出現と消滅

生物学者の福岡伸一の文章「トカゲを振り向かせる方法」を読むと、トカゲが反応するのは、何か目の前のものが「忽然と消える」ことだという。
トカゲは、目の前に何かが表れても反応しないのに、「消える」ことに対しては、首筋をキリッと立てる。つまりトカゲとっての「情報」とは、「出現」ではなく「消滅」なのである。
人間の場合どうかというと、赤ん坊は「いない いない バア~」に反応するところを見ると、忽然と「出現」することに大きく反応するのかもしれない。
かつて、自分の子供に対して「いる~いる~パッ!」と顔を隠す実験をしたことがあるが、反応は少なかったので、立証済み。
本日1月24日の朝、雨戸を開た時、雪化粧世界の忽然の出現に久しぶりの感動を味わった。
川端康成の小説「雪国」の冒頭の文章を思い出したが、「トンネルを抜けると雪国だった」を、「雪国を抜けるとトンネルだった」では、いかなる感傷も生じない。
ただ人間には想像力があり、出現にも消滅にも、その時と場合で様々な反応を示すだろうから、トカゲのように「消滅」のみが情報ということはない。
さて、歴史上の出来事の中で、忽然として出現することや消滅することにつき、いくつかの場面での感動や驚きが思い浮かんだ。
随分昔の映画「アルジェの戦い」で、フランスから独立を勝ち取った日に、どこに隠れていたかと思うほどの民衆が「出現」して広場を埋め尽くした場面は感動的であった。
アルジェリア独立は、6人のアラブ人青年によってアルジェリア解放戦線がアルジェ市の裏通り靴屋の二階で結成されたのに始まる。
そして、1954年11月1日、仏領アルジェリアのカスバを中心として、暴動が起きた。
それはアルジェリアの独立を叫ぶアルジェリア人たちの「地下抵抗運動者」によるものだった。
1957年10月7日、この事件を重大視したフランス本国政府は、マシュー将軍の指揮するパラシュート部隊をアルジェに送った。
映画「アルジェの戦い」が映画というのにはあまりにもリアルなのは、実際の当事者が映画に出演しているからである。
例えば、革命の指導者ジャファルを演じたヤセフ・サーディは「実際に」カスバで地下組織を指導した闘士の一人で、多くの同志をフランス落下傘部隊に殺害されている人物だった。
彼はアルジェ独立後、カスバ・フィルムの社長として「全財産」を投げ打ち、この映画のプロデューサーをつとめた。
アルジェリア軍当局から戦車、大砲、トラック、ヘリコプターなどすべての武器の提供をうけ、すべてを忠実に再現した。
後にヤセフ・サーディは、機関銃をカメラにとりかえ、当時を再現し、あの感動を再び呼び覚ますことによって、ある国家や国民を審判するのではなく戦争や暴力の恐ろしさを伝えたかったと語っている。
そして8万人に及ぶ全住民が、エキストラとして感動的なクライマックス・シーンに出演した。
かくしてヤセフ・サーディ社長の前代未聞の映画構想は見事に当たり、多くの人々をこの映画のスクリーンにクギヅケにしたのである。
反対に「忽然の消滅」の話として、いまだ「世界史の謎」として残っているのが、13世紀にヨーロッパで起きた少年少女達の「集団失踪事件」である。
この事件については、「ハーメルンの笛吹き男」といわれる民間伝承がある。
ある町のネズミ捕りをした「笛吹き男」が、町の人たちから報酬ももらえず軽くあしらわれた。
そこで、この「笛吹き男」に導かれて忽然と130人の少年少女がいなくなるという話である。
たしかに子供が居なくなると、通常「拉致誘拐」が考えられるが、この出来事の真相はいまだに不明である。
ただ当時さかんに行われていたエルベ川以北への「東方植民」との関連が有力である。
ちなみに、この「東方植民」が、後のプロイセン国の基礎となっている。
この問題を掘り下げたヨーロッパ中世史家の阿部謹也は、キリスト教社会にあって、俳優や楽師は古代の異教的文化を庶民の中に生き生きとした姿を伝える存在であったが故に、厳しい取締りの対象となったことを明らかにしている。
また、この伝承の深層に、こどもたちが生き難いこの世界にあって、この世界を旅立ってどこか遠い国で幸福に暮らしているというモチーフが色濃く刻み込まれていると指摘している。

病院ドラマの中で、生命維持を示す機にの画面において、呼吸停止を示すが水平な信号が、突然に波打って「生存」を伝えるという場面がある。
こうした「人間の生存」を伝える感動と同様に感動的だったのは、宇宙探査機「はやぶさ」の帰還である。
この「はやぶさ」のドラマの中で、最も感動的だったのは、無人探査機の「生存」を伝える画像が突然表れた瞬間だった。
「はやぶさ」プロジェクトは、この広い宇宙のなかで芥子粒ほどの小惑星イトカワから物質を集めて、「宇宙創生」の秘密を探ろうというもの。
なにしろ「はやぶさ」からの電波が数ヵ月も届かずに、その行方は「絶望視」されていた時期があった。
約30名ほどからなるスタッフは、「はやぶさ」から電波が届く限りにおいて、そのデータを解析したり、修正したりして、日々充実した仕事にあふれていたものの、電波が届かなくなった途端に、何もすることもなくなった。
そんな時、「はやぶさ」プロジェクトのリーダーである川口淳一郎氏の役割は、皆の気持ちをなんとか「繋ぐ」ということだったという。
川口氏はメンバーが立寄ったときに、管制室に熱いお茶が置くとか、ゴミをちゃんと捨てておくことなどを通じて、このプロジェクトが依然「死んでいない」というメッセージを送ったという。
さらに川口氏は、「はやぶさ」からのデータが途絶したあとでもスタッフに、「もしもこういう場合にはどうする?」という形の宿題を出し続けた。
それは、宿題の内容よりも、スタッフの気持ちを繋ぎ止めることが主な目的であったという。
しかし、川口氏が繋ぎ止めるべきもっと重大なものが、国の「予算」であった。
データ途絶により、文科省のなかでも「予算打ち切り」の話がもちあがっていた。
川口氏は次年度の予算を確保するために、つまりプロジェクトの継続をはかるために、通信が復活する可能性をバックアップ用のバッテリーの「残存量」などからハジキ出した。
それを客観的に提出して、どうにか国の予算を確保することができた。つまり残った成功の「可能性」を具体的に導き出したことが、「プロジェクト」の生き残りに繋がった。
実は、小惑星イトカワの表面はとてもゴツゴツしていて、探査機が着地できる状況ではなかった。
そこで、担当外のスタッフのアイデアで、シャトルから弾丸をはなち、そこからマキ上がる物質を採取するという方法がとられていた。
そして「弾丸」が発射されたという「信号」が地球に送られてきたのだ。
管制室にたまた残って仕事をしていた「はやぶさ」スタッフは、この「信号」に沸きに沸いた。
早速、「世界初の快挙」のニュースは、世界にも伝えられた。
ところがわずかその1週間後に、プログラムミスがみつかり、「弾丸が発せられていなかった」可能性があることが判明した。
川口氏自身が「知らないほうがよかった」ともらし、内部で隠しておけば当面は隠せるものであった。
しかし、その事実をあえて世界に公表し、この「不都合な真実」の公表が逆にプロジェクトの信用性を高める結果となった。
ところが、それから数か月後に、突然「はやぶさ」の電波が管制室の画面に確認されたという。
2005年11月、「はやぶさ」は小惑星イトカワへの2回目の着陸を行った。その離陸後に化学エンジンの燃料漏れが発生。
漏れた燃料がガス化して噴き出したため、「はやぶさ」は姿勢を崩し、7週間も行方が分からなくなってしまうというピンチに見舞われた。
通信回復後は、姿勢制御のために用いる化学エンジンが使用できない状態であっため、機体を推進させるために使用するイオンエンジンの燃料であるキセノンガスを直接噴射するという「目的外」の使い方をした。
それによって、徐々に姿勢制御が可能となり、2006年3月までに奇跡的に復旧した。
そして、管制室の運用チームによって救出のための努力が1年間にわたり続けられ、ついに2007年4月には、待望の地球帰還に向けた運転が開始された。
しかし新たな困難が待ち受けていた。
地球帰還が目前となった2009年11月にイオンエンジンが異常停止してしまった。
予想以上の長旅で、ついにイオンエンジンの寿命が尽きてしまったのである。
そのような局面で、運用チームはあきらめず、4つあるエンジンのうち壊れていない機能を組み合わせ1台のエンジンとして動かすクロス運転を実現させて運転を再開させた。
そして2010年6月13日、満身創痍の状態で、「はやぶさ」は地球に帰還した。
「はやぶさ」が小惑星イトカワに到達させる技術は、日本から発射させた飛行物が地球の裏側のテントウムシに命中させる精度が必要なのだという。
そのために、新型エンジンや自律航法などの世界の宇宙関係者が注目する最先端の技術が採用されている。
この開発の苦労を元に、池井戸潤の「下町ロケット」が描かれている。
というわけで、この「はやぶさ」プロジェクトの感動は、下町の小企業が作った部品の精密さが証明されたこともにある。

自ら忽然と姿を消すことに戦術を見出した人物が二宮尊徳である。姿を「消して」何をしていたのかなどを、問う必要はない。しばらく「身を隠すこと」自体に、意味があったのだから。
江戸時代末期多くの農村が疲弊し荒廃していた。
飢饉が続いたばかりではなく、農民は働いても年貢で搾りとられるばかでは明日も見出せない。
人々は飲酒や賭博にあけくれ、昼間から三味線をひき精神的な荒廃も目に余るものあった。
日本をとりまく対外的な危機もせまる一方で、幕府や藩も改革の成果がみられず、閉塞感があふれていた。
この中で二宮の説く「仕法」にどんなマジックが隠されていたのか。
二宮金次郎には、背に薪、手には書物のあの「銅像のイメージ」で知られるが、あのイメージとは少々異なり現場の状況から知恵をしぼりだす「行動の人」であった。実際に、ニ宮が最も嫌っていたのが学者と坊主であったという。
そのニ宮が考えだした「貧困脱出法」とは、金貸しから金を借りて困っている百姓達に低利で金を貸す。そしてその貸し方がふるっていた。
誰が真面目に働いていて一番困っていているかを投票させ金を貸しださせる。
ここに農民が頑張ろうというインセンティブが生じる。
さらにこの人物に票をいれた人はいわば「保証人」として、本人が返せない場合には「保証人」からとるという判を押させる。
強制感はなく、いままで高利貸しから苦しめられたことから解放された気持ちからすれば有難い。
3回月賦で貸すと、おかげで助かりましたと「4回分」も返す人もでる。
結局、相当高い「利息」になるのだが、二宮はその「元恕金」を資金にまわして回転させていく。
二宮の現場主義を物語るひとつが、本来農地ではないところに種をまいて或る種「避税」のようなこともしている。
子供のころから、自分達の畑や田んぼに植えると税金をとられるのに、川のそばの荒地ならば、税金をとられないことを見いだしていた。
こうみると、二宮像は学校の校門の前に像を建てるよりも、金融機関の屋上に銅像をたてた方がふさわしい ようにも思えるが、彼の本領はどんなに頑張っても年貢をとられてヤケになっている農民の心の内側を変えることであった。
それは荒地を耕すよりも難しかったにちがいない。
ニ宮は、地元・小田原藩家老の負債整理に力を発揮して注目された。
その後、二宮の力を借りて関東一円の農村復興にあたろうとする動きがあり、今の栃木県にあった小田原藩支領・桜町領の再興に手腕を発揮した。
これ以後、彼は二宮金次郎から二宮尊徳となった。
当時、支配階級の頭にあるのだは領民からいかに搾り取られるかであり、生産意欲を向上させる方策はほとんどとられていなかった。
二宮の残した書類はすべてが国会図書館に保存されており、その数は一万卷にもおよぶ。そのほとんどが、多くの数字と計算が記されているという。
つまり、現状が将来何をもたらすかを明らかにし、現状で出来うることを具体的な数字で明確にし、それが達成できた後に見えるビジョンを提示した。
つまり絶望を希望に変えたのである。
二宮は支配階級に対して反抗することはないが、仕法の実施にあたって支配者側に厳しい「分度」を求めている。
彼ら領主層借金を重ねて自らの消費生活を切り詰めようとはしなかったからである。
二宮は、幕府や藩の命令(依頼)に対して、出来ること出来ないことをはっきりと仕分けした上で、藩主が自ら「一汁一菜」を守らないならば、年貢のある程度「減免」を認めないならば農村復興にあたることはできないと要求した。
そして、一揆をすれば刑罰しかない農民に代わって「年貢減免」を勝ち取ることに成功したのである。
その間、農民達の中には、大男の二宮が杖で土を検分し、家の中を穴から覗いてまで生活を戒める二宮に対して、反発するものも出た。
その時、二宮は忽然と姿を消した。そして機をみて成田山新勝寺にこもり「断食」をしているという噂を流した。民心を掴んだ上で、再び忽然と現われたのである。

経済学で、売り手と買い手の情報格差の問題を「レモン問題」という。
新鮮かと思って買ったレモンが、中身はスカスカだったという比喩から来た言葉だが、以前はやった「中身はピーマン」に似ている。
現代の大きな問題は、情報の出現(書き込み)と消滅(削除)の「付加逆性」の問題である。
ある日、忽然と現われた情報は一機に拡散し、容易には消せない。
「プライバシーの権利」とは、自分自身についての情報を自分でコントロールできることを意味するが、 個人情報流失やネット空間に忽然と出現した情報は、内容にかかわらず嫌な感じがするものである。
ところで世の中には、仕事の痕跡さえもなくしてこそ「名人」といわれる仕事が、「染み抜き」職人である。
しかし、いかなる名人をもってしても、心の中の染み抜きまではできない。
一般的にいって、人は何かのために命をかけて働いたならば、英雄視されることは気分の悪いことではない。
クリミア戦争で「白衣の天使」とよばれたナイチンゲールは、帰還後その姿をほとんど人前に晒すことなく「隠者」のように生きたことはあまり知られていない。
戦争を美化するために「自己像」が増幅されたことに恐れや怒りを抱いたのか、理由は定かではない。
ナチンゲールほどではなくとも、「人物像」が操作され一人歩きするようなケースは、いたるところでおきており、分散しながら拡がり消せないシミのように残り続ける。
新たに「忘れられる権利」が提唱されている所以である。