていたが、 人の世は影絵のようなもので、何とか色彩が保てるように何事かに励んだり、愛し愛されたりしているのかもしれない。
人間の生を「無」の世界を下地にした「影絵」のように描いたのが、「東京物語」の映画監督・小津安二郎ではなかろうか。
小津安二郎の墓には大きな墓碑銘「無」と書いてあるからしても、小津の終生のテーマが「無」に収斂していたことは間違いない。
小津の映画では壺や石庭や能が長時間映しだされるシーンがあり、それが「禅」的世界を意識的に醸し出している。したがって海外での小津人気の背景には、外国人がもつ禅的な世界への憧憬があるのは確かであろう。
小津は、淡々と日常の人間ドラマを低い位置(ローポジション)から「凝視」していくような姿勢は、何ものにも迎合せず真実だけを描く、強烈な自我をさえ感じさせる。
小津が撮影現場でよく投げかける言葉は、「隠せ 隠せ」であり「けずれ けずれ」であったそうだ。隠しても削ってもどうしようもなく表れ出でるものこそ小津表現が目指したものだ。
小津映画の有名なシーンは「晩春」という映画で、父と嫁にいく娘が布団を並べて語り合う有名なシーンがある。
障子の向こうに笹がゆれ幽玄な雰囲気の中、少し首の長い壺が二度にわたって映し出される。
父と娘はとりとめもない話をするのであるが、その壺の存在感たるや二人の存在を霞めるほどなのだ。
一旦人世の世事が打ち切られ、突然禅的な無の世界へと導かれるのである。
ただし、あまりにも壺を長く映すので、父娘の間で変事が起きたのでは、と思った外国人がいたという。
失礼ながら、笠智衆はとてもダイコン役者なのだが、かえって小津監督がこの笠智衆を好んで使ったのもわからぬではない。俳優の演技や表情さえも、削った感がある。
また小津作品の「晩春」では妻に先立たれた学者が一人鎌倉に住んでいて、娘の方は自分が嫁いだ後の父の一人暮らしを思って縁談を断り、思いあぐねた父親は「架空」の再婚話を作り上げて娘を結婚させてしまう。
この映画で主人公は、「日本家屋」なのかもしれない。
娘が嫁いだ後、父親のために色々なものを縫ったであろうミシンが部屋からきれいになくなっている。
つまり娘の結婚とともに父親の周りから消えていき、ここでも「無」へと連なっていく世界がある。
ラストシーンで笠が力なく椅子にすわりこみ林檎の皮をむくが、その無骨な剥き方では、皮は長くつながらない。かつては、娘がきれいに剥いてあげたことを想像させるラストシーンで、「老いの孤独」を物語っていた。
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」が執筆されたのは1933年(昭和8年)で、昭和天皇誕生の年で、築地市場が開かれた年である。
その頃からすでに日本の街は明るさを増していたのであろう。
谷崎は、「美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に済むことを餘儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては日の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く「陰翳の濃淡」に依って生まれているので、それ以外に何もない」といっている。
さらに「陰翳の文化」といえば、「能」がそれに当たるに違いない。それを見て楽しいかどうかは、別として、日本人が生んだもっとも洗練された文化が「能」ではあるまいか。
「能面」とは無表情の代名詞として使われるが、角度によって、つまり光の当たり方によって表情豊かなものとなる。
能面のほんのわずかな傾きでできる陰影から表情を感じ取る。そこには、ほんのわずかな動きから溢れ出る思いや、豊かな情景が眼前に広がっている。
ほんの少しの陰影に微妙な表情を見て取り、そこに潜んでいる感情を汲み取る。そんなことが、ごく自然にできていたのではないか。
演出家の故・蜷川幸雄の言葉が浮かぶ。「できるだけ屈折している人がいい。光がいったときには、普通の人の屈折率よりも違うふうに光が入ってきて、演劇が立ち上がるんだ」。

最近では、LED電球で街中を明るくなり、気持ちが華やぐ面もあるが、失ったものの多さを教えてくれる。
また、携帯画面での人々の言葉のやりとりも、記号(または、暗号)とのやりとりのようだ。
また、何でも白黒はっきりしないと、Yes. Noをはっきりさせなければ、前に進まない世界である。
谷崎は、「われわれ東洋人は何でもない所に陰翳を生ぜしめて、美を創造するのである。われわれの思索のしかたはとかくそう云う風であって、美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。夜光の珠も暗中に置けば光彩を放つが、白日の下に曝せば宝石の魅力を失う如く、陰翳の作用を離れて美はないと思う」という。
最近、新聞に田中慎弥の「宰相A」という小説についての書評がのっていた。
太平洋戦争に負けた後、日本人は背が高く太陽の光をろ過してつくられた金髪の国民になる。
黄色人種が変身したのではなく、日本は米国からの白人の入植地になる。
白人が日本名を名乗り、黄色人種は「旧日本人」として居住区に囲われる。まるでガザ地区のように。
ただし首相だけは旧日本人で、首相はこう演説する「曖昧や陰影、朦朧、余白、枯淡、物のあわれにともなう未成熟な情緒、これら旧日本人の病理を完全に克服すべし」と。
携帯の拡がりは、人間社会から様々な「陰翳」を奪いとっていきそうな勢いである。
そして、陰翳文化を生んだその根源をたどれば、日本人の書に適合した「和紙」に辿りつく。
和紙が障子や襖を生み、フィルターのかかった光と蔭の対比が、日本人に独特の感性を与えた。
その感性が、洗練された「能」や「影絵」や家屋や庭園を作り出した。
それが谷崎の「陰翳礼賛」に繋がったのだが、それは「携帯画面」が生み出す世界とは、あまりにも対照的な世界である。

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