名料亭に名女将

インド人に日本の「カレーライス」を食べさせたら、なかなかウマイが何という料理かと聞かれたという。
英語を話す日本人に外国人が、日本語は英語に似ているのに驚いたといった話を思い出す。
「まがいもの」が、元祖を凌ぐことはよくあること。
1928年にインド人亡命者を匿っていた新宿中村屋で本格的なインドカリーを売り出すがいっこうに普及せず、「カレーライス」の方は普及の兆しをみせていた。
1845年、薬種問屋であった今村弥兵衛は、漢方の生薬だったウコンを足がかりに国産の「カレ-粉」を作り始めた。
その問屋に奉公していた浦上靖介は、独立して「浦上商店」を創業して薬種を扱っていたが、「ホームカレー」という商品をつくっていた商店を吸収し、本格的なカレー研究に入った。
これが現在の「ハウス食品」に発展し、西城秀樹はCMで「♪ハウスバ-モントカレ~だよ~♪」と歌った。
現在の「エスビー食品」の創業者・山崎峯次郎は、「国産カレー粉作り」に決定打を放った。
山崎は試行錯誤の末に、カレー粉つくりの要諦である微妙な焙煎と熟成の方法に辿りつき、30種類のスパイスでできたヒット商品・通称「赤缶」が生まれる。
さらに、日英問題に発展した「食品偽装事件」が、カレーライスの大衆化を促すことになる。
これは、イギリスの会社C&B社のカレー粉に似せた安価なものが出回った事件で、それに抗議したC&Bの抗議により、日本の「洋酒偽造グループ」が摘発されて決着をみた。
この事件は、日本の「国産オリジナルカレー」の開発に拍車をかけ、しだいに国産モノが市場を占めていくようになる。
しかし国産のカレーライスを供するといっても、それは大都市圏の話であり国産カレーが全国的に普及し、一般家庭で食べられるまでにはいたらなかった。
そこでカレーライスの全国的普及にひと役買ったのは、意外にも「日本海軍」であった。
それは水兵の「軍隊食」として使われたからだが、日本海軍は本場のインド式ではなくインド植民地にしていたイギリス様式を真似た。
世界を股にかけていたイギリス人水平達は、航海の時シチューを食べたいと思っていたが、味付けに使う牛乳が長持ちしないためにシチューと同じ具材で、しかも日持ちのする「香辛料」を使った料理として「カレー」を考案した。
これが、イギリス海軍の「軍隊食」として定着していったのである。
なにしろ明治期の日本海軍は、イギリス海軍を範として成長していたので、栄養バランスが良く調理が簡単なカレーに目をつけ艦艇での食事に取り入れたのである。
日本人水兵の口にあうようにアレンジされ、その様式が日本海軍の軍隊食として使われていった。
そして日本海軍の「軍隊食」となったカレーライスは、故郷にもどった兵士達が家庭に持ち込むことによって全国に広がったのである。
この関係は、豊臣秀吉の時代に、朝鮮出兵するために肥前名護屋に集められた武士たちが、簡単で栄養価の高い「がめ煮」を考案し、帰郷して「がめ煮」が全国に普及したのと似ている。
さて昭和の時代、日本の海軍は世界第三位の規模をもつまでになるが、多くの艦船を擁した地方司令部「鎮守府」は、一般の港とはまったく違った立地に大規模な軍港を持っていた。
一般的な人の流れからは隔絶した軍港には、水平達が上陸して骨を休め楽しむためのさまざまな施設ができ、特殊な文化が発達した。
「海軍料亭」とよばれる存在も、こうした軍港にともなう特殊文化の一形態だったといえる。
横須賀で有名だった海軍料亭といえば、"パイン"と呼ばれた「小松」と、"フィッシュ"と呼ばれた「魚勝」があった。なにしろ戦前の海軍は、前述のようにイギリス海軍をお手本にしていたので、英語っぽい隠語を作る癖があったようだ。
「小松」は1885年の開業当初、白砂青松の海岸で海水浴を楽しんだ後に、入浴と食事を楽しむ「割烹旅館」にすぎなかった。
しかし、日本が海軍力の増強に努め、日清・日露戦争に勝利し、横須賀鎮守府の機能が拡大していく過程で、海軍軍人相手の「海軍料亭」となっていった。
第二次世界大戦時には、第四艦隊司令長官の井上成美の要請により、1942年から44年にかけて、太平洋上のトラック諸島に支店である「トラック・パイン」が開設された。
1945年、終戦直後、「小松」はいったん閉店され、横須賀に進駐した連合軍の指定料理店となり、横須賀に進駐した主に米兵相手の飲食業を営むことなった。
1952年独立後は、「小松」は横須賀海軍施設の米海軍軍人、そして海上自衛隊、旧海軍関係者らに広く利用されるようになった。
この料亭の創業者は東京・小石川関口水道町に生まれた山本悦である。そして山本が経営する料亭に「小松」の名を与えたのは、ナント小松宮彰仁親王であった。
山本悦は近所に住む友人に誘われ浦賀へ向かい、そこで「吉川屋」という旅籠料理店に住み込みで働くようになった。
天然の良港である浦賀は江戸時代から港町として栄えており、創建間もない日本海軍の根拠地の一つとなっていた。
海軍関係の宴席の多くは吉川屋で行なわれ、山本悦は海軍関係者との人脈を築いていくことになる。
そんななか1875年、山田顕義、山縣有朋、西郷従道らとともに、小松宮、北白川宮、伏見宮、山階宮の4人の皇族が、浦賀沖で行なわれた「水雷発射試験」の視察のために浦賀にやってきたのである。
その晩の宴席での余興で、山本悦は4人の皇族らと指相撲して、当時としては大柄の女性であった山本悦は4人の皇族たちを打ち負かしたのである。
感心した小松宮が、「お前の立派な体にあやかりたい、そのかわりにわしがお前に名前を付けてあげよう」と言い出した。
山本悦は山本小松では畏れ多いと、片仮名の山本コマツと改名の手続きを行なった。これが後に料亭「小松」の名の由来となったのである。
その後、海軍関係者から山本コマツは「これから横須賀は日本一の軍港になる、ぜひ横須賀で開業しては」と勧められたため、独立を決意し、1885年20年近く働いてきた吉川屋から独立し、横須賀の田戸海岸に割烹旅館「小松」を開業した。
というわけで「小松」が、海軍関係者によって繁盛するようになるのは自然の成り行きであった。
そして「小松」は、ある有力な政治家のスジとも縁をもつことになる。
この増築時に鳶の親方として活躍したのが、後に衆議院議員、逓信大臣となる「いれずみ大臣」の異名をもつ小泉又次郎であった。この人物の孫こそ総理大臣となる小泉純一郎である。
純一郎は若い頃、ある記者から「おじいさんから政治の薫陶は受けましたか」と尋ねられ、「いや花札しか教わらなかった」と答えている。「ほかには」と問われると、平然として「歌舞音曲だ」と言ったという。
さて、日露戦争中の1905年、「小松」は開業20周年を迎えるが、日露戦争に勝利すると、次々と横須賀に凱旋入港する艦船の乗組員による祝勝会が連日のように開かれ大繁盛した。
そして1906年には百畳敷の大広間が完成し、「小松」は文字通り全盛期を迎えたのである。
その後、田戸海岸の埋め立てや、第一次世界大戦後の恐慌の影響から1918年に一時期休業に追い込まれる。
しかし、多くの海軍軍人の「小松」の閉店を惜しむ声に押され、山本コマツは当時景色が良かった現在地「米が浜」に土地を購入し、1923年春頃から料亭「小松」の再建工事を開始した。
しかし建築中に関東大震災が発生するが、幸運にも米が浜に建設中の新店舗には地震の被害は無く、料亭「小松」は営業を再開したのである。
その間、百畳敷の大広間を避難所として開放するなどしている。
そして山本コマツの後を継いだのが山本夏枝である。
営業再開の翌年、山本コマツは当時満15歳であった大姪の呉東直枝を養女とした。
一生独身を通した山本コマツは、直枝を養女とする前に2度姪を「小松の後継者」としようとしたが、皮肉にも海軍軍人と結婚してしまった。
山本コマツにとってまさに三度目の正直であった。
直枝は期待に応え、平成に至るまで長きに渡って料亭「小松」を支えることになる。
第二次世界大戦開戦直後、第四艦隊司令長官である井上成美の要請で、山本夏枝は1942年7月、太平洋トラック諸島の夏島に「小松」の支店である「トラック・パイン」を開店することになった。
トラック・パインでは日本から50人ほどの芸者、料理人、髪結いなどを連れて行き、日本国内とあまり変わらぬサービスを提供したという。
しかし、トラック・パインは1944年3月30日に空襲に遭い、従業員に犠牲者が出たことにより閉店となった。
戦後まもなく「小松」を訪れた井上成美は、トラック・パインの開店を依頼したことについて、山本直枝に手をついて詫びたと伝えられている。
これより先、戦況の悪化した1943年4月、「小松」の創始者である山本コマツは94歳の天寿を全うした。
戦後、「小松」は営業を再開し、アメリカ海軍士官らに受け入れられていった。
しかし、そこで問題となったのが「小松」の従業員に対する英語教育であった。
結局「小松」の従業員に対する英語教育は、終戦後横須賀市内の長井に隠棲していた井上成美に依頼することとなった。
井上は海軍がひとかたならぬ世話になった料亭「小松」からの依頼を快諾し、「小松」の従業員に対して手作りの教材を用い、料亭で役立つ実用的な英会話を教えている。
横須賀は戦後、米海軍ばかりではなく海上自衛隊の重要な根拠地となり、しかも「旧海軍の伝統を引き継いでいる。
その横須賀にあって「小松」は、大正、昭和初期の近代和風建築を今に伝えるとともに、東郷平八郎、山本五十六、米内光政らの書など、多くの日本海軍関係の資料を保有し、料亭「小松」は近代日本海軍の歴史を伝える貴重な存在であった。
実は、司馬遼太郎や阿川弘之といった作家たちが日本海軍の提督たちを描くときは、この料亭「小松」から取材したもの多いという。
「小松」は、旧日本海軍の「海軍料亭」ばかりか、日本近代史の舞台の一つである。
それ故に2016年5月16日火災により全焼し、多くの史料が失われたことは、この国の「遺産」が失われたことを意味する。

歴史に残る料亭としていまだ健在なのが、大阪北浜にある1875年の大阪会議の舞台となった「花外楼」である。
また京都宇治の料亭「花屋敷」は、日本初の普通選挙に当選し、政府に反抗し暗殺された「山宣」こと山本宣一の実家「花やしき浮舟園花屋敷」などがある。
しかし、「歴史の舞台」となった料亭といえば、下関の「春帆楼」以上の存在はないであろう。
そして、春帆楼が歴史の舞台を提供するに至る経過は、実に興味深いものがある。その起源は病院だったのだから。
江戸時代の末、豊中中津(大分県)奥平藩に藤野玄洋という御殿医がいた。蘭医であった藤野は、自由な研究をするために御殿医を辞し、下関の阿弥陀寺町(現在地)で医院を開いた。
その地は、晋作が組織した奇兵隊の本拠地・阿弥陀寺(現在の赤間神宮)の跡地であった。
藤野玄洋がこの地を選んだのは、隣接していた本陣・伊藤家の招きによるといわれている。
当時の伊藤家の当主・伊藤九三は、坂本龍馬を物心両面で支援したことでも知られる豪商である。
玄洋の専門は眼科であったが、長期療養患者のために薬湯風呂や娯楽休憩棟を造り、一献を所望する患者には妻・みちが手料理を供した。
この辺りは、福岡県糟屋郡須恵町にいまだに残る「眼病宿場」とよく似ている。田原眼科など名医がいるという評判ができると、長期療養のためにそこに、宿場町ができるのである。
さて藤野玄洋は、1877年「神仏分離令」によって廃寺となった阿弥陀寺の方丈跡を買い取り、新たに「月波楼医院」を開業する。
そして、玄洋没後、妻みちが伊藤博文の勧めでこの医院を改装し、「割烹旅館」を開く。
当時、「馬関」と呼ばれていた下関は、北前航路の要衝として「西の浪速」と称されるほどの活況を呈していた。
下関は、討幕をめざす長州藩の拠点でもあった。
そして自ら、奇兵隊や諸隊の隊医(軍医)として長州戦争に参加した玄洋の人柄に惹かた維新の志士たちが頻繁に出入りするようになる。
薩摩が海軍なら、陸軍は長州。その関係でいえば、春帆楼は「陸軍料亭」か。
実は「春帆楼」という屋号は、伊藤博文が春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様から名付けたものだ。
1887年の暮れ、当時初代内閣総理大臣を務めていた伊藤博文公が「春帆楼」に宿泊した折、海は大時化でまったく漁がなく、困り果てた「みち」は禁制だったフグを御膳に出した。
豊臣秀吉以来のフグの禁食令は当時まで引き継がれており、法律にも「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていた。
何かあれば、当然打ち首たが、「禁令」は表向きで、下関の庶民は昔からフグを食してたのである。
実は伊藤博文もその味を知っていたのだが、何知らぬ顔をしてフグを食し、その美味を賞賛したという。
そして伊藤は、1888年に、当時の山口県令に命じて禁を解かせ、春帆楼は「フグ料理公許第一号」」として世に知られるようになる。
明治維新後、急速に近代化を進めた日本は朝鮮半島の権益を巡って清国(中国)と対立を深め、1894年8月、甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに日清戦争が勃発した。
日本軍が平壌、黄海で勝利し、遼東半島を制圧した戦況を受け、清国は講和を打診してきた。
会議の開催地は、長崎、広島などが候補に挙がったが、開催一週間前に伊藤博文が「下関の春帆楼で」と発表した。
1895年3月19日、総勢百人を超える清国の使節団を乗せた船が亀山八幡宮沖に到着した。
日本全権弁理大臣は伊藤博文と陸奥宗光、清国講和全権大臣李鴻章を主軸とする両国代表十一名が臨んだ。
講和会議は、当時の春帆楼の二階大広間を会場に繰り返し開かれ、4月17日、「日清講和条約(下関条約)」が締結されたのである。
下関が講和会議の地に選ばれたのは、伊藤の地元であり馴染みであったことが理由の一つだが、それ以上のものがあった。
下関こそが日本の「軍事力」を誇示するために最適だった場所だったからだ。
会議の終盤、増派された日本の軍艦が遼東半島をめざして関門海峡を次々と通過する光景は清国使節団に「脅威」を与え、交渉は日本のペースで展開したといわれている。
1937年6月、春帆楼の隣接地に「日清講和記念館」が開館した。
講和会議が行われた部屋を当時の調度そのままに再現し、伊藤博文や李鴻章の遺墨など、講和会議に関する多くの資料を展示している。
1945年の戦災で全焼した「春帆楼」は、戦後まもなく復興している。
それにしても、山本コマツの海軍料亭「小松」といい、藤野みちの「春帆楼」といい、名料亭には名女将があって歴史の舞台を用意した。