ミスター・アメリカ

「ベンジャミン・フランクリン」。この人物の名前ぐらいは聞いた人は多いと思うが、さて何をした人なのか、それを一言で表わすのが、これほど難しい人も珍しい。
フランクリンは大統領でもなければ、英雄でもなければ、まして聖者でさえもない。
それでもこの人物がアメリカを「体現」している人物であることに異論はない。
つまり、フランクリンを知ることは、アメリカという国を解き明かすことでもある。
さてフランクリンは、街の印刷屋にして避雷針などの発明愛好家。
皆を楽しませたり、喜ばせることが好きな、ユーモアあふれる好人物ではある。
そのフランクリンは、現在の「格言入りカレンダー」を考案して大アタリ。大金をもうけその金で、公立図書館や自警団などを作って街の名士となった。
政治の世界に入ると、彼の活動は多彩で、その傑物ぶりをようやく発揮し始めた。
後の大統領となった軍人ワシントンらを支え、独立戦争の際してはフランスへ趣き、「熊の毛皮」を被って、野蛮なアメリカが強いフランスの支援を求めているとオドケテみせた。
プライドの高いフランス人のハートをくすぐって、フランス社交界の寵児となる。
これぞフランクリン流外交。
実は、先立つイギリスとフランスの戦争(フレンチ・インディアン戦争)で、効率の良い兵站処理でフランス軍を苦しめたのは、他ならずフランクリン。
敵意さえ抱く者がいたが、そんなワダカマリさえふっ飛ばした。
ともあれ、独立戦争に際して「フランクリン人気」はそのまま「アメリカ人気」となった。彼の活躍がフランスの援軍を引き出した一因であったことに間違いない。
フランクリンはこうした功績を買われて、「アメリカ独立宣言」の起草者のひとりに選ばれている。
というわけで、もしウイリアム・テルを「代表的スイス人」とよぶなら、彼を「代表的アメリカ人」とよんでも違和感はない。個人的には「ミスター・アメリカ」とよびたいくらいだ。
フランクリンは、貧しい生い立ちから明確な目標と強い意志でアメリカン・ドリームをものにしたが、彼を「ミスター アメリカ」とよぶ理由は、彼が「何をなしたか」より、彼が抱いていた確固たる「原理」の中にあるといってよい。
それを一言でいえばプラグマチズム(実用主義)。
プラグマチズムにおいて、行為や制度の良し悪しは、それによって生じる「結果」によって判断される。
したがって「結果」を手早く生み出す効果や有用性が重視される。
したがって彼が目指す「幸福」という結果に結びつかないものは、できる限り排除するという「自己抑制」を自らに課している。

ベンジャミン・フランクリンはイギリスから移住してきたロウソク職人の家庭で15番目の子どもとして生まれた。
10歳で学校教育を終え、12歳には印刷出版業していた兄のもとで見習いとして働き始める。
そのうち兄と喧嘩別れしてボストンを出て、その後の3年間、ニューヨークやロンドンなどを転々。
1726年にフィラデルフィアで印刷業を再開し、アメリカ初の「タブロイド誌」を発行する。
ただフランクリンは、貪欲に成功をめざしたわけではない。どうやら彼のめざす「幸福」の要素には、公(おおやけ)につくして人々から尊重されることも含まれていたようだ。
1727年、フランクリンはフィラデルフィアに「ジャントゥ」と呼ぶ青年会議所の先駆とでも呼べる組織を結成した。
ジャントゥ・クラブは、消防隊の組織、夜警団の組織、外灯会社の設立、道路舗装運動の組織などフィラデルフィアの地域改善のための施策を次々と実行していった。
特筆すべきは、彼自身の学歴が「小学校卒業」にとどまっているのにもかかわらず、フィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルベニア大学)やアメリカ初の公共図書館を創設している。
何ごとも彼自身の体験と独学でから学んだフランクリンだけに、学校や教育への思いが強かったのかもしれない。
反面、学校で勉強しなかった分、頭が柔軟だったようで、「サマータイム制」を提案したりしている。
しかし彼の名を世に知らしめたものは、なんといっても処世訓・格言集「貧しいリチャードの暦」(1734年)である。
当時、印刷所はカレンダーをつくって売っていたが、たくさん売れるためには「独自性」を出さなければならないと、知恵をしぼった。
そこでカレンダーの余白に「格言」を印刷することにした。
聖書をはじめとするいろいろな本から、「人生訓的」なものを探し出してカレンダーを埋め、足りなかったら、自分で「処世訓」をつくった。
そうして出来上がったのが「貧しきリチャードの暦」というカレンダーである。
これが大当たりして、フランクリンは有名になり、金持ちにもなる。
また「貧しきリチャードの暦」はロングセラーにもなって、ことわざを入れ替えながら、これ以後25年間もの間出版されつづけたのである。
これだけ売れたのは、「格言」を入れる工夫だけではなくて、フランクリンの作った「処世訓」に、当時の人々の心を動かすだけの「甚味」があったからであろう。
また「貧しきリチャード」とわざわざ断ったのは、こうした格言を生かせば、どんなに貧しくても成功できるよという励ましの意図もあったに違いない。
さて、フランクリンが「独学」で学んだことの一つに科学がある。
フランクリンは持ち前の好奇心で「雷の研究」を行った。その際、彼は「雷は電気ではないか」という仮説を立てて、嵐の日に凧を飛ばした。
すると、見事に凧に雷が落ち、凧には電線がつけてあって、フランクリンの足下に置かれた蓄電池に、見事に電気が伝わってきたのある。
この研究でフランクリンは、電気科学しての名声を得るのだが、凧を持っていたフランクリンが「感電」しなかったのは好運という他はない。
またフランクリンは、燃焼効率の良い彼の名がつくストーブの発明をはじめ、グラスハーモニカ、ロッキングチェアー、遠近両用眼鏡などまで発明している。

フランクリンの精神は、「勤勉性」などの面でピューリタニズムと重なりつつも、信仰よりも「功利主義」的な思考法が占めていたようだ。
その表れの代表が彼の掲げた「13の徳目」で、それが身に着くまで絶えず「自己改善」をはかった。
それは、身につけることさえできれば、誰もが成功できるというものを選んでいったと思われる。
そのフランクリンの「13徳目」とは、次のとうりである。
「節制」「沈黙」「規律」「決断」「節約」「勤勉」「誠実」「正義」「中庸」「清潔」 「平静」「純潔」「謙譲」。
フランクリンはこれらの徳を「習慣化」するために、計画表(進捗表)まで作って無理なく一つ一つ順番に取り組んでいったという。
それは、前の徳の習得が次の徳の習得が容易になるからだそうだ。
実は、フランクリンはこれらの「徳目」ひとつひとつにコメントを書いているのだが、12番目の「純潔」を読むと、まるで貝原益軒の「養生訓」を思わせる内容であった。
また最後の13番目の徳目「謙譲」については、あるクェーカー教徒の影響でこれを身に着けようと思い立ち、この「徳」が自分の成功に大いにつながったと「自伝」に書いている。
「かような態度(謙譲)は生まれながらの性質ではなく、初めは多少無理をして装ったものだが、 しまいには自然になり完全な習慣となったら、この50年間、私の口から独断的な言葉が出るのを聞いた者は恐らくひとりもあるまい。私が新しい制度を提案したり、古い制度がの改革を提案したりする場合、私の意見が同胞市民の間で早くから重要視されたのも、種々の公の会議の議員となって相当勢力を振るったのも、もっぱらこの習慣のおかげだと思う」(「フランクリン自伝」)。
さて、「十三徳目」はキリスト教における信仰(聖霊)の実つまり「愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、信仰、温和、自制」とも重なるが、フランクリンの「信仰」の立ち位置は、どういうものだったであろうか。
例えば、キリスト教でいう「安息日を聖日として守るべし」や「公式の礼拝には規則正しく出席すべし」は、彼の実用主義の立場からは、重要視されなかった。
フランクリンは、自分用の簡易な儀式文(祈祷形式)を作ってそれを使い、もはや公式の集会には出席しなかった。
つまり 実用に供しない信仰までは求めなかったといえる。ここにも、彼が本質的にプラグマチストであったことがよく表れている。
ちなみに、「神は自ら救うものを救う」というのはフランクリンの処世訓であり、ピューリタン的土壌に育った「セルフメイドマン」の典型的人物だったようだ。

アメリカ映画には、古き良き時代への回帰願望を秘めたものがある。
例えば「101匹わんちゃん大行進」の原題は「ワン オー ワン」だが、101という数字はアメリカ人にとって特別な数字である。
それは、メイフラワー号でアメリカに移住すべく最初にやってきたピューリタンの数が101人であったからだ。
また、「強いアメリカ」への回帰をテーマにしたシルベスター・スタローンの映画「ロッキー」も、フランクリンゆかりの場所、つまり「アメリカ独立宣言」がなされたフィラデルフィアの風景をバックに撮影されている。
「ロッキーのテーマ」にのって主人公が街中を走るシーンは、さぞやアメリカ人の郷愁をさそうシーンであったことであろう。
ちなみに、モナコ王妃となったグレース・ケリーもフィラデルフィア出身だが、あまりにアメリカ的すぎて、夫との諍いが絶えなかったようだ。
一方で、「強いアメリカ」への憧憬よりも、「アメリカの真実」を正面から捉えた映画も多い。
それらは、ある意味「アメリカンドリーム」の欺瞞性を暴いたような内容となっている。
アメリカミュージカルの傑作「ウエスト・サイド物語」(1957年初演/1961年に映画化)もそういう物語のひとつだ。
このミュージカルは、意外にもシェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」に着想を得たものだという。
ポーランド系アメリカ人とプエルトリコ系アメリカ人との2つの異なる少年非行グループの抗争と、それのの犠牲となる若い男女の2日間の恋と死を描き、アメリカ社会の移民問題、人種問題という当時の社会状況を抉った。
さて、アメリカでエリート層を示す言葉に「WASP」という言葉がある。
アメリカでの白人のエリート支配層を指す語として造られ、当初は彼らとライバルにあったアイルランド系カトリックにより使われていたという。
イングランド系プロテスタントのアメリカ建国以来のエリート達が現在のアメリカ合衆国においても支配的な地位を占め続けているようだ。
アメリカ大統領も、例外として思いつくケネディ大統領とオバマ大統領以外、ほぼ全員WASPであるといってよい。
さて、「アメリカンドリーム」の欺瞞性を突いた物語といえば、フィッチジェラルドの名作「グレート・キャツビー」もそれにあたるかもしれない。
ここで、ベンジャミン・フランクリンの「影」としてキャツビーを捉えるのも面白い。
フランクリンの人生を面白いという人もいるが、反面で自己改善の進捗表を作って生きるなんてつまらないし、 また結果から行為を判断するという考え方も、ある意味でアメリカ文化の「皮相さ」を物語っているという見方もできる。
実際、プラグマチズムでいうように、「結果がすべて」なら「金がすべて」ともなりかねないし、手段を選ばずということになりかねない。
キャツビーもまた、アメリカンドリームを求めたセルフメイドマンの生き方をした人物である。
キャツビーは、ノースダコタの貧しい農場から身をおこしたたたぎあげの人物だった。
実際、キャツビーの「人物造型」に際して、作家の意識の中には、ベンジャミン・フランクリンという歴史上の人物がいたのではなかろうか。
ただフランクリンが住む地域や国のために自己改善を行ったのとは違い、キャツビーは自分の出生を恥じて好きな女性の愛を手にいれるためにそうしたのであった。
キャツビーは、まばゆく神秘的な女性デイジーの愛に相応しい人間になろうと努力し、成功した暁には彼女をパーティに招く夢を描き続けた。
その一方、キャツビーの華麗なる姿の裏側には、違法行為によって蓄財を行ったことが描かれている。
また、デイジーはすでに人妻であった。
キャツビーはあくまで自己抑制的なフランクリンとは対照的に、ある部分で欲望に忠実な主人公として描かれ、彼が描いた夢は「悪夢」となり死という結末に至る。
結局、金という成功に裏切られたという点で、キャツビーは「裏フランクリン」とも捉えられるかもしれない。
さて「フランクリン自伝」を読んでいて笑った箇所がある。
フランクリンが、ボストンからフィラデルフィアに向かう船の中、水夫たちが釣った鱈をたべ始めた。
若きフランクリンは当時肉食をすまいときめていた。
なぜなら魚は、これを殺しても当然だと思える害を人間にはくわえていないからという理由からだ。
そこで魚を釣る行為は、いわれなき殺傷と考え、当時肉の入らないメニューを40種ほど考えてそれに従って作らせていたほどだった。
しかし鱈を前にしたフランクリンが、主義と欲望を行き来する間に、魚のはらわたを開いたら小さな魚が出てきた。
それを見たフランクリンは、お前たちが互いにくっているならば、われわれが魚を食っていけないわけはあるまいと、まるで芥川龍之介の「羅生門」の主人公のような気分になる。
そこでフランクリンは鱈をタラふく食べるのだが、彼は「理性ある人間はまことに都合のいいものである。したいと思うことはなんだって理由を見つけることも、理屈をつけることもできる」と自省している。
このエピソードはユーモアをもって語られるものの、なかなか含蓄のあるエピソードである。
独立戦争後、植民地人口の3分の1はアフリカから輸入された黒人奴隷であった。
その中には進んで独立戦争に参加するものもいた。
すべての人の平等をうたった「独立宣言」に、将来の解放を期待したのであった。
ジェファソンの原案には、「奴隷制」をやめようという文言もあったが、この部分は「南部代表」の反対で削除され、独立後、アメリカ系黒人は再び奴隷としてプランテーションに連れ戻された。
この南部の代表的プランターがワシントンであったのだ。
ところで、フィラデルフィアには、1776年「アメリカ独立宣言」が読み上げられるに際して鳴った「自由の鐘」が、いまだに設置してある。
この鐘の重さは約776キロにもなる大きなもので、「自由を宣言する、全土と全民に」と刻まれている。
最初に鳴ってから70年後、「ワシントン生誕記念日」にヒビが入り、それ以来鳴らされなくなった。