見知らぬ星どうし

人と人とは、充分に引き寄せながらも、その相手を知ることなく、異なる軌道を回る星々のようなものかもしれない。
ただ、満天の星空をよくみると「星座」が見つけられるように、浮きでてくる星の点を結んでみると、なかなか面白い図柄が浮かびあがることがある。
さて、「宮中晩餐会」の模様がテレビで一瞬中継されることがあり、壮麗なシャンデリアや、食卓を飾る美しい食器、料理人が腕によりをかけた料理、そして真っ白のテーブルクロスが目に飛び込んできた。
この晩餐会に並んだ事物は、そのまま人と人との接点に「変換」できる。
明治の時代に、料理と洗濯の世界に、それぞれ「フランス料理」と「ドライ・クリーニング」をとりいれた二人の男は、互いに知らぬ同士でありながら、こうした宮中晩餐会で出会ったことは間違いない。
あくまでも、料理とテーブルクロスというカタチで。
明治維新後、政府要人側近の働きで、1872年に我が国初の西洋料理店「築地精養軒」が創設された。
上野にも精養軒ができ、開業当時から、フランス人を料理顧問におくなど、本格的なフランス料理への取り組みをはじめた。
その精養軒の黄金時代を築いた鈴本敏雄で、その弟子にあたるのが秋山徳蔵である。
1888年、秋山徳蔵は 福井県武生の比較的裕福な家庭の次男として生まれた。
秋山は東京から来た軍用の料理人と知り合い、洋食をはじめて食べたソノ味が忘れられず、東京へ上京し西洋料理の道をひたすら究めようと決めた。
秋山は精養軒などの名店で修行した後に、1909年に料理の修行のために21才で渡欧した。
秋山は言葉のハンディにかかわらず頭角を現し、フランスで「シェフ」と呼ばれる地位になる。
そのうち、大使館より「天皇ために料理をつくらないか」という話があり、1913年に帰国して、宮内庁内での料理人としての歩みを始める。
秋山は弱冠25才で宮内省大膳寮に就職し、1917年には初代主厨長となり、大正・昭和の二代天皇家の食事、両天皇即位御大礼の賜宴、宮中の調理を主宰した。そして人々は秋山のことを「天皇の料理番」とよんだのである。
また現在のクリーニング・チェ-ン「白洋舎」の創立者が五十嵐健治である。
五十嵐は新潟県に生れたが、高等小学校卒業後に丁稚や小僧を転々とし、日清戦争に際し17歳で軍夫(輸送隊員)を志願して中国へ従軍した。
その後思うところあって、シベリアへの渡航を企てるが、だまされて原生林で重労働を強いられるタコ部屋へ入れられる。
脱走して小樽まで逃げた時、旅商人からキリスト教の話を聞き、市中の井戸で受洗した。
上京して、三越(当時は三井呉服店)の店員として「宮内省の御用」を務めるが、宮内省をはじめ、宮様、三井家など上流階級の顧客と接点をもつ。
顧客を通じて一人の学者を紹介してもらい、当時の日本では未完成だったベンゾールを溶剤にして石鹸に似た物質を入れると、水溶性の汚れがよく落ちることに気づいた。
三越で10年間働き、29歳の時に独立し1906年に「白洋舎」を創立する。
五十嵐は洗濯という仕事が人々への奉仕であり、罪を洗い清めるキリスト教の精神につながると考え、洗濯業を「天職」にしようと決心したという。
五十嵐は1972年に亡くなったが、その2年後に秋山が亡くなっている。
ということは、秋山と五十嵐はともに「天皇御用達」として同時代を生きた。
したがって秋山が料理に出す際のテーブルクロス、シェフの服などは当然に、五十嵐の白洋舎でドライクリーニングされ純白になって戻ってきたに違いない。
互いに名前も経歴も知らないふたつの星は、「宮中」でめぐり合ったことになる。

鉄川与助は、1879年、五島列島中通島で大工棟梁の長男として生まれた。五島は隠れキリシタンが非常に多い島であった。
幼くして父のもとで大工修業を積んだ与助は、17歳になる頃には一般の家屋を建てられるほどの技術を身につけていた。
鉄川家の歴史は室町時代に遡り、もともとは刀剣をつくった家である。
明治になると「キリスト教解禁」となり、長崎の地には教会堂が建設されることになった。
その鉄川家が、1899年フランス人のペルー神父が監督・設計にあたった曾根天主堂の建築に参加したことが転機となった。
これをきっかけに鉄川組は神父から西洋建築の手ホドキを受けて田平教会のリブヴォルト天井の建築方法などを学んだ。
鉄川与助は家業をひきついで以来、主にカトリック教会の建設にあたってきたが、1906年に鉄川与助が家業を継ぎ、建設請負業「鉄川組」を創業した。
その工事数はカトリック教会に限っても50を越え、その施工範囲は長崎県を主として佐賀県、福岡県、熊本県にも及んでいる。
そして長崎の浦上天主堂、五島の頭ケ島天主堂、堂崎天主堂など今もそれぞれの地方の観光資源となっている。
原爆によって破壊された浦上天主堂も鉄川組によって最終的に完成された。
特に旧浦上教会の設計者・フレッチェ神父との出会いは、鉄川与助にさらに大きな技術的な飛躍を与えた。
浦上教会の完成後、鉄川与助は福岡県大刀洗町の今村教会の設計と建設をはじめ最数的に「双頭」の教会を完成させ、その技術水準が西欧に到達したことを示している。
さて、教会堂といえば賛美歌の伴奏をするためのオルガンやピアノが一台は置かれている。
そして、教会堂とオルガンの出会いは、鉄川与助と山葉寅楠の「出会い」に変換できる。
1851年山葉寅楠は紀州で生まれた。徳川藩士であった父親が藩の天文係をしていたことから、山葉家には天体観測や土地測量に関する書籍や器具などがたくさんあり、山葉は自ずと機械への関心を深めていった。
1884年、医療器械の「修理工」として静岡県浜松に移り住み、医療器械の修理、時計の修理や病院長の車夫などの副業をして生計をたてた。
或る時、浜松尋常小学校で外国産のオルガンの修理工を探していた時、校長は山葉のうわさを聞き彼に修理を依頼したのである。
校長の依頼を受けて修理に出向いた山葉の脳裏に、はやくも「オルガン国産化」のビジョンが広がっていったのである。
山葉は、将来オルガンは全国の小学校に設置されると見越し、すぐさま貴金属加工職人の河合喜三郎に協力を求め国産オルガンの試作を開始した。
試行錯誤2ヵ月で国産オルガン第1号が完成し、学校に試作品を持ち込んだが、残念ながらソノ評価は極めて低かった。
そこで、山葉と朋友の河合の二人は東京の音楽取調所(現東京芸術大学音楽部)で伊沢修二学長の勧めにしたがって約1ヵ月にわたり音楽理論を学んだ。
そして山葉は再び浜松に戻り、河合の家に同居しながら本格的なオルガンづくりに取り組んだ。
苦労を重ねながらも国産第2号オルガンをつくり、伊沢修二は、この第2号オルガンが舶来製に代わりうるオルガンであると太鼓判を押した。
山葉はその後単身アメリカに渡り、「ピアノの国産化」にも成功している。
さて、鉄川が建設した多くの教会堂には賛美歌とともにヤマハ製(山葉)のオルガンやピアノの音色が響いている。
かくして「国産教会堂」の鉄川与助と「国産オルガン」の山葉寅楠との見知らぬ星どうしの出会いが、いたるところで繰り返されるのである。

1962年、吉永小百合・浜田光夫主演で「キューポラのある街」という映画が公開された。
キューポラとは「鋳物」などをつくるための「鉄の溶解炉」のことで、大仏・茶釜・自動車のエンジンなどもキューポラを使って製造される。
鋳物とは、加熱して溶かした金属(鋳鉄)を鋳型とよばれる型に流し込み、冷えて固まった後にできる金属製品のことだ。
この映画の舞台となったのは、この銑鉄溶解炉キューポラが林立する埼玉県・川口市で、昔から鉄と火と汗にまみれた鋳物職人の町である。
さて、このキューポラのある町の「青木町総合運動場」には、とても意外なレプリカが置いてある。
それは東京オリンピックで使われた「聖火台」で、実はこの町で作られたことを記念して設置されたという。
さて1964年の東京オリンピックでは、その直前の新幹線開通ばかりが注目されるが、国内における「聖火」輸送には国産旅客機のYS11が使用されている。
そして1964年9月9日朝、東京五輪の聖火を乗せたYS11型機が鹿児島市の鴨池空港に着陸した。
当時、まだ米軍統治下の沖縄・那覇から聖火を運んだのは「戦後初」の国産旅客機だった。
ところが実際は開発が大幅に遅れ「試作2号機」を全日空カラーに塗装して、2日間限りのチャーターフライトとしての際どい輸送だった。
そして沖縄から聖火リレーの出発点である鹿児島、宮崎、千歳の3空港へ「五輪の火」を運んだ。
当時YS11の操縦士や客室乗務員ら12人からなる「ANA聖火輸送隊」の一員によれば、計画の詳細を知っていたのはごく一部の関係者だけだったという。
1964年9月7日に日本国内最初の地として沖縄に到着した聖火は、第一ランナーの宮城勇や戦災遺児ランナーの金城安秀を多くの日の丸の小旗が応援した。
アメリカ合衆国の統治下の沖縄では、日の丸は祝祭日以外は掲げられなかったが、聖火歓迎は日の丸の小旗で埋まった。
聖火リレーには、当時中学生もしくは高校生だった輪島大士、貴ノ花利彰、谷沢健一、山崎裕之など、角界の有名スポーツ選手がランナーとして参加力走している。
そして、東京オリンピックで「最終聖火ランナー」を務めた坂井義則は、広島に原爆が投下された1945年8月6日、広島県(三次市)で生まれた。
坂井自身は被爆者ではないが、電力会社に勤務していた父は被爆者であった。
坂井が選出されたのは、は第二次世界大戦後の日本の復興を「象徴」したからである。
しかも、坂井自身オリンピックを目指した強化選手の一人であった。
高等学校在学中の1963年、国民体育大会400mで優勝、東京オリンピックへの出場を目指し、1964年早稲田大学に入学した。
大学では競走部に所属、監督の中村清の指導を受ける。
東京オリンピックの400mと1600mリレーで強化選手に指名されたが代表選考会で敗退、失意の底にあった。
その矢先、組織委員会は他の選手に決まっていた聖火最終ランナーという栄誉ある大役を、広島への原爆投下の日に生まれた坂井に託した。
坂井は、開会式当日、国立競技場の千駄ヶ谷門で、前の区間を走った女子中学3年生から聖火を受け取り、トラックを半周したあと、聖火台までの階段を昇り、聖火台に点火した。
ちなみに、坂井は大学卒業後フジテレビに入社し、逸見正孝と同期で、主にスポーツ報道を担当した。
急遽「大役」が回ってきたのは、聖火ランナーの坂井義則ばかりではなく、キューポラのある町で聖火台を製作した職人・鈴木萬之助も同様だった。
日本初のオリンピックの火を灯した聖火台は高さ2.1m、直径2.1m、重さ2.6の鋳物でできている。
1964年の東京オリンピックでは、その前哨戦となるアジア競技大会(1958年)に間に合わせるために、聖火台の製作を鋳物づくりの名工とうたわれた鈴木萬之助が請け負った。
萬之助のもとに聖火台の製作依頼が来たのは、アジア競技大会まで残すところ半年という切羽詰ったタイミングだった。
当初は大手造船会社に発注したが、国内で前例のない聖火台の製作には技術も手間も要するということでコスト面が折り合わず、交渉は暗礁に乗り上げていた。
そこで萬之助は、採算度外視でこれを引き受けた。「鋳物の街・川口の名に懸けて、国の仕事ができるのは名誉なことだ」という職人の心意気が躍った。
聖火台の製作は3カ月の製作期間を条件に始まった。息子の文吾と共に作業は昼夜を問わず行われ、製作開始から2カ月後に鋳型を作り上げた。
そして1958年2月14日、鋳鉄を流し込む「湯入れ」にこぎつけた。
湯入れとは、キューポラとよばれる溶解炉で溶かした、およそ1400度の鋳鉄を鋳型に流し込む作業のことだ。
均等に銑鉄を注がなければ良質な鋳物はできないため、高い技術と経験を要する、いわば鋳物師の腕の見せどころである。
湯入れの当日、作業場には聖火台プロジェクトの関係者や町の人々が大挙し、一大イベントの様相を呈した。
見物人たちは、キューポラから取り出した鋳鉄をゆっくりと鋳型に流し込んでいく姿を固唾を呑んで見守った。
だが40秒ほどしたその時、突然鋳型が爆発、破損部分から真っ赤な鋳鉄が飛び出した。
さいわい怪我人はなかったものの、萬之助は流れ出る灼熱の鋳鉄を眺めながら、その場に立ち尽くした。
そして、失敗のショックと過労から床に伏せてしまい、8日後に帰らぬ人となった。享年68。
鋳物づくりの名工とうたわれる鋳物師・鈴木萬之助の腕をもってしても立ち行かなかった聖火台づくりは、萬之助の息子である鈴木文吾に託された。
納期まで残された時間はわずか1カ月。父を欠いた痛手とプレッシャーは計り知れないものがあった。
実際、文吾は自分まで失敗したら腹を切って死ぬつもりだったという。
文吾はのしかかるプレッシャーと戦いながら、寝食を忘れて作業を続けていたが、実は、息子文吾には、父・萬之助の死が伝えられていなかった。
家族は、父親の死を知れば気持ちが動揺して仕事が手につかなくなるのではないかと心配し、父親のの「死を伏せる」という苦渋の決断をしていたのだ。
それでも葬儀の当日、文吾は近所の人から父親の訃報を聞かされる。
そして作業着のまま自転車に飛び乗り葬儀に駆けつけたが、父親の亡骸はすでに霊柩車に乗せられ自宅を後にするところだった。
その時、息子は「おやじの弔い合戦だ」と思いを新たにしたという。すぐさま作業場へ戻り、まるで何かに憑かれたように聖火台づくりに没頭した。
不眠不休で作業を続けること2週間、鈴木親子にとっては「鬼門」ともいえる湯入れの日がやってきた。 湯入れの勝負は、ほんの数十秒。灼熱の鋳鉄をゆっくりと流し込む。そして、湯入れは無事成功し、悲願の聖火台がついに完成した。
鋳型をはずして現れた聖火台を目にしたとき、鈴木文吾は大仕事を終えた安堵と達成感で男泣きに泣いたという。それは、春の足音が聞こえる1958年3月5日、36歳の出来事だった。
こうして誕生した聖火台は、その年の5月に開催されたアジア競技大会で聖火が点火され、6年後の1964年10月10日、東京オリンピックの開会式で最終聖火ランナーの坂井義則て日本初のオリンピックの火を灯した。
オリンピックの後は毎年10月10日前後になると、鈴木文吾が国立競技場に出向き、聖火台を磨いた。
聖火台には「鈴木萬之助」を略した「鈴萬」の文字が刻み込まれている。
かくして、オリンピック選考にもれた被爆者の父を持つ聖火最終ランナーの坂井義則と、聖火台製作の事故で父を失った鋳物師・鈴木文吾の見知らぬ星どうしは、1964年10月10日の青空の下、国立競技場「聖火台」にて遭遇した。