歴史の「ミニマリスト」

人は、不足や欠点があっても、「○○主義」や「○○スタイル」を名乗れば、けっこう恰好がつく。
性格がいい加減な人は「不完全主義」、怠惰な人は「明日できることは今日やらない主義」。
見栄っ張りな人は「見えないおしゃれはしない主義」。物忘れがひどい人は「宵越しの情報はもたねぇ主義」みたいに。
以前テレビで見た、お笑い芸人で俳優の石倉三郎の話がとてもよかった。
石倉氏は、淡路島生まれだが、家の貧しさが苦しいばかりか、それが恥ずかしくて仕方がなかった。
たまたま大阪で暮らし、「貧乏ネタ」で笑いがとれることを知った。
以後、石倉少年は、「貧乏」を恥じることなく、皆にネタを披瀝するようになった。
結果、石倉少年は、貧乏のおかげでお笑いの才が開花し、友人もたくさんできたという。
不足なものは、「○○」主義を名乗って堂々と生きればよい。
ただ、人間というものが厄介なのは、「不足」を処することに優れた人物が、ややもすれば「余剰」を処する点で、失敗するケースが多いことだ。
野球のスター選手や人気ミュージシャンが覚醒剤に溺れてしまったことを想起すればよい。
人は貧しさを克服するよりも、富や栄光に満ちた人生を維持することの方が、はるかに難しいことなのかもしれない。
それは、かつて「ジャパン アズ NO1」といわれた、「この国」についてもいえることである。

歴史上、「貧しさ」にも「豊かさ」にも処すことができる達人の1人として、キリスト教の使徒パウロをあげることができる。
パウロは、次のように語っている。
「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている 」(ピリピ人4章)。
ところで最近、「貧しさ」に処するスタイルなのか、「豊かさ」に処するスタイルなのか、よくわからないような生き方をする人々がいる。
モノの豊かさよりモノのなさを楽しむ主義、つまり「最小限主義者(ミニマリスト)」である。
彼らは、出来るだけ身軽になって、あたかもモノのない空間を楽しんでいるかのようだ。
「ミニマリスト」の体験談には、マットレスもテレビもバスタオルも手放したと書いてある。
そこまでするなら、いっそ「無我の境地」を目指してはどうか、と思うくらいだ。
消費社会とは、人は持ち物で自分をアピールする社会であり、どんなCDや書籍を所有するかが自身をあらわす手段だった。だから友人に一度は自分の部屋に連れてきたいと思ったりした。
バブル期には、消費社会を「記号論」で分析しようという論説が花盛りだったし、ブランドをカタログにしたような田中康夫の小説「なんとなくクリスタル」(1980年)が評判になった。
しかし、最近ではCDや本は売れない。そのせいか、広告が街角やウエブ空間を埋め、モノを買わねばと「強迫観念」を植え付けようとする。
そんな中、ミニマリストは身の回りに色々あり過ぎると、そちらにエネルギーを吸い取られると感じるらしい。
物欲を否定しないまでも、本当に欲しいと思えるものでないと、買わない。
本当にいいものしか身の回りに置かないということは、モノから解放される生き方なのだ。
そうすれば心身ともに軽やかになるし、心地よく「モノ・フリー」を楽しむことができる。
ものを簡単に買わないということは、ある意味、自己の「選択権」の主張ともいえる。彼らの「消費者主権」は、モノを買わないとことをもって完結するようだ。
とはいえ、こうした「ミニマリスト」的暮らしができるのも、ある意味モノが豊かにあるからである。
コンビニや自動販売機がすぐ近くにあるし、スーパーにいけば惣菜も充実している。
ネットさえあれば、音楽が聴けるし、本も読める。
ネットを使えば、自分が欲しいモノのが何で、どうすれば手に入れられるかを、即座に「知る」ことができる。
女性がショッピングを楽しむのは、デパートの売り場において服を買ったり靴を買ったり、モノとの偶然の「出会い」をたのしんでいるフシがある。
しかし今や、ネットで気に入ったものはピンポイントで探せる。
ちなみに、アマゾンは消費者の注文をうけると、配送トラックに3Dプリンターを搭載し、トラック内で商品を作りながら配送する仕組みを作っている。
またミニマリストは、「ノマド」的生き方とも重なる。
ノマドは「遊牧民」の意味で、自宅や会社のオフィスではなく、喫茶店やファーストフード店などでノートパソコンやタブレット型端末などを使って仕事をする人々である。
実は、ミニマリストの数少ない持ち物のリストの中に共通するものがある。
それは、デジタル関係が多く、充電ケーブル、収納ケース、アダプターなどで、モノから離れたかわりに「データ」には結構執着しているようだ。
こう見てくると、ミニマリストとは、「貧しさ」に処すより「豊かさ」に処する生き方のようである。

今日のミニマリストの広がりは、社会で様々なものが「最小化」されることと無関係ではない。
最近の動きで「最小化」が著しいのが人件費であり、ごく最近では「金利水準」もそれに加わった。
人間の労働をできるだけ安く買いたたき、使い捨てにする。そして「貧しさ」に処すために「ミニマリスト(最小主義者)」が多数生まれる。
ある「牛丼」チェーンは人件費を抑えるために、アルバイト1人でなんでもこなす「ワンオペレーション(ひとり走行)」が問題となった。
ついにアルバイト学生達が、メニューに鍋まで導入するなら1人でやれっこないと「鍋の乱」をおこして、ワンオペレーションが規制されるようになった。
要するに、人件費のミニマム化は、人間が「人材」ではなく「コスト」としか意識されなくなったということである。
その分、企業は学校に、英語のを早期教育をはじめ、人材育成のコストを外部に転嫁しようとしている。
また世の中の流れや展開が急激だと、「意思決定」コストも最小化する傾向にあるのではなかろうか。
世界は近代以降、「合理主義」が生活の中まで浸透してきた。
これは時代の流れが速くなったことにともなって、なるべく素早い意思決定を行い、競合する相手に先んじて行動する必要が生じたことによる。
経済合理性という観点から、多数より1人による意思決定の方がスピードの点でも効率の点でも有利であり、勝負に強い。
企業のような集団が早急に業績をあげなければならない時に、一手先の利益を得るには、仕事をする一人ひとりが考えて結論を出していくより、1人の意思決定者が素早く行動指針を打ちだし、それに皆が従うという行動が最も有効である。
また、ロボットや人工頭脳の活用も人件費抑制が大きな誘因である。
職場では、人工知能が、電磁カードで社員の行動を逐一記録したり、ゴーグル型ディスプレイを通じて作業の段取りを指示したりするなど、人工知能が「中間管理職」のような立場で従業員を管理するようになりつつある。
こうした「意思決定」コストの最小化は、社会全体の「右傾化」と無関係とはいいきれないと思う。

江戸時代、日本人が「宵越しの金をもたない」といって早めに金を使ってしまう傾向があった。
このライフスタイルは、江戸っ子のきっぷの良さを表す言葉であり、「ミニマリスト」と対極にあるようだが、身の周りにモノを置かないという点では「ミニマリスト」と共通している。
江戸幕府の厳しい生活規制の下で、人々は「みえないところ」のオシャレへこだわりから「粋」という感性を磨いたが、「宵越しの金はもたねえ」という生き方は、江戸で頻発した火事と関係が深い。
火事が起きれば、持ちものもなくなってしまうので、その前に早く使ってしまおうというわけだ。
江戸の火事は、きっぷのいい「ミニマリスト」を生んだといえる。
かくして、江戸の景気は、火事が「需要面」を支えていたのだが、火事はそれ以上に「供給面」を支えていた。
江戸の街づくりにおいて、「江戸火消48組」が設けられたのも、「広小路」という地名が各地にあるのも、火事が延焼しないためにつくられたものである。
それではなぜここまで火事が頻発したかといえば、「意図的に」なされたという側面を否定できない。
世の中が不況気味仕事が少ないとき、火事が起きるれば、仕事が増え、停滞気味の社会が活発化する。
街の再開発もでき、そう考えると火事はある部分「公共事業」の一環だったともいえる。
かように、江戸の火事は、「ビジネス臭」がつきものであったが、その中で特に面白いのは遊郭の街・吉原の生き残り戦略である。
吉原は、明暦の大以降、現在の浅草の北の僻地に移転したのだが、こんな田舎に移転されては客がなかなか寄り付かないので、吉原は座して待たず外へうって出る作戦に出た。
江戸の火事データ923件、延焼した町の数は、延べ2217町もあるが、吉原の場合は他所からきた火で延焼したのは2回にすぎない。
浅草のはずれで、周囲は田畑だから当然といえば当然だが、火事の憂いがないことはない。
それどころか吉原が火元になった火事が19回もある。
2位が桶町の6回。ついで堺町の4回で、吉原の火元だけが突出して多い。
吉原は、「延焼」については江戸で一番安全で、「火元」回数はぶっちぎりトップ。これでは、出火が操作されたとみなすほうが自然である。
それでは自分のところを燃やして得するかというと、吉原が丸焼けになると、元どうりに風情ができるまでの間、妓楼は江戸城内で営業が許される。
仮宅なので面倒な格式は省略、客の方も近場であそべるとうので、かえって繁盛する。
この仮宅営業はどんどん伸びて、最初は100日だったのが、最後は2年となっている。 2年ごとに全焼させれば、ずっと「仮宅営業」ということになる。
これこそ、新しいビジネスモデルで、仮宅場所も、深川・本所と新開地にどんどん広がった。

さて最近、テレビで派遣労働者の部屋を映していた。部屋にあるものは、ふとんと小さなラジオとコンビニの袋、それ以外には何もない。
どこか、最近自爆したテロリストの部屋を思わせた。
ひとり身のうえ、逃亡や頻繁な移動の可能性を考えれば、できるだけ身軽になろうと「ミニマリスト」にならざるを得ない。
しかしこの部屋の寒さは、外部との関わりを漂わせる要素が何も見出せなかった点にある。
このように、社会のあらゆる絆から断ち切れた人という意味での「ミニマリスト」も増えている。
さて、テロが続発したフランスという国は「人権の国」であり、個人主義と自由主義をつきつめた国といえる。
自由を謳歌できる反面、こういう社会では、結婚も子育ても人生に必須のものだと意識されなくなるるため、イザというときに頼れるものがない。
というわけで、イスラム国に向かう若者は、信仰というよりイスラム「共同性」への憧れがあるのかもしれない。
しかも、こうした集団は、ネットでリクルートされて次からつぎへとイスラム国に合流してくる。
さて、家族の機能の衰退とともに肥大化したのが「福祉国家」であり、家の果たしてきた役割の多くを「公共」が代替する。
福祉の内容はますます増えていき、支出はかさみ、お金がたりなくなる。
そのうち、国も自分を助けてくれないことがわかる。
そうなると、自分と社会を結びつける絆が失われ、刹那的・享楽的方向に走りやすい。
そしてモノばかりか、あらゆる価値からも解放された「ミニマリスト」が誕生する。彼らがテロリストになるまで、そう時間はかからない。
現在、世界を震撼させているテロリスト集団「イスラム国」は、幹部はともかく戦闘集団は、宗教的集団でもなんでもなく、「ニヒリズム」に支配された集団といった方が近い。
彼らの出現は、何かの信仰に帰依しているというのではなく、あらゆる価値の否定、死の美化、破壊の意思など、むしろ宗教的な信仰が解体している中で起きる現象といっていい。

明治期における民権運動家を、誰かれなく攻撃の対象とするテロリストと等しくみなすことはできない。
ただ、政府の弾圧をうけて、名前までも変えて逃亡した民権家が多くいた。彼らの中には、テロリストと変わらない刹那的な行動に出るものもいた。
その一方で、新たな生活に生まれたの絆によって、生きる道を見出した者もいる。
東京経済大学の色川大吉教授らの五日市周辺の土蔵調査による「民衆史」の発見はきわめて感動的である。
色川教授らの「発掘」によって、五日市憲法の草案をつくた人々の行跡に光が当てられたからだ。
石坂公歴は、困民党が弾圧されたあとサンフランシスコにわたり、最後は太平洋戦争中に日本人強制収容所に入れられ、失明のうえ死亡している。
また千葉卓三郎は戊辰戦争の賊軍・仙台藩のいわゆる「落人」で、東京にでてギリシア正教でニコライ(神田のニコライ堂建設者)により洗礼をうけ、今の東京・五日市に流れてきた。
この地で、西洋の啓蒙書を多く所有する深沢権八という豪農と出会い、「五日市憲法」という当時最も進歩的な「憲法草案」をつくった。
色川教授らが発掘した人物の中には、名前がよく知られた彼ら以外にも、波乱の人生を歩んだ人物がいた。
それは、秩父困民党の大隊長の飯塚森蔵と会計係の井上伝蔵である。
彼らは東京から派遣された警察部隊と激戦を交えている間に、山間を抜け出して「消息不明」になる。
飯森の方は欠席裁判で重罪となるが、北海道にわたりアイヌの人々に匿われながら釧路あたりで亡くなっている。
面白いのは井上伝蔵の方で、口の中に綿を含んで顔を変え、覆面をして山から山へと奥羽山脈を伝わって北海道に渡り、苫小牧から札幌の方に逃げたことが判明している。
井上は「死刑」判決をうけたものの、北海道で伊藤房次郎という「偽名」を使って代書屋を開業している。
そして、新しい妻をむかえそこで4人の子供をもうけ、それを立派に育てあげている。
井上は、豪放磊落である反面、温厚で教養もあり人の面倒もよくみる人物で、当時接した人々によれば「一点の曇り」も感じさせない人物だったという。
色川教授は、井上の俳句を見て「どこか空の一部を突き抜けたような精神を持った人、なにか過去をのりこえて明朗な境地に到達した人でないと歌えない歌である」と書いている。
逃亡者であり、死刑囚であるなら、大概の人間は「ミニマリスト(最小主義者)」として生きる。
しかし色川教授は、こんな歌が歌えるのは、井上伝蔵の中に大きな「回生」が起こったからに違いないと推測している。
それができたのも北海道の大地で得た「新しい家族」が大きかったかもしれないが、「貧に処し 豊かさに処す」術を心得た稀な人物であったようだ。