価格は人を選ばず

市場経済において、ヒトツの商品につきヒトツの価格が成立する。つまり、「一物一価」の法則がなりたっているのだが、これは企業にとってあまりおもしろい話ではない。
理由は単純、価格が「平等」だからだ。
消費者の中には、ある商品を今より1000円、2000円高くたって買う人がいるというのに、「全員均一」の価格でしか売れないからだ。
もし、企業がもっと高く払ってもいい人に高く売ることができれば、企業はさらに利益をあげることができる。
ひるがえっていえば、消費者が商品を購入した時点で、各個人において「価格<商品の効用」が成り立っているハズ。価格を各人の効用と同じになるギリギリの水準にまで上げて、消費者は少し躊躇しながらもヤッパリ買ってしまう状態が望ましい。
その方が、企業は消費者からより多くの利益を吸い上げられるのだ。
だがこういう、企業がひとりひとりに違う価格で買わせる「差別価格」の設定という芸当は、現実にはできそうもない。
たくさんの商品が並んでいて、人々がどこでも自由に買える今日の時代、わざわざ高いものを選んで買うような消費者はまずいない。
どうせならば、もっと安い品物がおいてある店を探してでも買おうとするからだ。
すると、安い方は価格あがり、高いほうは価格が下がり、結局は「一物一価」に収まるからだ。
仮に、企業が現実にそれをヤルには、他店の価格情報を遮断するか、ねらった客が他店に移動しないようにしなければならない。
そんなことは基本的人権にも反するゆえに、現代では表立った「差別価格」なんてものは存在しそうもない。
あえて、それに近似したものをさがせば、同じコーラが映画館とセブン・イレブンとは違うこと、あるいは同じビ-ルが福岡ドームとご近所の酒屋とでは異なることぐらいだ。
これは映画館とか福岡ドームとか、一旦入場してしまえば「外にでられない」という特殊条件を利用して、差別価格の設定が可能になっている。
しかしこれはやや特殊なので、もう少し一般的な「差別価格」の近似例はないだろうか。
例えば、「日常の消費者」と「旅行中の消費者」とを比べてみよう。
旅にて遊びに来ている人は、財布の紐がゆるやかなので、高いものでも買う傾向がつよい。
数年前に、博多駅の駅ビルが新装になった時、さっそく最上階のレストラン街にいき食事をしたが、値段が高すぎて、とても日常的に利用する気にはなれなかった。
では、その店がツブレかといえばが、あにはからんや繁盛している。
博多ステーションの階上レストラン街は「日常的」なお客をターゲットにしておらず、旅行者をターゲットにしているからだ。
つまり店は日常のケの客と、「旅人」というハレの客に差別価格を設定していることになる。
もちろん、旅行者といえども当地の「日常客」と同様に、安くてうまい店を探せばよさそうなものだが、旅先のことなので店の情報がない、仮に情報があっても、新幹線の時間が気になる。
時間の制限の中でスーツケースをひきずって歩くのはいやだし、食べるだけのために、タクシーなんて呼びたくない。
となると、少々値段が高くても、駅階上のレストランを利用するのが一番便利だということになる。
つまり、観光客は「部分的」に駅周辺から移動できない状況が生まれている。
かくして企業または店は、同じ品物をより高い値段で買わせることに成功するのである。
さて、学生時代に学んだことの基本は、ある商品の需要は、その商品の価格とその人のもつ所得(資源)によるというものだった。
しかし、上記の説明のとうり、消費は、店や品物の情報収集コストや移動費などを含む「取引費用」にも関係しているのだ。
アマゾンなどのネット販売が伸びるのは、この「取引費用」を安くしてくれるからに他ならない。こちらから店に出向く必要もなく、商品情報も店々をあるくことなくネット上で簡単に得ることができるからだ。

江戸時代までは「差別価格」がむしろ一般的だった。
大名に反物を売っていた呉服商人は、大名に提示する価格と下級武士に提示する価格は、同じ商品でも異なっており、金持ちからは多くとり、貧しい者からはそれなりに取るという具合にしていた。
つまり、相手の懐具合に応じて「消費」を促すのである。
市場経済が進展するということは、商人と大名との間での個別の価格交渉といった「垣根」を崩していくということを意味する。
藩政と家政が「未分化」な藩経済で、思い浮かべるのは、現在日本には「法人円」と「個人円」が流通しているといことだ。
例えば交際費でお客を接待する場合、銀座の高級クラブで御1人様10万円などというのはザラである。
個人で払うなら、ソウソウ1万円を越えられない。
つまり日本には「法人円」と「個人円」が流通し、その交換レートは銀座なら「1対10」くらいになるのではなかろうか。
銀座の高級紳士服店の1着100万円もする服が並んでおり、こうした店が一般客を相手にしていない証拠に、日曜や祝日は「休み」なのである。
このあたりのバーや高級料亭も、会社のカネで支払う人ツマリ「法人円」を使う人間を相手にしており、一流コックや板前はほとんど、そうした店に流れている。
会社の交際費は経費となるので、こういう高級なクラブでの飲食や、高級紳士服を「贈答用」に購入することが、会社の「税金対策」になっていることはいうまでもない。高くなければ困るのだ。
以前、ペンネ-ム安土敏という中堅スーパーの社長が新聞に書いていたが、社長を含む日本のサラリーマンが「交際費」で使う時と、個人の生活で使う時とでは、「金銭感覚」が3倍から5倍も違うという。
というわけで、同じサ-ビスや商品内容でも、「法人向け」と「個人向け」の「差別価格」が存在しているのである。
ちなみに、安土敏の「小説スーパーマーケット」を元に、伊丹十三は「スーパーの女」という映画をつくっている。
ところで、一流料亭で日々を過ごしてきた社長達は、存分に「法人円」を交際費として使えるという立場にあり、そのポストを去れば自らの生活を「個人円」で過ごさなければならない。
引退してしまったら最後、高級な肉も食べられず、高い酒も呑めず、寂しい。会社でのオイシイ生活が懐かしく思えてくる。
そうした理由で、「法人円」に味をしめた社長が、引退後も会長や名誉会長などのポストに執着するというのも、一面の真実ではあるまいか。
価格は人を選ばない。金持ちが欲しいというものは、おさつの「投票」によってますます値上がりし、貧乏人には手がとどかなくなるのだ。保険のきかない「高額医療」などは、一般には手が届かないように。
通常、車は「一家に一台」だが、裕福な人は2台、3台と保有しようとする。そのことで車の価格は上がり、 「価格は人を選ばず」なので、貧乏人は金持ちが吊り上げた価格で車を買っていることになる。
こういう視点を、富裕税の根拠にしてもよい。
加えて、オカネや資産がたくさんあるということは、その分、国防や警察の恩恵に与っている「度合い」が高いのだから、国がお世話している分「富裕層」からはシッカリと税金を取るべきなのだ。

今「一物一価」に反する「差別価格」が大きな社会問題化している。労働基準法にある「同一労働、同一賃金」である。
経済学では、完全競争市場であれば、「一物一価」が成り立つ。つまり、同じ労働には同じ賃金が支払われると考える。
「同一労働」であるにもかかわらず「同一賃金」になっていないとすれば、それは雇用の流動性(移動性)がないためである。
もし流動性が保証されていれば、労働者は自分の労働が正当に評価されていないと思えば、より高い賃金を支払ってくれる職場に転職をすれば良いはずである。
労働者に去られた職場は、賃金を引き上げて労働者を確保しようとするにちがいない。
市場経済メカニズムが十分に機能しているのであれば、そうした裁定を通じて、やがて「同一労働同一賃金」、つまり「一物一価」が実現されるはずである。
さて今問題なのは、同じ仕事をしているのに、正規と非正規でなんでこうも賃金の「開き」があるのかといところだ。
賃金の「開き」が正当かどうかは別として、正規の労働と、非正規の労働を「同一」であるとは、そう簡単に判断することはできないのだ。
正規労働者は、「職務」を特定されて採用されているわけではなく、「会社の一員」として採用されている。
いったん正規労働者として就職をすると、上司の広範にわたる業務命令に従うことが義務付けられる。
勤務時間外でも残業で長時間働き、頻繁な転勤も受け入れるのが一般的だ。
同じ職場にいながら様々な仕事をやらされるし、配置転換によってそれまでとは全く異なる仕事に従事することもある。
つまり、職務内容の曖昧さに伴うこのような様々な負担を負わなければならない。
そこで「年齢が高くなれば、経験も増え、仕事能力も上がるだろう」というように経験知がものをいう。この経験知を土台とした「職能給」が採用されている。
この仕事能力とは、トータルの仕事能力を含んでおり、「職務」で分けて考えることができない。
正規労働者が様々な職場を経験したり、企業内訓練を受けたりしながら、次第に身に着けていく「企業特殊的な技能」を賃金に反映させているといってよい。
そして「職能」は同じ組織に長くいた方が蓄積されるので、その結果生まれた「年功序列型」の賃金体系は労働者の移動を困難にし、移動なきところに「差別価格」が生じることは、消費者にとって映画館におけるコーラが高いことに対応している。
日本では、正規雇用では「職能給」が多い一方、非正規雇用では「職務給」が採用されている。
結局、正規労働者が受け取る賃金は、「職能資格」に対応している。したがって、「職務」に対応している非正社員の賃金と直接比較することはできない。
こうした違いがあるにもかかわらず、「同一賃金」の適用を強行しようとすると、必ず雇い入れ側と労働者側で見方が分かれ、それに決着をつけるために、行政や司法の判断が入ることが必至となる。
しかし、行政や司法の判断に基づいて実現されるような賃金体系も、実際は本当に「同一労働同一賃金」にふさわしいものかどうかも、市場経済メカニズムのテストにさらしてみないと分からない。
現状におけるこうした難しい問題があるにも関わらず、もし「同一労働・同一賃金」を実現する方法があるとすれば、それは、「転職市場」の拡大も含めて、「労働の流動性」を高める他はない。
しかし、労働の流動性を高めるためには、日本の賃金体系を各企業特有の「職能給」から、より普遍的な「職務給」に変えることを前提とする。
これは、日本的雇用慣行である「終身雇用/年功序列賃金体系」を完全につき崩すことにほかならない。
さて日本で「非正規雇用」が問題化しているのは、正規労働と非正規労働の「差別価格」(=差別賃金)ばかりではなく、 景気変動の調整役として「非正規雇用」を活用することに対しである。これが正社員化の要求の原因となっている。
そこで、先の国会で成立した議員立法の「同一労働同一賃金推進法」は、あくまでも「正社員」の働き方を基本として、それとの「均等待遇」を目指しているようだ。しかし、そんなこと本当にできるのか。
かつて、アメリカの自動車王ヘンリー・フォードは、労働者の待遇改善に努めたことで有名で、当時の平均よりも2倍も高い5ドルもの日給を払った。
このおかげで、労働者もがんばれば車が買えるということで、フォードの車はますます売れた。
安倍首相の企業に対する「賃上げ要請」なども、この「好循環」を狙ってのことだろうが、この労働者の待遇改善は、フォードシステムによる劇的な生産性の向上があったから可能となったのである。
経済が縮小する少子化の時代に、グローバルな価格競争にさらさている現在の日本で、政府が企業に「正社員化」を命令するならば、企業は景気変動に対応するために、雇用者数を減らすであろう。
それは結局、新たな失業の原因となるのではないか。
正規と非正規の大きな経済格差は「是正」すべきだが、是正の方向を正規に引き寄せるか、非正規に引き寄せるかで、まったく違いがでてくる。
例えばオランダでは、「パートタイム労働者」の割合が先進国の中でも突出して高く、パートタイム労働者とフルタイム労働者の「均等待遇」が法的に整備されているだけでなく実際にも確保されており、パートタイム労働はさまざまな職種や業種に広がっている。
そして、2000年の労働時間調整法により、時間当たり賃金を「維持したまま」でフルタイムからパートタイムへ、あるいはパートタイムからフルタイムへと転換することもできるようになっており、労働時間を選択する自由度が極めて高い。
人々は、子育て期に労働時間を短縮したり、子どもの成長に合わせて労働時間を延長したりすることができる。
さらに、労働時間の変更には、その理由を問われず、利用目的の制限はないため、単身者や子育てを終えた男女も活用している。
このように、オランダでは、一時点でみた場合、長時間労働者が少なく、仕事と出産・育児の両立が可能だということに加え、ライフ・ステージに応じた働き方を調整しやすく、生涯においてWLB(ワーク・ライフ・バランス)がとりやすい社会を形成している。
オランダでは、男女の働き方に違いがあってもよいという考え方が一般に広く認められており、そうした考え方に基づいて制度が設計されている。
ただし、このことは職場において男女を異なる取り扱いをするという意味ではなく、個人の希望を尊重しようとするものである。
WLBの実現については、労働者がライフ・ステージの変化に応じて、自ら労働時間を選択する自由度を高め、パートタイム労働もひとつの標準的働き方とすることで、取り組んでいる。
そのおかげで、オランダでは、他のヨーロッパの主要国に比べて育児休業中の所得保障や保育サービスなどの公的支出も少ない。
最近のオランダでは、労働時間の柔軟性に加え、テレワークの推進などにより就業場所の柔軟性を高めることで、これまで以上に柔軟な働き方を実現しようとしている。
この背景には、交通混雑が深刻化していること、オフィス費用が高いといった要因があるが、加えて、オランダが「パートタイム社会」であることもまた重要な要因となっている。
ともあれ、企業内の賃金体系の見直しは、「労使の合意」に基づくことが基本であり、人それぞれが自由にそれらを選択できる環境を整備することが、政府の役割ではあるまいか。
例えば、正社員の労働時間に上限を設け、同時にパートとの格差を禁じ、処遇を引き上げるなどの策である。
家族の形態が多様化し、それに応じて労働の形態も多様化する時代である。
責任が少なくいつでも会社を辞められる職場を望む人も多いであろう。
政府が「一律に」正社員化を促進しようなどをすれば、かえって規制を増やし「働きにくい」職場が増えるのではないか。