「象徴」としての務め

平成天皇が「生前退位」の意向示されたのは今から5年ほど前だという。それは、ちょうど東北大震災のころだ。
平成天皇の時代にはそれ以前に、阪神神戸大震災にもあったし、島原の普賢岳噴火も、そして熊本の地震。日々、国民の安きと幸せを祈る日本国の「祭司長」としては、心やすからぬことであろう。
天皇が「象徴」としての役割を果たせなくなったということの意味を、高齢や多忙による「負担の大きさ」などという次元でとらえるべきではない。
それだけならば、昨年過密スケジュールをおして、自ら希望して南洋パラオに「追悼の旅」をされることなどなされなかったであろう。
夥しい人々の死をまえに、自分が「象徴」としての務めの重さを感じられたが故の「追悼の旅」ではなかったか。さらには南海トラフ地震勃発への懸念が天皇をパラオに向かわせたのではないか。
その本心を、明かすこともできない立場だし、現代において「転変地異」と天皇を結びつける人はいない。
さて、誰かが何かの「象徴」として生きるという「務め」を果たすということは、歴史上いくらでも見出せるが、その「役目」は並大抵の精神力ではつとまらない。
例えば、ナポレオンとの「トラファルガーの海戦」に臨んだイギリスのネルソン提督の行動はそれにあたるだろう。
ネルソン提督は火や弾が飛び交う激戦の只中にあっても甲板に立ち続けた。
それは、ナポレオン侵攻の「砦」をシンボライズするかのようであった。その姿によってイギリス海軍は振るいたった。
ネルソン提督は、12歳で海軍に入隊。20歳で大佐となり艦長に昇進し、数々の海戦で勝利し勲章と爵位を得る。
そして幾多の戦闘のなかで、ネルソンはすでに右目の視力と右腕を失っていた。
そしてトラファルガーにおいてもフランス艦隊に突撃する時、ネルソン提督は敵の銃弾を浴びた。
すぐさま下層デッキに運ばれるが、3時間後に側近のハーディー大佐に、自らの「任務」を果たした満足の言葉を残し、「名誉の戦死」をとげた。
遺体は棺に納められ、腐敗せず本国に帰還できるように、ラム酒に漬けて運ばれた。
また、イギリスの博物館には、ネルソン提督の着ていた、銃弾により穴の開いた軍服が飾られている。
このトラファルガーの戦いを境にヨーロッパの覇者・ナポレオンの威光は失墜し、ナポレオン帝国の崩壊をもたらす。
いっぽう英国は海上覇権を確立、大英帝国として7つの海を制覇し、世界に君臨することになる。
ナポレンの英国本土侵略を阻止した英雄・ネルソン提督は、平民出身者としては初めての国葬が執り行われ、セント・ポール大聖堂に安置された。

古来より「まつりごと」という言葉で表わされるように、政治は祭事を伴っている。古い時代にさかのぼるほど、「祭事」つまり宗教的な色彩が濃い。
これは日本の天皇にもあてはまり、古代の天皇はシャーマンを統率する「祭司長」のような存在であった。
ただしその天皇も、時代によって様々な形で政治に組みこまれ利用もされてきた。
武士台頭以前の時代には公家支配の核とされ、近代にいたり軍閥跋扈の時代には「大元帥」として軍事の統帥者とされ、太平洋戦争時には人間ながら「現人神(あらひとがみ)」にさえされてしまった。
しかし、天皇の本質は「祭司長」であり、「象徴天皇制」下の今日においても、天皇の一番大切な仕事は宮中賢所において、国民と国家の繁栄と安寧のための「祭祀」を主宰をすることである。
さて、2013年は、伊勢神宮の「式年遷宮」の年にあたった。
伊勢神宮では、ご神体を納めた建物などを20年ごとにつくり替えていて、その都度「遷宮」を行っている。
それは、およそ1300年前の飛鳥時代に始まったとされ、現在までホボ絶えることなく続いている。
アノ時、「神様のひっこし」の場面を映すテレビの画面に見入ってしまっのは、或る「注目」したい部分があったからだ。
「日本の神事」と「古代イスラエルの祭祀」にはシバシバ共通点が見られるが、果たして「神様のひっこし」についても共通点を見出だせるかということだ。
古代イスラエルの人々は、エルサレムに神殿がつくられる前には「幕屋」でヤハウェの神を礼拝をしていた。
イスラエルは、出エジプト後、モーセに導かれてシナイの荒野をさすらいながら、各宿営地に「幕屋」を設営して神を拝したのである。
イスラエル人は、故郷カナーンの地を目指したが、時々に食糧がなくなり神が「朝露」のごとき食糧を降らせた。
そしてこの朝露のような食べ物が「マナ」とよばれ、イスラエル王の「三種の神器」のヒトツとなっている。
さらにモーセがシナイ山で「十戒」を与えられえ、その「十戒」が刻まれた二枚の石板も、「三種の神器」のひとつとなっている。
神がモーセに与えたものは、この「十戒」ばかりではなく、幕屋のいわゆる「設計図」をも示したのである。
それは「出エジプト」26章に詳しく書いてあるが、新約聖書には次のようにマトメテ書かれている。
「まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。また第二の幕の後ろに、別の場所があり、至聖所と呼ばれた。そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。」(ヘブル9章)
そしてヘブライ王国(古代イスラエル王国)のソロモン王の時代に「神殿」がつくられたため、「幕屋」の時代が終わるが、神殿の構造も基本的に「幕屋」と同一である。
要するに「幕屋」とは、神と人が出会う場所であり、「会見の幕屋」ともよばれていた。
荒野を流離うイスラエル人にとって「幕屋」は、キャンプする際の生活の中心となり、ここで祭司や大祭司が神に仕え「聖所」にて、「犠牲」の動物を屠ったのである。
そして幕屋に入ることを許されたのは「祭司」にかぎられ、本人および民の罪をあがなうための「いけにえ」(子羊など)を携えることを必要としたのである。
「幕屋の構造」に関して最も注目すべきことは、聖所から至聖所に入るとき「第二の幕」が降りており、「至聖所」は大祭司が「年1回だけ」入る場所である。
以上まとめると、イスラエルの「三種の神器」は、いずれも「出エジプト」という民族的苦難の中で生まれたモノだが、それらは「契約の箱」に入れられて「至聖所」にオサメられたのである。
さて、「幕屋」は古代イスラエルの宿営地の移動とともに移動したのだから、イスラエルでは「神様のひっこし」が時々行われたということである。
要するに幕屋は「移動式神殿」ということができるが、伊勢の「式年遷宮」に注目したのは、その「段取り」がイスラエルと似ているのではと推測したからである。
幸いにも、古代イスラエルの「神様のひっこし」の段取りは旧約聖書「民数記4章」に詳細に書いてある。
それによると、「幕屋移動」の際には祭司・アロン(モーセの叔父)の家系の祭司たちが「解体」して包み、幕屋に仕えるレビ族が「運搬」の任にあたった。
そしてレビ族には三つの氏族があり、それぞの「分担」が決まっていた。
まず祭司アロンの子たちがいって、隔ての垂幕を取りおろし、それをモッテ「契約の箱」をおおい、その上にじゅごんの皮のおおいを施し、またその上に総青色の布をうちかけ、環にサオをさし入れる。
また「供え」のパンの机の上には、青色の布をうちかけ、その上に皿・乳香を盛る杯・鉢および灌祭の瓶を並べる。
また、金の祭壇の上に青色の布をうちかけ、じゅごんの皮でこれをおおい、そのサオをさし入れる。
「宿営の進む時」には、アロンとその子たちとが、聖所と聖所の「すべての器」を覆うことを終ったならば、その後にコハテの子たちはソレを「運ぶ」ために入ってきた。
次にゲルションの子たちは、彼らは幕屋の幕、会見の幕屋およびそのおおいと、その上のじゅごんの皮のおおい、ならびに会見の幕屋の入口のとばりを運び、 また庭のあげばり、および幕屋と祭壇のまわりの庭の門の入口のとばりと、それに用いるすべての器を運んだ。
さらにメラリの子たちは、幕屋の枠、その横木、その柱、その座、 庭のまわりの柱、その座、その釘、そのひも、またそのすべての器、およびそれに用いるすべてのものを運んだ。
こうして「宿営の進む時」つまり「神様のひっこし」に関わる人数は8580人にも達したいう。
そして、この「担ぎ棒」を通して運ぶというやりかた、そして布で器具を覆って見えないようにしている仕方など、テレビ画面でみた伊勢神宮の「式年遷宮」と実によく似ていた。
さて、2013年10月5日夜、伊勢神宮で「遷御の儀(せんぎょのぎ)」が行われたが、これこそが「式年遷宮」のクライマックスで、「ご神体」を新しい社殿に移すものである。
「ご神体」を別の場所に移すといっても、ご神体を移す先の建物は、それまでの建物のスグ隣にある建物である。
ただ、器物を移動するに際して、伊勢の場合は「白布」で覆っていたが、イスラエルの場合は「青紫の布」で覆ったという違いがある。
伊勢神宮では、内宮と外宮の建物をはじめ、鳥居などを新しく造り替えることになっていて、その数は65棟に及ぶ。
樹齢およそ200年のヒノキ1万本が必要で、昔は周辺の森から切り出していたが、現在は長野県と岐阜県にまたがる山林で大半を「調達」している。
古い建物は遷宮が終わった後、解体されて更地になる。
解体した建物の柱などは、境内の鳥居に再利用されたり、各地の神社に配られる。
ところで、新約聖書は「幕屋」とは「天をかたどったものである」と驚くべきことを語っている。
そして「大祭司」の役目を次のように語っている。
「大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である」。
実はこれ、イエス・キリストの型であるのだ。
イエスが十字架上の刑死と同時に裂けた幕こそ、至聖所にいたる「第二の幕」なのである(マタイ27章)。

中国の思想に「易姓」というものがある。
「易姓」とは、ある姓の天子が別の姓の天子にとって代わられることで、革命とは、天命があらたまり代わって、王朝が交替すること。
つまり、中国には、天が命を下して徳のある者を天子となし人民を治めさせ、徳が衰えたりなくなって人民の信頼がなくなれば、天変地異などをおこしその天子や王朝を去らせ、新しい有徳者に王朝を開かせ人民を支配せるという政治思想である。
日本は、中国から多くの文化を取り入れたが、こうした「易姓」の思想をどれくらい影響をうけたのかわからない。
ただ、皇室の式典の中には「中国文化」の影響が意外と多い。
天皇家の「正月」といえば一般参賀が有名だが、天皇の正月は、「四方拝」という祭祀から始まる。
この「四方拝」において、「北斗七星」の属星の名を唱えることなど、中国・朝鮮の陰陽思想の強い影響を受けていることが分かる。
つまり、大陸からもたらされた「陰陽思想」は、日本で独自に発展し、「陰陽道(おんみょうどう)」となるが、「「四方拝」も大陸の影響を受けながら、日本で独自に発展した儀式なのである。
「四方拝」は、早朝5時30分、薄暗く、凍てつく寒さのなか、「黄櫨染御袍」(こうろぜんのごほう)という装束をお召しになった天皇陛下が、御所から約400m離れた宮中三殿の西側にある神嘉殿の前庭にお出ましになる。
かがり火に照らされた地面に畳を敷き、屏風に囲まれた場所で、南西に向かって伊勢神宮を遥拝し、次いで東南西北の順に四方の神々に拝礼される。
平安時代初期から続けられ、五穀豊穣や国民国家の安寧を祈願されている。
四方拝の後、天皇陛下は、宮中三殿の賢所、皇霊殿、神殿にそれぞれ祀られている天照大神や歴代天皇・皇后・皇族の御霊、八百万の神々を拝礼する「歳旦祭」(さいたんさい)に臨まれる。
この「四方拝」は、皇室において最も重要な祭祀の一つで、天皇が自ら行われることになっていて、そのため、「御代拝(ごだいはい)」つまり「代理人」が祭祀を代行することは認められていない。
このことにつき思い起こすのは、古代イスラエル軍がアマレク軍との間で繰り広げられた戦争での一場面である(出エジプト17章)。
勝利の鍵は献身的なモーセの両手を上げたとりなし祈りであった。モーセが両手を上げて祈る時イスラエルは優勢になり、やがて手が重くなり、下りる時にはアマレクが優勢になった。
そこで「とりなし祈り」の威力を知ったアロンとフルはモーセを石に座らせ左右から両手を支え、モーセは夕暮れまで両手を上げ続けることができ、このとりなしの祈りの力で御使いの軍隊も加勢し、イスラエルはアマレクを制覇して勝利することができたという出来事である。
この時、アロンや他のものが、とりなしの祈りをする「祭司」の代わりはきかないということだ。
それと同様に、「四方拝」において「御代拝」が認められないということは、天皇の体調が優れないことなどの場合、四方拝は中止となる。
つまり「祭司長」の仕事は代理(摂政)では務まらない。「天皇御自身」にしかできないということを意味する。

今の天皇は憲法上「象徴」という位置づけである。
天皇は本質的に宗教というよりも、宗教的しきたりも含めて日本の文化の根源的な資質を保証する「祭司」に他ならない。
個人的には天皇を「崇拝」することはないが、もしも天皇という存在がこの日本から消えたならば、日本人としての自分の心の内側を探る大きな「よりどころ」を失ってしまいそうである。
終戦直後の昭和天皇の「人間宣言」で神話との繋がりを否定する発言があったにせよ、また仮に現実の天皇の人間性がどうあろうとも、日本人の「古層」を最もよく担った存在として今に至るまで引き継がれて来ている存在こそが天皇に他ならない。
その意味で天皇は、「聖なるもの」である。「聖なる」といっても、純粋とはいいがたい実に多層的な存在でもある。
たとえば平安時代、神道の最高祭司は天皇なのだが、引退すると「法皇」になったりする。
全部が全部というわけではないが、後白河法皇などは源平の時代を巧みに生き抜いた最も有名は法王であるが、この「法皇」というのは仏門に入った天皇のことである。
つまり、神道の最高祭司が、仏教に帰依したということになるが、日本人はそれを何の「違和感」もなく受け入れられるのだ。
したがって天皇の存在は、日本人の「文化の多層性」をさえ象徴する存在なのだ。
日本でも、昭和天皇まで歴代の天皇のうち、約半数が生前に皇位を譲っている。
「天変地異」を含め様々な理由があろうが、基本的には祭司長としての「天皇」の代理は誰にも務まらないということと関係があるであろう。
したがって天皇の「象徴としての役目が充分務められなくなった」との言葉は、日本国の「祭司長」としての真摯な言葉ではなかろうか。