ポスト「真実」

新約聖書「マタイの福音書24章」で、弟子たちがイエスに「世の終わりにはどんなことがおきますか」と問うた。
イエスがその兆候のひとつとして語ったのが、「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」という言葉である。
「不法がはびこる」ということで、まず思いつくのは、検察によって事件のシナリオがあらかじめ出来て、それにそって強引に証言をえようとしたり、「司法取引」によって自分の罪を軽くしてもらうために冤罪が増えたり、実行されてもいないことで、何かを「企てた」という材料ダケで逮捕されたりする。
つまり、「真実の追求」を含む「ジャスティス(正義)」が行われなくなるということだ。
しかし、これダケで「人々の愛が冷える」とは思えない。
「愛が冷える」世界とは、今日の「分断された世界」であり、そうした事態の最大の原因として、最近目にする「ポスト・トゥルース(真実)」という言葉が、よく言い当てている。
かつて、ゴア副大統領の著書のタイトル「不都合な真実」ぐらいなら、まだしも「真実」に重きがあったが、「ポスト・トゥルース」は、もはや「真実は二の次」ということを示す言葉である。
しかも真実を裏切る「嘘」というものが、人々の心の琴線に触れる「芸術的な嘘」である必要さえもない。
選挙キャンペーンの中のドナルド・トランプは、アメリカの「実質的」失業率が42%など、大小さまざまな嘘を並べて大統領に就任した。
実際には失業率は5%程度なので、トランプの代名詞は「アメリカファースト」にとどまらず、「トウルース・セカンド」でもある。
イギリスのEU離脱の国民投票でも、離脱派がEU加盟の拠出金が週3億5000万ポンド(約480億円)と主張したが、反対派は「週1億数千万ポンド」と言い、投票結果が出た直後に、離脱派はこの主張を撤回した。
さらには、バラク・オバマ大統領の出生証明書は偽造されたもので、大統領はイスラム国(IS国)を創設したとか、クリントン一家は人殺しで、予備選を戦ったライバルの父親は、ジョン・F・ケネディ元大統領が暗殺される前に犯人のリー・ハーベイ・オズワルドと一緒にいたといった悪意に満ちたものまである。
こうした「フェイク・ニュース」といえばイエロー・ジャーナリズムの世界に属するものであったが、今やアメリカの大統領の言葉やツイッターに、当たり前のように発せられる。
大統領だけに「真実のように感じられる」が実際は事実無根の主張に依拠した政治である。
こうした厚かましさは処罰されるどころか、エリート権力に立ち向かう意思の表れだとも解釈されているフシがある。
ただ、こうしたフェイクニュース蔓延の背景のひとつに、そもそも「真実」をつかみ取ることの難しさ、情報が多すぎて何が真実かを知る上でのコストの上昇があるのかもしれない。
政治行動を分析するときに、経済学の考え方を導入する試みが行われているが、しばしば使われるのが「情報の費用」という概念である。
真実に辿り着くためにどのような努力が必要なのだろうか。
人々は「情報の費用」を考えると「知ること」よりも「知らない」ことを選択する。
ここでいう「情報の費用」とは、知りたいが時間と金(本代など)がかかるコストもあれば、「今さら知ってどうなるのかしら」から「暗い気持ちになることは知りたくない」などの精神的なコストまである。
つまり、情報のコストやリスクを避けるためにあえて「知らない」ことを選択する。これを「合理的無知」といってもいい。
しかし、もっと根本的なことをいえば、この世に「真実というもの」があるのか、真実らしく語られることも、既得権益者の利益へとバイアスがかかった美辞麗句にすぎないのではないかという疑念である。
真実らしく語られることにも、なんらかの利害がからんでいるからだ。
例えば、ゴア副大統領の「不都合な真実」は、地球の温暖化による影響を画像を駆使したが、それは一面では石油業界から原子力へのシフトをもたらす政治的な動きともみられる。
クリントン大統領候補は、結局はエスタブリッシュメントの代表者と考えられ、その主張も大衆にはうけいれられずトランプの勝利につながった。
いかにも「理性的」で公平に見える人々が、実は自分の属するごく一部の既得権益のために行動しているのではないかという疑念が蔓延し、その疑念がそう的外れでない可能性があるとしたら、注意深く真実を見極めることにどれほどの価値があるだろうか。
実はこのような欺瞞こそが「ポスト真実」を蔓延させる決定的要因になっているのではないかとさえ思える。
また、こうした社会は、言論が力によって封殺されがちな社会でもある。
人々が、一体真実はどこにあるのかと彷徨う時、希望が持ちにくい真実よりも「大言壮語的な嘘」の方が人々の心をとらえる。
今日の社会は「右傾化」していることが指摘され、世界的にみても「ヘイスト・スピーチ」など排他的な感情が渦巻いている。
このことがさらなるテロを誘発するなど「悪循環」に陥っている。
この風潮から思い浮かべるのが、日本の昭和初期の殺伐とした時代である。
昭和初期にテロが横行した時代にあって、内閣総理大臣や財界の代表者が次々に右翼テロの凶弾に倒れた。
その結果、大正デモクラシーで芽生えつつあった「民主主義」の息はすっかり息を止められた。
しかし、政治家や財界人が右翼のターゲットになったのも、当時の政党が財界と結びつき腐敗していた結果であり、より清廉と思われた「軍部」に期待する風潮が高まったという面もある。
こうした傾向とも関連して、精神分析のフロイトやフロムは、人間の政治行動にたいして「驚くべき」知見を提供している。
格差社会にあって、貧困層は格差を広げて自身の生活を苦しめる政府に反対すると考えがちだが、そうした人々はなぜか「強い政府」を肯定しようとする場合があるということである。
フロイトの精神分析によれば、自分が惨めであればあるほど自分を徹底的に「無化」することによって、大きな存在(強い政府)と一体化することで、自己の自信(誇り)を回復しようとする心理があるという。
またフロムがいうように、人間は目の前の自由という「孤独」に堪えられず、国家権力と自身を一体化するかのように自由から逃走し、「奴隷化」の道を辿るというのだ。
人々は、信じたい言葉を信じ、それにすがりつこうとする。そのために「フェイクニュース」が当たり前のように発信される。
しかし、それがいつまでも続くとはかぎらない。「武器をもつものが武器で滅びる」ように、「フェイク」に生きる者は「フェイク」によって復讐される、もしくは滅ぼされる。
「大本営発表」というフェイクによる「大日本帝国の崩壊」がその例である。

個人的に、「フェイクの源流」として思い浮かべるのは、アメリカの新聞王ハーストである。
ニュースは作り出すものだ豪語したハーストを襲ったのは、自分との血のつながりさえなければ、「作り出すニュース」としては恰好のネタであった。
ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、1863年カリフォルニア州サンフランシスコ生まれのアメリカの新聞発行人で、映画『市民ケーン』のモデルとしても有名である。
父ジョージはゴールドラッシュ時代に銀鉱山を当て、富豪となった炭坑のオーナーで、カリフォルニア州の上院議員になった。
息子のハーストはハーバード大学に入学するも、学位を取らずに退学。
その後1887年、父親が賭博の担保として入手した「サンフランシスコ・エグザミナー」を譲り受けた。
1895年にはニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙を買収し、ニューヨーク・ワールド紙の所有者であるジョーゼフ・ピューリツァー(と激しく競い合った結果、両紙の記事は、真実を伝えるものよりも市民感情を煽るショッキングなものが多かった。
多くの人々が、ハーストが、自身の新聞の売り上げを伸ばすために、1898年の「米西戦争」を誇大に報じ、民意をコントロールしたことを知っていた。
「イエロー・ジャーナリズム」の用語が、扇情的に扱われた新聞記事のスタイルとしてに使用された。
ハーストはその後、アメリカ合衆国下院議員、ニューヨーク市長と政治家としての道を歩むが、1906年にニューヨーク州知事選挙に出馬するものの、チャールズ・エヴァンス・ヒューズに敗北している。
ピーク時には彼はいくつかのラジオ放送局および映画会社に加えて、28の主な新聞および18の雑誌を所有した。
しかしながら、世界恐慌は彼の財務状態を弱めた。
1940年頃になると彼は巨大なコミュニケーション帝国のコントロールを失い、1951年、カリフォルニア州ビバリーヒルズにて死去。
彼が築きあげたハースト・コーポレーションは、巨大メディア・コングロマリットとして現在でもニューヨークに本拠を構え事業は続いている。
実は個人的に新聞王ハーストの名を知ったのは、その孫娘パトリシア・ハーストが起こした事件によってである。
パトリシアは、1954年、サンフランシスコの新聞社「サンフランシスコ・エグザミナー」社長、ランドルフ・アパーソン・ハーストの三女として生まれた。当然ながら裕福な環境の下、何不自由なく育った。
1974年、当時19歳でカリフォルニア大学バークレー校2年生だったパトリシアは、家出して恋人と高級アパートに一緒にいたところを武装した2人組に襲われ、連れ去られた。
その3日後、犯人グループである左翼過激派シンバイオニーズ解放軍(SLA)より地元ラジオ局のKPFAに犯行声明が届く。
彼らはパトリシアの身柄を解放する代わりに、「カリフォルニア州の貧民6万人にそれぞれ70ドル分の食料を与える」ことを要求した。
同年4月15日、SLAのメンバーはサンフランシスコ北部にあるハイバーニア銀行サンセット支店を襲撃した。
この際、銀行の防犯カメラに誘拐されたはずのパトリシアが犯人グループと共にライフル銃を持って強盗を行っている様子が写っていた。
この映像はマスコミを通じて広く報道され、全米は騒然となった。
同年5月17日、FBIがSLAのメンバーのアジトを急襲し、犯人6名を射殺した。
パトリシアは他のメンバーと外出していたため、難を逃れ、そのまま逃亡するものの、6月7日、パトリシアは「タニア」という名を名乗り、ロサンゼルスの放送局に組織の同志になったことを宣言するカセットテープと写真を送りつけた。
このテープの内容は、「死を恐れず最後まで戦う」との声明の他に、親や婚約者を罵るもので、そのあまりにもショッキングな声明に全米は更に騒然となった。
それは、祖父のウィリアム・ランドルフ・ハーストが、いかにも飛びつきそうな材料であった。
翌1975年9月18日、サンフランシスコにてFBIがパトリシアを逮捕し、1年以上に及ぶ逃亡生活は終焉を迎えた。

ポスト・トゥルースの政治につき、「1983」の著者ジュージ・オウエルは次のような状況を提示している。
「だれも真実を探求しようとせず、だれもが公平さや正確さをまったくないがしろにして、一定の『立場』を打ち出しており、誰の目にも明白な事実ですら、それを観たがらない人々からは無視されてしまうことがある」。
2017年1月、アメリカに新たな大統領が誕生して以降、ポスト・トゥルース時代の政治が本格的に到来しつつある。
日本も他人事ではなく、安倍首相はIOC総会におけるオリンピックの招致演説で福島第一原発は完全にコントロールされていると胸を張ったり、最近では、稲田防衛大臣が南スーダン首都の治安が落ち着いていると述べたりしている。
ただし、こうした状況は、支持する人々がいて、はじめてそうした政治家が力を持つ。その意味で「ポスト真実の政治」とは、「ポスト真実の世界」だというべきである。
真実を伝えることがミッションであるジャーナリスト、メディアにとって「ポスト真実」の時代は、その存在意義そのものが問われる時代ともいえる。
ところが、「ポスト真実」を支える人々に、「真実でない」と言っても意味はない。
なぜなら、自分たちの主張がひたすら正しいと信じている人達だけではなく、自分たちの主張は間違いだと分かっていても、あえて真実を重視しないからだ。
この状況というのは、感情が支配する社会ということで、「感情社会」の基底にあるのは共感である。
共感は人の感情が共有される何らかの共通項がある時に生まれる。
「ポスト真実」派の共通項は、グローバリゼーションとIT化が行きついた結果(失業など)からもたらされた行き場のない絶望感、不安感といった「共感」である。
成長から取り残された米中西部・ラストベルト地帯のプアホワイト層化した人達と英国の内陸・非大都市部の同じ境遇の人達が起こした一時的勝利が「ポスト真実」だった。
また、ある宗教を信仰すると称する人々がテロを起こし、直接その被害を受けたり、その被害に怯える人々は、テロリストの活動を抑止し、テロリストを捕まえてほしいと願うであろう。
理性的ならば、それはあくまでも一部の人に過ぎないのだからという思いにもなろう。
しかし、人々が自然に抱く感情を利用して、事実を歪めたり、一部を全体に不当に拡大したり、事実無根の事柄を根拠にしたり、もはや妄動としか呼べないような言説によって行動する。
さて、人間とは渦巻く様々な感情を胸の奥に秘めて「本音」として表出するのを抑えることによって、互いの人権を尊重しあうという存在である。
「本音」とは口に出すのがはばかられる本当の感情だが、ソーシャル・メディアの発達は、世の中をタテマエやロジックより「本音の影響力」が勝る社会に変えたといえるかもしれない。
トランプ氏はマスディアは「ウソつき」だと激しく攻撃する。ソーシャルメディア(ツイッター)がその武器として絶大な効果を発揮している。
今や、米国成人の44%がフェイスブックでニュースを知る時代である。
ニュースルートはソーシャルメディア経由が主流になりつつある中、「ポスト真実」派の人々がエスタブリッシュメント(既得権益層)の利益代表と見る既存メディアが伝える情報を信じないのは必然である。
学生のなりたい職業ランキングに「ユーチューバー」というのが上位に位置する。
メディアとして、ソーシャルメディアと既存メディアを較べた時、最も大きな差異は事実とロジックで得られる真実を究極価値とする既存メディアに対し、ソーシャルメディアは「本音」が支配する世界である点だ。
ここでは共感(感情)が最も重要な価値となる。
そもそも人は自分が聞きたいことだけを聞き、聞きたくないことはスルーし、現実(真実)を認めようとしない心理がある。
ソーシャルメディアがそうした心理を増幅して、人と人とのあいだに乗り越えがたき「壁」を作る。
イエスが預言した「不法がはびこり、愛が冷える社会」とは、まさに今日の社会を指し示しているのはなかろうか。