その建物は残った

仏教がこの国に伝来してきた6世紀末、日本で本格的な「塔」が建てられるようになった。その中でも法隆寺の「五重塔」は、際立った建造物で日本の「世界遺産」指定第一号となっている。
ただ法隆寺五重の塔が、仏教によって国の災いを鎮めるためのシンボル的存在と思いがちだが、それほど「公的」な存在でもないらしい。
考古学者・梅原猛氏は、「隠された十字架」(1976年)で、法隆寺がナゼ建てられたかにつき、「斬新」にしてサスペンスを解くかのように読み解き、その結論は「衝撃的」な内容であった。
梅原氏によれば、法隆寺の建造目的は「仏法鎮護」のためなんかではない。聖徳太子の怨霊を「鎮魂する」目的で建てられたもので、その「大胆な仮説」を証明するために、数々の古典や史料などを論拠として提示した。
ところで梅原猛は、「鎮魂の条件」裏を返せば、「タタリの条件」として、次のようなものをあげている。
個人で神々に祀られるのは、一般に「政治的敗者」が多く、彼らは「無罪」にして殺害されたものである。
そして「罪無く」して殺害された者が、病気や天災・飢饉によって時の支配者を苦しめる。
時の権力者はその「祟り」を鎮め自己の政権を安泰にする為に、祟りの霊を手厚く葬り、祟りの神の徳を褒め讃え、貴い「おくり名」をその霊に追贈するのである。
これこそが日本の歴史の「裏公式」であり、梅原氏は「聖徳太子」(および長男の山背大兄王)がこの条件を満たしているとした。
その上で法隆寺の建造目的が聖徳太子・上宮王家の「怨霊鎮魂」の為であるとする可能性について論考したのである。
ところで、日本人が昔から恐れたのは「地震・雷・おやじ」だから、地震で簡単に倒れるようなものならば、それこそ「鎮護国家=怨霊封じ」に失敗したとみなされるため、「地震対策」についてもぬかりなく設計したにちがいない。
縄文時代の「三内丸山遺跡」の時代から、竪穴式の土間壁の家に「合掌」の小屋組みを架け、地震に強く壊れにくい構造となっている。
しかし、大陸から高床式の建物が伝来すると、生活の環境は格段に向上したが、もともと地震の少ない地域で発達した構造のため、地震による倒壊も増えた。
そのため、基石の上に土台や根がらみで柱を固定し貫を多用した小屋組み工法、「五重塔の心柱構造」などさまざまな技術が開発されその耐震性を高めてきたのである。
最近、超高層建築に使われるようになった「制振構造」は、この五重塔の「心柱」の考えを発展させたものである。
こうした塔こそが、日本人にとっての「新時代の幕開け」であったことを忘れてはならない。
なぜなら、奈良盆地の南に建立された飛鳥寺の五重塔が最初とされる。
やがて奈良時代に聖武天皇が「国分寺」なるものを創建し、「塔」はいよいよ全国的に展開する。
東北から九州まで60数ヵ国に「七重塔」が建てられ、そんなもの見たことも無かった当時の人びとは、「国」というものを意識させざるをえず、「新時代」の到来を強く印象づけたからだ。
さて、世界に目をむけると、近代の幕開けに最もふさわしいモニュメントがパリのエッフェル塔である。
パリのエッフェル塔は、「フランス革命百年」を記念して1889年5月に開催された「パリ万国博覧会」のモニュメントとして建てられたものである。
それは、ちょうど高品質の鉄材が大量生産が可能になったばかりの時期で、フランスにおける産業革命を印象づける、同時代へのプレゼンテーションともなったのである。
やがて広いフランス全土をカバーする通信施設やラジオ局もおかれ、さらにテレビ「電波の発信」も行なわれるようなるのだから、エッフェル塔は次の時代を指し示す「未来装置」であり続けた。
そして、初めて登場した「エレベータ」が人びとを一挙に高さ276メートルという展望台へ運び上げ、まるで鳥になったような視野を現実のものとして、大人気となった。
その一方で、このエッフェル塔の「醜悪さ」が気に入らない人物がいた。フランスの文豪モーパッサンで、パリの中でエッフェル塔が見えない場所で食事をした。
それがエッフェル塔内のレストランである。
これもモーッパサン流のユーモアとも皮肉ともとれる。
さて、日本ではじめて「エレベータ」が設置されたのは、1890年に浅草で開業した「凌雲閣」である。
東京における高層建築物の「先駆け」的存在で、完成当時は「浅草十二階」ともよばれ人々の人気をよんだ。
1890年の開業時には多数の人々で賑わったものの、明治末期には客足が減り、経営難に陥った。
なお設計者のウィリアム・K・バルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、設計時の構造強度ではエレベーターの施工は危険であると「猛烈に」反対したという。
関東大震災時の際に数多くの死傷者を出した「崩落」はバルトンの指摘通り、起こるべくして起こった「悲劇」と言えるのである。

NHK大河ドラマ第1号は、「花の生涯」(1963年)である。
舟橋聖一原作の「花の生涯」は、幕末の大老・井伊直弼の生涯を「花の生涯」と表現したもので、「井伊直弼」を尾上松禄、腹心の「長野主膳」を佐田啓二、愛人「村山たか」を淡島千景という豪華キャストで演じた。
さて、井伊家歴代の居城・彦根城は、徳川幕府が関西からの敵を防ぐために井伊直政に造らせたものだ。
その城址に二つほど興味深い建造物を見出した。
その一つ「埋木舎」は、彦根城佐和口御門に近い中堀に面した質素な屋敷で、創建は1759年頃と見られる。
井伊家の十四男として生まれた井伊直弼が13代彦根藩主となるまでの「不遇」の時期約15年を過ごした屋敷として有名である。
本来は「尾末町御屋敷」あるいは「北の御屋敷」の名で呼ばれていたが、この「埋木舎」は直弼の命名で、彼自身の思いがこもっている。
彦根藩井伊家では、藩主の子であっても世子以外は、他家に養子に行くか、家臣の養子となってその家を継ぐか、あるいは寺に入るのが決まりとされていた。
行き先が決まらない間は、城下の「控え屋敷」に入って宛行扶持(あてがいぶち、捨扶持(すてぶち)で暮らすこととされていた。
「尾末町御屋敷」はそうした「控え屋敷」の一つであり、下屋敷のような立派な建物でもなく、素材も一段下で大名の家族の住居としてはきわめて質素であった。
彦根藩主の十四男として生まれた井伊直弼は5歳のとき母を失い、17歳のとき隠居していた父・井伊直中(11代藩主)が亡くなり、弟の井伊直恭とともにこの控え屋敷(尾末町御屋敷、北の御屋敷)に入った。
300俵の捨扶持の部屋住みの身分であった。
3年余りして直弼20歳のとき、養子縁組の話があるというので弟とともに江戸に出向くが、決まったのは弟の縁組だけで、直弼には期待むなしく養子の話がなかった。直弼はしばらく江戸にいたが彦根に帰り、次のような歌を詠んでいる。
「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」。
自らを花の咲くこともない(世に出ることもない)「埋もれ木」と同じだとして、逆境に安住の地を求めてその居宅を「埋木舎」と名づけ、それでも自分には「為すべき業」があると精進した。
部屋住み時代の直弼は、のちに腹心となる「長野主膳」に国学を、さらに曹洞禅、儒学、洋学を学んだ。
半面では世捨て人のような諦念を抱きつつも、文武両道の修練に励んでおり、苦悩と屈託の多い青春であったことがうかがい知れる。
後に、この井伊直弼に幕府の「大老」という檜舞台が用意されており、重大局面で「花」のように人生を散らすだけの覚悟を生んだのも、この「埋木舎」の日々があったからではなかろうか。
彦根城址にあるもうひとつの興味深い建造物が「地震の間」で、茶座敷として1814(文化11)年に数寄屋建築として造られた。
「地震の間」は、その彦根城の下屋敷である楽々園の一画にある。
彦根城の天守閣は3層でそれほど大きくないが、城郭全体が、地形を巧みに利用して造られており、堅固な守りを構成している。
なんといっても、天守閣からは奥琵琶湖が一望できるのがよい。
8畳と4畳、2畳半で構成する計約40平方メートルで、床下を幅13・5センチ、高さ36・5センチの足固め(木製)で箱状に囲んでいる。
茶座敷のため、細めの柱を足固めに挟み込み、耐震性を高めているという。
その「耐震」技術は次のとうり。
建物は地底に組まれた土台の上に足固めを組み、その上に載せるように木造掘立式の建物が造られている。
柱は土台に固定されていないため、地震のときには建物全体が水平や上下に動き、地震の力を吸収する構造になっている。
そのため、舟形状の木製枕や石組の配置などにも工夫がなされているという。
こうした地震のエネルギーを吸収しやすい構造の上に建物を置いて、地震の被害から守る「耐震構造」は、最新の「免振工法」と同じ考え方で造られいる。
江戸時代に造られた「地震御殿」は、それまでの和風建築技術の上に、さらに「木造船」の技術を導入して耐震性を高めており、彦根城の地震の間では、建造以来数百年間に起こった地震にも耐えてきたといわれている。

このたび熊本の地震で破損がテレビに映し出されたのが、熊本城「飯田丸」である。
熊本城の飯田丸「五階櫓」、飯田丸の南西隅にあった櫓(やぐら)で、西南戦争前に陸軍により破却されていたが、2005年(平成17年)に木造復元によって再建された。
飯田丸五階櫓は加藤清正の重臣の一人である「飯田覚兵衛」が預かっていた「曲輪(郭)」にあることからこの名がついたのだが、ほとんど天守級の規模といってよい。
個人的に、この建物の破損のテレビ映像に目がいったのは、この「飯田覚兵衛」の屋敷跡が、我が地元・福岡市天神のド真ん中にあるからだ。
さて福岡市天神の、赤坂のバス通り(明治通り)に面して「大銀杏」が目につく。この「大銀杏」のある位置こそがそれで、真ん前に「飯田覚兵衛屋敷跡」の石碑が建っている。
それではなぜ、加藤家の重臣である飯田の屋敷が、この地にあるのだろうか。
実は飯田覚兵衛の父・飯田直景は、山城国山崎にて生まれた。
若い頃から加藤清正に仕え、森本一久、庄林一心と並んで「加藤家三傑」と呼ばれる重臣となった。
武勇に優れ、中でも槍術は特筆すべきものであった。
1583年の賤ヶ岳の戦いにおいても清正の先鋒として活躍した。
朝鮮出兵では、森本一久と共に亀甲車なる装甲車を作り、晋州城攻撃の際に一番乗りを果たしたといわれる。
なお、この功績により豊臣秀吉から「覚」の字を与えられたとされるが、書状などでは「角」兵衛のままである。
飯田直景は、土木普請も得意とし、清正の居城となった隈本城の築城には才を発揮した。180mにもおよぶ三の丸の百間石垣などは彼の功績といわれ、「飯田丸」と郭にも名を残している。
加藤清正の死後、三男・忠広が跡を継ぎ、忠広に仕えたが、その無能を嘆き、また没落を予言して、1632年に肥後熊本藩が改易(つまり熊本の殿様から降ろされた)されると、他家に仕えずに京都にて隠棲し、同じ年に亡くなっている。享年70。
そして直景の子・飯田覚兵衛も、加藤清正の重臣として、一番備えの侍大将として重用されたが、加藤家は「改易」となる。
理由は諸説あるが、主君を失った覚兵衛だが、加藤家と親密な間柄にあった福岡の黒田家に客分として迎えられることになった。
そして、覚兵衛は加藤清正を偲んで、熊本城から一本の銀杏の苗木を持ってきて屋敷の庭に植えたのが、現在でも赤坂行きのバス通りから目立つこの「大銀杏」である。
熊本城から苗木を移植された大銀杏が400年もの年月を経て、この地に立っているのはそれ自体驚きなのだが、その屋敷跡の「石碑」を読んでさらにおどろいたことがある。
それは、明治憲法・皇室典範の起草者井上毅(いのうえこわし)の生家こそが、この飯田家にほかならないのだ。
つまり、井上毅覚兵衛直景の長子・覚兵衛直国の直系の子孫なのである。
井上は、肥後国熊本藩家老・長岡是容の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になり、時習館に学び、江戸や長崎へ遊学し、明治維新後は開成学校で学び明治政府の司法省に仕官する。
その後、1年かけた西欧視察におもむき、帰国後に大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用された。
明治十四年の政変では岩倉具視、伊藤博文派に属し、伊藤と共に大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加したのである。
井上は教育勅語煥発のわずか5年後の1895年、文部大臣の任期半ばで亡くなった。
51歳の死は、精魂を込めた仕事で心身を使い果たしたことを物語っているかのようだった。

震災を含む数々の難を逃れた不思議な建物が、国際基督教大学(ICU)の広大なキャンパス内にある。
軽井沢のような別荘地の趣の中、かやぶきの「泰山荘」という建物である。
「泰山荘」は1939年、当時日産財閥の重役だった山田敬亮氏が別荘として完成させた。現存するのは六棟。最も知られる中心的な存在がかやぶきの建築物「高風居」の中にある「一畳敷」と呼ばれる書斎である。
さかのぼれば、その「沿革」はロマンあふれたものといってよい。
探検家であり「北海道」という地名の名付け親である松浦武四郎氏は生前、全国の著名な神社仏閣から柱、壁板などの寄贈を受けていた。
松浦氏は、それらの資材を使って1868年にこの「一畳敷」を造り上げ、当初は千代田区内の自宅にあったという。
松浦氏は1988年他界するが、「一畳敷」を構成する約90の柱などの寄贈元の神社を「木片勧進」として記録に残している。
松浦氏は、「一畳敷」を解体して荼毘に付してほしいと遺言したが、遺族はその価値の高さから「保存」を決めたという。
紀州・徳川家当主、徳川頼倫(よりみち)氏が、この「一畳敷」の存在を知り、港区の麻布に移築した。
1923年の関東大震災の被災を免れ、二四年には徳川家の移転に伴い、代々木上原へ。そして前出の山田氏の「泰山荘」建設に伴い、現在の三鷹市へ移転したのである。
1940年には山田氏から富士重工の前身で、戦時中、名戦闘機を送り出した中島飛行機会社の中島知久平氏に敷地を譲り、泰山荘は中島氏へ。こうした変遷の結果、大震災、東京大空襲による焼失を免れる。
中島氏は戦中、そして戦犯に問われた戦後も泰山荘の書院に蟄居し、世を去った。
泰山荘の価値に気付き、歴史をまとめたのは1985-87年、米カリフォルニア大東京スタディーセンター長を務め、ICUでも教えたヘンリー・スミス氏(現コロンビア大教授、日本近代史)で、学生達もその「保存」のために動いている。
国が指定した「文化財」でもない「一畳敷」が生き残ったのも、こうした見識あふれた人々によって伝えられてきた幸運によるものといえよう。