大和君の冒険

北海道の山林に子供を「置き去り」にした事件で、両親ばかりではなく、日本中がホットしたホットニュースだった。
親としては、発見の喜びの半面、どこの家庭にもある少々手荒いしつけが、「置き去り事件」とか「しつけor虐待か」なんというシリアスなタイトルをつけられて、世界のニュースにまで取り上げられて、さぞや忸怩たる思いであろう。
いっそマーク・トゥエィンの「トム・ソーヤーの冒険」になぞらえて、「大和君の五日間の冒険」とか「大和君のしょっぱいピクニック」とかなんか前向きの記事にしてくれた方が、親も晴れやかな気持ちで生存を喜べるだろうに。
しかし今回の出来事で最もシリアスなのは、自衛隊の捜索能力で、その「想定の甘さ」にある。
なにしろ見つかったのが自衛隊保有施設で、しかも「雨」という偶然に助けられたというのだから。
それとは対照的に、大和君は自衛隊もスカウトしたいほどのサバイバル能力を示したといってよい。
加えて、大和君は自衛隊の想定を覆す行動で、その甘さを暴露したのだから、ハーバード大学のセキュリティを破ったフェィスブック創始者マーク・ザッカーバークに匹敵する。
旧約聖書には家族にイワバ「置き去り」にされて民族のリーダーになったモーセや、他国の宰相になったヨセフなどもいるが、大和君の今時珍しいタフネスぶりに真っ先に思い出したのは、新潟中越事件で暗闇の中で4日間もの間ひとりで生き延びた幼児のことである。
あるテレビ番組の取材で、幼児の「その後」を見て、さすが暗闇を生き延びただけのことはあると思えるほどの男の子に成長していた。
2004年10月、地震による土砂の中で4日間、救出を待ち続けた39才の母親と幼い二人の子供がいた。
そして母親と長女3歳に対する救出は遅れたが、2歳の長男・皆川優太君が奇跡的に救出された。
この日、ハイパーレスキュー隊の隊員らが到着し、さっそく土砂崩れの現場で呼び掛けつつ、土砂の上にリモコンの「小型へり」などを飛ばした結果、かすかに「うめき声」を聞いた。
色めき立つ隊員達は、「絶対出すぞ」との決意をもって懸命の土砂の除去作業を行った。
そして、車と岩のわずかなすき間に立つ優太君を見つけ、ほぼ丸4日間真っ暗闇の中で耐え続けた小さな命を抱き上げた。
車は運転席が下になり、車底と岩の間に幅五十センチ、高さ一メートルほどのすき間ができていた。優太君はちょうどその空間に白いトレーナーにオムツを履いた状態で発見され、泣いてはいなかったという。
光が全く届かない中、水分があったことと瓦礫の下で温度があまり下がらなかったことが生存を可能にした。
優太ちゃんは「車の中でミルクを飲んだ」と話しているが、事故の前後は分からないという。
ところでこの救出劇は、余震の中での作業となり隊員達にとっても「命がけ」の作業であり、救出に際して利用されたハイテク技術の活躍も見逃せない。
土砂やがれきに埋もれた生存者を探すためのハイテク機器を装備していたからである。
しかし、そんなハイテク技術より一番の驚きは、雄太君の「生命力」の強さと「強運」であった。
雄太君は車の中から自分で出たのか、投げ出されて車外に出たのかは分からないが、意識は朦朧としていたもののほとんど怪我はなかった。
さて、68人が死亡した新潟県中越地震から10年たった日に、あるテレビ番組が、約92時間後に奇跡的に救出された皆川優太君を取材していた。
そこに見たのは、柔道に熱中する中学1年の少年に成長した姿だった。
柔道部の練習に現れた優太君の身長は170センチを超え、まさに「怪童」といった雰囲気だ。
小学校低学年から柔道を始め、新潟県魚沼市の大会では学年別で優勝している。得意技は、豪快な「大内刈り」だ。
一方、「自分だけでなく、相手のことも考えられる人になりたい」と語るだけに、性格は優しく、小学3年のときに巣から落ちてきた幼いムクドリを助け、今も大切に育てているという。
現在、新潟県魚沼市で祖父と祖母とともに暮らしている。
あの日、車に同乗していた優太君の母(当時39)と姉(当時3)は帰らぬ人となった。
祖父は「レスキュー隊が助けたのは優太だけでない。生きがいをなくしかけた自分とあちゃんの命も救ってくれた。母と姉の命が優太に託されたと思って、育てていると語った。
優太君は祖父母と1年に2、3回、事故現場に整備された「妙見メモリアルパーク」を訪れる。
自分が土砂に閉じ込められながら、今も生きていることに感謝し、「自分の命をかけて人を助ける自衛隊やレスキュー隊はすごい。僕も命を守る仕事がしたい」と将来の夢を語った。

昭和の時代「置き去り」が国民的議論の対象となった出来事がある。それは、映画「南極物語」で描かれた15頭の樺太犬にまつわる話である。
渋谷の「ハチ公像(2代目)」の製作者として有名な安藤士(あんどう たけし)にはもうひとつ、犬に関する記念像を作っている。
1958年に完成した東京タワーの麓にある15頭の犬の像である。
それは、第1次南極観測隊(1957年~58年)に参加した樺太犬15頭を記念し、59年に日本動物愛護協会がタワー敷地内に設置したものである。
犬たちのうち、奇跡的に生還したタロ・ジロの2頭を除く13頭は南極の地で死去したと見られており、その「慰霊」の意味も込めての記念像である。
ただ、020年の東京五輪招致を応援するため、招致のシンボルマークを「花」で描くことになり、この15頭の犬像は2013年に撤去され、今は国立極地研究所(東京都立川市)に移転している。
さて、この15頭の樺太犬が置き去りにされた経緯は、映画「南極物語」にも描かれた。
北村 泰一(後に九州大学名誉教授)は、ドラマ「南極大陸」の「犬塚」に相当する方だが、第一次越冬隊員の中でただ1人、第三次越冬隊に参加して、昭和基地を再び訪れ、生き残っていたタロとジロに再会した人物である。
映画「南極物語」も、北村氏の著書をベースにして制作されたものだ。
以下、映画の「名前」で概要をいうと、1957年南極に設置された昭和基地では、隊員の潮田、越智を含む11人の第一次越冬隊と、15匹のカラフト犬が越冬生活を送っていた。
結成した犬ぞり隊で見事に任務を果たし、次の越冬隊と交代を控えていたが、例年にない悪天候と氷河に阻まれ、第二次越冬隊を乗せた観測船は立ち往生していた。
それから約4ヵ月後、往生したままの観測船から飛行機が基地に到着し、本日中に全員昭和基地から脱出せよと命令が下る。
しかし重量と燃料の関係から、犬達を連れていくことは許されず、潮田達は苦渋の決断で、数日分の餌を与え「置き去り」にする。
日本に帰国した潮田は大学を辞職し、置き去りにしてきた犬たちの元の飼い主に「謝罪」する旅に出ていた。中には激しく叱責する少女もいた。
潮田が隊員の越智と再会し、「犬達をこの手で殺してやればよかった」と悲痛な思いを語った。その一方、南極に残された犬達は、自力で鎖から脱出しようと悪戦苦闘していた。
無事に鎖からの脱出に成功した8匹には、さらなる過酷な状況が待っていた。基地の餌も食べ尽くした犬達は、食糧を求めて南極をさまよう。
アザラシを襲ったり、氷の中の小魚を掘り出して食べたりするうち、足を滑らせて氷海へと落ちてしまった犬もいた。
そりの先導犬だった犬や、リーダー格の犬も息絶え、犬達の数は次第に減っていった。
一方、日本で第三次越冬隊が結成されることを知った潮田と越智は、自ら志願して再び南極の地へと向かっていた。
ヘリコプターで昭和基地へと到着した二人は、鎖がついたままの犬達の亡きがらを見つけ激しく慟哭する。
茫然としたまま氷原を進む二人の眼に、黒い二つの影が映った。走り回る二匹の犬、タロとジロの姿だった。
潮田は信じられないようにしばらく見つめたのちに、彼らを呼ぶように声をあげる。
その声に呼応して、潮田のもとへ駆け寄ってくるタロとジロ。歓喜する犬達に押し倒されながら、潮田はタロとジロを抱きしめる。
さて上述の北村氏は、犬と別れるときの葛藤を次のように書いている。
「もし、第二次越冬隊が来なかったらどうしよう。この際、最悪のことを考えて、手を打っておくべきではないか。首輪の穴を縮めるなど最悪のことだ。私はこの不安と不満を西堀(第一次越冬)隊長にぶつけた。」
「そのとき、西堀隊長はこう言った。『北村、それが探検だよ。非情なことでも、目的を達成するために、それが最良のことなら、心を殺してそれに従わねばならないものだよ』」。
「西堀隊長はこうも言った。『首輪を締めなくて犬が離れ、第二次越冬隊が来たときに、その犬に手こずったらどうする。交 代ができるかどうかわからないにしても、今は、できると信じよう。それに向かって最高の準備をしよう」。
最終的に、15頭の成犬オス犬が昭和基地に残置された。体重の重いオス犬を「宗谷」の飛行機でピストン輸送して救出するなどということは不可能だった。そんなことをしていたら、宗谷が氷海に閉じ込められてしまう状況であった。
南極で、クサリに繋がれた犬はもちろん、クサリから放された犬も、結局は餓死することは目に見えていたが、犬を射殺して当時の北川氏には、餓死する苦しみを除いてやろうという考えは、ほとんどなかったようだ。
越冬隊は、帰国後の6月、大阪の堺市で、南極に残した15匹は、すべて天国へ旅立ったと考えて慰霊祭を行った。
この時、犬ゾリ・地質担当だった菊池隊員が、弔辞で、南極に残したカラフト犬の名前を1匹、1匹呼んでいった。
菊池隊員は、13匹までは、スムーズに名前を呼ぶことが出来た。ところが、あと2匹の名前が、どうしても出てこないのだ。
あれほど南極にいた時、犬達を可愛がっていたのに、なぜか2匹の名前だけが思い出せない。
やむなく菊池隊員は、13匹の名前だけ呼んだところで、弔辞を終えた。
この時名前がどうしても思い出せなかったのが、「タロ」「ジロ」であったという。

日本史の中で、人間の「置き去り」というものを考える時、「棄民」という言葉が思い浮かぶ。
新潟中越地震の震源地・長岡市と日本海を挟んで位置する島が佐渡島である。
新潟県佐渡相川は「墓の町」といっていいほど多くの墓がある。ここは江戸時代に佐度の金山に島送りとなった人々が、故郷に帰ることなく葬られた場所である。
女流作家の故・津村節子は、時々この町を訪れ墓石の一つ一つが語る言葉を聴きに行ったという。
ひとつひとつは風にカキ消されるようなカ細い声でも、多くの声がひとつとなると「叫び」となって響きあうようにも感じられたことだろう。
ところで、岩手県・大槌町の森の中にひっそりと「風の電話」と呼ばれているものがある。
いかなる線にも繋がれていない白塗りの電話ボックスである。
このボックスに入るのは、2011年東北大震災で、生き残ることによって、かえって「置き去り」にされたという思いにさいなまれる人々。
岩手県の一人の庭師が自宅に「震災で突然の別れを強いられた被災者の心の助けになってほしい」と改めて植栽を整備した、
入り口には、「風の電話は心で話します 静かに目を閉じ 耳を澄ましてください 風の音が又は浪の音が 或いは小鳥のさえずりが聞こえたなら あなたの想いを伝えて下さい」とある。
設置した庭師の佐々木さんは震災前、いとこをがんで亡くした。悲しむ家族を癒やそうと、2010年冬不要となって譲り受けた「電話ボックス」を庭に置いた。
そして、春の訪れを待っていたら大震災が襲い、あまりにも突然、多くの命が奪われた。
「せめて一言、最後に話がしたかった人がたくさんいるはずだ。遺族と亡くなった人の思いをつなぐことが必要と思った」といから電話ボックスを開放した。
受話器を手に静かに話し掛ける人や、泣き続ける人。訪れても、躊躇して電話ボックスに入れない人などがいる。
備え付けのノートの中には、「ようやく別れを告げられた」などという言葉もあった。
さて、もしもアメリカの地の人影もまばらな草むらにポツネンと立つ墓に日本人の名前が書いてあったら、いかなる感慨が湧き上がってくるだろうか。
1915年在米邦字紙記者・竹田雪城によってカリフォルニア州エルドラド郡コロマのゴールドヒルの草地に人知れず眠る少女の墓が発見された。
竹田はこの墓を調査するうちに日本で最初の海外移民団といってもよい「若松コロニー」の存在と出会うのである。ちなみに、この若松は、福島県の会津若松をさしている。
幕末に薩摩長州に武器を売り込んだイギリス人グラヴァーが有名であるが、対する幕府側についた会津藩にもお抱えの武器商人ジョン・ヘンリー・シュネルという人物がいた。
彼は、戊辰戦争に敗れた藩を見限り新天地アメリカに日本人の村を建設しようとした。
日本の茶と絹を金鉱発掘の好景気に沸くカリフォルニアで作ればきっと成功すると考えたようだ。
敗戦によって前途を失った武士とその家族たちを説得し、1869年にたくさんの茶の実と蚕を携えて船に乗った。
しかしこの渡航は新政府の「正式な許可」は取っておらず、そのことがアメリカにおいて「若松コロニー」と呼ばれた日本人の村の存在を埋もれさせる結果となった。
とはいえ、旧会津藩のサムライとその家族たちは勤勉に働き茶の木は育ち、シュネルは1870年のカリフォルニア州フェア(見本市)にこれを出展する計画まで練っていたという。
しかしながらこのコロニーの命は、約1年間と少しだけしかもたなかった。日照り、資金不足、あるいは流行病など何らかの原因によるものだろう。
1871年4月、行き詰まったシュネルは日本で「金策」をして戻って来ると言い残しこの地を去り、二度と戻ってくることはなかった。
あとに残ったものは言葉もわからず、生きる糧もないまま途方にくれる日本人入植者達だけだった。
もちろん、明治新政府は政府の許可を得ていない「入植者達」について何も知らないし、知っていたところで「仇敵」会津の人々に対しては、「棄民」という結果しか招かないであろう。
さて、前述の記者・竹田は墓に眠る少女が住み込みで働いていた白人家庭を探し当てる。
この家の子孫は少女を覚えており、そればかりではなく歴史に埋もれていた「若松コロニー」の存在を明らかにした。
少女はシュネル家の子守として彼らについて渡米したらしい。コロニーの経営失敗後にヴィーアキャンプ家に引き取られ使用人として働く。
しかし1年足らずで彼女は体を崩しこの地亡くなってしまう。
少女の墓には日本語で「おけいの墓」と書かれていた。そしてその下に、英語で「1871年没、19歳、日本人の少女」とも記されていた。
この地で「おけい」と共にあった他の入植者達の行方は、杳(よう)として知れない。