数字の神秘

古代ギリシア人は「万物の根源」は何であるかを考えた。つまり変わらぬもの、揺るがぬものを求めた人達なのだが、多くの哲学者達は、水とか火とか原子とかといった答えをだした。
しかし少々風変りなのは、万物の根源は「数」と答えた人物、紀元前6世紀の「3平方の定理」で有名なピタゴラスである。
楽器リュラの協和音が弦の長さに比例することから、この世界は数字の網の中に存在し、「万物の根源は数の比例関係」にあるという特異な信念をもつに至った。
それどころではない。
ピタゴラスは、数字を「魂の世界」と結びつけていたのだ。
「言霊(ことだま)」という言葉があるなら、ピタゴラス、さしずめ「数霊(かずたま)信者」といえるかもしれない。
実際、彼は「ピタゴラス教団」という宗教団体を創設し、「人間は誕生前に魂の世界にあり、誕生後はそのことを忘れている」という信仰をもっていた。
それが、後のプラトンの「イデア想起説」に繋がることは容易に想像できる。
また、ピタゴラスは、それぞれの数に「人間的な」意味を与えることなどもした。
例えば、男性は強いので割り切れない「奇数」、女性は弱いので割り切れる「偶数」といった具合。
それでは、ピタゴラスに従えば、素数(1、3、5、7・・)は、1とそれ自身の数しか割りきれないので、「最強の数」となる。
ピタゴラスの「素数」に対する言及については何も知らないが、素数の並びをよく見ると「七・五・三」という日本の子ども「宮参り」の年齢に当たることに気がつく。
そして1000までの数字の中で素数を調べただけでも、頻繁に素数が表れると思いきや、一転して何も現われない砂漠地帯に入り込む。
実は、こうした「素数の並び」になんらかの「意味」があることを発見したのは、18世紀始めのスイス人数学者オイラーである。
オイラーは、素数が現れるたびに、階段を一段上るイメージを描きつつ、素数だけを使った「ある数式」をつくった。
そしてこのオイラー式が「円周率πの二乗×1/6」という驚くべき解をもつことを示した。
これは「無秩序な素数に意味なんかない」という批判を跳ね返すに充分なインパクトをもつ答えだった。
また19世紀前半のガウスも素数に魅入られた人だった。少年の頃より300万までにある素数を求めるうち、「自然との関係」すなわち古きより数学者が使っていた「自然対数表」との関係に気がついた。
「自然対数表」とはカタツムリの渦巻きや台風、銀河などに見られるある点までの「螺旋」の巻きの長さと、その一点までの「直線距離」を対応させたものだった。
ガウスもまた、オイラーがイメージした「素数階段」を上りながら、地上からの「段数」と階段上の「素数」を比べながら、「自然対数表」と対応させていった。
すると、「素数階段」を上るにつれて「自然対数表」との誤差がなくなることに気がついた。
そして、自然対数の底数(e)も宇宙を構成する重要な要素であることを明らかにした。
結局、ガウスは、素数の並びを調べるうちに、数のキング(π)と数のクイーン(e)とが結びつくことを示したのである。
さらに19世紀のドイツのベルンハルト・リーマンは、オイラー式の「2乗」の部分を「X乗」として一般化した式「ゼータ関数」を考えだし、そのXに様々な数字を入れて0になる点を探した。
素数だけで作った式だけに、ゼロ点はバラバラに散らばると予想したのだが、それに反して「ゼロ点が一直線上に並ぶ」という事実を見いだしたのである。
そしてリーマンは、ゼータ関数のすべてのゼロ点が「一直線」に並ぶという予想をたてた。
これを「リーマン予想」というが、その大きな意義は「素数の並びに意味があるか」という漠然とした問を、具体的な数学の問題として提示したことにある。
その後、「リーマン予想」の証明は、天才数学者の挑戦をことごとくハネ返した。
映画「ビューティフル・マインド」のモデルとなったアメリカのナッシュ博士を統合失調症に追い込み、ドイツの「エニグマ暗号機」を考案したチューリング博士さえも「自死」に追いやった。
こうなると素数の並びの解明は、人間が近づいてはならない「神の領域」にも思えてくる。
以後「リーマン予想」の証明つまり「素数の並びに秩序がある」ことの証明は、数学者の人生を狂わせることになると、次第に「忌避」されるようになった。
ところが1972年の、ある偶然の出会いによって、「リーマン予想」が再び脚光をあびることになる。
それは二人のプリンストン大学の「喫茶室」での物理学者と数学者の何気ない会話だった。
物理学者「あなたは数学のどのような問題を研究しているのですか」。
数学者「リーマン予想で使用されたゼータ関数のゼロ点の間隔を表す式です」。
そして数学者が書いた数式を見た時、物理学者の顔色が変わった。
物理学者が研究していたウランの重力エネルギーの間隔の数式とほぼ同じだったからだ。

さてピタゴラスのひとつの特徴は、数を様々な図形との関係で考えていたことである。
例えば、C(二乗)=A(二乗)プラスB(二乗)と表される「三平方の定理」は、三関係のそれぞれの辺に「正三角形」を描き、面積の関係からも証明できる。
またピタゴラスは、碁石のようなものを「正三角形」の形に並べて表すことのできる数を「三角数」とよんだ。「上下逆転」すれば、ボーリング場の「ピンの並び」といえばわかり易いであろう。
この数字を小さい順に並べると、「1、3、6、10、15、21、28、36、45」と並ぶが、これらの並びに出てくる数字を「三角数」とよんでいる。
また、碁石のようなものを「正方形」の形に並べて表すことのできる数を「四角数」とよんだ。「1、4、9、16、25、36、49、64,81」という並びである。
ピタゴラスは奇数を順にたしていくとその和が「四角数」になること、また隣り合う2つの三角数の和は四角数になることに気がつく。
ピタゴラスはこうした研究をするうちに「完全数」というものをみつける。
「完全数」とは、その数の「約数の和」が、その数自身に等しくなる数である。
最小の完全数は「6」であるが、約数である(1、2、3)を足すと6になる。
また、次の完全数は「28」である。約数(1、2、4、7、14)のすべて足すと確かに28となる。
28の次の完全数は「496」、その次は「8128」で、滅多に見つからない数で、現代のコンンピュータをもってしても40にも満たぬ数しか見つかっていないという「稀少な」数なのだ。
ピタゴラスは、完全数の中でも2番目に登場する「28」に注目し、それが宇宙の周期や自然の営みの中に見出されるとした。
月の公転や女性の周期、人間の細胞が入れ替わるのが28日などがその例である。
ところで個人的に「完全数」について初めて知ったのは、「博士が愛した数式」(小川洋子著/1995年)という映画だった。
この映画に、阪神びいきの老博士が、背番号「28」を背負った選手が江夏豊投手だったことを語る。
江夏といえば、ずいぶんと「神がかり的」なことをやってのけた選手だった。
オ-ルスターゲームでは、パリーグの強打者を相手に「9打席連続三振」の快挙をやってのけた。
また、延長12回をノーヒットノーランで押さえ、自らサヨナラホ-ムランで「決着」をつけたというゲームがあった。
また何といっても、広島の「抑え投手」の時代に、近鉄との日本シリーズ第7戦(最終戦)で9回裏「ノーアウト満塁」の絶対絶命のピンチを抑えたことが一番記憶に残っている。
しかも次の年の日本シリーズも同じチーム同士での最終戦、9回裏満塁で江夏が再びマウンドに上がるのだから、一体だれが「仕掛けた」筋書きなのか、完全数「28」との関係は別としても、いまだに不思議である。

「数の神秘」といえば世界的大ベストセラー「ダヴィンチコード」で紹介されていた「黄金比率」(1:1.61803 )というものを思い出す。
自然界にはこの「黄金比率」によって象られているものが実に多いという。
つまり、この宇宙の背後には、偶然では説明のつかない「知性の輝き」といったモノが存在しているということだ。
「黄金比」はヨーロッパでは古くから最も美しい長方形として親しまれてきた。
ルーブル美術館に所蔵のミロのビーナス、パリの凱旋門、ギリシャの遺跡パルテノン神殿では、この「黄金比」が利用されている。
さて、このように「黄金比」は芸術や建築の世界において多数見出されるとともに「フィボナッチ数列」と深い関わりがあるという。
それでは、「黄金比」それを導き出す、「フィボナッチ数列」とは何か。
我々は今、案外と身近なものに見出すことができる。
タバコのパッケージや、テレホンカード、クレジットカード、名刺など並べてみると、大きさは違えでもほぼタテ・ヨコの「比率」が等しい長方形であることに気づくにちがいない。
この比率はホボ「8:5」であるが、こうした長方形のことを「黄金長方形」、またソノ比のことを「黄金比」という。
さて、この比率は「フィボナッチ数列」から導き出すことができる。
”フィボナッチ”という言葉は、もともと12~13世紀に実在したイタリアの数学者の名前からきている。
そのの数字は順に 「1,1,2,3,5,8,13,21,34」となっていく。この数列の規則性は単純で、「隣り合う2つの数を加えると、次の数に等しくなる」というものだ。
このフィボナッチ数列は、自然界にも多くみられる。
1:「花の花弁の枚数が3枚、5枚、8枚、13枚のものが多い」こと。
2:「ひまわりの種の並びは螺旋状に21個、34個、55個、89個・・・となっている」こと。
3:「植物の枝や葉が螺旋状に生えていくとき、隣り合う2つの葉のつくる角度は円の周を黄金比に分割する角度である」などがある。
また、「フィボナッチ数列」の隣り合う2つの数の「比の値」をつくっていくと、1/1、1/2、3/2、 5/3 、3/5、13/8、21/13、34/21 と続けるいち、 2数の比の値は、段々と「ある値」に近づいていく。
その値こそまさしく、「1.619」という「黄金比」にほかならない。
かつてのベストセラー「ダビンチ・コード」によれば、 世界中どのミツバチの巣を調べても、メスの数をオスの数で割ると、同じ値が1、618対1が得られるという。
オウムガイは、軟体動物の頭足類で、殻の中の隔室へ気体を送り込んで浮力を調節するが、螺旋系の直径はそれより90度内側の直径との比率が1、618対1である。
植物の茎に葉がつく配列、昆虫の体の分節、すべてが驚くほど忠実に「黄金比」を示していた。
ダヴィンチは実際に死体を掘り出して骨格を正確に計測するなどして、人体の神聖な構造を誰よりもよく理解していた。
そしてダヴィンチは人体を形作るさまざまな部分の関係が(平均すると)黄金比になることを初めて実証した。
肩から指先までの長さをはかりそれを肘から指先までの長さで割ると黄金比、腰から床までの長さを、ひざから床までの長さで割る、これも黄金比である。手の指、足の指、背骨の区切れ目なども黄金比である。
まるで人間一人一人が神聖(黄金)比率の「申し子」みたいな存在なのだ。
混沌とした世界の底には、驚くべき数的秩序が隠されているようだ。

数の世界には、「不思議な数」というものが確かに存在している。
例えば、「142857」は魔法の数とよばれている。それは、「×2」とか「×3」をするとわかる。
2倍すると、「285714」、3倍すると「428571」だから、元の数と比べて数字の「並び」が変わっているだけだ。
5倍までしても同様な結果がでるのに、6倍にしたら突如として「999999」が出現するので、つい電卓が壊れたのかと思ってしまう。
さて、もうひとつ「魔法の数」をあげるとすると、「153」である。
実は、153はピタゴラスいうところの「三角数」で、1~17までの整数を全部足した数である。1+2+3+4+5+6+7+8+9+10+11+12+13+14+15+16+17=153。
また、153を逆さまにした351も、153と同様に三角数で、351は26番目の三角数である。
しかし「153」の不思議さはソレにとどまらない。
各桁の数字それぞれを三乗して足してみることを「立方化」よぶことにする。そして3で割り切れるならば、いかなる数字といえども「立方化」を繰り返せば、必ずこの「153」という数字に帰着するのだ。
まずは、153の各桁の数値(1、5、3)を3乗して足す「立方化」することからはじめてみよう。果たして、どんな数が出てくるか。
153→(1の3乗)+(5の3乗)+(3の乗) =1+125+27=153。
つぎに3で割り切れる手ごろな数「99」でためしてみよう。
(1)99→(9の3乗)+(9の3乗) =1458。
(2)1458→(1の3乗)+(4の3乗)+(5の3乗)+(8の3乗)=702。
(3)702→(7の3乗)+(0の3乗)+(2の3乗)=351。
(4)351→(3の3乗)+(5の3乗)+(1の3乗)=153。
前述したように、153を何度「立方化」しても153のままである。
さて「153」という数字は、新約聖書のある場面で登場する数で、特別な意味が隠されているようだ。
「シモン・ペテロが彼らに言った。『私は漁に行く。』彼らは言った。『私たちもいっしょに行きましょう。』彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
 イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは153匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった」(ヨハ21・3~11)とある。
さて、聖書の中の数字といえば、「666」が一番有名なのではなかろうか。
「ヨハネ黙示録」では世の終わりに「666」と数字がついた「反キリスト」または「偽キリスト」が出ると預言している(13章16節)。
新約聖書は、ギリシア語で書かれているため、アラビア数字ではない。
そこで、ギリシア数字(イオニア式)を、アラビア数字と対応させて各桁を合計すると、実に「面白い数字」が現れ出でる。
「Ιησουs(イエスース)」は、10+8+200+70+400+200=「888」。
ちなみに、「888」も3で割り切れる数であるから、先ほどの「立方化」を繰り返せば、「153」に帰着する。