ゲノムとゲシュタルト

プロ野球史上で最もユニークな選手をあげよといわれれば、躊躇なく1968年に東京オリオンズ(現ロッテ)に入団した「飯島秀雄」という名前をあげたい。なにしろ、「野球経験ゼロ」というプロ野球選手だったからだ。
ただし飯島選手は当時、100メートル走の「日本記録保持者」という鳴り物入りでのプロ球界入りだった。
しかも飯島選手は、スタート・ダッシュに優れ、50メートルならば世界最速、ベースを回れば「世界最速」に近い記録で、ホームベースを駆け抜けた違いない。
数字上ならどれだけでも「盗塁」の山が築けそうなのだが、トラックとダイヤモンドでは随分勝手が違ったようだ。その「走力」が輝いた瞬間は数多くはなかった。なにしろ、相手チームにとって飯島選手の「盗塁」は常に「予想可能」。
飯島選手は実質、打つ、投げる、走るのなかで、走ることダケのために選手登録されていたのだから。
加えて、飯島選手にとって「塁を盗む」なんていうカケヒキは「無縁」のものだった。
今ロシアで「国家ぐるみのドーピング」が問題となっていて、ナゼカ飯島選手のことが思い浮かんだ。
それは、プロ野球選手「飯島秀雄」という違和感をともなった存在が、「筋肉増強剤」のようなインパクトがあったことの他に、「新種のドーピング」を暗示しているように思えたからだ。
それは、トラックで磨いた能力の一部を「切りとって」、別フィールドに「貼りつけよう」とした点である。
今ヤ、スポーツ選手の「ゲノム(遺伝子情報)の編集」を行うことが可能となり、これを「遺伝子ドーピング」とよんでいる。
それは、従来のドーピングよりスマートな方法、つまり、「見つかりにくい方法」で選手の能力をアップすることを可能としている。
この研究に注目が高まったのは1998年で、血圧に影響することが知られていた「アンジオテンシン変換酵素(ACE〉」の遺伝子のわずかな違い(遺伝子多型)が、「運動能力」にも関係すると論文発表されたのがキッカケだった。
そして2015年5月、運動能力やトレーニングの適性に関係ある「スポーツ遺伝子」を調べる国際共同研究「アスローム・プロジェクト・コンソーシアム」が立ちあげられた。
これによって、トップ・アスリートたちの同意を得て、最終的に選手1千人分の「ゲノム」が読み取られた。
日本もこの研究に参加していて、この4月東京都健康長寿医療センターに、エチオピアとケニアのトップレベル長距離陸上選手のほおの粘膜からコスリ取ったDNA「16人分」が届けられている。
こうした研究で、「筋肉の構造」にかかわる「ACTN(アクチニン)」には「RR・XX・RX」の3タイプがあり、「瞬発力」が必要な種目の選手には、「RR」の割合が高いとことが判明した。
また、同年ロシアの研究者らは専門誌に、運動能力に関わるとされる遺伝子多型は少なくとも120種にもおよび、その77種が「持久力」、43種が「パワー」や「瞬発力」系に関わることを発表した。
しかし、こうした研究が「記録向上」ダケを目標に追求されていけば、いつしか選手の遺伝子を操作する「遺伝子ドーピング」につながりかねない。
結局、「ドーピング問題」とは人の能力を上乗せして「国威発揚」に使おうという発想に基づくもので、「人間改造」にほかならず、2003年に国際ルールで禁じられた。
技術の進歩により、今ではゲノムを約20万~30万円で解読できるため、スポーツと遺伝子の研究が加速している。
また、ネットで手軽に申し込める「遺伝子検査」が最近増えており、「スポーツ遺伝子」が判定項目に入っていることもある。
つまり、「ゲノム編集」にまで至らずとも、「遺伝子検査」によって、記録の出せそうな選手に競技を「強いる」ことは大いにありそうなことだ。
このことで思い起こすのが、福岡県が2009年から全県あげて実施している「タレント発掘事業」である。
タレントといっても「芸能人」を発掘するわけではなく、運動面における「タレント(才能)」の発掘をネラッタものである。
最初に、およそ20種類の運動能力テストを行い、瞬発力や持久力、反射神経などを測定し、県全域から成績が上位だった子どもを選抜する。
そして、小学5年から中学3年までの間に、個人種目からチーム種目まで、最大で28の競技を体験させる。
こうした過程から、その選手が世界を目指せる競技は何かにつき、「適性」を徹底的に見極めるのだという。
このプログラムに参加し、「ライフル射撃」の才能を見出されたひとりが、当時県立高校3年の女子生徒であった。
10メートル離れた的を正確に狙い撃つ「ライフル射撃」で、ワズカ数回の練習で「高得点」をマークした。
福岡県ライフル射撃協会の理事が、「ぜひとも」とも、ライフル射撃に誘った。
そして、この女子生徒は、作年1月の国際大会で、抜群の集中力を見せて「銅メダル」を獲得し、その「才能」を実証したのである。
そして、2020年の東京五輪の有力候補選手である。
この女子生徒は、意外なことに、小さいころから「集中力がない子」といわれていたという。
したがって、こんな「取り組み」でもなければ、誰も「射撃の才能あり」ナンテことに気づくものはいなかったであろう。
本人もビックリしただろうが、この女子生徒の場合は、中学のバスケットボール部に所属していたため、「バスケしたい」とか、「走りたいのに」という気持ちを抑えつつ、本格的にライフル射撃に打ち込んでいった経緯がある。
それでも、出場した大会で好結果を出すにつれて、気持ちも固まっていったという。
そして、バスケットでは絶対にかなわないであろうオリンピック出場も目指せるほどの実力を身に着けていった。
以上のプロセスに「明白な倫理的問題はない」とはいえ、自然な人生の流れを大きく「曲げられた」ことには違いはない。
また、スポーツは一体「誰のために」という問題がつきまとう。
また、オリンピックを目指すことが本人にとって幸せなことなのか、誰にもわからない。
つまり、「タレント」を発掘されず「埋もれていた」方がヨホド良かったということもありうる。
人間は、「才能」と「精神力」と「目指すもの」が「調和」して、はじめて円熟したパーフォーマンスを表すことができるのだ。
それは、スポーツの競技者にとっても、良くあてはまることである。
旧約聖書にサムソンという髪の毛長さと「怪力」が比例する人物が登場するが、その才能ゆえにトラブル続きの人生をおくっていた。
ついには、デリラという妖艶な女性にだまされて、目までツブサれてしまう。
そんなサムソンが、持ち前の「怪力」を自分自身のためにではなく、神によって用いられる日が来る。
それは、サムソンを繋いだ柱で支えられた建物とともに自らを滅ぼす「最後の日」でもあった。
この物語は、「サムソンとデリラ」というタイトルで映画化がされるが、才能をドコデなんのために使うかということがテーマのヒトツである。
与えられた才能を己れのためにではなく、自分を超えたものに使うように導かれた時、才能を超えた成果を得ることができたことを示している。

「スポーツ遺伝子」の研究者とて、スポーツの成績には遺伝的要因だけでなく、練習や食事などの環境面、集中力など精神面が重要であることを指摘している。
したがって才能は、遺伝子の「塩基の並び方」によって見つけられるのかもしれないが、才能が開花するかどうかは別の問題である。
案外と不器用な人とか、様々な挫折体験がコヤシとなって、能力に「磨き」がかかることが多い。
またどんなに才能に恵まれていようと、興味や関心、ヒロイズムといった情熱や想像力に裏打ちされなければ、実際は育たないということもある。
それでも「才能」をいうならば、「スポーツセンス」あるいは「運動脳」も、「筋肉の質」に負けず劣らず重要な要素であろう。
「教わって身に着けられるものではない、生まれもった球さばき」などといった要素だ。
その点、東京都の国立スポーツ科学センターが行っている「スポーツと視力の相関関係」の研究は興味深いものがあった。
このセンターの設立当初から非常勤で診察を行う眼科医は、3330人のトップアスリートについて、競技中と同じ状態で調べた「静止視力」を分析した。
その結果、全体の8割以上が1・0以上だった。競技別に見ると、ゴルフやサッカー、野球などの球技系は1・0以上が85・6%と多く、柔道やボクシングなどの格闘技系は77%と比較的少なかったという。
静止視力は競技能力とも関係があり、特に速い球を扱う競技で、「視力の低下」が競技能力に大きく影響していた。
例えば、野球では静止視力が1・2から0・5に落ちると、競技能力は40%以下になったという。
かつてアジア・チャンピオンになった卓球の小山ちれは、視力を落とさないようにテレビを一切見ないと語っていた。
さて、個人的に「動体視力」という言葉を初めて知ったのは、オリックス当時のイチローが1シーズン200安打を超える記録を出した時のことである。
意外だったのは、前後や左右に動くものを見極める「動体視力」については、競技能力との相関はハッキリしないという結果だった。
なぜならば、球技のトップアスリートの中にも「動体視力」が一般人にも届かない人がいるからだ。
例えば、野球の一流投手の速球は時速150キロを超える。
18・44メートル離れたホームベースまで0・4~0・5秒だ。
その速球を打者は打ち返しているので、我々はつい速球に眼がツイテいっているとしか思えないが、米国の研究によると、プロ選手でもホームベースの手前4メートルで「視線がボールから離れている」という。
この原因は、眼球の構造にもある。スポーツ心理学の教授によると、「動く物体」を目で追う場合、眼球を1秒間に動かせる角度は100度程度。
これだと向かって飛んでくる速球を追い切れない。
それに加え、網膜から「ボールが見えた」という信号が脳に伝わるまで数十ミリ秒が必要だ。
脳が「見えた」と意識した時点で、実際のボールは先を進んでいることになる。
そして研究者は「一流打者は、ボールを手元で見るために一旦ボールから眼を離している」という興味深い事実を明らかにしている。
研究者によれば、眼球には視線を高速で跳ばす「サッカード」という機能がある。本を読んでいて次の行に移るような場合に使われる機能だ。
打者は球筋を予測し、サッカードを使って視線を「先回り」させているのだ。
結局、一流打者は、「未来のボール」の位置を脳内に作りだし、それに基づいてスイングしていることになる。
ただし、手元のボールはしっかり見ている。
それでは、「予測技術」を高め、それに合わせて体を動かす秘訣はドコにあるのか。
慶応大学のある準教授は、トップアスリートの「視野」に注目している。
視覚には対象を直視して詳細に見る「中心視」と、あいまいに広く対象を捉える「周辺視」がある。
周辺視は解像度は低く、本人に見えているという意識はなくても、無意識に体が反応できるといわれる。
初心者は「対象の動き」に集中してしまう傾向があるが、熟練者は「周辺視」で相手の動きを幅広く捉えている。
この要諦をとらえた言葉が剣道にある。「遠山(えんざん)の目付」と呼ばれるもので、相手の動きに惑わされずに遠くの山全体を望むように相対することが大切だという教えだ。
トップ選手はトレーニングを通じて、体を反応させるための最も良い「視野」を養っているということである。
ところで最近、人間の「認識」は人間の「心理」と深く結びついていることを思わせられることが多い。
心で受け入れないことは、「見ても見えない」「聞いても聞こえない」というカタチの情報処理が行われていることだ。
これに関して、人間の心理とものの見え方を研究する「ゲシュタルト心理学」という分野がある。
「ゲシュタルト」とは、形態・姿などの意味で、人間の知覚は「個別的な要素」によるものではなく、「全体的な枠組み」(=ゲシュタルト)によって大きく規定されるという考えを基本に置いている。
例えば、ある文字を見た時、線の数や払いの位置などを一つ一つ追わなくても、パット見でその文字を読み取ることができる。
さらに、文字が傾いたり、フォントが変わったり、場合によっては線が一本少なかったりしても、その部分に気が向くことなく同じように文字を読み取ることができる。
これは、「部分の違い」よりも「全体的な枠組み」が優先された結果である。
一方、「ゲシュタルト崩壊」ということもおきる。
文字や図形などをチラット見たとき、それが何の文字であるか、何の図形であるか一瞬で判断できるのに、「持続的」に注視し続けることで全体的な形態の印象、つまり認知が「低下」してしまうことをさしている。
例えば、文字の認知力の低下は段階的に、ハジメは「あれ、この字ってこんな形だったっけ?」と疑念が生まれ始め、ヤガテ正確な字がわからなくなり、サラニは線や点などの部分部分しか認識できなくなり、文字としての理解ができなくなる。
これが「ゲシュタルト崩壊」だが、誰もが体験することではなかろうか。
それがおきるのは、「全体的な枠組み」が崩壊し、「部分」に認知の対象が向かっている状態の時である。
そして「ゲシュタルト崩壊」を起こしやすい文字というものもあって、これらの文字を注視したり、何度も書き続けたりすることで、この現象が起こることが報告されている。
そして驚いたことに、この現象は文字や「幾何学形態」において起こるばかりか、「聴覚」や「皮膚感覚」においても生じるのだという。
大戦中 ナチスがユダヤ人に行なった実験に人格をコントロールするという名目で1日数回 被験者を鏡の前に立たせて、「お前は誰だ」とか言わせ、鏡の向こうの自分に話し掛けさせ、精神の変化を「観察記録」していった。
実験開始後10日を経過したころから「異変」が見られ始めた。
3ヶ月経った頃にはスッカリ「自我崩壊」し、自分が誰だか分からなく」なって狂ってしまったという。
この実験は、はからずも、人間が他者との関わりの中でノミ「正常」でいられる存在であることを、明らかにしている。
長く引き篭った生活をする人々が、痛ましい犯罪に到るケースがあるが、こうした「自我崩壊」と無関係ではないかもしれない。
とうわけで、「ゲシュタルト心理学」の教える内容は実に啓発的で、要するに、ジ~~ト見るより、ぼ~~~と見るほうが、「全体の枠組」が消えずに、よりよい認識が可能となるということだ。
だから、配偶者の顔をジ~~ト見て「なぜコノ人が自分の妻(or夫)なのか」などと問うてはならない。
「ゲシュタルト崩壊」でも起きたら、「コノ人誰だっけ」ということにもなりかねない。