鉄道と玩具の「夢」

ビクトリア調の家並みの中を長く続く急坂と、海に浮かぶアルトラカズ島、さらにケーブルカーにしがみつく人々の姿、いずれもサンフランシスコを彩る風景である。
サンフランシスコは、ゴールデンゲートブリッジをはじめ数多くの映画の舞台を提供したが、金融街に近いエンバカルデロ・センターの吹き抜けの建造物を内側から見上げた時の壮観さは忘れがたい。
後にこの建物が、映画「タワーリング・インフェルノ」の撮影に使用されたと聞いて、当時は珍しかった総ガラスばりのエレベーターのワンシーンを思いだした。
エンバカルデロはスペイン語で「埠頭」を意味し、サンフランシスコ名物のケーブルカーの終点となっている。
終点では運転手が降車して一人回転台をまわして、車体を方向転換する姿は、なぜかアメリカ人の「開拓者魂」を連想させた。
そういえば、ケーブルカーの反対側の終点に近い「フィッシャーマンズ・ワーフ」は捕鯨船のためにつくられた波止場が発祥である。
実はサンフランシスコという町が黄金と鯨を求めてやってきた人々が築いたということは、この町に溢れる詩情のせいか、人々の予想を裏切る事実のようだ。
さて、アメリカらしい風景といえば、ロック・ミュージックの定番「プラウド・メアリー」にも描かれている。
ただし「プラウドメアリー」がテネシー川を悠然と渡る蒸気船「メアリー・エリザベス号」を歌った曲と知った時は、かなりの衝撃だった。
歌詞をよく聞けば確かにそうなのだが、「メアリー」という女性のイメージが先行していたため、大型の「川船」の名を指すなどとは思いもよらなかった。
予想外といえば、「蒸気船」ばかりか「蒸気機関車」も世界的な大ヒット曲を生み出している。
その大ヒット曲「ロコモーション」は、スチーヴンソンが開発した世界最初の「実用」蒸気機関車名にちなんでいる。
我が幼き日にブームとなった「ロコモーション」のダンスは、実は汽車の「しゅっぽしゅっぼ」を表現した踊りだったのだ。

ロンドンから西へ1時間ロッドバラの小さな町の教会のステンドグラスに「機関車トーマス」の画がある。
この画は、この教会の牧師がステンドグラスに嵌めこんだもので、実は、この牧師・ウイルバートこそ、トーマスの「生みの親」である。
牧師のウイルバートは、説教じみた道徳を教えるためではなく、なんとか子供達を笑顔にしたいという思いの一心でトーマスの物語を書いた。
そして子供を喜ばせることを無上の喜びとする彼は、新しい話を次々につくった。
ウイルバートの初期の作品に「3台の機関車」という本があるが、そのなかに「エドワードの楽しい1日」という物語が収められている。
エドワードは5台の他の機関車と一緒の機関庫にいたが一番小さかったので、いつも皆からからかわれていた。
エドワードが落ち込んでいると、機関手と助手がやってきて一緒に出かけないかと声をかける。
そして、エドワードは機関庫から外の世界に出て予想だにしなかった楽しい1日を過ごすことになる。
実はこの話、牧師ウイルバートがひとり息子クリストファー君をを元気にするために作られた物語である。
12歳になった息子は、はしかで長いこと外に出られなくなっていた。
そこでこの年のクリスマス、父は機関車に興味を持ち始めた子に「プレゼント」を贈ることにした。
そして父が箒の柄や木切れで手作りした機関車に、クルストファー君自身が「トーマス」と名をつけた。
それでは、ウイルバート牧師の機関車が人間のように話をするという発想はどこから生まれたのだろうか。
ウイルバートは、ボックスという山の麓の古い町で9歳から17歳までを過ごした。
その家は今は小さなホテルとなっているが、ここがトーマスが生まれた場所といってよい。
ホテルにはウイルバートの両親の寝室が残っており、その隣室こそがウイルバート少年の部屋があった。
その部屋からわずか100メートルのところにイギリス最大の会社グレート・ウエスタン鉄道が通っていて、いつも機関車が通るのを見て、汽笛がよく聞こえる場所だった。
またその場所には、鉄道最大の難所があった。全長3キロにもおよぶ上り坂が続くボックス・トンネルで、ここに貨物列車が夜中にやてきて重い貨車をひいてボックス駅で停車する。
三回汽笛がなると「タンク機関車」の登場である。
ウイルバート少年の想像の中で、少年貨車を引いてきた機関車とタンク機関車は、こんな会話をしながら上っていったように聞こえた。
無理だよ 無理だよ。できるさ できるさ。
ウイルバートの初期の作品に、エドワードの機関区にゴードンとよばれる「威張り屋」の機関車が登場する。俺様はこれから急行をひくので良く見てろという。
ところがトラブルがおこり、ゴードンが動けなくなってしまう。
丘の中腹で立ち往生し、丘の下にもどされるが、そこへ小さいが力持ちのエドワードが助けに出動し、後ろから押し続け、気がついたら丘の上に着いていた。
ウイルバートが少年の日に、夜になるといつも聞こえてくる機関車たちの息遣い。それは困難立ち向かう機関車たちの苦しそうな声であり、仲間を励ます声援でもあった。
こうしてウイルバート少年が羽ばたかせた空想が、やがて息子を励ます物語となっていった。
さて、アメリカのサンフランシスコのケーブルカーは、歩き疲れた人がサイドボードに飛び乗って柱に掴まることさえ可能なほどオープンである。
そして駅でなんでもない自分の目的地まできたら、勝手に飛び降りることができる。
その間の料金を払わずとも、とやかくいわれることはない。そんな包容力があって親しめる車両だからこそ、今に至るまでサンフランシスコの「名物」として愛され生き残ったのだろう。
実はイギリスから、一度は廃止された路線で機関車をボランティアの力で動かす動きが始まった。
それは、「機関車トーマス」がもつ「親和力」が大きい。
イギリスのウエールズ地方は、羊が人間の3倍もいる。
ここを通るタリクリン鉄道は、蒸気機関車が走っている。
この鉄道は一度はつぶれたが、ボランティアの力で運営する世界初の鉄道となった。運転士から機関士までがボランティアだというから驚きだ。
実は、「機関車トーマス」を生んだウイルバートもボランティアとして働き、息子とともに、車両や線路の点検などしたことがあるという。
そのためか、この鉄道にも「機関車トーマス」を模した機関車が走っている。
それでは、時代遅れといわれながら、蒸気機関車が人をひきつける魅力とは何なのだろうか。
昨今では、工場のパイプラインの力強さと美しさに引かれる「工場萌え」というのがあるらしいが、いまだに蒸気機関車に魅かれるのも、それに近いものがあるかもしれない。
しかし、このボランティアで動かす鉄道についていえば、機関車を動かすために、誰でもが何らかのカタチで貢献できることにあるという。
学校を終えた中学生でも、自分が何を貢献できるかを考え、仕事をおぼえればひとり前のボランティアとして働け、人を喜ばせ褒められる体験ができる。
それは、「機関車トーマス」の物語が伝えているメッセージそのもののようにも聞こえる。

今や、時代の最先端はリニア・モーター・カーの時代へと移りつつある。
リニア中央新幹線は、2027年に品川-名古屋間の先行開業を目指すが、この区間を最速約40分で結ぶことになり、最高速度603㎞をも記録している。
「超伝導」をもって車体を浮かして走行する技術的斬新さに驚かされるが、それにも負けず劣らず驚いたのが、最近東京・葛飾区の老舗「玩具メーカー」がリニアモーターカーの「玩具」を発売したというニュースだった。
この「リニアライナー」は、これまでの鉄道玩具の常識を打ち破ってレール上を走らず、磁力浮上、磁力走行を同時に行って「浮いて」走る。
TVでこの玩具の「リニアライナー」の開発談を聞くうち、これを果たして「玩具」と呼べるのかという疑問さえ起こった。
2020年の東京オリンピックまでにリニアカーを実現しようという話が持ち上がった時、この玩具会社の会長は刺激をうけて、それならば「玩具」でも実現しようと、社員に開発を命じたという。
この「リニアライナー」は、回転式モーターや車輪、ギアといた通常駆動に必要な一切の要素は排除した。
コイルに電流が流れて磁界を発生させると、レールと車両の磁石同士(N極どうし/S極どうし)の反発で推進力が発生し、車両が前進する。
コイルを電磁石化させるタイミングを車両自身で「切り替え」ながら推進する。
車輪とレールの摩擦が無いことでスピードが出る上に、「走行音」がほとんどないのも画期的である。
この玩具の技術の壁は、ますは車体を適当な高さに安定して浮かすことで、あらゆる種類の磁石を集めて試し、帯状の磁石と各車両底部の四隅に搭載した磁石の反発力で約2mm車体を浮かすことができた。
立ちはだかった「技術の壁」は、車体が揺れること、スピードがでないことだった。
会長はスピードが出なくては、リニアモーターカーの玩具とは言えないと苦言を呈した。
走行中の車体の安定化させることについてのヒントは身近なところにあった。
ホワイトボードに紙をくっつける磁石の仕掛けを見て、左右に反発する電極を2つずつ付けて車体の揺れを解消することができた。
また、スピードが出ないのは、磁石を同じ間隔で設置しているため、複数の磁石で推進する瞬間が同時になり、磁石をケラナイ瞬間が生じていたことによるものだった。
そこで、車体の磁石の間隔を幾分ズラスことで、すべての瞬間にどこかの磁石をケルようにして加速させることができた。
そしてナント時速500㎞を、車両の車幅32mmで、本物の約1/90 というスモール・スケール上で実現することに成功した。

世界ではじめて「実用」蒸気機関車を開発したジョージ・スチーブンソンは、炭鉱夫の子供として生まれ、両親とも読み書きができなかった。
父は炭鉱で機関夫をしていたが、低賃金で、子どもを学校に通わせることもできなかった。
スチーブンソンは父にならって17歳で、ニューバーンの炭鉱で機関夫となった。
ただ教育の価値を理解し、それまで無学だった彼が、働きながら夜間学校に通って読み書きや算数を学んだ。
そして1801年、ブラックカラートン炭鉱で縦坑の巻上げギアを制御する「制動手」として働き始める。
翌年結婚し、制動手として働きつつ、収入の足しにするため、靴や時計の修理も行っていた。
息子ロバートが生まれ、キリングワース炭鉱で制動手として働いた頃には娘も生まれ家族の幸せを掴んだかに思えたが、人生が暗転する。
娘は生後数週間で亡くなり、妻フランシスも結核で衰弱死した。
そこでスチーブンソンはスコットランドで職を探すことを決意し、近所の女性に息子を託して単身モントローズに出稼ぎに行った。
数カ月後、父が炭鉱の事故で目が見えなくなったという知らせを受けてキリングワースに戻ってきた。
これ以降、スチーブンソンの運命が大きく動き始める。
1811年、キリングワースの別の炭鉱でポンプが故障し、スチーブンソンに修理が依頼された。その修理がうまくいったため、技師に昇進し、キリングワース付近の全ての炭鉱の機械の面倒を見ることになり、まもなく「蒸気機関」に精通するようになった。
だが、スチーブンソンにその能力を試す「試金石」のような出来事が待っていた。
炭鉱では明かりとして焚いた火のせいでしばしば爆発が起きていた。
1815年、スチーブンソンは爆発を起こさない安全なランプの実験を始めたが、別の著名な科学者ハンフリー・デービーも同じ問題の解決策を捜していた。
科学知識のないスチーブンソンは試行錯誤の末、小さな穴から空気を取り入れるランプを考案し、二人の証人の下で爆発が起きないことを実証してみせた。
その1カ月後に科学者デービーが王立協会に自身の設計したランプ(デービー灯)を提出した。
この発明でデービーは2000ポンドを受け取ったが、スチーブンソンはデービーのアイデアを盗んだと告発された。
地元の委員会が調査し、スチーブンソンが独自に発明したランプであることが証明され、委員会はデービーの受け取った2000ポンドの半分をスチーブンソンに渡すよう命じた。
しかし、デービーとその支持者らはスチーブンソンのような「無学な男」にそんな発明ができるはずがないと主張した。
最終的には、スチーブンソンにも等しく権利があると裁定されたが、スチーブンソンの科学者に対する「不信」は生涯消えることはなかった。
さて、学校の教科書には、スチーブンソンが蒸気機関車の発明家と書いてあるが、厳密にいうと、蒸気機関車は彼以前に発明されていた。
しかし、それらは欠陥が多く、実用に耐えうるものではなかったのだ。
1814年、スチーブンソンはキリングワースで石炭輸送のための蒸気機関車を設計し、ウェストムーアの自宅裏の作業場で製作した。
車輪と線路の接触部分の摩擦によってのみ走行し、時速6.4キロで坂を上り30トンの石炭を運ぶことができた。産業界は、馬力以上の活用ができると称賛した。
1821年、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の 建設に関する議員提出の法案が可決された。
この全長約40キロの鉄道は当初、馬車鉄道で石炭を運ぶ計画だったが、羊毛商人から鉄道会社の社長となったエドワード・ピーズがスチーブンソンと会い「計画変更」に合意し、蒸気機関車を一部利用することになった。
そのためにピーズとスチーブンソンは共同で会社を立ち上げ、スチーブンソンの息子ロバートも常務取締役として参加している。
そして1825年9月27日、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道がついに開通する。スチーブンソンの運転する「ロコモーション号」が80トンの石炭を牽引し2時間で15kmを走行し、最高時速は39kmに達した。
このロコモーション号には、初の「旅客用車両」も連結されており、招かれた関係者が初走行を楽しんだ。
これが世界初の蒸気機関車による旅客輸送である。
この時、スチーブンソンは軌間として1435mmを採用し、これがイギリスだけでなく全世界の「標準軌」となった。
スチーブンソンはその後も様々な鉄道の敷設にも関わり、その功績から今でも「蒸気機関車の父」として尊敬されている。
さて、1972年に大ヒットしたショッキング・ブルーが歌った「悲しき鉄道員」という曲がある。
原題「Never mary a railroad man」の歌詞の中に、「あなたは鉄道員に恋をするんじゃない。あなたよりも鉄道を愛するから」という少々行きすぎの歌詞がある。
浅田次郎の小説「鉄道員(ぽっぽ屋)」(1999年)の宣伝文句に、「1人娘を亡くした日も、愛する妻を亡くした日も、男は駅に立ち続けた」という宣伝文句があったのを思い出す。
しかし、鉄道員は線路と車両にバカリに没入するわけではないことを示す「有力な証拠」がある。
スチーブンソンは、マンチェスターとリヴァプール間の鉄道敷設にも関わったが、1872年そのマンチェスターの鉄道員が中心となり「サッカークラブ」が結成された。
一度は、破産による解散も経験もするが、地元醸造業主が500ポンドを投資して、オーナーに就任してクラブを再興した。
その後、1902年にチーム名が変更されて「マンチェスター・ユナイテッド」となる。
1990年代終わりには、貴公子・ベッカムを擁して「世界最強」の名前をほしいままにした。
今日の世界最強のサッカーチームのひとつは、イギリス鉄道創成期の鉄道員達がつくったクラブから始まったものである。