「平和」と名のつく町

福岡県中部に位置する筑前町「大刀洗」を訪れた時、ずいぶんと「いくさ」と関わりがある場所だと思ったことがある。
まずは、南北朝の戦いで南朝側に味方した菊池武光が刀を川で洗ったことが「大刀洗」という地名の由来で、町中の公園には南朝の「忠臣」菊池武光像が立つ。
さらに太平洋戦争中に大刀洗飛行場は、神風特攻隊の訓練場であったことで「忠魂碑」や「慰霊碑」が多くたつ。
そういえば、福岡市内にも「いくさ」が重なりあう場所があると思い至った。
ただし町の名前は、「いくさ」を暗示する名前とは真反対の「平和」という名である。
こういう逆説的な町名がついたのは、争乱の都に、「平安京」という名がついたケースと少々似ているかもしれない。他に、エルサレム(平安の都)とも。
福岡市中央区平和には市内最大の平尾霊園があり、そこを見はらす約100mの高さの鴻巣山上の閑静な住宅街には地元で最も人気の瀟洒なレストランがある。
一般的にレストランにとって、霊園を見渡す立地はどうかという気もしないではないが、そこから見える風景は実際に気持ちを平和で落ち着いたものにさせてくれる。
さて、この「平和」という町と「いくさ」との関わりのひとつは、 明治時代初期のことであった。
神風連の変、萩の乱、秋月の乱とたて続けに旧士族の反乱が鎮圧された。
そして、西郷隆盛の西南戦争に呼応し、1884年には「福岡の変」おきる。その決起の場所こそ「平和」のすぐ南の麓に位置する興宗寺であった。
そこには、筑前士族(筑前勤皇派)が明治維新に貢献したにもかかわらず、その功績を薩長が独占していったことに対する怒りと不満が噴き出たもので、それは旧黒田藩士の子弟たちのやるせない憤懣にもなっていた。
決起した福岡士族約500名のうち、54名が戦死し、457名(斬罪5名、獄死43名)が刑に処された。
西郷隆盛に呼応して惨敗した「福岡の変」の屈辱。
福岡出身の作家・夢野久作の『近世快人伝』には、「福岡の変」の首謀者とみなされた武部小四郎が少年たちが弾圧され検挙されるのを見て、オオオー、オオオーと叫んだことを少年たちは忘れてはいなかったともある。
武部のオオオー、オオオーの絶叫が「玄洋社」を生み、中央の国家主義・帝国主義とは一線を画した歩みを見せたといえるかもしれない。
そして、武部の辞世の句「世の中は満つれば欠くる十六夜いざよひの つきぬ名残りは露ほどもなし」は、いまも平尾霊園の「魂の碑」に残っている。
さて、武部ら福岡士族が決起した場所が鴻巣山麓・寺塚の興宗寺である。
驚くべきことだが、この通称「穴観音」という寺には、東京泉岳寺の赤穂浪士の墳墓と配列から地形、玉垣まで同形式の墳墓が存在しているのである。
吉良上野介の首洗いの井戸、大石蔵之助の血しぶきの石などまでも、本物と同様にもうけられている。
この墓を見たら、誰か奇特な人が東京高輪の泉岳寺をマネして造ったと単純に思うにちがいない。
それと同時に、そもそもなぜこの場所に赤穂浪士の墓を造ろうとしたのだろうか、と思うに違いない。
しかし我々が映画やテレビで植えつけられた「赤穂浪士の精神」の発信元は、東京泉岳寺でも浪士の本拠たる兵庫県赤穂でもない。実は、福岡の方なのだ。

1702年(元禄15年)12月14日は、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入り、主君浅野内匠頭の遺恨をはらし見事本懐を遂げた日である。
実は、拙稿が赤穂四十七士の映画を最初に見たのはアメリカ遊学中のことで、カリフォルニア・バークレーの映画館であった。
バークレーはカリフォルニア大学バークレー校で有名な学生街で、映画「卒業」の舞台となったところである。
この街には映画館がいくつかあり、私はここの映画館のひとつで映画「卒業」をみた。映画館の周辺が、この映画の中の風景として登場するため、館内のいたるところから聞こえる口笛が鳴り止まない。
そしてこの同じ映画館で「赤穂浪士」を見たのである。その当時テレビドラマ「Shogun」が大ヒットして、日本のサムライに対する関心が高まっていたのである。
「赤穂浪士」をみているアメリカ人の反応が面白かった。
討ち入りに先立ち浪士の一人が、吉良家の隣家を訪れ「ただいまより討ち入りを果たす。しばらく御迷惑をおかけする」と言った場面に笑いがおこったのである。
討ち入りなどというものは、ふつう極秘にやるもので、官憲(この場合幕府)に知られてはまずい、そんなことを申し出ることの奇妙さと、わざわざ隣家にことわりをいれるといった律儀さが笑いをさそったのであろう。
しかし、実はこの討ち入りは江戸市民がひそかに今か今かと期待していたものであった。
当時つまり江戸元禄の時代、徳川綱吉下の柳沢吉保による幕府政治に不満をもつ人々が多く、幕府の御法度を破ることにもなる赤穂浪士の討ち入りは、霧がはれたような爽快感を人々に与えたのである。
つまり江戸市民の密かなる支持のもとに打ち入りがおこなわれたのであり、討ち入りに際して隣家にわざわざことわりをいれるというのも、そうした時代背景があったためである。
赤穂の忠臣たちの行為は事件後、「義挙」とされ多くの芝居や劇となった。そして時代がくだり第二次世界大戦中、主君(天皇)に対する「忠義」が重要視された時代において「義士祭」という形で赤穂四十七士の「義挙」は全国に宣伝されたのである。
戦争中の「国民精神の作興」が叫ばれた時代にあって「忠」の象徴である赤穂浪士の精神は、時代の要請にそったものであったのである。
渋谷駅前にある「忠犬ハチ公」の話が広まっていったのもこうした時代の要求の延長線上にあるといって良い。
ところで、興宗寺では毎年12月14日には福岡義士会主催の「義士際」が賑やかに開催されている。
この「福岡義士会」のおこりは、篤志家・木原善太郎氏が1935年(昭和10)、青少年の健全育成と日本精神作興のために私財を投じて泉岳寺と「同宗」の興宗禅寺境内に「赤穂義士」の墓を建立した。
これを機に義士会が結成され、討ち入りの日に祭典を執行することになった。
時の市長参列のもとに地元住民、並びに小中学校児童生徒が多数参列し、盛大に行われた。
以後、地元有志特に興宗禅寺関係者で毎年開催、年々参加者が増えてる。
拙稿は、この祭典の初代名誉会長に、玄洋社二代目社主・頭山満がを名を連ねていることに注目した。
そこで推測だが、篤志家・木原氏は福岡の士族が決起したこの場所と、赤穂浪士の決起を意識的にか無意識的にか重ねていたのではなかろうか。
そんなことを思い至ったのは、「忠臣蔵」を国民的ブームにしたのは福岡市出身の史論家で九州日報の編集局長兼社長であった福本日南なのである。
江戸幕府が開かれてほぼ百年。軍事より経済、武士の面目よりカネ。そういう世相にあって自身の命すら利害損得の外に置いて、主君の仇討ちを徒党を組んで成し遂げる。
それは、無念を晴らすという点、利害損得を離れたという点において、時代に置き去りにされた憔悴と屈折の中で決起した筑前勤皇派の心とも通じるものがあるように思われる。
福本氏が1908年8月1日から295回にわたって「元禄快挙録」を九州日報に執筆連載。これが「文章世界」に転載され、単行本で出版されると日露戦後の風潮にマッチし、東京を中心に「義士ブーム」を生みだしたのだ。
この年12月14日博多黒田家菩提所崇福寺で第一回義士会を開催し、翌年第二回を開催後、九州日報を辞し帰京。東京に「中央義士会」を設立し、毎年泉岳寺で義士会を開催しており、「福本日南の碑」が泉岳寺に建てられたのである。
つまり、日露戦争から時を経ずして「忠臣蔵ブーム」が起きている。
ここで、福元日南の経歴を簡単に記載したい。
福元は、平野国臣とも親交のある勤王家であった。藩校修猷館に学び、後に長崎において専ら漢籍を修めた。
1876年、司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入学するも、「賄征伐」事件で、原敬・陸羯南らと共に退校処分となる。
その後、北海道やフィリピンの開拓に情熱を注ぐが計画は頓挫し、帰国後、政教社同人を経て、1889年、陸羯南らと新聞「日本」を創刊し、数多くの政治論評を執筆する。
1891年7月、発起人のひとりとなり、アジア諸国および南洋群島との通商・移民のための研究団体である「東邦協会」を設立し、孫文の中国革命運動の支援にも情熱を注いでいる。
1905年、招かれて玄洋社系の「九州日報」(西日本新聞の前身)の主筆兼社長に就任した。
1908年、第10回衆議院議員総選挙に憲政本党から立候補し当選し、同年『元禄快挙録』の連載を『九州日報』紙上で開始した。
そして日露戦争後の近代日本における忠臣蔵観の「代表的見解」を示し、現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立するものとなったのである。
1916年、「中央義士会」を設立し、初代幹事長に就任する。1921年、千葉県の大多喜中学校で講演中に脳溢血で倒れ死去している。
「九州日報」において、「福岡の変」の屈辱から生まれた玄洋社と福本日南が確立した「赤穂浪士」とが結びつき、その後、ひとりの篤志家により「福岡の変」決起の場所・興宗寺に泉岳寺と同型の墳墓が築かれ、そこで毎年「義士祭」が開催されているという関係。
こうして「福岡の変」と関わりの深い人々によって赤穂精神は生み出され定着していった。
四十七士の義挙は武士の鑑、武士道の精華として語り継がれ、日本人の心に「忠臣蔵」として300年を超えて、親しまれ脈々として流れている。

福岡にはもうひとり「赤穂浪士」と縁のある人物が足跡を残している。
それを示す一番わかりやすいオブジェが、博多駅近くにある出来町公園にある。3mばかりの鉄道の車輪のオブジェで、黒御影石に「九州鉄道発祥の地」と刻まれている。
ところで、東京高輪の泉岳寺といえば、赤穂義士ゆかりの寺である。その泉岳寺の裏手に、義士切腹の地があることは、あまり知られていない。
泉岳寺の裏を走る二本榎通りを挟んで、高松宮邸を擁するこの閑静な一帯が、肥後熊本藩五十四万石の細川家下屋敷のあった場所で、「大石良雄外十六人忠烈の跡」と記された案内板が立っている。
1702年、主君浅野内匠頭の仇を討ち、本懐を遂げた赤穂浪士一党は、大名四家に分散しお預けの身となったが、大石内蔵助以下17名は、この細川家に預けられた。
藩主・細川綱利は、義士に対し並々ならぬ肩入れがあったようで、自ら二度も義士の「助命嘆願」の訴えを行い、17名全員を自藩に召し抱える腹積もりでいた。
しかし元禄16年2月4日、幕命を帯びた使者による切腹の申し渡しが行われ、即日執行された。
家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた綱利は、「軽き者の介錯では義士たちに対して無礼である」として、17人の切腹人に対し、17名の介錯人を選定した。
大石内蔵助に対しては重臣の「安場一平」を当て、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。
安場家では大石良雄介錯の刀を伝承しており、「大石内蔵助良雄切腹之図」が伝わっている。
偶然なのか何かの符牒なのか、明治時代にその子孫、安場保和が八代目・福岡県令を務めている。
実は、この安場保吉を福岡に招いたのが玄洋社社主・頭山満と親交を結んだ杉山茂丸である。
1864年福岡藩の武士の家に生まれた杉山茂丸は、若きころから政治に目覚め、国内を巡遊している。
伊藤博文暗殺を企てるも、伊藤本人に説得されて断念したという経験もある。
それまでテロリストに過ぎなかった杉山に「アジア」という新しいビジョンを吹き込んだのが頭山満である。 頭山は杉山にいくつかの指針を暗示したが、そのひとつが福岡を開発することだった。
頭山は九州に鉄道を敷き、海軍予備炭として封鎖されていた筑豊炭田を開発して、炭鉱運営を通して玄洋社の資金を潤沢にし、これをアジアや日本の建設にあてようというシナリオを考えていた。
そこで杉山は郷里・福岡の開発の先鞭として鉄道敷設を行おうとした。
1883年に鉄道敷設の声が上がったものの進展しておらず、杉山は、当時元老院議官・安場保和を福岡県令に迎えるため「直談判」したといわれている。
安場は熊本細川家臣で、横井小楠門下で開国派に転じて以来神風連に睨まれ、それ以後、大久保の庇護を受けている。
安場は大久保利通に気にいられていたエリートの一人だが、岩倉欧米使節団に入っていながらも途中で嫌になって帰ってくるような日本主義者でもあった。
杉山は、東京・芝の宿屋で安場と会い福岡県令になって欲しいと懇願し、最初は乗り気ではなかったものの、説き伏せている。
安場は東北における鉄道敷設計画の実績があり、郷里・福岡の発展のために鉄道が必要だと杉山は訴えた。
この時の話は、尾崎士郎の小説「風粛々」に描かれている。
安場がそれを受け福岡県令になると、九州鉄道の敷設は一気に進捗していった。
1886年に「民設」が認可され、1888年には九州鉄道株式会社が設立された。
こうして1年後、九州初めての「博多-千歳川」間に蒸気機関車が走るのである。ちなみに、千歳川駅は千歳川(筑後川)の北岸付近に作られた仮駅であった。
赤穂精神の発信源たる福岡に、大石蔵之助の切腹の際に介錯した安場家の子孫が福岡県令に招かれるというのも、なんというめぐりあわせであろうか。

日清戦争の頃より福岡には「歩兵二十四連隊」がおかれ、本部は鴻臚館発掘のために解体された「平和台球場」あたりにあり、現在「福岡連隊跡」の石碑が立っている。
そこから5キロほど南の鴻巣山周辺まで連隊が陸軍の訓練場に使っていたようだ。
かつて自分が住んだ鴻巣山南側の麓の興宗寺にも近い長住中央公園がある。
ブランコがあり、野球ができるグラウンドがある。つまり、なんの変哲もない公園である。
しかし、樹木のまわりに、まるで竹の子が顔をだすように頭部だけを出している石柱がある。
その石柱頭部に「陸軍」という文字が見える。さらに仔細にみると「三ニ八」「ニ〇ニ」「ニ三一」なんていう数字がみえる。
また 公園中央にまるいコンクリートの跡であって、何かの建物があったような痕跡さえある。
これは何かの秘密めいた施設のようだと思っていたところ、先日あるテレビの番組でこの場所の秘密が語られていた。
この公園がある長住は、太平洋戦争中は「陸軍の練兵場」で、終戦後、復員軍人のために農地として払い下げられたのだという。
そこである想像が浮かんだ。大刀洗町では、南朝の忠臣「菊池武光像」の前で、兵士たちが集められ上官の話を聞いたという。
それと同じように、長住の練兵場跡にいた兵隊たちは、すぐ近くの興宗寺の赤穂浪士の墓の前に集められ、上官から「忠臣蔵」の話を聞いたのではなかろうか。
そして現在、義士祭で子供のころ「赤穂の義士」にも扮したこともある地元の人々は、時を隔て歩兵連隊の兵士達とコノ空間を共有している。
「福岡の変」の屈辱を土壌に生まれた「赤穂浪士」の精神は、この「平和」と名のつく町周辺で発揚された。