意表の暗殺史

キムジョンナム暗殺のニュースに、世界を驚かされた。事後の展開まで入れると、北朝鮮サイドの「政治的愚行」という他はないが、暗殺自体は意表をつく手段で、その手口は実に鮮やかだった。
それは、キムジョンナムの行動パターンを熟知した上での暗殺であった点で、2年前に日本でおきた「王将」社長の射殺事件を思い出す。
「王将事件」の場合、ヒットマンは、倉庫前の駐輪場に隠れ、大東元社長が車を降りたところに近づいて、25口径の拳銃で至近距離から4発発射後に、バイクに乗って東に逃走、しばらく走って山科区内でバイクを乗り捨て、別の手段で逃走した。
犯人は、ターゲットの行動パターンを熟知していたということだ。
ところで、「王将」の大東社長が殺害されてしばらくして、ある飲食店でたまたま週刊誌を見て、そのトップに社長の写真が一面全面にでていた。
亡くなったハズだがと思い週刊誌の日付を確認すると、それは亡くなる3週間ほど前の写真だった。
そこには、社長が毎朝会社に一番にきて庭に出て水をやることが日課であると書いてあった。
そこで思い至ったのは、社長がヒットマンによって殺害されたのは、まさにこの時間であり、ヒットマンはこの週刊誌から、社長の行動パターンをよみ、ずっとそのチャンスをうかかがっていたにちがいない。

幼な心にも「暗殺」という言葉はつきささる。自分にとって「ケネディ暗殺事件」と並んで、「力道山刺殺事件」がそれにあたる。
「力道山刺殺」の方は、ヒーロー的格闘家がアッケナク亡くなったという点では、後のブルースリー暗殺(1973年)にも似ている。
さて、東京の赤坂ジャンクション付近に、東京急行電鉄(東急)の総帥五島慶太がたてた赤坂東急ホテルがあり、その傍らにはかつて「ホテルニュージャパン」があった。
その地下にあったキャバレー「ニューラテンクォーター」は、昭和史の「雄弁」な証言者である。
それは1982年に大火災を起こして焼失したホテルニュージャパンと同じ敷地内にあった。
ホテルニュージャパンは、元々は岸信介内閣の外務大臣・藤山愛一郎が「日本にも世界に通用するホテルを」ということで、自ら建造を計画したものである。
あわせて「海外からの賓客をもてなす」ことを目的として、“戦後日本最大のフィクサー”として知られる児玉誉士夫の力を借りてホテルの地下に作ったのが、「ニューラテンクォーター」というナイトクラブであった。
そして、ニューラテンクォーターの前の旧ラテンクォーターは、226事件の反乱軍将校が立てこもった料亭「幸楽」の跡地という「いわくつきの場所」に建てられてたものであった。
つまり、アメリカ駐留軍の慰安や社交の場として計画された「国策クラブ」であったが、諜報員や不良外人の跋扈する場ともなり、「もはや戦後ではない」といわれた1956年に、旧ラテンクォーターは火災の為に焼失している。
ところで児玉機関の副機関長に福岡出身の吉田彦太郎という人物がいて、児玉機関の実働部隊はほとんど吉田のイキがかかったもので、福岡出身者が多くいたというのは驚きの事実である。
この副機関長吉田の従弟に山本平八郎という人物がいて、博多で第1号店を出し合わせて11店舗をもつキャバレー王として成功していた。
この山本の出店に際して力を貸したのが、意外にも福岡出身の初代参議院副議長の松本治一郎であった。
そして旧ラテンクウォーターの焼失後、吉田の紹介でニュ-ラテンクォーターの社長になったのが、山本平八郎だったのである。
そしてその経営は山本の息子である山本信太郎に引き継がれていく。
山本信太郎は博多出身で、福岡大学商学部で学び空手部に所属していてた。その間、父親の経営する博多のキャバレーでアルバイトなどもしていた。
その山本にとっては、店の経営がようやく安定し始めた頃に起きたのが「力道山刺殺事件」であった。
ところで日本一のナイトクラブをめざすニューラテンクォーターにとって、ホステスの採用は最優先問題であった。
実際に客層の社会的地位の高さに対応できる女性、すなわち容姿、性格、教養すべてに高いものが要求され、さらに外国人にも対応できるようにきちんとした英語が話せる必要があった。
そしてそうした条件にある程度かなう女性達約80名を集め、それが店の最大のセールスポイントになったのである。
ちなみの、ニューラテン・クォーターというナイトクラブのステ-ジにたった超大物外国人は、ア-ル・グラント、ナット・キング・コ-ル、プラタ-ズ、ルイ・ア-ムストロング、パティ・ペイジ、サミ-デ-ビスJr、パット・ブ-ン、ベニ-・グッドマン、ダイア・ナロスなどその他多数。
山本個人は、眩いばかりの光の中に浮かび上がった白いドレス姿のパティ・ペイジが歌う「テンシ-・ワルツ」に仕事を忘れ夢見心地であった語っている
一方、ホテル・ニュー・ジャパンは、藤山愛一郎が建てた一流ホテルだったが、横井英樹が買い取ってからはすっかり三流ホテルになってしまった。
その地下に店を構えていた山本氏は、「地代」をめぐって横井氏と長い戦いを繰り広げたという。

1936年2月25日、深々と降り積もる中、官邸には選挙直後の総理大臣・岡田啓介や身近で支える人々が集まり穏やかなムードにいた。その中には岡田総理を父のように慕う秘書官の福田耕(たがやす)がいた。
日付が変わった26日の午前5時ごろ、凄まじい「銃声」が静寂を破り、自宅で目覚めた福田は外を眺めた。
そこには、数多くの歩兵部隊が向かいの首相官邸を取り囲んでいる姿が目に飛び込んできて、彼はすぐに官舎を飛び出そうとしたが玄関に居た兵に制止された。
後にわかったことは、この日、首相官邸を襲ったのは陸軍の歩兵部隊約300人でで、同じ頃には別の部隊が警視庁などを襲撃、陸軍省を含む東京の中枢を占拠した。
異変を知って官邸に松尾伝蔵陸軍大佐が私服警官とともに駆けつけるや、間もなく襲撃部隊が官邸になだれ込んできた。
見つかるのは時間の問題だった。そしてそのとき福田が耳にしたのは、兵たちの「万歳の声」。それは岡田首相が殺害されたことを意味するものだった。
首相官邸は襲撃部隊に完全に制圧され、襲撃から4時間経った26日午前9時、寝室には遺体が安置された。
福田は同僚の秘書官を伴い線香を上げたいと官邸の中に入った。ところが寝室に通された二人は予想もしない事態に直面した。
遺体は岡田首相ではなく義弟で私設秘書官の松尾伝蔵大佐だったのだ。
そして二人は女中部屋に向かった。そこには身を固くして座り込んだまま動かない女中たちの姿がいた。尋ねると女中の一人が「お怪我はありません」と答えた。
福田たちはこのとき岡田首相が無事であることを直感した。女中たちは押入れの前から動こうとしないのに気づいた。
彼らは、適当な理由を作り将校を女中部屋から遠ざけ、押入れの中の首相の生存を確認した。
襲撃直後に、捜索を続ける下士官に女中部屋の押入れが開けられるが、女中の「料理番のお爺さんです。風邪をひいて休んでます」の答えに下士官は部屋を立ち去る。
そして女中たちは怯えて動けない振りをして首相を守り通してきたのだった。
実は、義弟で私設秘書官でもあった松尾伝蔵大佐は、襲撃部隊の侵入を知って岡田首相を女中部屋の押入れに押し込むと自らは庭に立ち襲撃部隊を待ちうけた。
襲撃の下士官の「撃て!」の一声で一発の銃弾が松尾大佐の顔面を捉え、松尾大佐は即死した。
襲撃部隊のリーダー的将校らも岡田首相と面識は無く、欄間に掛けてあった肖像画を頼りに岡田首相本人であると判断したのだ。
実際に、岡田首相と松尾伝蔵は、顔や体型がよく似ていた。
そして福田は、押し入れの岡田首相を「救援」に動き出した。政府に応援を要請するため宮内省に使いを送る一方、官邸内を歩き襲撃部隊の警戒態勢を調べた。
岡田首相が隠れていたのは女中部屋の押入れで、脱出するには廊下を通って玄関に出るしか道はなかった。
しかし見張りの兵が寝室前と玄関に立って常に警戒しているため、通過するのは至難の業だった。
ところが事件発生から14時間が経った午後7時、ラジオや新聞の号外が岡田首相の死を伝えた。それを聞いた親戚が早く弔問させるよう訴えてきたのだ。
27日午前9時かつて福田応援を求めた憲兵隊曹長がやってきた。彼も女中から岡田首相が無事であることを知った。
そしてこの二人の出会によって「奇跡の脱出劇」が始まった。二人が考えたのは、次のような「奇想天外」な作戦だった。
まず弔問客を官邸内に入れ、小坂の部下たちが兵の注意を逸らし、岡田首相を焼香を終えた弔問客ということにして玄関を通過させ車で脱出するというもの。
寝室と玄関の見張りに怪しまれずに通過できるかが成功の鍵を握った。
弔問客の誘導から首相の脱出まで各人の役割分担が決められた。
福田は弔問客を入れさせてほしいと頼み、交渉の結果10人程度という条件で許された。
一方、憲兵隊軍曹は岡田首相を弔問客に変装するための着替えを用意し、部下が見張りの注意を引きつける間に、女中部屋に届けることができた。
そして27日午後1時、いよいよ作戦が決行された。
予定通り弔問客が官邸内に足を踏み入れ、しばらくして岡田首相を廊下に連れ出した。
ところが心神を消耗した岡田首相は歩ける状態ではなく、福田と軍曹で抱きかかえるように部屋を出た。
寝室の見張りを突破し玄関前の廊下を進んだが、慌ただしく走ってきた3人にタダナラヌ気配を感じたのか、見張りの兵が身構えた。
尋問しようとしたその瞬間、軍曹はとっさに「病人だ、死体を見たからだ」と答えた。
見張りの兵は、最後まで弔問客が1人多いことに気が付かなかった。
そして3人は遂に玄関を出た。直後、岡田首相を乗せた車は官邸を脱出。事件から32時間が経った午後1時20分、首相は無事救出された。

昭和天皇が狙撃されたことがあるといったら、多くの人は驚くかもしれない。
ただしそれは皇太子時代のこと。銃弾はハズレたものの、車の窓ガラスを破って同乗していた侍従長が軽症を負っている。
この出来事を「虎ノ門事件」(1923年12月27日)という。
狙撃犯の難波大介は、その場で取り押さえらえれたのだが、この事件は数多くの人々の運命をも巻き込んだ。
当時の内閣総理大臣山本権兵衛は総辞職し、衆議院議員の父・難波作之進は報を受けるやただちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し、餓死した。
長兄は勤めていた鉱業会社を退職し、難波の出身地であった山口県の県知事に対して2ヶ月間の減俸がなされた。
驚くのは、途中難波が立ち寄った京都府の府知事は譴責処分となり、難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め喪に服し、難波が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職したことである。
当然、警備責任を負っていた警視総監および現場の指揮官も「懲戒免官」となった。
ところで、一度狙撃された経験をもつ昭和天皇が21年から29年にかけ8年間にわたり国中をまわって戦争で多くを失った国民に声をかけ励まされた「全国地方巡幸」の勇気は大変なものだったと思う。
死の覚悟ができなければ全国巡幸などできなかったことではなかろうか。
1946年2月、クリスチャンの賀川豊彦が巡行の案内役を勤めた時ののこと、賀川が一番驚いたのは、上野駅から流れるようにして近づいてきた浮浪者の群れに、天皇が一人一人に挨拶をした時であった。
天皇は、親友に話すように近づき、「あなたは何処で戦災に逢われましたか、ここで不自由していませんか」と一人一人に聞いていったのである。
歓迎側の余りのフィーバーぶりに外国人特派員を中心に批判が起こり、天皇の政治権力の復活を危惧したGHQは、巡幸を1年間中止することにした。
このあと1949年に再開され、足かけ8年、1954年8月に残っていた北海道を巡幸して、1946年2月19日からの総日数165日、46都道府県、約3万3千キロの旅が終わる。
ただし、地上戦が展開され多大な犠牲者を出した沖縄は除かれたが、沖縄訪問(巡幸)は、昭和天皇終生の悲願であったようである。
ところで、「虎ノ門事件」に話を戻すが、虎ノ門事件における警備の「現場指揮官」だったのが、当時警視庁・警務部長の正力松太郎で「懲戒免官」となり、その後読売新聞社長におさまっている。
当時、読売新聞は左翼思想ではあるが優秀な記者も多かった。その一方正力は、元警視庁幹部として彼らの「プロファイル」を知り尽くしていた。
彼らの弱みを握っていた立場でもあり、読売新聞の経営を次第に軌道にのせていった。
また正力は、アメリカの野球を習いに武者修行にでかけていた野球人を集めて「職業野球」を構想し「読売巨人軍」を創設する。
さて、昭和の歴史に刻まれた野球の試合といえば、1959年6月19日の巨人・阪神戦。
この試合は、天皇ご臨席の「天覧試合」ということを抜きにしても、劇的に過ぎる試合であった。
この時ロイヤルボックスには、天皇・皇后・女官2名、セ・パ両リーグ会長を含む20人の重要人物がいた。
その重要人物の一人が正力松太郎であった。
巨人軍のオーナーでもある読売新聞社社主・正力松太郎は、野球人気を高めるためには天覧試合を開催することがだと、1959年1月に交渉を開始するとすると、宮内庁は「球界全体の総意が必要」という意向を伝えた。
正力は、パリーグには秘密で動いていたが、実はパ・リーグ側でも、東京オリオンズ(元ロッテ)の永田社長を中心に「天覧試合」実現に向ける動きをしていて「巨人対阪神戦」に異を唱えることなく、「天覧試合」はそれほど難航せず実現するはこびとなった。
そして、6月25日に後楽園球場にて「巨人ー 阪神戦」で史上初の天覧試合が開催された。
その日、巨人の先発は藤田元司、阪神は小山正明。先制したのは阪神だが、その小山が、5回に長島・坂崎に連続ホームランを浴び1対2と逆転される。
藤田も落ち着かず、6回にタイムリーされ、藤本に勝ち越し2ランされ、阪神は4対2と再びリードする。
ところが、小山が7回に王に同点2ランされ、試合は振り出しに戻った。
。 そこへ新人投手の村山がマウンドに上り7、8回を抑え、9回裏先頭の長嶋茂雄に立ち向かった。
そして2ストライク2ボール、長嶋の打球が左翼スタンドに吸い込まれ、ドラマは終わった。
ちなみに、両陛下が野球観戦できる時間は21時15分までで、両陛下退席まで「残り3分」の劇的幕切れだった。
さてコノ「天覧試合」は、「虎の門事件」からおよそ40年の時を経て、正力が昭和天皇と時と場所を同じくする場面でもあった。
正力がなぜ史上初の「天覧試合」の実現に執念を燃やしたのか。
昭和天皇を後楽園球場に導き、試合を心おきなく楽しんでもらえることこそ、「虎ノ門事件」で懲戒免官となった正力のリベンジの機会でもあったにちがない。