異国にて名士となる

異国の地でたった一人戦った日本人は少なからず。そのなかには現地の名士となり、「山」をも動かした人もいた。
1983年に訪日したレーガン大統領が国会のスピーチで、自身が選んだ「三大日本人」を語った際、福沢諭吉、松尾芭蕉と並んで、長澤鼎(ながさわ かなえ)という日本人の名があがった。
一般には馴染みの薄い長澤だが、「薩摩の留学生15人」の一人で、1865年薩摩藩より森有礼らとともに12歳の若さでイギリスに留学している。
彼に与えられた課題は「造船」で、スコットランド・アバディーンのグラバーの実家のお世話になりながら学校にかよった。
しかし、明治維新で国内情勢が一変したため、藩からの送金は途絶え留学生15人のうち、9人が帰国を余儀なくされた。残った6人の留学生も英国を去り、長澤は1867年にニューヨークへ移住した。
帰国した留学生達は、明治政府の有能な官僚として出世ていくなか、長澤のみアメリカに残り五大湖のひとつエリー湖畔でぶどう園に従事した。
そして1875年、ぶどう栽培により適した気候を求め、ただ一人サンフランシスコから北へ約50マイルのサンタローザに入植した。
当時は、山に川、集落が点在する田舎で、鍬を持ち、山を切り崩して、畑を作り、木を植え、地道に原野開拓に励んだ。
カリフォルニアには、すでに「ミッション・ワイン」と呼ばれるものがあったが、儀式用に宣教師が作ったものに過ぎなかった。
長澤は、高級ワインを育てるには科学が必要と、カリフォルニア大学デービス校の教授に教えを請い、醸造技術を学んだ。そしてカリフォルニアで最初のプレミアム・ワインを作り、長澤が所有した「ファウンテングローブ・ワイナリー」は成功を収めた。
サンタローザに来たのは23歳の時で、若くしての成功が日本への帰国のタイミングを失した理由のひとつだが、帰るにせよ薩摩藩はもはやなく、日本はあまりに急速に「前時代」を脱ぎ捨てつつあった。
また、現地で日本人は長澤ただ1人であったため、「日系排斥」の対象にはならず、人々からはワイン王「バロン・ナガサワ」と尊敬され新聞に取り上げられた。
彼のワインは米国内のワインコンクールで好成績を納め、イギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインもナガサワ・ワインであった。
好調なワインビジネスだったが、集中豪雨や渇水、病虫害に遭ったりし、5万本すべてのぶどうの木を失ったこともあった。
さらに禁酒法(1920~33)により、ワイン作りに大打撃を受け、借金をしながら「食用ぶどう作り」でビジネスを継続させた。
密売を持ちかけた業者の前で樽を割って拒絶したエピソードが残っている。
生涯独身を貫き、83歳で死ぬと彼が所有した土地の一部は現在パラダイス・リッジ・ワイナリーが継承し、その偉業に感銘を受けたオーナーにより、彼の名を冠したシャルドネが毎年少量造り出されている。
忘れかけられたワイン造りにかけた日本のサムライの名を蘇らせたのが、前述のレーガン大統領であった。
ちなみに、鹿児島中央駅前東口広場にある薩摩藩英国留学生17名の像「若き薩摩の群像」の一人として銅像が建てられている。

アメリカ社会における「日系人差別」と戦った夫婦の思いが、「アジア初」そして「南米初」のオリンピック開催という「山」をも動かした。
フレッド・和田勇の父、和田善兵衛は1892年に和歌山県からカナダのバンクーバーへ「出稼ぎ漁師」として移住している。
その後、同郷の女性と結婚し、1907年に和田勇が生まれた時には、カナダ国境に近い米国ワシントン州ベリングハムで小さな食堂を経営していた。
しかし勇は、生活苦のために4歳の時に和歌山の母方の祖父母に預けられた。9歳で米国に戻ったが、弟たちが次々と生まれ居場所がなくなり、12歳の時からシアトル郊外の 農園に住み込んで、雑役夫をしながら学校に通った。
17歳のときにサンフランシスコの農作物チェーン店に移り、1年後にはその仕事ぶりが評価されて店長に抜擢された。
さらにその2年後には独立してオークランド市内に「野菜販売」の屋台を出すようになる。
当時アメリカの青果店では様々な種類の野菜を普通に並べるだけだったが、和田の店は陳列を工夫して野菜を種類別に見栄えのするように店頭に並べた。
そしてこの青果店は大繁盛し、和田はオークランドの「日系人社会」で一躍注目される存在となった。日本流「おもてなし」の初期の発揮例といえる。
そして和田は、1933年26歳の時に正子と結婚した。そして二人の子が生まれた。
1941年和田は、34歳の若さにして25人の従業員と3軒の店を持ち、日系食料品約70店からなる協同組合の理事長になっていた。
しかし、同年12月に太平洋戦争が勃発すると状況は一変した。日系人の太平洋沿岸3州での居住が禁止されてしまったことから、「強制収容所行き」をヨシとしなかった和田はユタ州の農園が人手不足で困っていることを聞きつけ、翌1942年3月にユタ州に移り大規模な農園を開設した。
しかし農園の経営は非常に苦しく、1944年に農園の経営をあきらめ、同年5月に同じユタ州の別の農地に移り家族で農業を営んだ。
1945年8月15日、和田は日本の敗戦を知った。戦争は一日も早く終わって欲しかったが、日本にもアメリカにも負けてもらいたくなかった。
和田夫妻は空襲で焼け野原になったと聞く祖国のことを思うと、涙が止まらなかった。
戦後、子供達が喘息持ちとなったという事情からオークランドには戻らず、湿気の少ないロサンゼルスに移住しスーパーマーケットを開いた。
このスーパーも非常に繁盛し、カリフォルニア州内で17店舗を構えるまでに成長させた。
そうした中、1949年8月、選手8名からなる日本「水泳チー ム」がロサンゼルスに到着した。
全米水泳大会に出場するスポーツ界「戦後初」の海外遠征である。
前年にロンドンで戦後初のオリンピックが開かれていたが、日本は参加できず、日本選手権を同時期に開催して「記録の上」で競うことにした。
1500メートル自由形決勝で、1位の古橋と2位の橋爪が出した記録は、ロンドンの金メダリストより40秒以上も速い世界新記録だったが、「公認」されなかった。
ロスを中心とする西海岸だけで10万人以上の日系人が住んでいたが、日本のプールは短いとか、日本のストップウォッチは壊れているとか書き立てるアメリカの新聞に、日系人は悔しい思いをしていた。
当時日本はいまだ占領下にあり、GHQのマッカーサーに「出国許可」を得て遠征したが、「旧敵国」としてジャップと言われたり、唾を吐きかけたり、ホテル宿泊を拒否されたりした。
彼らは日本の敗戦で肩身の狭い思いをし、白人から「ジャップ」と蔑まれてきただけに、祖国日本の選手たちに熱い期待をかけていたのである。
そして和田夫妻は、選手たちの宿泊から食事まですべて自費で面倒見ようと申し出たのである。
妻正子は、おいしく栄養のつく日本食でもてなした。
日本で貧しい食事しかしていなかった選手たちは、正子のごちそうに大喜びし、広いベッドで十分な睡眠をとった。また和田は、練習のためのオリンピック・プールへの「送り迎え」を担当した。
そしていよいよ全米選手権が始まった。
結局、日本チームは3日間で自由形6種目中5種目に優勝、9つの世界新記録を樹立し、個人では古橋が1位、橋爪が3位、さらに団体対抗戦でも圧倒的な得点で優勝を飾った。
古橋と橋爪をたちまち50人ほどの白人が取り囲んで、「グレート・スイマー!」「フライング・フィッシュ・オブ・フジヤマ!」と賞賛した。
和田夫妻もバンザイをしながら、止めどなく涙があふれた。内輪の祝賀パーティーで、古橋選手らの活躍によって、ジャップと呼ばれていたのが、一夜にしてジャパニーズになり、みんな胸を張って街を歩けるようになったと挨拶した。
そして実際、日系人の「入店拒否」がなくなっていったのである。
また和田はコレをきっかけに、当時日本水泳連盟会長の田畑政治や東京大学総長だった南原繁、後に東京都知事となる東龍太郎らと親交が生まれた。
1958年には東京オリンピック招致に向けた準備委員会が設立されるが、和田も田畑・東らに懇願される形で委員に就任した。
和田は東京でオリンピックを開催すれば日本人に勇気と自信を持たせることができ、日本は大きくジャンプできるにちがいないと、その仕事に燃えた。
しかも、デトロイトや、ウィーン、ブリュッセルなどもオリンピックに「立候補する」という情報が入っていたため、もはや店のことなど「二の次」となってしまった。
和田は「中南米諸国の票」がカギを握っていると考え、自費で各国のオリンピック委員を自ら説得して回ろうと考えた。
しかし、スーパーの客として知り合った1人のメキシコ人以外には、南米にはなんのツテもなかった。
そのメキシコ人の農園を訪問し、誰でもいいから「有力者」を1人紹介して欲しいと説得し、ようやく1人のIOC委員との面会にまで辿りつくことができた。
そして和田はその人物に、オリンピックはいままで欧米でしか開催されたことがない、東京で開くことに投票してもらえないかと懇願した。
しかし委員は、南米の国々はアメリカの開催を何より望んでいる、アメリカの意向を無視することはできないと拒否した。
そこで和田は委員に、オリンピックを一緒に実現しないかと意外な提案をした。
もしも「アジア初」の東京開催が実現したら、次は「中南米初」のメキシコシティー開催を支援しようと訴えたのである。
この言葉に、メキシコ人のIOC委員の心が動いた。
1959年、外務大臣の手配で和田は「特命移動大使」権限を与えられ、首相からの「親書」をもってプロペラ機に乗り込んで、南米10カ国を1ヶ月以上かけて廻る旅に出発した。
そしてIOC総会では、事前のデトロイト、ウィーンが有利という予想を覆し、東京が過半数を制し、1964年「東京オリンピックの開催」が決定したのである。
和田は、開催決定後は日本オリンピック委員会(JOC)の名誉委員となり、東京の次に開催される「メキシコオリンピック」の誘致活動にも尽力した。
1968年にその「実現」を見ることにより、メキシコへの恩返しを果たした。

柏田雄一は1958年に大阪の衣料会社「ヤマトシャツ」に就職した。当時、品質の良いヤマトのワイシャツがウガンダ共和国で大人気になり、現地にシャツ工場を作ることになった。
そこで白羽の矢が立ったのが柏田で、その理由は彼が外語大出身だという理由からで、柏田は家族を連れ未知なる秘境ウガンダへやってきた。
そこで雇用したのは現地のウガンダ人125名、彼らのほとんどが貧困に沈み込んでいた。
ところが工場が出来たことで従業員の生活は飛躍的に向上した。
柏田の工場で賃金を得たウガンダ人は家族を貧しさから救う事ができたのである。
柏田はやりがいのある仕事に満足していたが、ウガンダに来てから2年後クーデターが勃発。
それは初代大統領ムテサ2世を打倒すべく起こった反乱で、標的となったのはムテサ2世の出身である国内最大部族ガンダ族だった。
反乱軍は彼らの排斥運動を始め、ムテサ2世と同じ部族の出身という理由だけで、何の罪もない人々が次々と命を落としていった。
その運動は柏田の工場をも襲い、柏田はウガンダ族の従業員人達を匿った。すると、そこへ殺戮を行ったばかりの反乱軍の兵士がやってきた。
対応した柏田に対して、ウガンダ族の従業員を差し出さなければ撃つと言う。
柏田は、彼らはここでようやく生活をできるようになったのだから、彼らを引き渡すわけにはいかないと応えた。
銃口は柏田の頭部に当てられたが、次第にその力が緩んだように思えた。兵士は銃をおろし、そして「妹をここで雇ってくれないか」と言った。
兵士の妹も多くのウガンダ人と同じように安定した職に就けず貧困に喘いでいたにちがいない。
彼は貧しい人々を救う柏田の姿に心打たれ銃を下ろし、そのまま立ち去って行った。
そして、この柏田の行動がウガンダ人の心をうち、従業員との間に深い絆が生まれた。
そしてヤマトシャツは政府からウガンダで初となる学校制服の製作を受注し、工場は大きくなり12年間に従業員は約8倍の1000人になった。
しかしまたもや戦争が勃発した。1978年にウガンダ・タンザニア戦争が起こりウガンダの首都は壊滅状態となった。
身の危険を感じた柏田は家族に日本に帰国させ、本人も隣国のケニアに避難させられた。
そして暴動によりヤマトシャツの工場は工場は略奪の限りをつくされ破壊された。
そんな中、柏田は自力でウガンダへ向かい、すっかり無残な姿になってしまった工場を確認し、全身から力が抜け、茫然自失になった。
ただ柏田の自宅は奇跡的に暴徒から守られていた。
住民たちが、柏田の自宅を力を合わせて守ったのだという。
そのことに感銘をうけた柏田はウガンダに留まることを決意して、約2年をかけて工場を再建した。
ところが或る時、政府の要人にシャツを届けに行くと「お前はこの国で金を儲けさせてもらっているのだろう。金がないからお前が金を出せ」と理不尽な要求をだしてきた。
柏田がそれを断ると後日、国会で「柏田はウガンダ政府に反抗した。奴は殺すべきだ」と糾弾してきた。
柏田は、こんなにも腐った人間もウガンダにいることを思い知らされたが、それよりウガンダにこれ以上留まる猶予さえもないことを悟った。
この事態を知ったヤマトシャツはウガンダからの撤退を決意し、柏田は1984年、志半ばでやむなく日本へ帰国することになった。
日本に帰国した柏田はウガンダでの功績が認められヤマトシャツの副社長に就任した。
それから15年の月日が流れ、もう二度とウガンダに行くことはないと思っていた柏田だったが、1999年、突然にウガンダ大統領ムセベニによって再びウガンダに呼び出された。
それはウガンダのシャツ工場を再建して欲しいという要請であった。
実は柏田がウガンダを去った後、ヤマトの工場は国有化されたが怠慢な経営により経営が悪化し工場は閉鎖されていたのだ。
ムセベニ大統領はウガンダの経済を立て直してほしいと柏田に直訴したのである。
しかし柏田はヤマトシャツの副社長であり、勝手にウガンダへ行くことなどできない立場にあった。
柏田はその要請を固く断ったが、するとムセベニ大統領は「I beg you」と何度も言って頭を深々と下げた。
柏田は、そこまでする一国の大統領の願いを断ることはできずに、再びウガンダの人々とその未来のため働く決意をした。
「副社長」の地位を捨てヤマトシャツを退職したのである。そして69歳の時、再びウガンダへと渡り「フェニックス社」を設立した。
ウガンダの人々は、ウガンダ発展のために人生を捧げてきた柏田のことを、いつしか「ウガンダの父」と呼ぶようになった。