ジョーモンの炎

海から一気に急峻な山がそびえる処~これが屋久島の第一印象。
実際、直径30km足らずの小さな島に1000mを超える山が45峰で、「海上アルプス」とも呼ばれる。
島のほとんどが隆起した花崗岩からなり、その頂点には、九州最高峰の宮之浦岳(1936m)がある。
1993年12月には、白神山地とともに日本最初の自然遺産として登録された。
巨大な屋久杉があるから世界遺産になったと思われがちだが、実際は「南北2500kmの日本の自然が凝縮されている植物の垂直分布」といった生物多様性が大きな要素である。
実は、屋久島の杉は樹齢1000年を越えて初めて「屋久杉」と呼ばれ、それより若い樹で100年以上1000年未満のものを「小杉」、100年未満のものを「地杉」と呼ぶ。
屋久杉の伐採は江戸時代のはじめ頃から、年貢の米代わりに屋久杉の平木を収めるため始められた。というわけで登山道を通ると屋久杉の切り株や試し切りの痕をみかける。
試し切りとは物騒だが、年貢に平木に加工しやすい平木で、倒す前に材質を調べるためである。
その後、昭和の高度成長期の時代には近代的大規模伐採が行われたが、海外材の需要の伸び、自然保護の声が高まるなか、1970年には小杉谷の国有林事業所の閉鎖で大規模伐採の時代は終わった。
木こりも減り、山中に残っていた小学校跡地も、その頃までの賑わいを物語っているのだろう。
屋久杉が少々異様に見える一つの理由は、切り株の上に種子が落ちて次の世代の杉が育ち、三代まで重ねその根が下の切り株に絡み合っている姿を見るからだ。
屋久杉の根元には洞や伐採による株ができ、そこは鹿などの野生動物が住む絶好の空間であろう。
作家の大江健三郎は木を「メタファー」として多くの作品を書いている。
大江氏は四国の山林に育ったが、森の斜面に住んでいたせいか、木の根元が家の上にあった。
祖母から人間にはそれぞれ「自分の木」があってその木の根元から魂が発して宿り、死んだらその木の根元に魂が環るという話を聞いて育った。
そしてその木々は、別の肉体に魂を授けている。つまり、人々は木の根っこから「命」を享けながら生きていたのだ。
実際、屋久杉のウロやカブには大人が何人もはいり、生活さえできそうな気がした。そして大江氏のいうように、長くいれば「新しい生命」をもらって人も新しくなるかもしれない。
また屋久杉の奇怪さのもう一つの姿は、木が手(枝)を伸ばしたところに、もう一つの木が手を伸ばし、手が繋がってしまったものもある。
縄文土器にある「火焔土器」などは、名前からして炎が燃えるイメージから生まれたと決め込んでいたが、あれは木々が上方でもつれ合うイメージではないかと思った。
中には、手を差し延べるというより、人の業(ごう)を表すかのように激しく絡み合ったものもあった。
ともあれ、屋久杉は、命を次世代間に繋いでいるばかりではなく、隣人の命をも支えているのだ。
思い起こすのは、最近はやっている「樹木葬」なるもので、自分の命の「残滓」が木々の命となって生き延びるという感覚が残る。また見ず知らずの人であっても、同じ木の下に眠ってしまえば、何人かが「一つの木」を育てることになる。
こうした繋がりの意識が人々に安らぎを与えるに違いない。

登山中に見かけたのが、倒壊した巨木で周囲の木々をなぎ倒して広がる空間が出来ている。
屋久島に自生する屋久杉の巨樹には様々な名前がついているが、近年、推定樹齢2000年の「翁杉」(おきなすぎ)が倒れているのが見つかった。
翁杉は樹高23.7メートル、幹回り12.6メートルで、枯死していない屋久杉では縄文杉の16.4メートルに次ぐ太さだった。
翁の名は、航海の安全を守る神「塩土翁(しおつちのおきな)」に由来するとされる。
威風堂々とした容姿で知る人ぞ知る“名木”だっただけに、林野庁はじめ関係者にはその倒壊は「衝撃的」な出来事だったようだ。
翁杉は夜中か未明に、誰に気づかれることなく密かに倒れていたのだ。
樹木医によれば、幹の断面は約90%が空洞化しており、上部の重さに耐えきれなくなったという。
その姿を登山ルートから手を伸ばせば届きそうなほど間近に見ることがきたが、ガイドさんによれば巨木が倒れたおかげで陽があたらないところに陽があたるようになり、多くの次世代の杉が育ち始めたという。
それにしても屋久杉はなぜこうも長寿なのだろう。
一般的に杉は樹齢200年くらいから中心部が「空洞化」しはじめ500年ほどで寿命が尽きるものが多い。
その点屋久杉は樹齢500程度だとまだ屋久杉と呼んでもらえないヒヨッコなのだから、いかに長寿であるかわかる。
雨が多く水が豊富で、日照が十分なのだが、花崗岩の上の薄い栄養分の少ない土壌が1年の成長量をわずかなものにし、成長が非常に遅いため、木目が緻密になり、その膨大な雨量に耐えうるべく、防腐・防虫・抗菌効果のある樹脂を豊富に蓄えた。
樹脂の含有量がほかの杉の5~6倍もあり、それが屋久杉を腐りにくく長寿とした。
数分の1㎜という年輪の緻密さ、樹脂の多さ故の色艶、木目の複雑な美しさは他の木材工芸品の追随を許さず、多くの人の生活を支えている。
屋久杉の中で最も異様だったのは、宮浦岳の見えるあたりに立つ数本の巨大な“白骨樹”は、まるで巨大生物の白骨が突き立ったようなハットする光景だ。
こんな状態でも何百年も朽ち果てることはないのは、体内に含まれた油分のおかげで今だに枯れきってはいないのだろう。
さて倒壊した翁杉の場所からもっと奥には多くの観光客が目指すところの屋久島最大の杉である「縄文杉」がある。
「縄文杉」は、樹齢が7300年で縄文時代からの木だと騒がれて一躍注目が集まったが、それが発見されたのはわりと最近であると聞いて驚いた。
この杉が発見されたのは1966年で5月、地元屋久島町の観光課職員によるものだった。
古老から「山の中に13人が手を繋いても、抱えきれな大杉ある」という話を耳にした。
これは観光の 目玉商品なる直感した職員が、巻尺持って山中に入り連日探し回って見つけたものだった。

直近の芥川賞の「コンビニ人間」(村田紗耶香)の冒頭、すべて音と気配で自分が自動的に反応するというのがあった.
「コンビニストアは、音で満ちている。客が入ってくるチャイムの音に、店内を流れる優先放送で新商品を宣伝するアイドルの声。店員の掛け声に、バーコードをスキャンする音。かごに物を入れる音、パンの袋が握られる音に、店内を歩き回るヒールの音。全てが混ざり合い”コンビニの音”になって、私の鼓膜にずっと触れている」。
森の住民もいきものたちも、木々のきしむ音、土が滑る音などが聞こえそれに身体ごと反応して生きている。
宮之浦港に近い自然公園の中の「カジュガルの森」に入りこんでいると、その木々の姿に神々の懊悩さえ感じさせるものがあり、縄文人が森の中でいだいた感情が、我々の想像をこえていたものであることを感じさせる。
ガジュマルは無数の気根がからみ合ったような姿をした亜熱帯樹で、屋久島の海岸沿いのあちこちで見ることができる。
屋久島は、ガジュマルの北限の地として広く知られており、まるでジャングルの中を探検しているかのような気分になる。
最近、「工場萌え」というのがあってあの力づよいパイプに魅せられる人々の意識の中には、どこか縄文の記憶があるのではなかろうか。
最近、「工場夜景」の見学が人気を呼んで、「工場萌え」という言葉まであるという。
コンビナートや工場の、夜間照明や煙突・配管・タンク群の、重厚な「構造美」を愛でる、工場観賞(工場鑑賞)を趣味とする人々が増えており、従来けしてキレイとは言えない外観であるとされてきた工場に美を見出す動きが起きている。
あの巨大で複雑に屈曲したパイプラインの威容は、人間がマサニ「人工機器」の中棲みついて生きていることを「暗示」しているようでもあり、実際あのコンビナートの形象こそは視覚的にも「脳」ソノモノのようにも見えてくる。
そしてガシュマルの木々は、まるで神々の懊悩のようにもみえた。
さて、日本人は自然にインスピレーションを得た工芸品が多い。特に日本人は一切クギを使用することなく、木々を接合して木工品作りをするワザがある。
それは、木という「素材」に対する特別な感性があるからだろう。
以前、こういう日本人の感性を「木のみ木のまま文化」と表現したことがある。
木ノミを使って、木という素材をそのママ生かす文化という意味である。
日本人は伝統的にクギを一切使わない建造物を建てるなど、世界にどの民族もなしえいない技術をいかにして発想・獲得してきたのだろうか。
個人的な感想をいえば、クギを使わないとは、木にひそんだ神(精)を殺すことへ畏れであったのではなかろうか。
職人達の感性は当然プロとして研ぎ澄まされたものだが、その背景に日本人が本来持つ感性の細やかさがあると思う。
これは「精なるもの」との交信によって研ぎ澄まされたというのは、いいすぎだろうか。
日本人は縄文時代に土器以外何か本格的な「モノつくり」をしたというわけではないので、この場合の「能力」とは優れた「モノつくり」を可能にする「感性」ということである。
「竹の精」「花の精」「雪の精」「木の精」などなど「精なるもの」との語らいこそ、日本文化の特質であり、今日の世界的な職人技術の高さの由来なのではないか、と思う。
奥深き森で養われた「感性」ということである。
弥生時代には「校倉造り」という木の延び縮みを利用して、湿気が多いときには外部に閉じ、乾燥している時には外部に開くという「仕掛け」として実現している。
こういう外来ではない、日本人独自の建造法を生み出したのは、紀元前14世紀からき紀元前3世紀までのトテツモナク長く東北を中心に栄えた「縄文時代」があったのではないか、と思う。
日本人が養った能力は一言でいえば、「自然を読む」「自然を聞く」ということである。
「石の声を聞く」、「木の木目を読む」など、現代の職人達が修練の結果ようやくにして得られる感性のことである。
そして現代においても、ミリ単位以下の仕事が、意外や機械にたよるのではなく、人間の手に伝わる「五感」全体に頼ってなされていることに、驚きを感ぜざるをえないのである。
職人の話などを聞くと、彼らがいかに五感を使って仕事をしているかがわかる。
視覚・聴覚・味覚などを使いその日その日の温度や湿気の違いによって、微妙に技能の匙加減を変えるのである。
溶接工の中には、金属を味見して見分ける人もいる。旋盤工の中には微妙な音の違いを識別する人がいる。また塗装工の中には100分の1ミリの厚さ違いをヨリわけられる人もいる。
こうした鋭敏な感性こそが、寸分違わぬ「究極の精度」を生んでいるのだと思う。
古代、縄文の森で日本人は「もののけ」を全身で感じ取りながら生きていた。自然な微妙な変化をも見逃すまいと生きてきたのだ。
もっといえば自然の中に精霊の「揺らめき」さえ感じとろうしたのである。
木々が失われていく、または木々から離れていくことは、日本社会にとって想像以上に大きな意味をもっているのではなかろうか。

日本人は、人間は生き方のうえでも職業ガラにおいても、ジョーモン的要素とヤヨイ的要素を併せ持っている。
ジョーモン人は、「自然」や「神々」にアンテナを張って生きる人々、ヤヨイ人は、「人間」や「世間」にアンテナを張って生きる人々である。
ヤヨイ人は稲作を日本に持ち込み、それを始めた人々だから、自然に対する感覚は高いが、むしろ作物をつくる上で人間の「恒常的」な組織化ということを、初めて意識した人々であった。
それが、いつしかムラとして社会的な形を取りはじめたのだ。その自然への感度は、「森の奥深き」で体得してきたものとは本質的に違う。
人間の関係や気遣いが過ぎると「気枯れ」が生じる。
「気枯れ」はできるだけ早く払わないと、本人も気づかないうちに、「病んだ」心に落ちこんでしまう。
すなわち、ジョーモン的な「森林」の気分からは、いつしか遠いところにいる。
そこで祓い(はらい)や禊(みそぎ)がおこなわれ、自然との「交信力」を高め活力を回復する。
個人的には、自然との「交信力」に優れた芸術家として、木版画家の棟方志功を思い浮かべる。
棟方志功氏が木を彫っている時の姿をテレビでみたが、片目を失明しており、板に向かって全身で踊り、祈祷をしているような姿でノミを動かしていた。
青森の貧しい鍛冶屋に生まれたが、ゴッホに魅かれ絵を志した。画家仲間や故郷の家族は、しきりに棟方へ有名画家に弟子入りすることを勧めたが、マツロワズ激しく抵抗した。
「師匠についたら、師匠以上のものを作れぬ。ゴッホも我流だった。師匠には絶対つくわけにはいかない」
「日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだ」と考えたという。
36歳の時、大作「釈迦十大弟子」を下絵なしで一気に仕上げた。その制作中に「私が彫っているのではありません。仏様の手足となって、ただ転げ回っているのです」と語っている。
そして39歳の時、今後は「版画」という文字を使わず「板画」とすると宣言した。版を重ねて作品とするのではなく、「板の命」を彫り出すことを目的とした芸術を板画としたのだそうだ。
53歳(1956年)で、ベネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を受賞し、一躍世界のムナカタとなった。
会場へ来た人のほとんどすべてが、棟方の木版画を前にして「驚然」としていたという。
1975年72歳で永眠した。墓はジョーモンの故里・三内霊園にある。
青森県で30年以上まえに本格的に発掘された三内丸山遺跡であるが、六本の巨大な木柱に支えられた十六丈から、あたかもスキーのシャンツェを思わせる傾斜で、長い引橋が地上あるいは海面に向かっている。
またもう一人、個人的には岡本太郎氏の芸術をジョーモンの体現例としたい。
個人的に「万博」のシンボルとなった「太陽の塔」を見上げて思ったことは、「巨木」である。
あの万博の塔のモニュメントの顔は、ジョーモンの中でも特に「ハート型土偶」と実によく似ている。
実際に岡本氏が芸術のインスピレーションを受けたのがジョーモンの中でも「火焔式土器」である。
岡本氏のスピリットは、あの土の器からメラメラと、マツロワぬ精神が炎をあげている、かのようだ。
屋久島で実感したことは、いまだに日本人を縛っている「空気の支配/怨霊/言霊」等は、ジョーモンの奥深くき森の中で育まれたものではないか。
屋久杉の「奇怪な姿」から想起したのは、調和や協調を重んじるヤヨイ的日本人に、時折顔をのぞかせるヌキサシならぬもの。