決死の外交交渉

2016年夏公開の映画「ハドソン川の奇跡」は、バード・ストライクで制御不能となった飛行機をハドソン川に不時着させ、150名余りの人々を救ったパイロットの実話に基づくストーリーである。
「英雄」と称されたパイロットだが航空機事故調査委員会で、一転して、空港に帰還可能な段階での「不時着」は誤った判断であり、逆に大勢の乗客の命を危険にさらしたと、追求されることになる。
結果がよければすべて良しというわけではなく、それが「ベストの選択」だったのか「検証」に耐えねばならないとは、なかなか厳しい世界だ。
しかしよく考えると、こうした問題はどこでもあって、トップの判断につきいちいち「裁判」で裁かれることは、よほどのことがないかぎりナイだけの話だ。
最も極端な話をあげると、1962年「キューバ危機」において、ケネディの勇気ある決断が人類を核戦争の危機から救ったとされている。
しかし事態をよく検証すれば、ケネディはアメリカ国民をいたずらに危機にさらさなかったかという「疑問」がおきても不思議ではない。
最近のBSの番組「ケネディ~愛と死」で、「キューバ危機」についての新たな知見を得た。
結論を先にいうと、キューバ危機を救ったのは、ケネディの勇断というより、フルシチョフとの間でひそかに築かれた「共感」というべきものだった。
この「共感」とは、両者とも好戦的な軍の圧力下で、重大決断を下さねばならないという同じような状況から生じたものだった。
二人は1961年6月3日、オーストリアのウイーンでの米ソ首脳会談で最初に会っている。
核実験停止問題とベルリン問題について、双方の主張を繰り返す事に終始し、結局何の進展も成果も無く終わった。しかしこの会談で、親子ぐらいの年齢差のある二人の間に生じた「奇妙な睦まじさ」に気づいたものは少なかった。
両首脳は再び会うことはなかったものの、「書簡の交換」を通じての接触は、ケネディ暗殺直前まで続けられていたという。
ポイントは、キューバ危機の重大局面で、フルシチョフが出した「アメリカがトルコからミサイルを撤去しない限り、キューバから核施設を撤去することはない」という文書を読んだ時のケネディの反応である。
彼は「この手紙には心がこもっていない」と判じたのである。つまりフルシチョフが本心で書いた文章ではないと感じたということである。
そしてケネディは、同文書から「フルシチョフは、けして戦争を望んでいない。軍の圧力に苦しんでいる」と見抜いたため、「海上封鎖」まではしたものの「キューバ侵攻」を思いとどまった。
それゆえケネディは、軍からみて「弱腰」とみられたが、キューバ侵攻が「人類の終局」に至る道であることを思い描いていたのである。
そして1962年10月27日、フルシチョフは突然、キューバからの「核撤去」を発表し、人類最悪の危機は去った。
番組では、ケネディに障害のある妹の存在をあげ、それらがケネディに人の心を見抜く能力を養ったとコメントしていた。

1960年代、「米ソ」という対立する陣営に共感が芽生える一方で、「中ソ」という社会主義陣営内で激しい火花が散らされた。
1950年代の終わり、モスクワを訪問した周恩来首相の歓迎レセプションで、フルシチョフ第一書記がこうアイサツした。
「彼も私も現在はコミュニストだが、根本的な違いが一つだけある。私は労働者の息子でプロレタリアートだが、彼は大地主の家に育った貴族である」。
周首相は顔色ひとつ変えず、やおら壇上に立ってこう述べた。
「確かに私は大地主の出身で、かつては貴族でした。彼のように労働者階級の出身ではありません。しかし、彼と私には一つだけ共通点があります。それは二人とも自分の出身階級を裏切ったということであります」と。
こんな国際舞台の席上で当意即妙に応じられる「外交」担当者が今の日本にいるだろうか。
日露戦争後のポーツマス条約の全権となった小村寿太郎は、北京の代理公使であった頃、清国の李鴻章と対面した。
巨漢の李は小村に対して「この宴席で閣下は一番小そうございます。日本人とは皆閣下のように小そうございますか」と背の低さを揶揄された。すると小村は「残念ながら日本人はみな小そうございます。無論閣下のように大きい者もございます。しかし我が国では”大男 総身に智恵が回りかね”などといい、大事を託さぬ事になっているのでございます」と切り返している。
この小村の応答は、外交官としての長年の経験によるものだろうが、近年、日米の「沖縄返還交渉」において、日本側の外交交渉の「ナイーブさ」が明らかになっている。
最近、北朝鮮は潜水艦から核弾頭を発射させることができるようになって、北朝鮮の核脅威は一層「現実味」を帯びているが、ターゲットとなったアメリカは、1960年に潜水艦ポラリスで最初に成功し、1972年には、段階的に後継のポセイドンに置換されていったという。
つまりアメリカにおいて1960年代から1970年代初めにかけ、「潜水艦発射型の核兵器」の開発において飛躍的な発展を遂げたということである。
このことは、沖縄返還の日米交渉にとっても、重大な意味をもつものであった。
さて、自民党政府は長く沖縄返還に際してアメリカとの間に「密約はない」と主張してきた。
この自民党時代の「密約」(1971年)の内容が明らかになったのは、2009年に「民主党政権」になったことが大きく、当時の岡田外務大臣がソノ公開を外務省に命じたことがきっかけである。
そして1972年に「核抜き・本土並み」をうたって実現した「沖縄返還」だが、その裏で様々な密約が、日米首脳の間で取り交わされていたのである。
こうしたアメリカと日本政府との「水面下の交渉」をやったのが若泉敬という人物で、コードネームを「ヨシダ」といった。
佐藤栄首相の「密使」で、キッシンジャー国務長官との息をのむ交渉は、1994年に刊行された若泉の回顧録に明らかにされている。
それによれば、アメリカは原子力潜水艦に「核兵器」が搭載されており、沖縄に「核」を置く必要性はなかった。それにもかかわらずアメリカ「沖縄返還」のためには、「核兵器」を沖縄にどうしても置かなければならないと主張した。
ところが、日本は「非核三原則」であるため、それに応じられないと回答することは、必至である。
そのうえで、アメリカは核兵器の撤去を検討するが、「沖縄の基地の自由な使用を最大限求める」ということと、「有時の際には核兵器の貯蔵と通過の権利を得る」という条件を出し、日本側がこれを認めなければ「核ヌキ返還」はないと追い込んだのである。
結局、アメリカは沖縄返還の見返りに、日本側から様々な「譲歩」を引き出すことにまんまと成功し、この「譲歩」内容が密約として交わされたのである。
当時アメリカにとってベトナム戦争への巨額な出費が負担となっていた。そのため、アメリカ議会で返還に伴う財政負担は、日本が支払うべきだという声が大勢を占め、返還にともなう費用は「ビタ1ドル出さない」意向でまとまっていたのだ。
その一方、日本国民には知らされない巨額のお金が支払わされていた。
山崎豊子の「運命の人」(2009年)は、沖縄返還交渉の裏側にあった「密約」の機密漏洩という実際の出来事をモデルとして、2012年にドラマ化された。
「沖縄返還協定」に基づいて、日本は総額3億2千万ドルを米国側に支払ったのだが、その中には本来アメリカが負担すべき「軍用地復元補償費」などが含まれていた。
この「軍用地復元補償費」が含まれている点を明らかにして日本政府を追及したのが、「運命の人」の主人公のモデルとなった毎日新聞の西山記者であった。
しかし、西山記者の「情報源」となった防衛庁の女性職員へのアプローチがスキャンダルとして報道されたため、問題の焦点がすり替わって「密約」の存在と中身はウヤムヤにされた。
若泉は、沖縄返還交渉の際に「密約」は返還のための代償だとして佐藤首相を説得し、「密約」の草案を作りをした。
若泉の「回顧録」によれば、当初素朴にも沖縄が「本土並み」なることを期待していたが、アメリカは、ベトナム戦争を遂行するために、どうしても沖縄が必要だったため、基地を縮小したり、その使用に大幅な制限のかける「本土並み返還」など、ハナから考えていなかったという。
そして、アメリカは、日本側の「非核三原則」に基づく「核ヌキ」カードを最大限利用し、米軍基地を固定化しより自由に使えるようにすることに成功する。
沖縄における「米軍基地の固定化」の良しあしは簡単には論じられないせよ、こと「日米交渉」に限っていえば、沖縄返還交渉は、アメリカの完勝・日本の完敗だったのである。
若泉は、ある国際シンポジウムに出席した際にその真相を知らされる。1996年、自著の海外出版の契約を交わしたものの、すでに癌に冒され、次の年に亡くなった。自死とも伝えられている。

外交という生々しいせめぎあいで、「演技力」は大きな武器となろう。そのことを見せつけたのは、オーストリアの女帝マリア・テレジアである。
カール6世には、男の子がいなかったので、娘のマリア=テレジアに位を譲るつもりであった。
しかし、オーストリアでは、これまで女性の王はいなかったし、オーストリア王は同時に「神聖ローマ帝国皇帝」の称号を兼ねることになっている。
三十年戦争以降実体のない称号といえども、伝統ある称号を女性が名乗ることに対して、ドイツ各領邦国家から反対があるにちがいない。
そこで、カール6世は前もって各領邦国家の君主に根回しをして、マリア=テレジアが即位しても、反対しないという「約束」(国事詔書)を取り付けていた。
しかし、マリアが皇帝の位につくと、手の平を返したように、マリアの継承を認めないという動きがおこった。フランス、バイエルン、ザクセンが決起し、特にプロイセンは強行だった。
周辺諸国は、弱冠23歳の頼りなげな女王を相手に、領土を拡大するチャンス到来と見たのである。
これを「オーストリア継承戦争」とよぶが、マリア=テレジアは予想を超えた「傑物」であった。
狼狽するばかりのウイーンにいる家臣たちを尻目に、もって生まれた芯の強さと才覚を遺憾なく発揮した。
とはいえ、バイエルンとの戦いを決意するものの、度重なる戦争のため戦費も援軍もすでになく、いよいよ窮地に追い込まれた。
そこで彼女はハンガリーへ乗り込み、9月11日ハンガリー議会で、切々とで自らの窮状を応援を求めた。
足元を見られ「反旗」を翻される恐れさえあったのだが、そこに「小娘」と馬鹿にされた面影はなく、マリアは粘り強く交渉した。
その交渉は5ヶ月にも及び、ようやく生まれた息子のヨーゼフを胸に抱き、時として嗚咽さえ漏らしながら訴えたという。
そしてついにハンガリーの救援を得ることに成功し、宿敵プロイセンに応戦する準備が整った。
マリア=テレジアは、多民族国家・オーストリアをよくまとめて戦い、最終的に「アーヘンの和約」が結ばれ、「シュレジエン地方」をプロイセンに割譲する条件で、オーストリアの相続を認められたのである。
さて、マリア=テレジアの外交力を「演技力」と一括するのは明らかに誤りだが、「外交力=演技力」にもっとも相応しいのがモナコ王妃グレース・ケリーである。なにしろ元ハリウッド女優だから「演技」は板についたものだ。
数年前に、グレース・ケリーの生涯を描いた「モナコ公妃~最後の切り札」を見て、グレースが王妃として嫁いだモナコとはどういう国なのか調べてみた。
フランス南部、地中海に突き出した崖の岩山に要塞があった場所から始まった国で、その両側の山が海に迫った細長い場所がモナコ国で、ヴァチカン市国に次いで世界で2番目に小さい国である。
周りは全部フランスで、国境に検問所はなく、逆になんでフランスでないのか、と思いたくなる。
要するに、「モナコグランプリ」があってカジノがあって、税金が安くしかも安全となると、モナコは「金持ちになった人達」に住みやすいように作られた国で、実際に多くの億万長者が住んでいる。
1911年以来の立憲君主制の国で、現在の君主は、2005年4月6日に亡くなったレニエ3世の息子、アルベール2世である。母親はもちろんグレース・ケリー。
1929年アメリカで生まれたグレースは、カンヌ映画祭でモナコ大公・レニエ3世と会う。翌1955年に結婚し、いわば「おとぎ話」の主人公となった。
当時、産業といえばカジノしかなかったモナコ公国は倒産の危機に瀕していたが「世紀の結婚」によってアメリカ人観光客が押し寄せるようになり、経済危機を救ったという面もある。
グレースが生まれたフラデルフィアは、アメリカ合衆国建国の地といってよく、「自由の鐘」がそのシンボルである。そのフィラデルフィアの市長選に立候補したこともある建築業を営む父親と、モデル出身の母親の裕福な家庭に生まれた。
そんなグレースがモナコ公妃となるのだが、女性が政治に意見するのは「アメリカ流」だと釘をさされ、夫のレーニエからも公の場では「美しいだけの人形」でいることを望まれる。
そんな味気ない生活を送るグレースが「ハリウッド復帰」の誘いに心を動かされていた頃、レーニエ3世つまりはモナコ公国は最大の危機に直面していた。
フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が、アフリカのアルジェとの戦いなどから、過酷な課税をモナコに強要する。そして、承諾しなければ「モナコをフランス領にする」という声明を出したのだ。
そんな折、グレースの「女優復帰」の情報がマスコミにリークされ、人々は「グレースはモナコから逃げ出そうとしている」と批判した。
1962年7月、フランスの圧力に屈したレーニエは課税を了承するが、ド・ゴールはモナコ企業にも課税しフランスに支払うように要求し、モナコとの国境を封鎖する。
交渉に失敗したレーニエはグレースに八つ当たりし、「女優復帰」の話を断るように告げる。
ショックを受けたグレースは離婚を考えるが、ひとりの神父に諭され思い留まる。
そして、グレースは自分にしかできないある「秘策」を抱いて、これまで公妃を演じることに抵抗を抱き続けたが一転、外交儀礼の特訓を受けて、完璧な公妃の「役作り」に励み、世界の要人が集まる「舞台」を用意する。
その舞踏会で、赤十字代表として挨拶するグレースは、モナコの現状を語り、それでも愛を信じて、屈しないというスピーチをして満場の拍手を浴びた。
アメリカのマクナマラ国防長官ら出席者の反応を見たド・ゴールは、世界中がグレースを支持していることを痛感し、モナコへの「強硬策」を撤回、翌1963年にモナコの国境封鎖を解除する。
映画「モナコ公妃~最後の切り札」は、虚実織り交ぜたストーリーだけに、実際にグレース・ケリーがモナコを救ったいえるのか、いまひとつ腑に落ちない映画だった。
ただ世界が注目する「国際結婚」において、グレースが離婚してモナコを離れた場合のことを考えれば、世界に祝された国王夫妻を演じ通し、そんな王国のイメージを潰すことは世論の反発をまねくゆえ、「王国存続」の大きな力となりえたとみてもよい。
その「おとぎばなしの主人公」も、1982年別荘からモナコへの帰り道、自動車事故にあい他界した。
急なカーブを曲がりきれなかったという。