「鄙」から異彩

日本海に面する北陸地方は、大都会を支える電力をまかなってきた。この地域の中でも、若狭湾周辺は有力な産業もなく、自治体は「原発誘致」に活路を見出そうとした結果、「原発銀座」となっていった。
最近、こうした地域の出身で、いまだに異彩を放つ人々のことが脳裏に浮かぶ。
さて、三島由紀夫の小説「金閣寺」といえば、実際に起きた「金閣寺炎上」に材をとった小説だが、三島以前に金閣寺の放火犯の心の内面をテーマに小説を書いた作家が、若狭出身の作家・水上勉である。
金閣寺が作家の題材となるのも、禅寺でありながら人を魅了してやまない蠱惑的な佇まいの故だろう。
ただ水上は、徒弟による金閣寺放火の動機を三島のように「美のシンボル」といった形而上のものとしてではなく、あくまで仏教徒として有り方としての悩みとして捉えた。
つまり、崇高であるべき仏教の教えが、この金閣によって世俗に堕しているという視点に立っている。
臨済宗相国寺派の禅寺である金閣寺の経営は、主として観光客からの拝観料によって成り立っている。
その潤沢さゆえ、本来あるべき、自身を無にする禅寺修行が行われず、すっかり「拝金主義」に陥っていたことに対する失望。
観光客の管理、運営に携わる「事務方」が、得度を授かった「徒弟」よりも幅を利かせている人間関係にも嫌気がさしていた。
少なくとも水上は、金閣寺に放火した青年にひとかたならぬ共感を寄せたに違いないが、それは水上自身の体験に基づくところが大であるにちがいない。
実は、水上も家が貧しく、禅寺の小僧になった体験があり、それが後々に人生にまで影響を与えた。
寺の小僧になったのも「口減らし」のためだった。寺では早朝から炊事や掃除をしなければならない。
あかぎり、しもやけの手を和尚に麻縄でくくられ、目覚ましがわりに引っ張られた。
若狭の「グジ(あまだい)」の塩焼きを和尚とおくさんだけで食べて、自分にはくれなかったこともウラミとなった。
赤ん坊のおむつ洗いの毎日で、ついに寺を脱走した。
それ以後水上は、42歳で直木賞作家になるまで、30種類以上の職業を経験し、結核の病や離婚を含む様々の苦労を重ねた。
また戦時で、南満州では竹刀をもって、中国人労働者の苦力に荷揚げや荷下ろしをさせるという権力者の立場に立つことも味わった。
そうした転職を繰り返しつつ、その中で人間観察を深め、密度の濃い文学に昇華させた。
戦後の日本は欧米に追いつけ追い越せと「上」「表」「中心」をばかりを目指してきた。しかし水上は常にその「下・裏・端」側にいた。
まとめていうと、彼の創作は、常に「鄙」(ひな)からの視点で生み出されたものだった。
さて、「金閣寺炎上」を第一報として世に伝えた産経新聞記者が福田定一。この記者は後に「司馬遼太郎」の名前で国民的作家として知られる。
新聞記者・福田のスクープは、おおよそ次のようなものであった。
福田が第一報で駆けつけた時には、既に舎利殿から猛列な炎が噴出して手のつけようが無く全焼してしまった。早朝、鎮火した現場に蚊帳のつり手や布団生地があったことから不審を抱いた警察は、行方のつかめない徒弟の1人で林承賢(当時21歳)の部屋を調べたところ蚊帳や布団などが無かったことなどから林が放火したと断定し、金閣寺裏山でうずくまっていた林を発見し放火容疑で逮捕した。
逮捕当初、林承賢は「世間を騒がせたかった」「社会への復讐のため」との動機を自供して犯行を素直に認めた、と伝えている。
さて、犯人の林承賢は1929年3月19日、京都府舞鶴市の西徳寺の住職・林道源の長男として出まれた。林承賢は生まれつきの吃音で、このことが死ぬまでトラウマとなっていた。
また父親は結核を患っており住職としての役務も満足に勤められず寝たっきりの状態だった。
当時の西徳寺の檀家は僅かに22戸で経済的にも困窮していた父親は43歳で亡くなる直前、伝手を頼りに金閣寺住職の村上氏へ子供の林承賢を弟子にして欲しいと依頼した。林は金閣寺にて得度式を行い、正式に村上氏の弟子となった。
林は父親代わりともなった村上氏の理解を得て大谷大学へ進学し犯行当時は大学3年に在学していたが、入学当時から比較して成績は下がる一方で登校もしなくなっている状況であった。
林は放火事件の数年前から金閣寺に疑問を抱くようになったという。その頃、「生とはいかん 死とはいかん 人生なんて無意味である。人間てなんだろう」と書きなぐっている。
また林自身も父親と同じ結核に怯え悩み、息子が金閣寺の住職に出世することだけを唯一の楽しみとしていた母親の過剰な期待等がプレッシャーとなっていた。
生まれ故郷の舞鶴の小さな漁村で成績は常にクラスでトップで、宿題が終わらないと周りの子とは遊ばない子だった。
父を結核で失い、寺のひとり息子であった。母一人の手で育てられた。林自身の証言によると中学時代からすでに虚無的な気持ちを抱いていたという。
金閣寺放火後、林は故郷に親子や親族との縁をきるという速達をだして欲しいと願った。そして母親と会うことを拒絶している。
1950年林は五年後刑期満了で京都刑務所を出所したが、1956年3月結核と重度の精神障害により入院中に死亡した。
作家の三島由紀夫は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と林の心を読み、この事件をモデルに小説「金閣寺」を発表した。
この作品のせいかテレビ番組では、母親の過剰期待と金閣の美に呪縛され散ったように紹介され方をしたことがあった。
しかし実際、作品の主人公のように、自分が愛着しなおかつ自分を拒絶する世界が自分が滅んだ後も、自分とはなんら関わりなく存在し続けることは許せないナンテいう心理が本当に働いたのか?
本人は、事件後に「おしょうだけがやってこんかな」と思ったという証言もあり、父とも思い自分の将来を左右する村上住職との関係に何らかの問題があったことを窺がわせる。
結核への不安もあって自分の将来を悲観する一方、寺のあり方や仏教のあり方に対する疑問も沸き起こった。
金閣は、自分もろとも「灰燼」してしまわないかぎり、逃れるようもない「何か」として立ちはだかったのかもしれない。
林承賢の死は、「新金閣」落慶の20日後のことであった。林の墓は保津川に身を投げた母親と共に舞鶴市安岡の墓地に並んで眠っている。

若狭湾周辺の地域は、いいものはみな大阪や京都など都会に貢いできた関係にある。珍しい魚も、上質の和紙も、労働力も都会に供給してきた。
そういえば若狭には「鯖街道」というのがあった。古代より若狭の海産物が京の都へ運ばれ、その中にあったのが大量の鯖。
これが京都で大衆魚として重宝されたことから、小浜から若狭町、熊川、滋賀県の杤木を越え、大原八瀬から京都への道が「鯖街道」と呼ばれるようになった。
200戸ほどの集落となり、今も100戸ほどがそのまま残っている。
そんな鄙びた地域には有力企業もなく、若者たちにとって「役所」や「信用組合」こそ、もっとも望ましい進路先だったかもしれない。
そうした地味な役場や信用金庫の仕事をしながら、「表舞台」で脚光を浴びた人もいる。
その一人が、広島カープの元エース・大野豊投手で、セリーグ左腕のエースといってもよい存在ともなっていった。
大野豊の実家は島根県で海に面していたため、幼少期から砂浜で走って遊んでいたことで、足腰が鍛えられ、後年の下半身に重心を置くフォームの土台にもなった。
母子家庭であり、母の苦労を見ていたので「中学を卒業したら、就職する」と胸に秘めていたが、せめて高校だけは出て欲しいと家族が要望したため、すぐに働くために出雲商業高校を選んだ。
高校2年から本格的に投手として投げ、高校3年の夏には島根県でも注目されるようになる。
強豪社会人チームからの誘いもあり、広島のスカウト木庭教もマークしていた。
しかし、当時の大野は体力的に自信がなく、また母子家庭で苦労をかけた母のため、軟式ながら地元で唯一野球部がある「出雲市信用組合」へ就職した。
3年間窓口業務や営業活動をこなす傍ら、職場の軟式野球部で野球を続けていた。
1976年に、島根県準優勝の島根県立出雲高等学校と、練習試合を硬式野球で行ったところ、5イニングで13三振を奪い、硬式でもそれなりに投げられたことで、プロへ挑戦し、母親を楽にさせたいという気持ちを持った。
その3か月後の1976年秋、出雲市内で広島東洋カープの野球教室が開かれ、当時の山本一義打撃コーチと主戦投手池谷公二郎が講師として参加。
「出雲市信用組合」野球部員は手伝いをすることとなり、大野の高校時代の監督が山本打撃コーチと法政大学野球部の先輩後輩の関係であったため、高校時代の監督へプロへの道を作っていただけないかと頼んだ。
恩師に頼んだ経緯もあり、翌1977年2月に特別に受験することとなり、呉市営二河野球場で行われていた二軍キャンプにおいて、山本と木庭の立ち会いのもと一人だけの入団テストを受けて合格。
3月6日、軟式野球出身という異色の経歴で、広島にドラフト外入団を果たした。
ただし、契約金なし、俸給は月額12万5千円の薄給だった。
1年目の1977年は9月4日の対阪神タイガース戦(広島市民球場)に1試合登板したのみだったが、この時片岡新之介に満塁本塁打を打たれるなど、掛布雅之からアウト一つを取ったのみで降板。
自責点5、防御率135.00という惨憺たる成績を残した。
この試合後、大野はあまりの悔しさに泣きながら太田川沿いを歩いて寮まで帰った。
本人によれば、帰寮直後には観戦していた友人から「自殺するなよ」という電話があり、山本一義コーチから「死ぬなよ」と言われたという。
大野は後年、「いくら成績が悪くとも、この時の防御率を下回ることは絶対にない。スランプの時にそう考えると、精神的に大分楽になった」と語っている。
1978年、南海ホークスから移籍してきた江夏豊に見初められ、古葉竹識監督から預けられるという形で、二人三脚でフォーム改造や変化球の習得に取り組み始める。
江夏は当時の大野について「月に向かって投げるようなフォームだった。しかし、10球に1球ほど光るものを感じたから、とりあえずキャッチボールから変えてみようかということになった」と語っている。

1961年5月20日、参議院庶務課に「参議院議員辻政信がラオスで行方不明」という情報がもたらされた。
辻政信は1902年10月11日、石川県の今立という山里で誕生した。
父の亀吉は「炭焼き」の仕事をしていたが、漢書を嗜む教養人であり、政信もそんな父の影響を受けて読書好きに育つ。
父は政信が幼いうちに他界するが、臨終の際、息子に「えらい者になれ」という言葉を残した。
当時の農村にとって「えらい者」とは、師範学校を出た教師、あるいは士官学校を出た軍人のいずれかを指すが、辻は軍人の道を目指した。
そして父親の言葉どうりに努力を続け、陸軍大学校では、優等の成績で卒業、恩賜の軍刀を拝領する。
軍人・辻政信が携わった主だった作戦には、ノモンハン、マレー侵攻、ガダルカナル攻略といったものがあり、マレー侵攻における辻の評価は高いものの、その他の作戦における彼の評価は非常に低い。
特にノモンハン事件では、不毛な土地の国境争いで無益に多数の兵を消耗したとして悪名が高い。
同じようにガダルカナルでも、彼は敵を見くびった戦いで惨憺たる結果に終わっている。
サイゴンで終戦を迎えた辻は、中国に潜入して日本再建のための情報収集を図るという名目の下、7人の青年士官と共に僧侶に化けて同地を抜け出している。
やがて日本に帰国した辻は、しばらく身を潜めて転々としていたが、戦犯指定が「解除」された翌年の1950年、世人がアット驚くかたちで姿を現した。
戦後の逃避行を描いた自伝小説「潜行三千里」を刊行、ベストセラー作家に躍り出たのである。
人気作を矢継ぎ早に発表し、作家としての人気を不動のものとした。
その人気に勢いをえた辻は、1952年に参議院選挙に打って出て、持ち前の「弁舌」が功を奏し、辻は見事初当選を果たす。
その後も彼は衆議院議員選挙に3回、参議院議員1回当選するが、政界における辻は「一匹狼」の浮いた存在でしかなかった。
なるほど彼は時に正論を吐くものの、正論を実現するため、他者を味方につける能力に「絶望的」に欠けていた。
そんな中、辻は「ラオスの左派パテト・ラオに、ソ連や中共、北ベトナムがどれほどの軍事援助をしているかを観察する」、「ハノイに行き、ホー・チ・ミン大統領と会見、ラオス、ベトナムにおける内戦停止の条件を聞き出す」という名目で「渡航願い」を出す。
起死回生を狙っての政治的業績作りか、それとも他の目的あってのことかはよくわからない。
ラオスのビエンチャンから徒歩で高原地帯に消えていったのを最後に、彼は歴史の表舞台から姿を消してしまった。

2010年1月、アッツ!と思ったのが浅川マキさんの訃報だった。それは忘れかけていたが、実になつかしい名前であった。
高校時代にお金持ちの息子が、「これぞ大人の女性の魅力」といわんばかりに浅川マキの「アルバム」を無理やりに貸してくれのがきっかけだった。
それをとても素直に受け取った自分は、ビートルズやロ-リングストーンズをさしおいて、しばらくそのアルバムの魅力にはまった。
浅川マキの代表曲「かもめ」や「赤い橋」や「ちっちゃやなころから」の少し投げやりなアンニュィを含んだ雰囲気に本当にひきつけられた。
当時、淺川は、「渇いたブルースをうたわせたら右に出る者はいない」と言われ、ジャズ、ブルースやフォークソングを独自の解釈で歌唱した。
ところで浅川マキは、横浜の本牧のクラブあたりで歌っている感じがしたが、その経歴を見ると意外なことがわかった。
石川県の町役場で「国民年金窓口係」の仕事をしていたのだ。職に就くや、ほどなく上京し、マヘリア・ジャクソンやビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始めた。
その浅川を見出したのが寺山修司で、新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を行い、クチコミでその名前が広がっていった。
そういえば浅川マキの「ふしあわせという名の猫」は、寺山修司作詞のヒット曲「時には母のない子のように」の曲想を思わせるものがある。
しかしそれにしても、アノ鄙びたところから、どうしてあのような歌姫が出たのであろうか。
浅川の独自性は、外国作品を自ら日本語で唄う場合、原作の保つ世界観を損なわぬよう先ず対訳を依頼し、メロディーから受けるイメージも採り入れたうえで推敲し新たに詩作を行った。そのため表記を「訳詩」とせず「日本語詩」としている。
2010年1月17日、ライブ公演で愛知県名古屋市に滞在中、宿泊先ホテルで倒れていたところを発見。搬送された病院で死亡が確認された。享年68。