世代間分裂

先日、「食べ放題」の焼肉屋を訪れた帰り際、割引があるらしく「シニアですか」と聞かれた。
突然の質問に、はずみで「シニア難民です」と応えると、若い女性アルバイト店員はキョトン。
そこで、「シニア難民です」ともう一度念を押すと、 今度は店員の表情がコワバった。
「割引」の権利を失いたくないので、あわてて「すいません、シニアです」と言い直すと、ホットしたようにお釣りをくれた。
あんまり不謹慎なことはいうべきじゃないと自省しつつ、こういうジョークが空振りするのは、「世代間のギャップ」というよりも、場にふさわしくないジョークをいってしまったが故であろう。
とはいえ、今時の若者は「想定外」のことに弱いのかもしれない、と思ったりもした。
「想定外」の事態に対して「身動きしない」こともひとつの生き方ではある。ちょうど山道で迷ってしまった時のように。
さて、このたびの参議院選の選挙結果分析で、興味深いデータがひとつあった。
18歳は51・17%、19歳は39・66%で、18歳と19歳を合わせた投票率は45・45%だった。高校などで「主権者教育」を受ける機会の多い18歳と、大学生や社会人が多い19歳で、明白な差があることが明らかになった。
つまり「主権者教育」が功を奏したわけだが、実際に行ったのは、学校で「いい子」といわれる生徒が多かったのではなかろうか。
それが選挙結果に、どう反映したかはわからないが。
さて18歳という年齢で、興味がある商品といえばパソコン系やファッション、車やオーディオなどであろうが、人生で一番大きな「買い物」についてはなかなかピントこないにちがいない。
生涯に支払う金額から割り出すと、たいていの家庭で比重が大きいのは、税金と健康保険、雇用保険、介護保険、年金などの「各種保険料」などである。その上、固定資産税や自動車税、消費税、ガソリン税なども払っている。
つまり、政治に「委託」しているお金ということになる。
大きな「買い物」をするとき、中身を充分に吟味するのが普通だが、こういう「買い物」の大きさは「給料明細」をもらってハジメテ実感できるものなのだ。
したがって、18歳の「選挙」は、幾分ウォーム・アップのようなものだったかもしれない。

日本とは違い、世界では若者の「怒り」がめだつ。
アメリカで、クリントンと最後まで民主党の大統領候補者争いをしたサンダース氏の勢いはそれを物語っている。
サンダース氏は、全ての米国人がきちんと働けば普通の暮らしができる社会の実現を訴える。
前ノメリで熱く語る「おじいちゃん」の姿が、あれほど若者の圧倒的共感を集めたのは、実に意外なものだった。
その姿は、かつてケネディに若者が求めたようなカッコヨサとは無縁のものだったからだ。
つまり、アメリカの若年層は恰好なんかに構っていられなくなったということだ。
現在の米国では夫婦でフルタイムで働いても子供をまともに大学にも通わせられない、高額な医療が受けられない、老後の生活に困る人々が多くを占める。
サンダース氏は、グリーディ(強欲な)企業、政治エスタブリッシュメントが富を自分たちに集中させているからだと吠えた。
イスラエルのキブツで働いた体験をもつ苦労人のサンダース氏だけに、そうした社会の「怒り」を真摯に受け止めてくれる人物に映ったからに違いない。
また、欧州連合(EU)からの離脱を決めたイギリスだが、若者の75パーセントはEU残留を望んでおり、「高齢者がEU離脱を決めた」と抗議デモがおきている。
EU離脱で移民の入国は制限されるが、イギリス国民もEU内を自由に移動する権利が制限される可能性がある。
イギリスのような島国では、若者の活動や将来を保証してこそ、活力があがるのに。
イギリスの若者世代と比べ、高齢者の世代は、無料の教育や潤沢な年金、社会流動性、そのすべてを与えられてきた世代であった。
その高齢世代が、若者から未来を取り上げてしまっていることへの「怒り」なのだ。
ただし、若者の国民投票への「投票率の低さ」も、こうした結果の一因となっていることは否定できない。
歴史を振り返れば、「世代間の対立」は様々な形をとってきた。
一般的に、古きにしがみつく老年層と「変化」を望む若年層の対立があるからだ。
今年は「ビートルズ来日50周年」という年だが、当時の大臣は、聖地である日本武道館の使用をビートルズごとき不良に使われることに苦言を呈したし、親世代の多くは若者が「ビートルズ公演」を見に行くこと阻もうとさえした。
1960年代といえば、学生運動が広がり親の世代が築いたものを否定する過激な行動が世界で吹き荒れた時代だった。
68年のフランスの学生運動「5月革命」、テロを展開した「ドイツ赤軍」、カンボジアで虐殺を繰り広げた「クメール・ルージュ」などで、深層心理学でいうところの「子よる親殺し」を思わせるほど過激な側面を見せていた。
さて、最近少々意外に思う現象がある。それは「イスラム教スンニー派」の過激化ということである。
今までの常識では、「イスラム教過激派=イスラム教原理主義=シーア派」という図式である。
なぜ、イスラム教の教理において比較的ゆるやかなスンニー派が「過激化」するのか。
実は、スンニー派は教理に「寛容」だからこそ、教理に忠実でも何でもない若者を広く受け入れてきたからだ。
その結果、スンニー派が「過激化」しているように見えているのだが、その「実体」はイスラム教とは無縁のものにも思える。
先日、あるフランスの思想家が、最近のIS国に見られるイスラムの過激化を「世代間の対立」と捉えたユニークな論説を寄稿していた。
そうした若者の特徴をいうと、過激になる前から敬虔なイスラム教徒だった若者はいない。
布教にいそしんだ人、イスラム団体の慈善活動に従事した人も、皆無に近い。
まして学校での女生徒のスカーフ着用を巡る議論に声をあげた人なんていない。
彼らは礼拝もせず、逆に酒や麻薬におぼれ、イスラム教が禁じる食材も平気で口にする。
もっといえば、彼らの多くはまた、自動車盗やけんかや麻薬密売といった犯罪に手を染め、刑務所生活を経験している。
とはいっても、彼らの多くはイスラム教徒の家庭の出身であることに違いはない。
データによると、こうした若者の6割以上が移民2世。移民1世や3世はほとんどいない。
残りは、キリスト教家庭からの改宗者が多く、全体の約25%に達する。
フランスを例に取ると、移民1世が信じるイスラム教は、彼らの出身地である北アフリカの農村部に根付いた共同体の文化である。
しかし1世はそれを2世に引き継げない。フランスで育った2世たちは親たちの言語を話せず、フランス文化を吸収しているからだ。
したがって、今起きている現象は、「世代間闘争」なのだという。
IS国のテロには、「兄弟」ソロッテて関わるケースが非常に多いのも、その表れである。
若者たちは、自分たちを理解しない親に反抗し、自分探しの旅に出る。そこで、親のイスラム教文化とは異なるISの世界と出会う。
その一員となることによって、荒れた人生をリセットできると考える。
彼らが突然、しかも短期間の内にイスラムにノメリ込むのはそのためだ。
そして彼らが魅せられるのは、ISが振りまく「英雄」のイメージ。
イスラム教社会の代表かのように戦うことで、英雄として殉教できる。
そのような考えに染まった彼らは、生きることに関心を持たなくなり、死ぬことばかり考える。
自爆を伴うジハード(聖戦)やテロは、このような個人的な「ニヒリズム」に負っている。
移民出身のイスラム教徒系住民の層が、社会的に恵まれない層と往々にして一致するため、「格差社会」の拡がりが一番の原因のようにも見えるが、今起きている現象は、若者たちの個人的な意識に端を発している。
つまり、今の現象は「イスラム教徒の過激化」でなく、「過激派のイスラム化」ということだ。

安部政権は「女性が輝く社会」を掲げているのに、この点についてはほとんど進展をみせていない。
例えば、働く妻の収入が年間103万円までなら夫が納める所得税が減る「配偶者控除」や、サラリーマンの夫を持つ妻の年収が130万円未満なら年金保険料を徴収されないといった制度の改正について、具体的な進展はない。
また、日本の社会で「保育所・待機児童問題」が問題になりはじめて20年をへるが、いまだに問題が解消していない。それどころか深刻化を増している。
保育園に子どもを入れられなかった女性のブログに書かれた「日本死ね!」は、そうした「抑圧状況」をあらわしている。
そして、保育所や待機児童問題の一番の原因は、国の予算が高齢者の方に流れていっていて、子育て世代には予算が流れてこないからだ。
現在の日本の「財政状況」の中で、増税も新たな借金も現実的でないとしたら、どこかを削るほかはない。
社会保障費の中での「パイの奪い合い」となると、どうしても「政治力」のある高齢者の方に軍配があがる。
この場合の「高齢者の政治力」とは、有権者の数が多いうえに、投票率も高い。
また政治家自体、高齢者が多いばかりでなく、女性議員の少なさも関係している。
男性議員よりも、女性議員の方が「子育て」に関心が高いからだ。
また、保育士の資格を持っているのに保育士になろうとしない「潜在保育士」の多さは、保育士の待遇の悪さに原因があることは明白である。
保育所を増やすためには、この保育士の待遇改善が一番の前提となる。
ところが今年1月、「低所得の高齢者」に1人3万円を給付する補正予算が成立した。
この予算が約3600億なのだそうだが、保育士の給与を全産業並みにするために「月10万円」引き上げるのに必要な年間予算とほぼ同額という。
こういうことは、日本の社会保障の仕組みが、高度成長期の発想やモデルをいまだに引きずっているからだともいえる。
以前は、現役世代は会社が生活を保障していたため、生活上のリスクは「退職後」に集中していた。
社会保障も年金、高齢者医療、介護で足りていた。
しかし、多くの会社は「福利厚生面」でモハヤ頼れる存在ではなくなった。
派遣社員などの非正規の働き方が増え、正社員でも「ブラック企業」のように厳しい労働環境が生まれている。
結婚して家庭を持つ生き方が大多数ではなくなり、単身世帯が増えて、家族の面倒をほかの家族が見るということは期待できなくなった。
カイシャや家族といった「古い共同体」が揺らぎ、かつては高齢期に集中していた生活上のリスクが人生の「前半」に広く及ぶようになった。
今や人生の前半こそ「社会保障」が必要な時なのに、その転換がいまだに出来ていない。
日本は、税と社会保障という「負担と給付」のバランスが明らかに崩れ、ある論者は現世代は「孫名義」のクレジットカードで不足を払っているようなものだ表現した。
将来にツケを回し、未来を奪うオレオレならぬ「ワシワシ詐欺」だともいう。
「世代会計」という推計を使うと、今後生まれてくる子は1人当たり8800万円を返済しなければならないという。
この状態をある経済学者は「財政的幼児虐待」とまでよんでいる。
思い返せば、東北大震災の時、避難所にオニギリが届いた時、高齢者が「若い者から食べさせよ」と語ったという。
そんな気持ちをもつ高齢者は結構いるのに、政治というギラツク舞台を通ると、そんな気持ちは少しも伝わらない。
「高齢者医療」をはじめとして、シニア関連産業の存在が、そうした気持ちを邪魔をしているからかもしれない。

日本の「世代間」の不公平につき、若者が「怒る」という場面にあまり遭遇したことがない。
それよりも、状況に合わせて自ら「小さく生きよう」としているかにみえる。
実際、こういう生き方を表す言葉として「ミ二マリスト」、つまり「最小主義者」という言葉さえある。
モノの豊かさよりモノのなさを楽しむ主義、つまり「最小限主義者(ミニマリスト)」である。
「ミニマリスト」の体験談には、マットレスもテレビもバスタオルも手放したと書いてある。
ただし、彼らを「貧困層」とよぶのはあたらない。彼らは、出来るだけ身軽になって、あたかもモノのない空間を楽しんでいるかのようだからだ。
ひるがえっていえば、親の世代が築いた「消費社会」に背を向けているという点では、「世代間の亀裂」を物語っている。
我々世代の知る「消費社会」とは、人は持ち物で自分をアピールする社会であり、どんなCDや書籍を所有するかが自身をあらわす手段だった。
だから友人に一度は自分の部屋に連れてきたいと思ったりした。
バブル期には、消費社会を「記号論」で分析しようという論説が花盛りだったし、ブランドをカタログにしたような田中康夫の小説「なんとなくクリスタル」(1980年)が評判になった。しかし、最近ではCDや本は売れない。
そんな中、ミニマリストは身の回りに色々あり過ぎると、そちらにエネルギーを吸い取られると感じる。
「物欲」を否定しないまでも、本当に欲しいと思えるものでないと、買わない。
本当にいいものしか身の回りに置かないということは、モノから解放される生き方なのだ。
ものを簡単に買わないということは、ある意味、自己の「選択権」の主張ともいえる。
彼らの「消費者主権」は、モノを買わないとことをもって完結するため、アベノミクスへの反逆でもある。
ただし、彼らの数少ない「持ち物リスト」の中に共通するものがある。
それがデジタル関係で、ネットさえあれば、音楽が聴けるし、本も読める。しかしモノから離れたかわりに、「データ」には結構執着しているようだ。
唐突に「船上のピアニスト」という映画を思い出した。
大西洋を横断する豪華客船ヴァージニアン号には、風変わりなピアニストが乗り組んでいた。
彼の名は生誕の年にちなんで「1900(ナインティーンハンドレッド)」。
船で産み落とされ機関士によって育てられた彼は、以来この船で生活をしている。
だが、誰も耳にしたことのないような素晴らしい演奏をすることでまたたく間に人気者となる1900。
しかし、彼は決して船から降りようとはせず海の上で生活をすることを選んだ。
一生船から出ないなんて思うが、彼にとっては船上での生活が人生の全てだったし、そのことを後悔したりもしていない。
地上に降り、世界を旅して大きな舞台で活躍する、それが豊かな人生かのように周りは語るけれど、彼がそうしていたらもっと幸せだったのか、その答えは誰にもわからない。
1900は、友人に「自分は存在しない。君だけが、君だけが僕がいたことを知っている」と語る。
彼が望んだのは、有名になることでも、裕福に暮らすことでもなんでもなく、ただ自分という人物が存在したということを覚えておいてくれるのも、ただ一人の人でヨシとする究極のミニマリスト。
2010年代日本の「ミニマリスト」はモノ・フリーばかりではなく、人とのつきあいも最小限、この世界に対する「怒り」も最小限にということか。