テロルの血脈

一昨日、GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の5兆円にも上る「損失」が公表された。
しかし、そもそも国民のなけなしの貯蓄をリスクの高い株式で運用しようという発想は、どこから生まれたのだろうか。
一言でいえば、株式による「運用比率」を揚げ株価を吊り上げるいわゆる「官制相場」のためである。
安倍首相は、相場には上がり下がりがあるので短期的な判断はしてほしくないと言いたいのだろうが、「イギリスEU離脱」で長い目で見れば見るほど「円高/株価下落」は続きそうだ。
「年金積立金運用」の失敗は、生活者から未来を奪い取る結果となり、当然「政治責任」をとるべきだが、その内容の詳細は「参議院選挙後」だという。
さて、政治学者・中島武志は最近の著書で、今日という時代が「血盟団」の時代と似通っていることを指摘した。
その血盟団の指導者として若者たちに仰がれたのが、井上日召(1886-1967)なる人物。
個人的に「血盟団」というオドロオドロしい名前の得体の知れない集団が、「一人一殺」というマガマガしいスローガンを掲げたゆえに、井上は「怪人的・妖怪的」存在にも映った。
しかし、中島氏の著述から見える「井上日召」像は、意外なものだった。
「自分は何者か?」という根源的な問いを抱えて悩むきわめて真摯な青年の姿である。
宗教を渡り歩き、神秘体験を経て、法華信者としての自己を確立するに至る。
折しも、時代は世界恐慌の只中、農村は貧しさで疲弊し、富を独占する財閥と無力な政党政治への民衆の不満は頂点に達していた。
そんな中、井上日召は、貧困に苦しむ農民たちのために泣き、私利私欲を貪る指導階級に憤った。
そして、日蓮のように闘い、「国家革新運動」に殉じることこそ己の「天命」と信じるに至る。
井上日召は、未来を閉ざされた感をもつ煩悶する農村の若者や学生らを糾合し、国家革新を志向する海軍の青年将校らと結託しながらテロへの道を突き進んでいく。
「血盟団」の考えでは、天皇はあまねく人々を照らす存在だが、その光を「雲」が遮っている。
その「雲」すなわち「君則の奸」を除くことを旨とする。したがって血盟団の理念としては、「一人一殺」というより「一殺多生」ということなのだ。
日召のもとには、彼より二十歳ほど年少の若者たちが集まってくる。
彼らは茨城県水戸市大洗出身で、小学校の教員や、大工、徒弟、工員、販売員などの職を転々としている農村青年たちだった。
彼らは、農村の疲弊、庶民の生活苦、格差社会、政党政治の無策などを肌身で体験していた。
しかし、井上日召は権力の掌握にも、新たな国家経営にも関心を持たず、ただ「破壊」のみを志し、青年たちに国家改造の「捨て石」になることを求めた。
大洗の血盟団員は、1930年11月の愛国者員の浜口雄幸首相狙撃事件を何かの「符牒」と見做なしたのか、上京を開始する。
そして1932年2月、血盟団員・小沼正による元蔵相の井上準之助の暗殺。3月、同じく血盟団員・菱沼五郎による三井財閥総帥の団琢磨の暗殺。
純朴な農村青年たちが凶行に至るまでの長い長い曲折に比べると、嘘のように慌ただしく事件は起き、一斉逮捕をもってアッケなく幕を閉じる。

血盟団員を輩出した大洗の町は、太平洋に面した町で水戸市に含まれている。
水戸といえば、水戸浪士による「桜田門外の変」における「井伊直弼暗殺」を直ちに思い浮かべるが、意外なのは、この水戸の浪士と深い関わりをもった一人の「福岡県人」がいたということである。
筑後国久留米(福岡県久留米市)の水天宮の神職の家に生まれた真木和泉(まきいずみ)という存在。
1823年に神職を継ぎ1832年に和泉守に任じられる。
国学や和歌などを学ぶが「水戸学」に傾倒し、1844年、水戸藩へ赴き会沢正志斎の門下となり、その影響を強く受け「尊王の志」を強く抱くに至った。
そしてこの真木和泉とともに久留米藩校「明善堂」で儒学者の薫陶をうけた人物に、権藤直(ごんどうすなお)という人物がいる。
この権藤直の父・権藤延陵は、日田の広瀬淡窓、筑後の笠大匡とならんで筑後の三秀才とよばれた医者だった。
子の権藤直は品川弥二郎・高山彦九郎・平野国臣とも親しく、彼の内に志士的な情熱が渦巻いていたのは確かなようだ。
そして「寛政の三奇人」の一人・高山彦九郎は、久留米の「権藤家の親類の家」で自決している。
高山彦九郎は1747年、上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)に生まれた。
13歳で「太平記」を読み、自分の祖先が南朝の武将、新田義貞につながることを知り、高山もまた若くして先祖に倣って「尊皇の志」を抱くようになった。
18歳で置き手紙を残し京都へ遊学し、三条大橋で皇居の方角に平伏したという。
27歳から47歳で自刃するまでのほぼ全ての年の日記やその写本が残されていて、茨城県の水戸では伝記が作られ「尊王運動」の先駆者的な存在とされた。
また、高山彦九郎は全国を歩いて各地の社会状況を膨大な日記に残したため、「旅の思想家」として再評価する動きもある。
諸国を行脚して「尊王論」を説いたため、幕府の追及を受け、1793年に、身を寄せた久留米の医師・森嘉膳宅で自決している。
森は久留米の儒医で、長崎で蘭方も学んだ交遊の広さで有名な人であり、高彦九郎とは江戸で知り会ったらしい。
この森嘉膳が、権藤直の親戚筋にあたるのだ。
そして、権藤直の息子が、血盟団と深く関わることになる権藤成卿(ごんどうせいきょう)である。
権藤成卿は、明治元年に福岡県三井群山川村(現久留米市)で生まれている。
権藤は、大阪に丁稚に出たり二松学舎に漢学を学んだりしながら、ふたたび久留米に戻って24歳で結婚をする。
日露戦争の機運が高まる中、権藤は親友を通じて、内田良平の「黒竜会」の動きに共鳴し、権藤は内田良平への資金援助を担当したらしい。
その一方で、権藤は「自治学会」運動という独自の構想を抱くに至る。1914年、麻生飯倉片町の「南葵文庫」にメンバーが集まった。
この「権藤サークル」は、1918年に満川亀太郎を世話人として結成された「老荘会」の輪の中に入っていく。
老荘会はすぐに満川・大川周明・北一輝らの「猶存会」となるが、「権藤サークル」はこれらを母体としながら、1920年に「自治学会」となっていく。
コレこそは権藤が主宰する権藤独自の結社であったといてよい。
「自治学会」は「社稷国家の自立」が叫ばれ、明治絶対国家主義を徹底して批判した。
「社稷」とは、土の神の社、五穀の神の稷を併せて言葉で、古代中国の「社稷型封建制」に由来する共済共存の共同体の単位のことをいう。
日本の歴史のなかで似たものを探せば、「郷」にあたるだろうか。
権藤は「社稷は国民衣食住の大源であり、もって国民道徳の大源である」と主張した。
古代中国に於いては、土地とそこから収穫される作物が、国家の基礎であると考えられており、村ごとに土地の神と五穀の神を祀っていたが、やがて古代王朝が発生するようになると、天下を治める君主が国家の祭祀を行うようになり、やがて国家そのものを意味するようになった。
中国では戦争に勝つと、戦いに勝利した国が敗北した国家の社稷の祭壇を破壊し、周囲の森を斬り拓いて天地のつながりを絶ち、前の王朝の廟や墓を破壊して祭祀を滅することによって、すなわち国家を滅ぼすこととされた。
20年ほど前、個人的に中国の北京の「天壇公園」に行った時のことを思い出した。
中国人は昔から、「天」は至上のものであり、万物を支配するという最高権威と考えてきた。
皇帝は、「天命」を受けた「天子」であった。こうして昔の人々は、神殿を建て、天神を祭り、圜丘(円形の壇)を造り、盛大な祭天(天を祭る)儀式を執り行って、天神の加護を祈ったのだ。
天壇は昔、天を祭った場所であり、人々は天に祈願ができたが、天を祭るのは天子だけの特権だった。
。 権藤成卿は、若き日に中国に遊んだ経験があり、「大化改新のクーデター」構想に思想的な確信をあたえた唐への留学生・南淵請安に理想をもとめたようだ。
それを“日本最古の書”である「南淵書」として発表したものの、たちまち学者たちの批判を浴びる結果となった。
とはいえ、「南淵書」は北一輝の「日本改造法案」とともに、昭和維新のひそかな“バイブル”となったのである。
そこにクーデターの理念と根拠が綴られていたからだ。
権藤成卿は、1923年の関東大震災前後、大杉栄の虐殺について、内田良平が「大杉栄が殺されたのは国家のためによろこばしい」と言ったのにカチンときた。
権藤には多分に無政府的なところがあり、そのため大杉栄にはシンパシーを感じていたからだった。
こうして権藤は内田との交流を断つことになる。

権藤が「自治学会」の運動を広げんとしていた1926年4月、東洋思想研究家の安岡正篤が、東京市小石川区原町(当時)の酒井忠正伯爵邸内に「金鶏学院」を創立した。
「金鶏」の名は、源義家に関する言い伝えによる。東北遠征の途上、同地に野営した義家の夢枕に黄金の鶏が現れ、夜明けを告げた。義家はこれを吉兆として、勇んで北上したという。
酒井が院長、安岡が学監を務め、1927年「財団法人金鶏学院」となった。
松下村塾・藤田東湖の塾の再現を期し、権藤成卿らが儒教や国体、制度学の講義を行った。
目前の実行、日常生活の闘争を主旨とせず、精神教化の結果が「日本改造」の原動力となることを期してその指導者の育成に努めた。
聴講生は軍人、官僚、華族が中心であったが、ここに井上日召や四元義隆といった、のちの「血盟団」の構成員も含まれていた。
これは、後に昭和の政治を背後から動かした安岡思想の人脈上の拠点となるものだった。
開校は1927年、全寮制で20名ほどの学生がいた。権藤はここで「制度学」の講義をうけもつことになる。
そして1929年の春、権藤は麻布台から代々木上原の3軒つらなった家に引っ越した。
1軒には自分が住み、隣には金鶏学院から権藤を慕って集まった四元義隆らを下宿させ、さらにその隣には苛烈な日蓮主義者の井上日召らを自由に宿泊させた。
また、のちに血盟団事件に参集する水戸近郊の農村青年の一部も代々木上原の権藤の家にさかんに投宿した。
つまるところ、権藤成卿は「血盟団メンバー」にそのアジトというべき場所の提供者だったのである。
1932年2月9日、井上日召の「一人一殺」を胸に秘めた小沼正が打ったピストルの銃弾が民政党の井上準之助を貫き、菱沼五郎の銃弾が三井の団琢磨を襲った。いわゆる「血盟団事件」の勃発である。
つつぐ5月15日、海軍の古賀清志によって第2弾の計画が実行に移された。犬養毅首相の射殺、牧野伸顕への襲撃、愛郷塾農民決死隊による変電所襲撃などが一斉におこなわれた。
いわゆる「五・一五事件」の勃発である。
かくて「昭和維新」は発動されたのだが、そのいずれにも権藤成卿がいろいろな意味で関わっていたといわれる。
五・一五事件ののち、権藤は目黒中根町に移り、そこで私塾「成章学苑」をひらき、農本自治主義を深めるための「制度研究会」を発足させた。
もはやテロリズムだけで革命はおこらないことを悟ったのか、1934年、権藤は「制度学雑誌」を創刊、制度学研究会を発足させ、機関紙「制度と研究」も出した。
権藤は、社会の「自治的進歩」のみが構想されるべきだと言いつづけたが、高まる戦争の不安のなか「国体明徴」が喧伝され、誰も権藤の言葉に耳を貸さなくなっていった。

昨日、バングラデッシュの首都ダッカで起きたテロで、日本人7人が死亡したという痛ましいニュースが伝わった。
我々の世代で「ダッカ」といえば、「日本連合赤軍」が1977年9月に起こした「日航機ハイジャック事件」が記憶に新しい。
このいわゆる「ダッカ事件」が起きたとき、当時の福田赳夫首相は「人命は地球より重い」として600万ドル(約16億円)の身代金を支払い、服役中の赤軍派の人間9名を釈放した。
この時赤軍派メンバーが釈放される用意された飛行機に搭乗するシーンは、いまだに鮮烈に脳裏に焼き付いている。
またこの時、諸外国から日本政府の対応が「弱腰」だと批判されたことは記憶に新しい。
それから23年後の2000年、我が世代はひとつのニュースに少々胸が高鳴った。
それは、日本赤軍の元最高幹部「重信房子逮捕」のニュースであった。
連合赤軍は1971年に結成されるが、最高幹部であった「重信房子」は海外で活動を行いながら、パレスチナで日本赤軍を正式に結成するものの、その行方はなかなか掴みがたかった。
重信房子は、レバノンの高原地方を起点に活動を本格的に開始して、1970年~80年にパレスチナの過激派組織と連携をして、現在でいえばテロやハイジャックなどの事件を空港や建物内で起こした。
その一つが1974年のオランダで起こした「ハーグ事件」で、その実行犯がバラバラに逃げたのだが、日本の公安は、日本赤軍の最高幹部が不法入手の偽造パスポートで国内に入国している情報をつかんでいた。
そして大阪府警「公安内」にその家族でさえ知らない6人の捜査員からなる秘密の組織「ゼロ」が設置された。
、 そして、公安第三課の視察警官が、重信に似た女性を見つけ、重信本人かどうかの「調査」が続けられた。
何しろ、少しでも尾行の気配さえ感じさせたら重信は偽のパスポートを使ってすぐにでも海外に逃げるに違いない。
重信の住む高槻市のマンションに、重信シンパと思われる男性がモノを届ける姿が何度かとらえられた。
公安は慎重の上に慎重を重ね、彼女が「重信本人」であるという決定的な証拠を探し続けた。
彼女の姿は雑誌のインタビュー取材などに応じた時の「美貌の女性テロリスト」のイメージとは随分隔たったものだったからだ。
そして2000年11月に警官の努力でタバコの独特の吸い方と、投げ捨てた「コーヒー缶」の指紋が一致したことで本人と断定して、大阪高槻市で「偽装パスポート不法入国」の(旅券法)で正式に逮捕となった。
公安警察内の「ゼロ」という、表向きには存在しない6人の捜査員たちの10年にも及ぶ執念が実った瞬間でもあった。
公安が偽装結婚していた重信に「奥平だな」と問うた時一旦は否定した。二度目に同じ質問したところ素直に認めたという。
2010年8月4日に開かれた裁判の判決結果は一審二審とも懲役20年という刑が確定した。
ちなみに、重信房子の父親は血盟団には属さなかったものの、「金鶏学院」にて四元義隆らと接点をもっていた。四元は鹿児島出身で、中曽根康弘、細川護煕政権では「陰の指南役」といわれた。
重信房子にもまた、「テロルの血」が流れていたということか。