連なる祈り

オバマ大統領が、伊勢志摩サミット後に、広島を訪問することになった。現職アメリカ大統領としてはじめての広島訪問となる。
中国の東アジアにおける勢力拡大の懸念や、北朝鮮の核開発への危機感が背景にあるのだと思う。
その一方で、演説はうまいが実行力がないと評されるオバマ大統領の「レガシー(政治遺産)」作りという見方もされている。
実際、太平洋上のマーシャル諸島の小国が、核保有国が「NPT(核不拡散条約)の6条」を果たしていないと国際司法裁判所に提訴している。
提訴したのは2014年4月だが、NPT第6条の下で厳粛に「核削減」の約束を交わしたにもかかわらず、核軍縮にはまったく進歩がみられないどころか、「逆の流れ」が起きているといういう訴えである。
実は、マーシャル諸島が(NPT)に加盟したのは、アメリカの「核実験場」となってきた切実な歴史的背景があるが、アメリカはこうした提起に正面から応じていない。
こうしたことを鑑みれば、オバマ大統領が任期の終わりに際して、就任当初の「チェンジ」は空しく地に落ちるという思いにかられたのかもしれない。
そこで、世界で唯一の核兵器使用国アメリカが、「核なき世界」実現の本気度をアピールするならば、「広島発メッセージ」以上の場面設定はないことは確かだ。
もちろん大統領が広島でどんなメッセージを世界に発し、世界のメディアがその意義をどう伝えるかが興味深いところだ。
しかしそれ以上に、果たして原爆資料館に足を踏み入れその表情をカメラがとらえるのか、被爆者代表と会うか、そもそも白人の大統領なら広島訪問は実現したのか、などといった思いが錯綜する。
とはいえ、オバマ大統領が安倍首相とともに広島に立つこと自体が、大きな意義があることに違いない。
多くの戦没者を前にしてのメッセージといえば、リンカーン米大統領のゲティズバーグでの演説を思い浮かべる。
そこは、60万の戦死者を出した南北戦争の趨勢が決した場所で、多くの戦没者が眠る墓地の前で、リンカーンは「人民の人民による人民のための政治」と新しい民主主義を誓った。
実は、この演説の要素は日本の憲法にも入っている。
憲法前文の「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」がそれにあたる。
そのことと、日本国憲法がまるで「祈りの書」といった雰囲気を宿していることとは、無関係ではないかもしれない。もっといえば「懺悔と謝罪」の書。
その日本の「懺悔の書」を、日本人ではなく戦勝者たるマッカーサー以下の若いスタッフ達が書いたところが、なんともいえない。
実際、憲法を読むと「決意し」「念願し」「信ずる」「誓う」と、ふつうの法律文書にはない言葉が出ている。まして「永久」とか「恒久」という言葉は、時の政府や法律が担保できる範囲を越えているといってよい。
そうした言葉が頻々と登場することが、日本国憲法が「祈りの書」と見紛うばかりの内容となっている所以である。
個人的には、オバマ氏の広島訪問は、日本の天皇陛下ご夫妻が、昨年パラオ諸島を訪れ「平和への祈り」を捧げられたと等しく、誰彼の責任を問うのではなく、未来への「祈り」を込めたメッセージとなるのではないかという気がする。

キューバの革命家チェ・ゲバラが、広島を電撃訪問したことがあったことはあまり知られていない。
それは明らかに「レガシー」づくりといった悠長なものではなく、差し迫った魂の衝動だったように思う。
ゲバラの広島訪問は1959年7月15日で、キューバ革命の勃発から半年後のことだった。
チェ・ゲバラは当時31歳、使節団を引き連れて、団長として日本を訪問している。
しかし、日本の政府関係の対応は、礼を欠いたものだったといってよい。
社会主義国家でしかも南米の小国からの訪問者ということもあったが、何しろチェ・ゲバラはいまだ若く、日本では「無名」に近い存在だったからだ。
通産相の池田隼人とは、わずか15分だけ面会しただけだったが、それでも翌年には日本とキューバの通商協定が締結され、現在もそれは継続中である。
ゲバラは、愛知県のトヨタ自動車工場や、新三菱重工の飛行機製作の現場を見学し、久保田鉄工・堺工場から丸紅、鐘紡と回って、大阪商工会議所主催のパーティーに出席している。
その間ゲバラは、当初の日本大使館側が準備した「無名戦士の墓詣で」を拒否した上で広島訪問を主張し、関係者を説き伏せての「ゲリラ的」訪問だった。
ゲバラは、広島県庁職員案内の下、広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪れている。
その時、取材していた新聞記者に「なぜ日本人はアメリカに対して、原爆投下の責任を問わないのか」と問うたという。
帰国報告の際にゲバラは、朋友のフィデル・カストロ国家評議会議長(当時は首相)に、日本に行く機会があれば、必ず広島に行くべきだと強く勧め、実際カストロも2003年に、広島を訪問し慰霊碑に献花している。
そればかりか、娘のアレイダ・ゲバラも2008年5月に原爆死没者慰霊碑を訪れている。
実際キューバは1962年核戦争一歩手前にまでいった「キューバ」危機を経験する。
旧ソ連が同じ社会主義国家キューバにアメリカを完全に射程におさめる核発射基地を建設していたことが、上空からの写真撮影で確認されたからだ。
その時、ケネディ大統領が、核基地の撤収をしなければ核戦争も辞さないと宣言し、核基地は撤収された。
こうした危機を背景に、キューバ建国のトップ二人が広島を訪問したことの意味は絶大で、キューバでは初等教育の段階で広島と長崎への原爆投下の内容を子供達にしっかりと学習させている。
そうしたキューバの「反核教育」に、キューバをたまたま訪問した女性ジャーナリスト吉田沙由里さんが感銘をうけた。
そして日本国内で起きた原爆投下時の「残り火」を各地に送る運動を世界に広げる足がかりとして、キューバに「原爆残り火」を送る運動を起こしている。

さて、前述のマーシャル諸島は、太平洋ミクロネシア海域に浮かぶ島々からなる共和国である。
19世紀末はドイツ領だったが、第1次世界大戦開戦後に日本が占領し、1920年から委任統治した。
第2次大戦後、国連信託統治領として米国の施政下に移り、67回の核実験で国土が使われてきた。
1986年独立し、91年に国連へ加盟したが、米国との協定により米国が「防衛」を負担する代わり、一部の環礁をミサイル実験場として使用している。
さて1954年3月のビキニ環礁の実験で、マグロ漁船「第五福竜丸」140トンが被爆したことはよく知られている。
当時の状況をいうと、筒井船長以下23名の乗組員を乗せ、一路中部太平洋のマグロ漁場へとむかっていた。
不漁のミッドウエー海域から南西に方向を転じた第五福竜丸は、3月1日未明、マ-シャル群島の東北海上にあって操業にはいった。
その時乗組員達は海上に白く巨大な太陽が西から上るのをみた。
数分後、昼の最中に夜のような暗さが周囲をおおい、生暖かくて強い風が吹きつけ船体を激しく揺らした。
その突然の異変を訝しみながらも 誰とは知れず原水爆の実験ではないかと言った。
無線で助けをよぼうともしたものの、傍受したアメリカ軍に撃沈される危険があると判断し、母港静岡県焼津港に向かった。
帰港した際、福竜丸の船体にも船員達には疲弊の色濃く滲んでおり、船員達は隔離され検査をうけ、多くの船員は体調不良を訴えながらも回復していった。
しかし、無線長である久保山愛吉さん当時33歳は回復せずに、被爆から半年後の9月23日に「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」との最後の言葉を残して亡くなった。
さて、第五福竜丸の帰港後、焼津より水揚げされた魚に放射能が発見され、原水爆禁止運動の萌芽が意外なところから芽吹いていった。
運動の中心となったのは放射能に汚染された魚が食卓に上るのではないかという危惧を抱いた東京杉並区の主婦達であった。
そして杉並公民館を拠点として原水爆禁止署名運動が広範な広がりをみせ、杉並区議会においても水爆禁止の決議が議決された。
杉並公民館はこうして世界的な原水爆禁止運動の発祥の地となったのである。
かつて杉並公民館があった現在の荻窪体育館の前には奇妙な形をしたオブジェが立っている。
さて、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」がマーシャル諸島海域で被曝してから今年で62年の時がたった現在、「あのとき、私たちも、あの海にいた」という人々による新たな動きが起こっている。
第五福竜丸以外の漁船の元乗組員らが、今年2月に自らも被曝したとして「労災」申請に踏み切ったのである。
それは、被曝したのは第五福竜丸だけではなかったということを思い知らされたニュースだった。
米国が1954年に核実験を行った環礁の周辺海域には、ナント550隻もの船が航行し、その4分の1が高知の船だったのである。
実際、高知県では、がんで亡くなる元乗組員が相次いでいるという。
2010年には米国の公文書でビキニ環礁の周囲に広がる「汚染実態」が確認され、13年には広島大の研究者の協力で元乗組員の被曝線量を推定する作業が始まったことも報告された。
当時の様子を当時太平洋で操業していた高知県の船員は次のように語った。
築地に入ると、白衣姿の数人の検査官が現れた。海上で身につけていたカッパに放射線測定器があてられ、針が大きく反応した。
多くのマグロが廃棄対象になったが、検査官は自分の体を詳しく調べようとしなかった。
1週間ほどしてその船員40度の高熱に襲われ、マグロ漁船を降ろされた。国は、自分の身に何があったのか、調べる責任と義務があったはずだと語った。
元船員らは今年2月、「労災申請」にあたる船員保険の適用を申請し、マーシャル諸島での核実験をめぐっては初めてとみられる提訴にこぎつけたのである。
船員の遺族のひとりは、ウヤムヤになってしまった歴史を問い直すきっかけにしたいと語っている。
さて、第五福竜丸のエンジンは、人の運命同様に、数奇な運命を辿っった。
第五福竜丸は被爆後1967年に廃船になったが、エンジンは別の人物に買い取られた。
その人物所有の「第三・千代川丸」にとりつけられたが、その後、同船は1868年に三重県熊野灘沖で座礁・沈没しエンジンは海中に没した。
1996年12月、28年ぶりにエンジンが海中から引き揚げられ、東京都はエンジンの寄贈をうけ、第五福竜丸展示館に隣接することになり、今も東京「夢の島」の浜辺に展示されている。

「人生の分かれ道」。核兵器の放射線の計測に関わった二人の学者の辿った道を知った時、この言葉が頭をよぎった。
前述のとうり、54年3月、ビキニ環礁で第五福竜丸が被爆するが、その放射能を計測したのが当時大阪市立大助教授の西脇安(にしわき やすし)である。
西脇は船体を調べ、「死の灰」を分析した。放射能が極めて強いことがわかると、欧州の大学などをまわって実態を報告した。
同年8月にベルギーであった国際会議で、英国の物理学者ロートブラットに、死の灰に含まれる放射性物質の推定値などを記したメモを渡した。
ロートブラットはメモを手がかりに、新型の水爆が使われたことを突き止め、哲学者ラッセルに危機感を伝えた。
ラッセルはアインシュタインに呼びかけ、核兵器の危険性を訴える宣言を発表。賛同した科学者らが、57年にカナダのパグウォシュ村に集まったのが、核反対の科学者達による「パグウォッシュ会議」の始まりだった。
西脇は、その後も核実験の危険性を訴えたが、その関心は次第に「原子力の平和利用」に傾いていった。
日本初の商業用原発となった東海原発の設置をめぐり、1959年の原子力委員会公聴会で、事故が起きても周辺住民には影響はないと発言するまでになった。
1968年にはウイーンの国際原子力機関に派遣され、放射性廃棄物の海洋投棄を規制する「基準作り」に尽力した。
IEAE退職後は、ウイーン大学で教えるなど教育や研究に関わった。
だが帰国後の2011年、東北大震災では厳しい表情でテレビを見つめ、考え込んでいたという。
家族が事情を尋ねると、僕にどうしろというんだと言葉を荒げた。
事故直後がほとんど何も食べず、その2週間後に94歳で亡くなっている。
ところで、長崎には歌や映画のタイトルにもなった「長崎の鐘」というものがある。
「長崎の鐘」は、長崎市・浦上地区浦上天主堂「アンジェラス(アンゼラス)の鐘」を指している。
浦上天主堂浦上天主堂本聖堂の建立着工は、1895年に遡る。
資金難から工事は途絶えガチで、本聖堂が完成したのは1914年、浦上天主堂は東洋一の大聖堂として、日本のカトリック教会のシンボル的存在となった。
1925年には、高さ26mの双塔部が建て増しされ、フランス製大小2個の鐘「アンジェラスの鐘」が取り付けられた。
「アンジェラス」とはラテン語の「Angelus Domini(主の御使い)」という語で始まる「お告げの祈り」および、その時刻を知らせる教会の鐘を意味する。
キリスト教国で教会の鐘は、朝・昼・晩に正しい時刻を知らせたばかりか、民衆の生活に深い宗教的影響を与えたのである。
ところが1945年8月9日午前11時2分、長崎に原爆が落とされ「浦上天主堂」は倒壊し、双塔も、「アンジェラスの鐘」とともに崩れ落ちた。
全壊した天主堂の瓦礫の中から、小さい方の鐘は壊れてしまっていたが、ナント大きい方の鐘がホボ無傷の状態で掘り出された。
同年12月24日のクリスマスイブに、仮設の支柱を建て、再び「アンジェラスの鐘」が鳴らされたのである。
1959年、戦後の苦しい生活の中から「浦上天主堂」が再建され、「アンジェラスの鐘」の鐘も右塔に設置された。
1980年、ローマ法王の訪日に際して、赤レンガの外壁とステンドグラスの窓に改装され、現在の美しい浦上天主堂に再生された。
ところで「アンジェラスの鐘」が「長崎の鐘」となったのは、当時、長崎医科大学放射線科部長であった永井隆博士が「長崎の鐘」を著したことによる。
1945年、長崎に原爆が落とされ、妻を失い自らも被爆して重症の身ながら、放射線医学の研究に従事し、永井博士は「救援活動」を続けていた。
ところが、翌46年には、寝たきりの状態になり、47年には、周囲の人たちが建ててくれた「如己堂(にょこどう)」に移り住んで、執筆活動に専念した。
「如己堂」は原爆で無一文となった浦上の人々が博士のために建てたもので、博士は「己の如く隣人を愛せよ」という意味から「如己堂」と名付け、2人の子ども達と共に暮らした。
寝たきりの博士は「執筆」にはげんで「長崎の鐘」や「この子を残して」というメッセージ性の高い作品を書いた。
現在、この如己堂は、永井隆博士の恒久平和と「隣人愛」の精神のシンボルとなっている。
1949年に米軍から発行が許可された「長崎の鐘」は、大きな反響を呼び、ベストセラーになった。
また同年、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲、歌手藤山一郎で「長崎の鐘」はレコード化もされ、大ヒットした。
現在も、5:30、12:00、18:00の1日3回、「長崎の鐘」は鳴らされ、時を刻んでいる。