広島市民に夢を

広島城は別名「鯉城」とよばれ、市内中心地の太田川に今でも住む鯉(コイ)に由来する。また、原爆被災者が数多く亡くなった太田川を泳ぐ鯉は、「広島復興」のシンボルでもある。
「広島カープ」の名付け親は球団創立に深く関わった政治家の谷川昇で、広島市を流れる太田川が鯉の産地であるばかりではなく、「鯉のぼり」という言葉があるとおり、鯉は滝を登る出世魚であることから採用したという。
2016年9月10日は広島カープが25年ぶりの優勝に沸いた。英語の「カープ」が単複同型であることも、今年の広島カープの戦いぶりから、ピッタリ感がある。
7年前に開設された新本拠マツダスタジアムが、カープの成績を急回復に導いたといわれる。
04年の球界再編騒動で球団の存続が危ぶまれるようになると、「新球場建設」の機運が高まった。
球団創設期に市民がカープの資金難を救おうと始めた「たる募金」も再現し、市や県、地元経済界などが総事業費90億円を負担し、09年4月の開場にこぎつけた。
球団は米国に目を向け、大リーグやマイナーリーグ合わせて40球場近くを視察し、野球以外でも3世代で楽しめる「仕掛け」を取り込んだ。
そして球場が女性も楽しめる場所に変えられ、「カープ女子」なる言葉も生まれた。
広島優勝で目立ったのは、市民の目に涙があることだった。それだけ優勝までの苦節を市民が共有してきたからだろう。
1948年、戦争で打ちひしがれた人々の願いを受け、中国新聞社代表取締役2名、広島電鉄専務の3名がプロ野球で初の「市民球団」創設の発起人となった。
そして、アマチュア野球でもプロ球界でも実績を持つ石本秀一を初代監督として招聘することが決定した。
石本もそれを快諾し、本拠地は広島総合球場とした。
ところで「市民球団」というのは自治体の負担で運営されるもので、核たる親会社がない。そのため球団組織に関するバックアップが十分ではなかった。
そして石本は球団発会式に参加した際に、この時点で契約選手が1人もいない事実を知らされる。
球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかったのである。
石本秀一は広島市の石妻組という土木請負業の子として生まれた。尋常小学校時代からエースとして活躍し、旧制広島商業学校では2年生でエースとなる。
野球熱の盛んな広島で二年でエースを張る石本は有名人だったという。
1923年に満州から帰国し、大阪毎日新聞広島支局の記者となる。しかし、母校広島商業の試合を久しぶりに見た石本は、あまりの不甲斐なさに激怒し自ら志願して26歳で監督に就任する。
そこで「野球の鬼」と化した石本は、練習が終わると立ち上がれない程の超スパルタ式練習を課した。
そして1924年広島県勢、また近畿以西として、また実業学校として初優勝を果たし、その後も3度の全国制覇を成し遂げた。
バントや足技で相手の意表を突く「広商野球」を築いた人こそ、この石本秀一である。
その後に新聞記者に復帰し、1936年プロ野球開幕年大阪タイガースの二代目監督に招かれた。 そしてタイガース黄金時代を築き上げた。巨人・阪神の「伝統の一戦」は石本によって始まったといって過言ではない。
ただ、石本の野球人生は「戦争」によって頓挫した。
広島市に原爆の投下された日、石本は広島市から北に30km、向原町に疎開中で、当日朝は畑で耕作中のため無傷で済んでいる。
しかし親族には焼け死んだものが多く、生き残ったものとして広島にナントカ夢を与えようという気持ちから、監督要請に応えたものだった。
しかし石本監督をもってしても1年目は惨憺たる結果で、最下位の8位(最下位/勝率.299)でシーズンを終えた。
しかも、この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた。
成績に比例して収入は落ち込み、5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生している。ニ軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみという惨状だった。
セリーグ連盟は加盟金の支払いにも応じることができず、1951年2月分の給料や合宿費が支払えず、選手への給料の遅配は当然で生活が苦しく、キャバレーのステージに立って歌をうたい生活費を稼ぐ者もいた。
遠征費も捻出できず、大阪から広島まで歩くと言い出す選手もいて、球団社長らはセリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」と厳しい叱責を受けた。
そして、広島市の旅館で行われた役員会では、下関に本拠を置く大洋ホェールズ(現・横浜DeNA)との合併が決まり、選手達は実質「解散」に等しい決定を、テレビのニュース速報で知った。
役員会の報告を受けるために中途参加した石本は、グローブを買うために貯めたお金を使ってくれと差し出した子供のことや、旅館の周りに集まった市民達の悲痛な訴えをせつせつと語り、役員会の「合併方針」は寸前で撤回された。
そして石本は、ファンに協力を求め危機打開を図るという「後援会」構想を打ち出し、石本自ら陣頭指揮をとっての球場での「樽募金」は名物となった。
1952年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。
これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定に目途が立つことになった。
1957年に広島市民球場ができ、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来て「大型補強」を可能にした。
1973年古葉竹識がコーチから監督に就任し、「赤ヘル旋風」を巻き起こした。
1975年、広島は、中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目でセリーグ初優勝達成した。
この時、77歳の石本はインタビューで涙をみせつつ「感無量」と語った。
また1979年・80年と伝説の江夏と近鉄打線の日本シリーズに勝利し広島の連続日本一となる。
1982年11月10日、86歳にて死去している。

原爆で壊滅した広島市民に夢を与えた人々は、野球だけではなくサッカー界にもいた。
サッカー日本代表監督も務めた森孝慈(もり・たかじ)は広島出身で、現役時代は正確な技術と鋭い読みを併せ持ったMFで日本リーグのスターだった。
日本代表選手としては東京、メキシコ五輪に出場し1968年メキシコ五輪ではストッパーに転向し、釜本邦茂、杉山隆らとともに「銅メダル」を獲得した。
1979~80年西ドイツにコーチ研修留学し、日本代表コーチを経て、1981年日本代表監督に就任している。
また1998年からは我が地元のアビスパ福岡の監督をつとめた。
ところで、日本サッカー協会は、オリンピック開催をひかえ1960年にドイツ人コーチをまねいた。
なぜイギリス人ではなくドイツ人だったかというのは、伊藤博文が憲法を学びに行った先が、なぜドイツだったのかに少し似た問題かもしれない。
おそらく「組織性」や「協調性」が強い点でドイツ人と日本人とに国民性の上共通点が多いと思われたのかもしれない。
後述するように、日本人が第一次世界大戦でドイツ人捕虜からサッカー技術を学んだ「前史」も関係しているかもしれない。
当時西ドイツから招いたデットマール・クラマーは、1960年~64年まで日本代表を指導した人物で、寝食を共にして日本人の理解を深めようとするなど、「日本サッカーの父」と呼ばれている。
そのクラマーの教えは、実にシンプルで、次の3つの基本に忠実であることだった。
Look before (前もって見る、前もって考える)、Meet the ball (最短距離を走ってボールをもらいに行く)、Pass and go (パスを出したら、すぐに空いたスペースに行く。
クラマ-は、この基本を繰り返し繰り返し日本人選手にタタキこんだ。
当時の日本選手の中でリフティングを10回以上できる選手はたった一人しかいなかったのだが、東京オリンピックではあのアルゼンチンを破り「ベスト8」、メキシコオリンピックでは「銅メダル」をとるという奇跡に近い快挙をなしとげたのも、クラマーの指導に負うところが大きい。
クラマーの指導をうけた森氏が亡くなったのは、奇しくも東京五輪でアルゼンチンに勝利した駒沢競技場のすぐ隣の病院だったが、個人的に2011年7月の森氏の「訃報」に目が留まったのは、森氏が我が地元・アビスパ福岡の監督だったからだけではなく、日独サッカーの「アル因縁」に関わった人だったからだ。
そのことを知ったのは、ドイツでワールドカップが開催された2006年、広島の宇品港から8キロのところに浮かぶ小島・似島(にのしま)を訪れた時のことだった。
フェリーの中、なにげなくパンフレットをみていると森芳磨という人物が、この小島に「似島学園」を設立した経緯が書いてあった。
その人物紹介の中に、教師の森芳磨が森孝慈の父であることを知ったのだ。
そもそも、自分がこの似島を訪問したようとした目的は、ドイツ人捕虜収容所があり、日本で最初にベートーベンの「第九」が演奏された徳島の坂東とともに、「平和学習」の拠点として注目を集めていたからだ。
第一次世界大戦中、日本軍に青島を攻撃されて捕虜となったドイツ兵723名はこの似島の収容所に送られた。
そのドイツ人捕虜の中には高度なサッカー技術を持つものが少なからずいて、広島高師(現・広島大学)の学生達がサッカーを習いに、宇品港から船で20分をかけてこの島を訪れたのである。
そして1919年には、広島高師とドイツ人捕虜との間で試合も行われ、日本人はつま先でボールを蹴ることしか出来なかったのに対し、ドイツ人はヒールパスなども使い日本人学生を翻弄した。
広島高師は、0ー5、0ー6とで敗れたのだが、ともあれこれが日独サッカー初の国際試合となった。
この時、サッカーを習いにやってきた広島高師の学生だったことには大きな意味があった。
なぜなら彼らの多くが「教師」として子供たちにサッカーを教えることになるからだ。
ちなみに日本のサッカーの始まりは、1873年、東京・築地の海軍兵学寮へ指導に来ていたイギリス海軍のダグラス少佐とその部下33人の軍人が、訓練の余暇にプレーしたということなっている。
しかし、サッカーの本格的な技術は「似島発」で全国に普及するのである。
例えば、似島でドイツ人にサッカーを学んだ田中敬孝は1920年広島高等師範学校を卒業後、母校広島一中の教師に赴任し、サッカー部を指導した。
その田中の教え子が、元マツダ社長で東洋工業サッカー部創設者の山崎芳樹である。そしてこの東洋工業サッカー部が、現在のJリーグ「サンフレッチェ広島」へと発展する。
ちなみに、サンフレッチェの「フレッチェ」はイタリア語で「矢」を意味し「三本矢」の意味だが、広島・毛利藩に伝わる「一本の矢は弱いが三本の矢は強いという」教えから名付けられたものである。
また田中の教え子の中には、元三菱自動車工業会長で三菱重工業サッカー部(現浦和レッズ)創設者の岡野良定などもいた。
つまり、ドイツ人にサッカーを直接学んだ田中敬孝は、二つのJリーグチームのリーダー格の人材を育てたことになる。
ところで、似島には安芸小富士とよばれる海抜300メ-トルほどの山があり、この山に登ったドイツ人捕虜達も、波静かな瀬戸内の風景に望郷の念をかられたであろう。
この山に登る途中、「いのちの塔」と出会った。似島は、瀬戸内のウララカサとは対照的に日本人にとっても重い歴史を刻んでいる。
日清戦争の時には日本人帰還兵の検疫所となり、太平洋戦争末期には原爆被災者の多くがこの島に送られた。
戦後、広島県庁の職員であった森芳磨は、街にあふれていた戦災孤児のため施設・「似島学園」をこの島につくった。
この学園の場所こそ、ドイツ人捕虜収容所があったあたりで、この学園にもドイツ兵の高度なサッカー技術が伝えられた。似島中学校のサッカークラブはしばらく「県下一」の実力を誇ったのである。
そして、森芳磨の子供である森健二・孝慈兄弟が、ドイツ仕込みの技術が伝えられたこの学園に学びサッカ-に励んだのである。
森孝慈の兄の健二もサッカ-界に寄与し、Jリ-グの専務理事に就任している。
ところで、ドイツ人捕虜達が似島で日本人に伝えたのは、サッカーばかりではなく、ホットドッグやバームクーヘンの作り方を日本人に伝えた。
これらは、現在世界遺産となった「原爆ドーム」として知られる「広島物産陳列館」で紹介され、一般に知られることになった。
特に捕虜の一人カール・ユーハイムは、クリスマスにドイツケーキを焼き、解放後も日本に残ってバームクーヘンの店を神戸三宮に開き、今日までその店「ユーハイム」は発展し続けている。
カール・ユーハイムは、1908年、中国・山東省青島のドイツ菓子の店で働いていた。
ドイツの軍港であったこの地は、第1次世界大戦中、イギリスと同盟していた日本軍が1914年に占領し、カール・ユーハイムは1915年から「似島」の捕虜収容所で暮らすことになる。
1919年のドイツ降伏で自由となった彼は、東京・銀座で働き、やがて横浜で妻の名を冠した「E・ユーハイム」という店を持ったが、1923年の関東大震災に遭い、着の身着のままで神戸へやってきた。
そして、神戸・三宮にケーキと喫茶店(ユーハイム・コンフェクショナリ・アンド・カフェ)を出して成功した。
そしてユーハイムの店は、彼の死後、もうひとりのサッカー選手と深い関わりをもつことになる。
「神戸一中」サッカー部の部長であった河本春男である。
河本は1910年愛知県に生まれで、刈谷中学校でサッカー部に入り3年時には全国大会で優勝した。
河本は、愛知県・刈谷中学卒業後1928年には東京高等師範学校(現・筑波大学)に進学した。
1932年高師を卒業し、神戸一中の校長の要望によって神戸へ赴任した。
神戸一中の校長は早くから河本に目をつけていた。刈谷中学がかつて「神戸一中」(神戸高校)を倒した時のキャプテンだったため、東京高師側に強く要請して獲得したのだという。
神戸一中は小柄な選手が多いチームだったが、河本部長の下でその特性の素早さを生かして体格の不利を補い、数々の栄冠を獲得することになった。
しかし、その河本とサッカーとの関わりを断ち切ったのは、「戦争」だった。
河本は1939年に神戸一中から岡山女子師範に転勤したが、戦局の悪化とともに軍隊に入り中国大陸へ渡った。
さらに復員して岐阜県庁に勤めるものの1947年「体育主事」を退職して岐阜県高山の実家に近い牧場からバターを思い出深き神戸の菓子メーカーに売る商売をはじめ、「アルプスバター社」を設立した。
一方、神戸・三宮に店を出していた「ユーハイム」は、戦後夫亡き後に会社を引き継いだエリーゼ・ユーハイムが「実権」を失う瀬戸際のところまできていた。
そんな時エリーゼが目をつけたのが、ユーハイムに品物を納めていた河本春男であった。
そしてエリーゼ夫人から、じきじき河本に会社を引き継いでくれないかという要請があった。
会社の経営状態は極めて厳しく、エリーゼ夫人の熱意に押しだされたカタチであるが、1971年エリーゼ・ユーハイム社長死去ののち、河本は同社社長に正式に就任した。
河本には、強力に選手の心をつかむばかりではなく、誠意と気配りでOBたちの気持ちを一つにまとめてきた「実績」があった。
そして、河本新社長の下でユーハイムの再建がはかられた。
後を継いだ河本武社長の下で、東京ディズニーランドのスポンサー企業となるなど次々に布石を打ち、常に改革を図ってお菓子業界における今日の「ユーハイム」ブランドを確立した。