屋久島に異人現る

この夏、屋久島を訪れると、フランス人やドイツ人の観光客が目についたのは少々意外だった。
宮崎駿監督がアニメ「もののけ姫」を制作するにあたり、屋久島の風景をかなり取り入れていることから、宮崎作品を通じてこの島の名を知った外国人も多いに違いないと推測した。
そして、目指す「縄文杉」へと向かう片道12キロの途中で、「ウィルソン株」というものに出会った。
それは昔、屋久島の住民が「年貢」として納めるためにスギの木を切りだした際に残った「切り株」なのだが、株内に潜り込んで或るポイントから空を写すと、空が「ハート型」に切り取られるため、特に若いカップルに大人気の「注目株」だという。
そこで、この「切り株」にナゼ外国人の名前がついているかが気になった。
調べてみると、アーネスト・ウイルソンというイギリス人「プラント・ハンター」の名前からつけられたということが判った。
「プラント・ハンター」とは新種の植物を探し出すことを仕事とする人のことで、ウイルソンは約2000種のアジアの植物を、ヨーロッパやアメリカに紹介し、尊敬と称賛を集めた人物である。
この人物の名前がこの「切り株」に付けられた経緯は後述するとして、屋久島にはもう一人の「異人」が足を踏み入れている。
その人の名は日本史の教科書にも載る「シドッチ」というイタリア人宣教師である。
江戸鎖国時代の1708年にフィリンピンのマニラから日本人に「変装」して島に潜入するも、背が高く色白のため、すぐに外国人だと見破られ捕まってしまう。
長崎に移送されて取り調べをうけ、さらには江戸の「キリシタン屋敷」に送られ、当時の幕閣の中心人物・新井白石の尋問を受けた。
シドッチは新井白石の理解によって厚遇をうけるものの、獄中で「伝道」したため独房に入れられ最後は獄死してしまう。
このシドッチとウイルソンという屋久島の土を踏んだ異人二人には、生きた時代、出身国、訪問目的などを見てもいかなる関係もないように見える。
しかし個人的には、この無関係に見える二つの異人の屋久島訪問には、遠巻きながら「繋がり」が感じられる。
つまり、シドッチが屋久島に潜入しなければ、ウィルソンが屋久島を訪問することはなかったかもしれないということだ。

我が地元・福岡には「薬院」という地名があり、その西2キロには福岡市植物園があるが、両者の関係はあまりないようだ。
薬院と関係が深いところといえば、むしろ東に約1キロの博多駅に近い全日空ホテルあたり(住吉4丁目)に「人参畑」とよばれた場所があったところだ。
黒田藩では、この地で高麗人参などの「薬草」をつくっていたことが、「薬院」という地名と関係が深いと推測される。
ところで、江戸幕府も現在の東京ドームに近い小石川の地で薬草を育てていたが、その場所が今日の東京大学付属「小石川植物園」となっている。
実は、冒頭で紹介したウイルソンは、1914年2月3日家族とともに来日した際、最初に何らかの情報を得ようと、当時東京帝国大学付属の「小石川植物園」を訪問している。
そこで、ウィルソンが耳にしたのが、日本の南端に位置する「屋久島」の名前だった。
その島には、太古の巨大スギがいまなお野生のまま生息していると聞き、ウィルソンは急遽予定を変更して、家族とともに日本探検の第一歩を屋久島からスタートすることにした。
さて、ウィルソンは1876年イギリス中西部の小さな村チッピング・カルデンで六人兄弟の長子として生まれた。家計を助けるために地元の園芸店で働き始め、16歳でバーミンガムの植物園の庭師見習いとして迎えられ、技術学校の夜間部に通いながら植物学の基礎を身につけていった。
人生の転機は22歳の時で、ロンドンの著名な種苗会社が中国に「プラント・ハンター」を送る計画があり、そこで当時王立植物園で働いていたウィルソンに白羽の矢を立てたのだ。
「プラント・ハンター」は、今だ未踏の土地において知られざる植物を発見し採集するのを目的に派遣される探検家であった。
チベットや四川省の楽山など中国奥深くまで調査を行い、ウイルソンの名前はアメリカでも聞こえるようになり、ボストンの社交界で尊敬されるようになり、"Chinese Wilson"と呼ばれるようになった。
しかし、4度目の中国行きで足を負傷し、フィィールドを生活の場としてきたウイルソンの心には隙間風がふいていたのかもしれない。
そんな折、ハーバード大学アーノルド植物園が用意してくれた未知の国・日本への家族をともなっての調査旅行は「気分一新」の意味合いが含まれていたに違いない。
さてウイルソンが屋久島調査で出会った「切り株」は胸高周囲13.8mにおよび、1586年、豊臣秀吉の命令により大坂城築城(京都の方広寺建立とも)のために切られたといわれる。
この切り株は、1914年ウィルソンにより調査され、ソメイヨシノなど多くの桜などの収集とともに欧米にに紹介され、後年この株は「ウイルソン株」と呼ばれるに至った。
こうした功績はアメリカで特に注目され、ウイルソンは1927年に、アーノルド樹木園の園長となった。
さらには、アメリカ芸術科学アカデミーの会員に選ばれ、ハーバード大学などから名誉学位を得ている。

江戸幕府の8代将軍徳川吉宗といえば、享保の改革。
当時、商品経済の進展で緩んだ幕藩体制の引き締めや役人の不正防止、綱紀粛正など山積し財政再建が重要な課題であり、吉宗自ら指揮を執った。
未曾有の災害、飢饉にも襲われ、人々はいわば難民化していた。
地方から流入してくる相続する土地を持たない、いわば帰るべき故郷を持たない者で溢れた。
徳川吉宗はもともと紀州藩主で、疫病が流行し数多くの被害者が出ていることを目の当たりにして、将軍就任前から「問題意識」を持っていたといってよい。
そんな吉宗の政策の中でもユニークな政策のひとつが「目安箱」の設置で、庶民が天下の将軍様に直接意見を申し立てる機会を与えられるという画期的な政策であった。
江戸城にあった幕府評定所の門前に毎月2日、11日、21日の3日間だけ置かれ、投書できるのは農民、町民で、武士は「対象外」だったというのが画期的である。
その投書によってで実現したことのひとつが、江戸の町医者・小川笙船(おがわしょうせん)の投書から実現した「小石川養生所」の設置である。
小川笙船は町医者として、一度怪我や病気に罹ると運が悪ければ誰にも知られず、一気に奈落の底へという悲惨な現実を医療現場の最前線で嫌というほど見ていたといえる。
小川の「訴状」は17ヶ条からなり、貧しさから医療行為を受けられない人や身寄りのない者のための施薬院を設置するプランには、非常に具体的なものだった。
当時一流の幕府お抱えの医師(=官医)が診療にあたり、看護スタッフには健康でまだまだ十分に働ける高齢者を積極的に採用することなどが含まれていた。
ちなみに、山本周五郎先生の時代小説「赤ひげ診療譚」のモデルが小川笙船ではないかといわれている。

地下鉄丸ノ内線で「後楽園駅」を降りると「小石川植物園」があるが、そこから3駅ほど東京駅方面に行くと「茗荷谷駅」がある。
この「茗荷谷駅」を降りて小日向に近いいのが「切支丹(キリシタン)屋敷」跡で、キリシタン屋敷は「鎖国禁教政策」のもと島原の乱(1637~38年)の5年後、筑前(宗像市大島)に漂着したイタリア人宣教師ジュゼッペ・キャラ(~1685年)ら10人がすぐに江戸送りとなり、伝馬町の牢に入れられたことをきっかけに、宗門改役の井上政重の下屋敷内に牢や番所などを建てて収容所としたのがキリシタン屋敷の起こりであるとされている。
1792年の宗門改役の廃止まで使用され、20人のキリシタンが収容されたと記録に残っている。
キリシタン屋敷跡のある小日向町1丁目23番は、埋蔵文化財発掘調査が行われきたが、2014年7月この場所で3体の人骨が出土し、調査が進められていた。
そしてDNA調査の結果驚くことが判明した。そのうちの1体が、DNA鑑定や埋葬法などの分析を総合した結果、禁教時代のイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ(1667~1714年)である可能性が高いことが判明したのである。
シッドチは、徳川6代将軍に仕えた新井白石が尋問し「西洋紀聞」などにまとめたことで知られている。
発見された三体の人骨の1体は、国立科学博物館によるミトコンドリアDNA鑑定で、西洋系男性、現在のトスカーナ地方のイタリア人のDNAグループに入ることが判明、さらに人類学的分析で、中年男性、身長170センチ以上であることが判明した。
キリシタン屋敷に収容されたイタリア人は、2人の宣教師しかいないことが明らかになっており、それが前述のキャラとシドッチである。
この2人のうち、文献史料にある「47歳で死去、身長5尺8寸9分(175・5~178・5センチ)」というシドッチに関する記述が、人骨の条件にピタリと合ったのだ。
また、この人骨がシドッチのものである可能性を高めるもう一つの根拠となったのが、その「埋葬法」である。
イスラム教では、火葬は火あぶりと同じと見なされ、地獄に落ちたものだけが受ける拷問であるとされている。
キリスト教では、特にカトリックでかつて「火葬せよとの遺言はこれを執行してはならない」と教会法に定められ、火葬が背教のように見なされていた。
1975年の第二バチカン公会議において火葬も教義に反しないとされ、事実上は火葬も解禁となっているが、いまだに土葬を願う声が多い。
実は戦前までは日本においても伝統的な屈葬による「土葬」が一般的だった。
死体の手足を折り曲げるのは、死者が悪霊としてよみがえり、悪さをしないようにしたという説、もしくは母胎にいたときと同じ姿勢をとらせることによって再生を願ったという説がある。
ところで「文献史料」によれば、シドッチはキリシタン屋敷の裏門の近くに葬られたとされている。
今回発見されたイタリア人人骨の出土状況は、シドッチ埋葬についての記述と「一致」し、棺に体を伸ばしておさめるキリスト教の葬法に近い形で土葬されていたという。
一方で84歳で死去したキャラは、小石川無量院で「火葬」されたと記録に残っている。
そして、二人の「埋葬法」の違いには重要な意味が秘められている。
それはイタリア人宣教師でありながら、この2人が日本でたどった道が全く違うものであったことを「暗に」示しているからだ。
一方、キャラはキリシタン屋敷に禁獄中に「転向」し、岡本三右衛門と名を改めて、幕府の禁教政策に協力し比較的優遇された生活を送った。
この人物こそ、遠藤周作の「沈黙」のモデルとなったロドリゴ神父である。
ところがシドッチの方は「禁獄中」にあっても「伝道」したために、獄中にて死を迎えている。
シドッチが体を伸ばして棺におさめられ、土葬されたのは、彼がキリシタンとして死んだことを意味している。
1708年にフィリピンから屋久島に上陸したシドッチは、伝道用祭式用の物品をたくさんに携帯し、食料品よりもその方を多く持って上陸したといわれるほどに、日本での伝道を強く願っていた人物だった。
だが、念願の日本にたどり着いた直後に捕らえられ、死ぬまで江戸のキリシタン屋敷で獄中生活を送ることになった。
ただ、シドッチは、時の幕政の指導者で儒学者の新井白石から、直接取り調べを受け、白石はシドッチの人格と学識に深い感銘を受け、敬意を持って接した。
シドッチもまた白石の学識を理解して信頼し、二人は多くの学問的対話を行った。
この対話の中で得られた世界の地理、歴史、風俗やキリスト教のありさまなどは、白石によってまとめられ世界地理の書「采覧異言」が書かれている。
やがて幕府は、シドッチをキリシタン屋敷へ「宣教をしてはならないという条件」で幽閉することに決定し、シドッチは囚人的な扱いを受けることもなく、二十両五人扶持という破格の待遇で「軟禁」された。
ところが、シドッチの監視役で世話係だった長助・はるという老夫婦が、木の十字架をつけているのが発見され、二人はシドッチに感化され、シドッチより洗礼を受けたと告白したことから、シドッチと共に、屋敷内の地下牢に移された。
その後のシドッチは、きびしい取扱いを受け、10か月後に衰弱死したのである。
とはいえシドッチは、日本にキリスト教を布教するという本来の目的は果たすことはできなかったものの、鎖国下の日本に国際世界についての「視野」を開かせる一つの契機となったのである。

屋久島の南端シドッチの上陸地点「恋泊」に屋久島カトリック教会がある。その庭には「シドッチ上陸記念碑」が立っている。
個人的に、江戸時代のイタリア人宣教師シドッチと明治時代のプラントハンターであるウィルソンの遠い関わりに思いが至ったのは、その石碑に刻まれた内容からであった。
それは、新井白石がシドッチから聞き出してまとめた書物「西洋紀聞」や「采覧異言」を読んだのが徳川吉宗であったということである。
徳川吉宗は、「享保の改革」で緊縮財政を布き、質素倹約を推奨していたが、前述のとおり小川笙船の意見をとりいれ小石川薬園の中に「小石川養生所」を設立し、これが現在の小石川植物園となっている。
吉宗が行った「享保の改革」の中で、シドッチの影響を一番感じるのが「漢訳洋書輸入制限の緩和」である。
また吉宗は、将軍就任直後には薬草を研究する本草学者を登用し、全国各地の薬草調査を命じ、本草学者は全国行脚に出て、情報収集と人脈作りに励んだ。
また、調査結果を基に幕府直営、諸藩経営の薬園を整備している。
青木昆陽も徳川吉宗命により、漢訳洋書を通じて蘭学を学び甘藷(サツマイモ)の栽培法などを研究している。
福岡には享保の時代より少し前に貝原益軒という本草学者を生むが、こうした時代の趨勢から「薬院」の地名の由来となる「薬草栽培」もはじまったのだろう。
吉宗のこうした「進歩的」な理念の背景には、新井白石がシドッチから聞き取った文書に触れたことが大きな影響を与えたといわれる。
「西洋紀聞」などの著述は、西洋の知識、技術の優秀性を示しており、西洋の書を読むことが奨励される発端となったのである。
偶然だが、10月21日(1714年)は、シドッチが亡くなった日、徳川吉宗が誕生した日(1684年)でもある。
明治時代に未知の国日本にやってきたアーネスト・ウイルソンが最初に向かったのが小石川植物園。そこで聞いた日本の南端の島の名「屋久島」。
江戸時代にその屋久島に現れた異人がシドッチ。そのシドッチの影響を強く受けた徳川吉宗により蘭学解禁となり、小石川薬園に養生所が設けられたばかりか、本草学が研究され植物園として発展していく。
ウィルソンは屋久島をはじめて世界に発信した人と位置づけられるが、こうした関係を追跡すると、シドッチの屋久島潜入がなかったならば、ウィルソンが屋久島を訪れることもなかったのかもしれない。