戦略的「正論」

1998年長野五輪で、日本は金メダル2個、銀1個、銅1個と「圧勝」して国民を歓喜させた。
しかし、前回のソチ・オリンピックで、レジェンドといわれる葛西選手がようやく銀メダルをとるまでの間、長い不振が続いた。
その原因として国際ルールの変更があげられる。
ヨーロッパのスキー連盟は、1998年よりスキー板の長さを「身長プラス80センチ」から「身長の146%」へとルール変更をした。
この改正では、173センチを境にして、それより背が高い選手はヨリ長いスキー板を使え、低い選手はヨリ短い板を使うことを余儀なくされる。
長いスキー板は、技術的な困難さえクリアすれば、空気の抵抗力が大きい分、飛行距離は延びる。
つまり新ルールは長身選手に有利で、比較的「背の低い」選手の多い日本には不利となる。
こういうルール変更の場合には、選手の安全や健康を守るという「大義名分」が前面に打ち出されるが、実際は日本ツブシの巧妙な謀略だったのだ。
五輪スキー競技は“ノルディック”とよばれるように北ヨーロッパから始められたため、その「本家」が勝てないで外国人がメダルを独占するのはガマンならないということかもしれない。
しかしこうした国際ルールの変更は、スポーツの世界ばかりではなく、「プラザ合意」や「BIS規制」のような経済的国際ルール(もしくは尺度)の変更をも連想させる。
なぜなら、「大義名分」をかかげながらも、日本経済を圧倒的に不利な状況に追い込む結果となったからだ。
1980年代ごろ、アメリカはもうフェアな市場競争では他の国、特に日本企業には勝てなくなったのでルールを変えさせることで自国に有利にするという戦略をとり始めた。
1990年代では、お互いに関税を引き下げて公平に経済競争していこうというばかりではなく、今度は日本の関税以外のバリアつまり「非関税障壁」をターゲットとして攻めていく。
サービス、金融、投資、政府調達とか広範な領域に入り込む「壁」とおぼしきものを取り崩しにかかり、相手の国の制度やルール、法律を自国の企業に有利なように変えさせる徹底的な交渉を行った。
それが「日米構造協議」であり、近年の「規制緩和や自由化」の旗印の下、「金融ビッグバン」にまで至っている。
さて、「二国間交渉」などでは、商慣習なども含めてどちらの国の制度にあわせるかといった場合に、両国の「政治力」で決まるといってよい。
したがって、アメリカの内政干渉にも等しい「交渉力」の背景には、経済力に陰りがあるとしても、軍事力を背景とした政治力がモノいったという他はない。
しかし「日米構造協議」には、政治力に加えてとても説得力があったのを記憶している。つまり、アメリカ的な経済構造に変化させるのが、あたかも正論のように語られたことである。
そのために、日本政府の官僚とか外交の担当者がアメリカに留学して、グローバルな思考、自由貿易の正しさなどアメリカに都合のいい考え方を摺りこんで日本に送り返せば、これでもう完全にアメリカの意のままに動くという戦略である。その代表的存在が竹中平蔵前大蔵大臣といってよい。
アメリカの突然の「ルール変更」といえば、1971年に突然にニクソン大統領による「金とドルの交換停止」が思い浮かぶ。
これは世界に衝撃を与える出来事であったが、アメリカの都合で予告なしで行われ、その結果大幅な「円高」に見舞われた。
また、1985年に明白に日本を狙いうちした「プラザ合意」では、1ドル=240円代から1ドル=150円代の「円高」にイキナリさせられてしまって、日本を牽引した輸出産業はその後苦境に陥り、工場の海外移転を迫られ、「産業の空洞化」をまねいた。
また1990年代にバブル崩壊後のBIS規制は、国際業務を行う金融機関は、自己資産の総資産に占める割合を「8パーセント」以内に収めるというルールである。
このアメリカ発の規制が日本で適用されるのは1992年、つまりバブルがハジケて日本が不良債権の蓄積に喘いでいた時期だった。
確かに、BIS規制というルールは、イザという時に国民を守るため、銀行が「貸し出し」をしていくと、銀行にモシモのことがあった時に、預金が返ってこない可能性を考えておこうという「正当性」をもつものだった。
しかし、わざわざ「金融庁」を設置させ、その実施を徹底させたのは、アメリカの政治力が働いたと考えるのが妥当であろう。
実際、BIS規制の正当性とは裏腹に、「貸しはがし」「貸し渋り」で、中小企業が断末魔の苦しみをもたらし、デフレスパイラルといわれる新たな事態を生みだす結果となったのである。
BIS規制で、銀行がひとたび自己資本8%を切ってしまうと、テコの原理が働いて、銀行は毀損した資本の12.5倍の貸し出しを減らさなければならなくなるという。
銀行が一斉にそのような行動をとると経済は雪だるま式に悪化し、そのことが銀行の自己資本をタタキ、経済全体に対して深刻な問題を引き起こす。
銀行へ公的資金の投入に対して、マスコミは「国民が働いてえた血税をなんで銀行救済にあてるのか」と批判し、政府当局も銀行がその業務内容からみて「公共的存在」であることを十分に説明できず、公的資金投入が遅れたという面もあった。
しかし日本のこうしたデフレ・スパイラル状況にあって、アベノミクスの登場は一筋の「光明」をもたらすようにも思えた。しかし今やその成果につき、疑義の方が大きくなりつつある。
安倍内閣は「株価連動内閣」とも呼ばれているように、年金の積立金なんかで株を買う割合を増やして株高と円安を演出しきたものの、企業収益が投資や賃上げに十分に回っていないことである。
すなわち、賃金が上がって消費が増えるとか、技術開発があって新製品が生まれるとかいうものではなく、資産価値の上昇は、結果的に経済格差を広げる結果となっている。
そして、会社の業績は好調なのになかなか待遇が改善されない理由として、会社が利益を「内部留保」としてため込んでいるからだといわれている。
この「内部留保」という言葉は、従業員の雇用確保・雇用維持に尽力すべきだという労組側の意見は至極全うである一方、企業側も簡単には「内部留保」を切り崩せないと主張し、労使間のせめぎ合いの文脈から大きく浮上してきた感がある。
ところで、「内部留保」とは、要するに企業の税引後利益から、配当や役員賞与などの形で社外流出する分を除いた額を表す。
会計上の「勘定科目」で言うと、主に利益剰余金や資本準備金という「純資産の部」に計上されている項目がこれに該当する。
内部留保の蓄積は、企業活動の更なる拡大を担う重要な源泉となる。
この内部留保は、返済不要な企業の純資産として、企業内の様々な資産(土地・建物・機械等)に形を変えて存在している。
要するに、次期の利益調達の手段に変化しているのだが、そんなにため込む必然性があるのだろうか。
その背景に、「国際会計基準」の導入があり、全世界がひとつの会計基準を持つならば、国際的な取引のなかで、相手企業の経営実態を容易に読み取れるようになるのは確か。
つまりここでも「企業経営の透明性」を上げるという「正論」が語られたのである。
従来、日本の会計基準においては、「純利益」つまり収益から費用を差し引いて算出した値つまり「フロー」に重きを置いている。
一方、国際会計基準では「純資産」つまりストックを重視しており、その値は資産から負債を差し引いて算出する。
これを適用するメリットは、国際取引において、相手企業の経営状況を把握しやすくなるという「大義名分」がかかげられるが、国際会計基準といえども、その「ルール変更」はきわめて戦略的(政治的)に行われているといってよい。
ところで会計学の世界では、「原価会計が優れている」ということがあり、原価会計の基礎になっている「複式簿記」の考え方は、人類が生んだ三代発明のひとつとも言われている。
しかし、これを「時価会計」と比較した場合、「粉飾しやすい」という弱点がある。
「含み益」のある債券を売って利益を高上げしたり、含み損を抱えた株式の損失をアエテ認識せずにいたりすることによって、「損益」をゴマカスことができるのである。
こうした「粉飾」を防ぐには、簿価会計の枠組みのなかで、その方法に研究・実戦する手立てを考えることはできる。
ところが、アメリカは会長の業績評価を含めて業績評価はすべて「時価会計」で、「簿価会計」(原価会計)などというものは存在しないという。
さらに、アメリカは、エンロンやワールドコムといった会社が「粉飾決済」で破綻したこともあり、アメリカの政治力をもってしかできない「域外適用」をおこなった。つまりアメリカに関係のある企業は、すべからくアメリカのルールを守るべしということである。
また日本でも、日本株を保有する外国人投資家の比率の上昇にともない、時価を表さない「原価会計」への不公正さを是正する要求が異常に高まった。
M&Aを視野にいれいてる企業にとっては、「時価」で評価された方がやりやすいからである。
日本では「原価会計」が多くて、売った時にハジメテ利益を計上したり、損を計上したりする。
つまり「時価会計」では、利益を確定するためにわざわざ株を売る必要はない。
原価会計ならば、「購入当時」の低い価格が資産評価の基準となり、実際に売却する時に原価と売却した時の差額が計上されるだけである。
ところが、時価会計では原価と現在の価格の「差」を決済のたびに組み入れていく。そのため「含み益」の大きな株式を売却して利益を捻出する操作のような会計操作が不可能となる。
つまり「時々の」企業の損益が明確になるので「経営の透明性」をもたらすという点で「公明性」を確保できる利点がある、
ただし、日本がバブル崩壊によって企業の「市場価値」が下がる一方である時、「原価会計」から「時価会計」への転換はほとんど「自殺行為」のようなものだったといってよい。
それでも、日本の企業が「時価会計」の採用に踏み切った理由は何だったのだろうか。
以前は、株の持ちあいで株価の安定をはかっていたが、持ち合いの株式の資産価値が下がったために、それが重荷となって持ち合いの解消がすすんだ。
そしてグループ会社への不良債権の「飛ばし」をはじめとする「粉飾会計」が相次いで発覚することになり、海外からの日本の金融システムの「抜本的改革」への圧力が高まった。
また経営の透明性の高まりによりコーポレー・ガバナンスが強化され外国人株主が増えることにより、従来の「従業員主体」の経営から「株主主体」への経営へ移行することになった。
その結果、企業の長期的な成長や従業員の福祉ヨリモ、短期的な利益や配当の最大化に大きな「インセンティブ」を与えることになった。
「短期的な利益」をモタラさない設備や雇用はコストカットの対象となり、企業は正規雇用を非正規雇用に置き換えることで、利益を確保するようになった。
それは、雇用はコストとしかみなされなくなり、従来の日本型経営は息の根をとめられたことを意味する。

福岡県の久留米出身の「からくり儀右衛門」こと田中久重がおこした東芝を見るとき、ヨソゴトながら「思えば遠くへ来たものだ」という感慨の一方、粉飾決済の発覚から虎の子といわれる「半導体事業」の売却に至らんとする道は、あまりにも早かったという印象を抱かざるをえない。
東芝に一体何が起きていたのか。東芝が家電・電子業界から原子力事業へとハンドルを切った急カーブの地点まで時間を引き戻してみたい。
2000年代、経済産業省は、電機大手のデジタル分野での競争力低下に頭を悩ませ、「原発輸出」の旗振りをし始めた。
それを呼応するかのように、東芝(西田厚聰社長当時)は2006年、アメリカの原子力発電の巨人・ウェルチング・ハウス(WH)社の株の77パーセントを54億ドル(当時の為替レートで約6600億円)で買収した。
その当時、アナリストは、2030年までに世界で150基が新設され、市場規模は30兆円に達するというバラ色の予測を出し、それに呼応するかのように、西田社長は2015年までに39基の原発の受注計画をしていると発表した。
原発1基あたり、1千億円として4兆円のビジネスになるので、6600億円の買収など安いものだと考えたのかもしれない。
また、西田社長は2008年、半導体事業で、3年間で1兆円を投資するとブチ上げて世間をアッとといわせたが、このWH買収で獅子奮迅の働きをしたのが、次期社長に就任することになる電力システム部門トップの佐々木則夫氏である。
実は、会計上において在庫品も評価の対象となるが、半導体の在庫評価は極めて難しく、どんな優秀な会計士でも、様々な種類のチップの価格を正しく言い当てられるものではない。
逆にいうと、在庫の評価額はメーカーの胸先三寸でいくらでも変えられるため「粉飾決算」が行われやすいということだ。
そして2008年リーマンショックが襲うが、東芝は赤字となったものの、それほど深手をおっていないように見えた。
これも次期経団連会長をめざす西田氏の功績ともされたが、この段階で東芝は不正会計によって「軽症」を装っていたにすぎない。
しかし、強引な西田氏の「経団連会長」就任を不安視するムキもあり、実現するところとはならず、東芝が過去の栄光のWHという企業買収に6600億円を価値があったのかという疑問が渦巻いていった。
この過大評価したWHの買収で、東芝のバランスシートは大きく毀損していたからだ。そして2007年には、買った会社の「正味価値」と「買収金額」の差額、いわゆる「のれん代」が約3500億円ともなっていた。
そこに2011年3月追い討ちをかけるように東日本大震災が襲い、世界の原発建設計画のほとんどは中止または凍結されることになった。
東芝は、仮に39基の原子炉が受注できていたら、20年かけて3500億円の「のれん代」を償却できていたかもしれないが、その目論見は完全に外れることになる。
ただ3500億円もの「のれん代」を回収できる見込みのなくなった時点で、普通の会社であったなら「減損処理」をするはずである。
しかし佐々木社長は、受注は止まってしまったというのに、新規の原子炉建設が少しぐらい遅延しても減損にはならないと強気の姿勢をくずなかった。
不気味に白煙をあげる第一福島原発を終息させるのに、東芝は多くの原発技術者をかかえていたために、絶体絶命の危機を救う「救世主」のように期待されていたというのが、経営陣の眼を曇らせる「煙幕」になったのかもしれない。
結局、東芝の「からくり」の行方は、モノ作りの方向ではなく「会計処理」の向かい、不自然なバランスシートではあっても、誰の目にも届かなくなっていた。
さて、日本を代表する名門企業・東芝の凋落は、アメリカの戦略的「正論」の帰結たる「日本版ビッグバン」の流れと無縁ではない。
1998年、現スポーツ庁長官の鈴木大地がソウルオリンピックで「バサロ泳法」で金メダルをとったものの、それ以降国際ルールで「バサロ泳法」が禁じられた。
それに似て、経済における「潜水泳法」も認められなくなったということである。

次期社長に就任し、 トランプ米大統領は二十三日、ホワイトハウスで環太平洋連携協定(TPP)から「永久に離脱する」とする大統領令に署名した。
一方で「二国間の貿易協定を目指す」と明言、米国の利益を最優先にする米国第一主義に基づき、各国に市場開放を迫る方針を示した。日本については「日本との自動車貿易は不公平だ」と指摘しており、一九八〇年代から九〇年代にかけての日米自動車摩擦時のような厳しい交渉を強いられる可能性もある。
「米国の労働者にとって非常に良いことだ」。トランプ氏は大統領令を掲げ、満足そうに語った。
通商政策の司令塔となる新設の国家通商会議(NTC)のトップに就くカリフォルニア大のピーター・ナバロ教授らが見守った。政権が本格稼働した同日、ホワイトハウスで最初に署名した大統領令が、TPPからの永久離脱だった。続く労働組合の幹部らとの会合で「交渉参加国と二国間の貿易協定を目指す」と宣言した。
日本は自動車の関税を撤廃しているが、米国メーカーは燃費や安全規制が厳しいと主張してきた。
トランプ氏は、大統領選挙戦では「ラストベルト」と呼ばれる中西部各州で、自動車産業などで働く白人労働者階級に「海外に奪われた仕事を取り戻す」とアピールし、彼らの支持を集めることで勝利の原動力とした。日本の自動車市場批判は米国から日本への輸出を増やし、支持層に報いる狙いがあるとみられる。
TPPの事前協議に農林水産省の交渉官として携わった明治大の作山巧(たくみ)准教授は「多国間交渉では、大国でも主張を押し通せない場合があるが、二国間では理屈抜きに主張がぶつかり合うため、大国が優位になる」と指摘。二国間交渉になった場合、農産物や自動車で米国の圧力が強まると予想している。

企業の国際競争力が落ちているのに、無理やり利益を出そうと、不正会計やデータねつ造が横行する。
今、東京ではプチ不動産バブルが起こっているのだそうだ。
日銀の当座預金勘定がたまって、日銀は「マイナス金利」をやったのだが、金利が低い分収益が圧迫されて不動産融資にシフト。それがために都心でミニバブルがおきているという。
野村総研の堀江氏は長期投資の促進は将来的に企業価値を高めることにつながるとしながらも、「一時的に株価が下がる可能性はある」と述べている。
安倍政権が長期投資への誘導策に本格的に取り組んだ場合、市場がどう評価するかは不透明な要素も残る。
<日米自動車摩擦> 1973年の第1次石油危機などを背景に米国で小型車の需要が高まり、日本車の輸入が増える一方、対応が遅れた米自動車メーカーは大きな打撃を受けた。米国内で対日感情が悪化し、日本車の輸入規制を求める動きが広がった。日本側は81年以降、対米輸出の自主規制を実施。93年に始まった日米包括経済協議で自動車は優先分野となり、95年に両国政府は日本市場への参入拡大などで合意した。摩擦を受けて日本自動車メーカーの海外進出が進んだ。 <米大統領令> 立法手続きを経ずに米大統領が直接、連邦政府機関や軍に発する命令。議会は大統領令の内容を覆したり修正したりする法律を制定することで対抗することができる。憲法に反する内容の場合は、最高裁が違憲判断を示して無効とすることもある。太平洋戦争開戦から約2カ月後の1942年2月19日にルーズベルト大統領が出した大統領令9066号は、日系人の強制収容につながった。 (共同) 安倍政権の経済政策「アベノミクス」の生みの親とされる浜田宏一・米エール大名誉教授が最近、その限界を認め、追加策を唱え始めた。2%の物価上昇率は達成できず、トランプ米大統領は日本を「円安誘導」と批判している。アベノミクスは手詰まりなのか、浜田氏に聞いた。
最初の2年ほどは順調だった。日本銀行の金融緩和政策もあり、株価上昇や円安、失業率低下など大きな成果を上げた。
物価目標達成は手段として望ましいが、もっと大事なのが人々の生活基盤となる雇用だ。失業率は低水準、有効求人倍率は25年ぶりの高水準。アベノミクスの前に戻りたい人はいない。
リフレ派は、デフレは(通貨供給量が少ないことによる)貨幣的現象と考え、アベノミクス以前は金融政策が過小評価されており、金融緩和だけでデフレ脱却できると主張していた。デフレが長引き、人々は貨幣にしがみついたままだ。日銀のマイナス金利政策も銀行の収益を阻害するので反発が大きかった。
物価は2%どころか16年はマイナスで、金融緩和をしても財政を引き締めたら効果は減るという。
これを踏まえれば、消費税率10%への引き上げは凍結すべきだ。物価や景気の条件が満たされたら、毎年1%ずつ上げればいい。将来の日本を背負う若者の支援など、金融と財政政策の連動が望ましい。
国民の対外資産高は大きく、十分貯蓄している。しかも政府が借金してお金を使えば、経済が活性化してデフレ脱却も進み、税収増で戻ってくるという循環。
トランプは、日本の政策を「通貨安誘導」と批判し始めたが、過去5年、日本は「為替介入」をしていない。米国債や日本国債を大量に買っている中国との同一視は困る。
自然災害やそれに伴う様々なリスク、年金を始めとする将来への不安、アジア諸国の台頭、終わりの見えない円高などなど、現在の日本の経済環境は、国内外を問わず非常に不透明となりつつある。
「将来』の企業拡大に備えて資金(内部留保)を蓄積することは重要だ。
トービンのqというものがある。q=企業の市場価値/現存資本を買い替える費用総額。 分子の「企業の市場価値」は、株式市場が評価するその企業の株価と債権の合計を、分母の「現在資本を買い替える費用総額」は、その企業が保有する資本ストックの総量の価額をいう。
例えば、q>1なら、企業の市場価値が現在保有する資本ストックよりも大きくなっている。このことはこの企業の収益力は現在設備による収益力を上回ることが期待できるため、投資を拡大すべきことになる。
q<1ならば逆のことがいえる。すなわち投資は唯一qという変数によって決定され、qの増加関数ということになるる。
日本経済は長いところ不況といわれるが、不況といえば内需不足ということから説明されるが、そもそも高度経済成長期の「三種の神器」(冷蔵庫、洗濯機、テレビ)あるいは、新「三種の神器」(自動車・カラーテレビ・クーラー)のような、ビッグな売れ筋商品があるだろうか、という疑問がわく。
そう考えると、需要の問題は、供給サイドの問題に帰着するのであり、需要を言う前に供給側を活性化することが先決というのが、サプライサイド・エコノミクスの発想である。
構造改革、自由化、規制緩和やるべし、デキル者ガンバッタ者に厚く報いるべし、つまり不平等は容認し悪平等をなくすべしということになったのである。
しかし、この構造改革にもたらしものは、必ずしも経済の活性化とばかりはならずに「先行きの不安感」を伴なって表れたのである。
そしてこの「不安」こそがせっかくの経済活性化を「停滞」の方向にヒキズリ戻しているというのが、現状ではなかろうか。
景気が悪いので先行きが不透明で、具体的には会社をクビになるかもしれないし、クビにならないまでも給料は大幅に下がりそうだし、無理して評価をあげようと働けば病気になってしまうかもしれない。
商売はうまくいくそうもないし、とにかく将来収入は先細りになりそうだ。今のうちに貯められるだけ貯めておこうということである。
アメリカ野球と日本野球のストライク・ゾーンは、少々違う。
日本野球ではベース上を通るビールがストライクと決められているが、アメリカ野球の場合はソレよりも「外角寄り」に決められている。
優秀な打者ほど厳しいコ-スを攻められるのは、日米野球で共通しているが、アメリカのもっとも優れた選手ほどデッド・ボールの危険性が増すことになる。
デッドボールによる怪我は、本人の野球生命に関わることばかりではなく、球団の興業収入にも関わってくることである。
また数年前にボール1つ分「ストライクゾーン」が広がったことが話題になった。
つまりピッチャーに有利になったわけだが、野球はファミリースポーツであり、遠くから球場へ車で足を運んでいる観客が多い。
そんな中、2時間半を超えるナイトゲームは問題がある。
そこで早く決着がつくようにピッチャー優位のルールに変えたのである。
日本人、ストライクゾーンといえばベースの幅と胸と膝の高さで囲まれる「四角」を絶対的なストライクゾーンとする傾向があったが、ルールをある目的にソッテ柔軟にアルイハ「戦略的」に捉えるのが、アメリカ野球なのである。
そもそも法律というものは、市民達が自分達の権利を侵害されないように国王の権限を制限するためのものであった。
立ち上がった市民達は、国王に「ルール」の制定を要求し、法律をつくって自らの権利を守るようにしたのである。
つまり法律もルールも市民達を守るための武器であるはずなのに、日本では「神棚」に飾ってアガムベキ存在になっているようなカンジさえある。
コーポレートガバナンスにせよ、経営者に対する警戒心がある。経営者は会社をスベテ牛耳っているので会社という組織を使って何をしでかすかわかったものではない。
会社という組織を使って危ないことをされたら、会社の危機に直結する。そこで経営者を統治しようということである。
欧米を中心とした国際ルールの変更の「言い分」は誰がみても正論に見えるようにキチットとしている。
スポーツの世界ならば見る側を楽しませるため、国際経済ならば「フェア」な世界を築こうとしてしているように見えるのがポイントである。
しかしIBM会長のパルサミーノは、「ゲームのルールを変えた者が勝者になれる」と言っているが、絶対に勝てない相手に勝つ方法は、「ルール」を変えることに優るものはない。
あらゆる競技はルールの中で競われる。ルールを変えることは、いままでの努力も実績もすべて無しにするに等しい。
日本人は近代国家形成の過程の中で「ルール」の主人公タリエタことがない。
憲法でさえGHQ草案を元に作成している。
「憲法前文」が想定している「諸国民の公正と信義」への信頼を前提とした世界観と今という時代の現実とのズレも強く感じるところである。
日本を支えてきた能力はモノヅクリであるが、「技術の高さ」が必ずしも世界市場の売る上げの拡大に繋がらないという広い意味での「ルール変更」がおきているように思う。
シャープが得意な「液晶」の分野で韓国に敗れたのも、そういう点にある。
さらに、世界中の企業が情報通信物流コストをカナリ安く出来るようになったために、海外に労働を「アウトソーシンング」している点である。
こういう広い意味での「ルール」変更に日本はドウ対応していくかがポイントとなるが、「ルール」の従僕であり続ける限り、セッカクの努力も無にされる世界になっている。 マルクスは、この世の中を「弁証法的発展」ととらえた。実際に、経済現象も「弁証法的」である。
中心から向かって、外に飛び出す力と、内に向く力との相乗効果が「円運動」で、ふたつの中心から一点を結んで外に向かう力と内に向かう力を合わせると「楕円」になる。
需要と供給が同じタイミングで増減すれば、直線的な成長曲線になろうが、波を描くのはんぜか。
景気も、経済が膨らむと力と縮む力が、それぞれ違う係数で作用するばかりではなく、タイミングがずれ(ラグ)て働くため、「波」のカタチとなるのである。
膨らむ力は、技術革新や設備投資、縮む力は、供給増に見合うだけ伸びない需要や物価の値上がりや金利増などである。
さて景気の動向を人より先に判断しなければならない投資家にとって、どこが「判断のポイント」かということも実に面白い。
スカートの長さやアイドルの出現や古い説では太陽の黒点なども判断の材料だが、プロが見るひとつは商品市場である。
商品市場にはさまざまな投資の判断に重要な内外の景気や、企業収益の変化を読むための情報があふれている。つまり、商品市場は「宝の山」だ。
ある研究所では、国内景気の指標として鉄スクラップ相場を重視している。「鉄スクラップとゴルフ会員権の2つの相場を見ていれば国内景気は分かる」という。
では、なぜ廃自動車や建築廃材などから出る鉄スクラップの相場に注目するのか。中前代表は「優れた景気指標の条件」を満たすからだという。
まずは単純な理由だが、データが入手しやすいというのがある。鉄スクラップを主原料とする電炉鉄鋼メーカーの最大手、東京製鉄は購入価格をホームページで公表。
日本経済新聞は毎週木曜の朝刊商品面に電炉買値(指標品種のH2)を「鉄スクラップ相場」として掲載する。市場取引が活発なため、相場水準も明確で分かりやすい。
次に、景気の動きと時間差がないということだ。
鉱工業生産指数のような統計は公表まで時間がかかる。商品相場はリアルタイムで景気の変化を示す。
第三に、ウソがないということ。相場維持策のような余分な力が働かず、景気を素直に映す。欧米の先物商品でないため、ヘッジファンドなど大規模な投資マネーの影響は限られる。
第四に、景気の変化に対し変動幅が大きく、反応も早い。大規模な設備で鉄鉱石から鉄鋼を造る高炉に比べ、中小企業の多い電炉の方が景気の影響を受けやすい。需給の調整弁に使われやすい業界、商品ほど景気の変化に敏感に反応するわけだ。
オカネがサラサラと血液のように循環してモノの供給や需要をうみだしていくのだが、景気後退に至ると、オカネの流れのパワーが弱まり、いたるところで血流がとまってしまう現象がおきる。
その結果、市場の力が弱まり経済の復元力が失われていくというのが、ケインズ的な世界観であった。
本来、オカネというものは、利子を生まないので、あまり手元に置いたりしたら損をするものなのである。
だから人々は利子を求めて貯蓄し、一方では利子を払ってでも資金を求める者もいる。
だから古典派経済学では、オカネは貯蓄されてもスグに供給サイドで投資需要が表れ、投資財として生産されるために、オカネのサラサラ状態は維持されると論じたのだが、実はケインズは「オカネ」の不安定性つまり「オカネの滞り」に注目したのである。
つまりオカネにも回転速度というものがあり、ケインズはオカネの回転速度の低下に気がついたということである。
日本の市場開放のときにみえるように、ルール変更の「言い分」は表向き実に「理」にカナッテいるように思えることである。
そこに欧米の謀略や意地悪ではなく、ソレナリの理念があり、合理性があることがポイントである。
例えば、「減量」が飛距離を伸ばす大きな要因となっており、過度の「減量」が見られたタメであるというわけである。
ケインズはオカネを物に換えないで、利子もとらずに手元においておく理由を3つに分類した。
一つはオカネの取引需要で、これはモノを買うことに備えてしばらく手元におくオカネである。
もう一つは、国債の値下がりつまり長期金利の上昇に備えて、オカネを手元におく行為である。どうあれ、手元においている限りはオカネは回ってはいないし、有効な需要としてあらわれないのである。
三番目は「予備的需要」で、不測の事態に備えて余分にオカネをもっておおうとするものである。
オカネの「取引需要」を卑近な例でいうと、一週間に何回現行のキャッシュコーナーで財布にオカネを入れにいくかという極めて習慣的なものに依存している。家計を念頭におくと「取引需要」はピンとこないが、企業が小切手で支払いを行うために「当座預金」という利子がつかない口座にオカネを用意しておくのは、そうした「支払い」つまり取引需要のためであり、我々が財布にオカネを用意しておくのと本質的に何ら変わるものではない。
つまり「取引需要」は、取引のタイミングのズレで生じるものであり、それが国民所得水準にほぼ比例していることは用意に理解できるであろう。
第二のオカネを手元に置く理由は、「投機的需要」というもので、利子が非常に低い時に、すなわち国債の価格が高いときは、下がるをネラッテ国債を買うためにオカネを手元に置く、現実には家計ならば利子の低い普通預金、企業ならば当座預金に準備しておくのだが、今日本はどんなに利子(利回り)が低くても、投資の行き場がなくてとりあえず国債を買うという状況にあるので、ケインズの世界観にとって本質であった「投機的需要」は、今のところそれほど重要なものではないと思われる。(この点につきあまり現状を知りません)
むしろ重要なのはケインズが三番目にあげた「予備的需要」ではなかろうか。
すなわち不測の事態に備えてオカネを手元におくということである。
一般的には病気やトラブル、事故に備えて我々が財布に余分のオカネをいれておくということである。企業ならば利益を投資ではなく、ひたすら「内部留保」につとめるということである。
極端な例をひとつ挙げると、いつ銀行は潰れてもおかしくないと思う人物は、銀行から全預金を引き出すまではいかずとも自分の貯金を銀行ではなく、自宅の箪笥や金庫に保管しておくといったことである。
銀行に貯金するならば、貸し出しを通じてオカネは再び世の中をまわりはじめるのであるが、こういうオカネの「退蔵」は、オカネの流れを留め、経済の活力を奪わせているものであり、その最大の理由は先述のような「不安」ということに他ならないなのである。
セーフティ・ネットつまり「安全ネット」という言葉があるが、人が仮に失敗したり不測の事態が生じて落下したりしても、国がしっかりした「安全ネット」で受けとめてくれるというのならば、人々はもう少し前向きな経済活動にいそしめるだろうが、また将来の年金はたよりにならず、いつも失業・病気・老後などの不安が過ぎる限り、経済はなかなか上向きには日本企業への外国資本の比率がどんどん上がっている。株主総会で重要事項には2/3の賛成が必要だが、日本人株主は出ない人が多いので、外国資本が1/3を占めると、そちらの意向を伺わざるをえなくなる。
彼らは猛烈に配当を要求し、安倍政権では年金で株価を吊り上げているが、その3割は外資の運用に任せる結果になっている。
短期投資は海外投資家が主導している。日本取引所グループによると、16年の東証1部株式売買の割合で海外投資家は73.8%を占めるが、株式保有比率(16年度末)は29.8%にとどまり、保有期間が短いことがうかがえる。
海外投資家は安倍政権が発足した13年から16年までで累計12兆325億円の株式を買い越した。
安倍政権下での株価変動は「外国人投資家が先導した」と見る。海外投資家は日本が買いと判断すれば株価が上昇基調にあっても買う傾向にあり株価をつり上げるが、「逃げ足も速い」という。
ならにように思える。