「好きなこと」三昧

ノーベル賞を受賞された大村氏と梶田氏は、人の日常では見えない「微生物」や「素粒子」の研究において、その世界の奥深さを教えてくれた。
二人とも地方大学出身で、かならずしもエリート路線を歩んだわけではない。
特に大村氏のスタートは定時制高校の先生からだし、世界的発見も勤務先近くのゴルフ場だったというのも、いかにも庶民的な雰囲気の方である。
ノーベル賞受賞の記者会見で垣間見えた、それぞれの奥さんとの関係も興趣を添えた。
大村氏が亡くなった奥さんに受賞の第一報を伝えたのにホッコリしたし、梶田氏の奥さんがノーベル賞授賞式の服装を受賞前から用意していたのも、「この妻にして」という感を抱いた。
大村氏は、梶田氏の研究内容の方がのはるかにレベルが高いと謙遜されていたが、人々の当面の生活に役立った点でいえば、大村氏の研究が勝っている。
その「天然化合物」によってアフリカの疫病にかかった数万人を失明から救ったのだから。
大村氏の「微生物」への入れ込様から、「巨人」とも称された南方熊楠(みなみかたくまぐす)が思い浮かぶ。
南方は、植物学・細菌学で世界的な発見をしたが、その業績以上魅了されるのは、その「自由奔放」な生き方で、そこにはトラブル・メーカーというご愛嬌も加わる。
前半生はアメリカ・イギリスを放浪するも、後半生は、郷里である和歌山県田辺で、当時政府が進めた「神社合祀政策」に反対する運動を主導した。
学位なし官位なしのいわば「無位無官」であったが、アカデミズムの牙城に果敢に挑んだのも、ある意味で怖いもの知らずの「坊ちゃん育ち」の故なのかもしれない。
南方は1867年、和歌山市で金物商の家に生まれている。小さい頃より新聞がすらすらと読める神童ぶりを発揮して評判になるが、好きな勉強以外には見向きもしない性格のため、学校の成績はふるわなかった。
東京に出て共立学校に進学し、若き高橋是清に英語を学んだのも、めぐりあわせである。
南方は後にサンフランシスコへと旅立つが、高橋も「奴隷契約」とは知らされず、サンフランシスコに「留学?」し、あわてて帰国した体験をもつ。
南方はその後、東京大学予備門にはいり、中学の頃より熱中した「菌類」の研究に没頭し、頻繁に小石川植物園に通った。
しだいに学校の勉強の方はおろそかになり、試験には落第して病にかかり、ついに親も放ってはおけず南方を故郷・和歌山に連れ帰っている。
帰郷して、故郷の山野で菌類集めをしているうちに健康が回復。そのうち、世界を駆けまわって「宇宙の神秘」を究めたいという思いが抑えようもなく膨らんでいった。
親をなんとか説得し、1887年アメリカに旅たつ。南方の乗った船には新島襄が「密航者」としてもぐりこんでいたのもめぐりあわせだ。
南方が到着したサンフランシスコは、日本の自由民権運動の関係者が潜入し、いわば運動の「海外拠点」になっていた。
南方もその発刊誌「新日本」を購読しているが、このことが後の神社合祀反対運動を主導することと多少関係があるやもしれない。
しかし南方はミシガン州の農学校で学ぶが喧嘩の巻き添えとなり、自分がその責任を負って退校する。
この頃から資金も途絶えがちになるが、どうにか金を工面して菌類を求めてフロリダに行き、サーカス団でアルバイトなどをして生活を繋いだ。
その間、日本にはない欧米の本を貪るように読み、珍しい「菌類」を見つけては採集し、標本とした。
その後、南方と同じ和歌山出身で横浜正金銀行ロンドン支店長と手紙のやりとりをしたことがきっかけで、ロンドンに渡る決意をする。
そのロンドンでサーカス団の片岡という男との出会いが新たな道を開くことになる。
片岡は南方の博学ぶりに感心して、彼を知人である大英博物館の中世美術部長に紹介。
南方は大英博物館にいわば嘱託として自由に出入りできるようになり、研究の成果をイギリスの一流科学雑誌「Nature」に寄稿するようになる。
するとその内容が反響をよび、当代一流の学者を唸らせた。新聞でも大きくとりあげられ、学者らを論破していく。
折りしも、大英博物館で西洋思想を吸収しようとした孫文と出会い朋友となっている。
孫文もその頃、雲をつかむような革命を志し、各地で資金集めをしていた。
いわば放浪の身であり、それぞれ目指すところは違ったものの、南方と孫文には似たもの同志の心の交流があったのかもしれない。
しかし激しやすい南方は、日本人を蔑視するイギリス人と喧嘩するなどのトラブルを引き起こしている。
その頃、南方の和歌山の実家の家業にも翳りりが見え、資金面でも苦しくなり帰国を余儀なくされる。
帰国後には郷里・田辺において、西園寺内閣による「神社合祀令」反対運動の先頭に立った。
紀州のいたるところの神域の森林は切り倒されたままで、その後に植樹されることもなく災害の危機にさらされていた。そして何よりも土地の産土神を奪われた村民の心も荒廃していた。
南方が直接的に戦ったのは、奇しくも大学予備門で同期であり、当時内務省神社局局長となっていた水野という男であった。
そして神社合祀を推進する県使の講演会で、南方はまたもや乱闘事件を引き起こして、警察にしばらく収監されている。
南方の晩年は柳田国男との出会いなどもあり郷土田辺で学問の世界に没頭していくが、太平洋戦争勃発後まもなく、75年の生涯を閉じている。

「自然界の仕様」といったものには、いつも驚かされる。
最近では、魚の色が青みがかっているのは、海の色に溶け込んで空から鳥が狙わなぬように、腹が白いのは太陽の光に溶け込んで、下から他の魚が狙わぬように、ということを知った。
アフリカのサバンナを群れをなして進むシマウマも、そのシマのおかげで連なって見え、ライオンなどの天敵が「一頭」を標的にするのを、しにくくするのだという。
これだけでも「自然界の仕様」は驚異そのものだが、「自然界の営み」にまで分け入っていけば、さらに神秘的である。
我々は、そうした自然界の営みを知るにつれ、人間の営みを相対的なものへと見直すことができる。
つまり、人間の有り様を絶対的なもとして受け取る必要はないということだ。
この「開放感」こそが生き物の世界に魅了される要因ではないかと思う。
最近日本でも「同姓婚」の話がようやく前面に出てきたが、人間は性が固定したものという既成観念がある。
しかし、魚の性は実に多様でフレキシブルである。
魚はわかっているだけでも、なんと約4000種の魚が「性転換」する。
早くて5~10日間で性転換するが、どうして「性転換」するかというと「社会的要因」が原因だというからなお興味深い。
ハワイベラという魚は、メスだけにしたところ、体の大きいメス一匹が性転換した。
オスとメス一匹ずつにした時や、メス一匹のみの時は、性転換しなかった。
また、オスとメスどちらにも「性転換」するオキナワベニハゼは、体が大きいほうがオスになる。
小さいオスと大きいメスを一緒にした時は、双方が性転換して「入れ替わる」という驚くべきことが起こった。
それでは1匹で孤独にするとどちらを選ぶか。
オスは8匹全てがオスのまま。メスは八匹中7匹はオスに、1匹はメスのままだった。
ある研究者によれば「どうもオスになりたがるみたい。理由はわからない。それ以前にオス、メスという基本的なことがわかっていないので、さらに複雑なことはわからない」と語っている。
ただこの「性転換」のポイントは、少なくとも、メスがいなくなれば、僕がメスになりますよと、お互いが見通せること。
つまり、魚とて「空気」を読むことができなければ、生きてはいけないというとだ。
ところで、こうした人間社会の「相対化」に学問的な視座を提供しているのが、生物学者の今西錦司である。
当時、京大学理学部講師の今西は、人間の社会の成り立ちを「動物の社会」から考えようと試みた。
そのために今西は、動物の社会にも人間のように「社会」があるということを調査・実証してみようという野心に燃えた。
終戦後まもない1948年、生態学の研究と登山や探検に明け暮れるなか、今西はこの時すでに46歳になっていたが、いまだに講師だった。
今西は、31歳で京大理学部講師になるも、15年間も無給講師のままだった。
なんと「講義はいやだから給料はいらん」といい、確実な収入は貸家の家賃だけだったという。
彼のひとつの口癖が「好きなことだけをやる」。これぞまさしく南方熊楠の生き方でもある。
それが許されたのも、南方熊楠と同様に、裕福なお坊ちゃま育ちであったからであろう。
今西は1902年、京都・西陣の織元「錦屋」の長男としで生まれ、小さいころは昆虫採集に熱中した。
中学時代に登山をはじめ、日本アルプスの未踏峰を次々に踏破し登山家としで有名になっていたのだ。
そして今西の口癖「自然そのものから学ベ」は、彼の登山体験からでた言葉に違いない。
今西はまず野生馬の観察からはじめようとフィールドを「野生馬」の生息で知られる宮崎県・都井岬と決めた。
そして、ふかし芋がはいった弁当箱をぶら下げ岬を尾根伝いに馬を探し歩いた。
遡れば、今西は1944年、内モンゴルの張家口に設立された西北研究所の所長に迎えられたことがあった。
そこで彼はひたすら遊牧民とウマの群れを観察していたことがある。
さて、都井岬の彼の前に、突然ニホンザルの群れが現われたのである。40~50頭はいる、その中にボスザルのような大きなサルがいた。今西の頭に予感めいたものが閃いた。
「馬ではなくサルだ」。
この場所は馬のいる場所だけではなく、サルが出没する場所であった。
今西は大学にはいったばかりの学生二人を連れて、再び都井岬を訪れた。学生は百頭近いサルの集団と出会い、いくつかの鳴き声の違いで意思を伝えあっていることを直感した。
当時、人間以外の動物の世界に「社会」があるなどとは誰も考えていなかった。
しかし、今西はウマよりもサルの方が「社会性」が強いことを感じた。
今西は、モンゴルの遊牧民が何百頭ものウマを正確に見分けていることに気がついていた。
そしてウマの調査で用いた「個体識別」という手法で「サル集団」の観察をはじめた。
つまり、群れの一頭一頭の特徴を見分けて名前を付け、長期にわたってその行動を記録していくというやり方で、それまで誰もやったことのない手法であった。
そして今西らの調査を基に京都大学霊長類研究室が誕生し、今西の手法は若い学者によって引き継がれた。
その研究により、サルの社会から、人間の社会を「相対化」でき、より広い観点から「人間社会」を読み解くことができるようになったのである。

生物学者・福岡伸一氏が書いた「できそこないの男たち」という文章があり、男達にとってはかなり衝撃的内容だった。
福岡氏は、分子生物学の見地から、男を男たらしめる秘密のカギである「SRY遺伝子」について興味深いことを書いている。
それによると、男(染色体XY)は、生物の「基本仕様(デフォルト)」としての女性(染色体XX)を無理やり作り変えたものであり、そこにはカスタマイズにつきものの不整合や不具合があるというものだった。
つまり、「男は女のできそこない」というわけだが、その結果、カスタマイズされた男の遺伝子だけに欠陥が多く、病気にかかりやすく、精神的にも弱いという。
この説がどこまで当たっているのかは良く分からないが、ミャンマーのアウンサンスーチー女史などを見るかぎり、男だったらとうにクタバッテいただろうになどと思わざるをえないのだ。
実は、日本の鄙びた土佐の儒学者・野中兼山一族の中に、スーチー女史並の「強さ」を思わせる、(個人的推測では)頭に花飾りをしたであろう女性がいる。
この女性の生涯を見ると、「男は女のできそこない」説を支持したくなる。
さて、野中兼山は、土佐藩の家老として、用水路の建設、田野の開墾、港湾の改修などの公共事業では抜群の成果をあげた。
その一方で、米価の統制、米の売り惜しみの禁止、専売制の強行などの商業統制。さらには、新桝の決定、火葬の禁止、領民の踊りと相撲の禁止などの「社会統制」までにも踏み込んで改革をおこなおうとした。
しかしそれはあまりに苛烈なものであり、厳しい改革が長引けば不満がでてくるばかりか、兼山の方針を疑い、兼山の人格を嫌う者が次第に増えていった。
こうして兼山は反対派の策謀によって失脚し蟄居させられ、最後は自殺とも病没ともわからぬ状況で亡くなっている。
そこに追い打ちをかけるように、野中家の取り潰しが裁定された。
婉の父・野中兼山は藩政改革の過程で政敵をつくり命を落としたが、土佐藩の改革で野中兼山が果たした役割は大きく、兼山なしには坂本竜馬も中岡慎太郎も存在しなかったにちがいない。
しかし野中家の処分たるや、家族全員を跡継ぎの男子が絶えるまで閉門蟄居させるという異常なものであった。残された家族と子供たちこそ悲惨である。
「門外一歩」が許されず、誰と会うことも許されない。つまり藩の監視の下での軟禁生活を強いられることになる。長女は嫁いでいたのに宿毛(すくも)に送られて死に、長男は病死、次男は狂死して、ほどなく男系が途絶えた。
また、娘3人のと母と召使いは幽居させられたまま外出もかなわず、母娘は実に40年間を世間と交わらずに暮らしたのである。
この娘三人の中に「婉(えん)」とよばれた女性がいた。蟄居を言い渡された時は、わずか4歳であった。
映画監督・今井正の「婉という女」(1971年映画化/大原富江原作)は野中一家の壮絶な内面を描いている。
近親相姦に走ろうとする兄。母娘は、長すぎる辛苦の時を何度も自害し果てようかと思いつつも、弟の「狂い死に」を見て気を取り直して生き抜くことを選んだ。
そして、婉も40代半ば、子供を作れない年齢になってようやく解放される。
その後、婉は驚いたことに、高知市郊外の朝倉の地で医者として活動を始めるのである。
幽閉されてきた婉がどうして「医学の術」を身につけたのか不思議だが、父親から受け継いだ儒学だけでななく、一家に出入りした医者から様々な知識を得たと推測される。
医者の話をきき、文通を通じて意見を交換をした。
さらに近くの野山を歩く中で薬草についての豊かな知識を身につけたという。
手足がもがれたような異常な生活40年の中にあっても、婉は人間性を失うことなく学ぶべきことをちゃんと学んでいたのである。
それは、家族の命を自らの力で守るための知識というよりも、むしろ「身動きできない生活」の中で、自然の営みに感動と喜びを見出したのではなかろうか。
それが結果的に地域医療に尽くす女医としての仕事につながった。
とするならば、許された狭い空間の中で、婉もまた「好きなこと」三昧の生活を送ることができたとはいえまか。