「幽閉」の賜物

生物学者・福岡伸一氏は「できそこないの男たち」の中で、分子生物学の見地から、男を男たらしめる秘密のカギである「SRY遺伝子」について興味深いことを書いている。
それによると、男(染色体XY)は、生物の「基本仕様(デフォルト)」としての女性(染色体XX)を無理やり作り変えたものであり、そこにはカスタマイズにつきものの不具合があるというものだった。
つまり、「男は女のできそこない」というわけだが、その結果、カスタマイズされた男の遺伝子だけに欠陥が多く、病気にかかりやすく、精神的にも弱いという。
この説がどこまで当たっているのか分からないが、ミャンマーのアウンサン・スーチー女史などを見るかぎり、男ならとうにクタバッテいるのにと思わざるをえないのだ。
ちなみに、チベット研究者の夫のアリス氏は、妻が自宅軟禁されてから、再三ビルマ入国を求めたが、軍政府に拒否され、妻との再会を果たせぬままガンのため息をひきとっている。
日本にもスーチー女史のような「軟禁生活」にありながら、力強く生きた女性がいる。
江戸時代後期、野中兼山は、土佐藩の家老として、用水路の建設などの公共事業では抜群の成果をあげる一方、専売制の強行などの商業統制から、領民の踊りと相撲の禁止など、社会統制にまでにも踏み込んだ改革を行った。
その苛烈さと厳しさから、兼山の方針を疑い、ついに兼山は反対派の策謀によって失脚し、自殺とも病没ともわからぬ状況で亡くなった。そこに追い打ちをかける野中家の「取り潰し」が裁定された。
そして、野中家の処分たるや、家族全員を跡継ぎの男子が絶えるまで「閉門蟄居」させるという異常なものであった。
「閉門蟄居」とは藩の監視の下で、「門外一歩」が許されず、誰と会うことも許されないということ。
長男は病死、次男は狂死して、ほどなく男系が途絶えた。
母と娘三人と召使いは幽居させられたまま外出もかなわず、40年の間、世間と交わらずに暮らしたのである。
この娘三人の中に「婉(えん)」とよばれた女性がいた。蟄居を言い渡された時は、わずか4歳。
映画監督・今井正の「婉という女」(1971年映画化/大原富江原作)は野中一家の壮絶な内面を描いている。
母娘は、長すぎる辛苦の時を何度も自害し果てようかと思いつつも、弟の「狂い死に」を見て気を取り直して生き抜くことを選んだ。
そして、婉も40代半ば、「子供を作れない年齢」になってようやく解放される。
ところが婉は、驚いたことに高知市郊外の朝倉の地で医者として活動を始めるのである。
幽閉されてきた婉がどうして「医学の術」を身につけたのかというと、医者の話を聞き、文通を通じて意見を交換をした。さらに近くの野を歩く中で薬草についての豊かな知識を身につけた。
異常な40年の軟禁生活にあっても、婉は人間性を失うことなく学ぶことさえも忘れず、解放後に地域医療に尽くすことになる。
野山の婉とスーチー女史の花飾りが重なる。

江戸時代になり平安時代の「人形遊び」と「節句の儀式」と結びつき「雛祭り」へと変わり、全国に広まった。
そこには、ひとりの女性天皇の存在が、結果的に「雛祭り」普及に大きな役割を果たす。
さて、日本史おいて女性天皇といえば8人いるが、その7番目に即位したのが明正天皇(めいしょうてんのう)である。 この女性天皇の即位につき、江戸幕府と皇室との間で権謀術数に満ちた「駆け引き」があった。
明正天皇の父は後水尾天皇で、母(和子:まさこ)は2代将軍の徳川秀忠の娘だから、明正天皇は徳川家康の孫にあたる。
徳川秀忠が和子を天皇家に入れたということは、徳川家がかつての藤原氏と同じように「外戚」として権力を振るおうとした意図が感じられる。
しかし、和子に男の子は生まれず、和子の娘は中宮の地位ではなく、自ら天皇になってしまったのだから、徳川家としても複雑な思いだったにちがいない。
ではなぜ、女性の明正天皇が誕生してしまったのか。この事実そのものが、天皇家(皇室)と徳川家(将軍家)との「駆け引き」を物語っている。
なぜならば、女性天皇は結婚できず、「子も産めない」立場であるため、せっかく入れようとした徳川の血も途絶えてしまうからだ。
古代より「天皇」となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない」という「不文律」があった。
皇位継承の際の混乱を避けるためだが、結果からすると、後水尾天皇はこの「不文律」を利用し、皇室から徳川の血を排除し、後世までその累が及ばぬように、娘の明正天皇を即位させたことになる。
この背景には、後水尾天皇は、1629年の紫衣事件や将軍・徳川家光の乳母春日局が無官のまま参内した事件に関して、江戸幕府への「憤り」を覚えていたということもあろう。
明正天皇は、父の御水尾天皇から、突然の「内親王宣下」と譲位を受け、わずか7歳で践祚した。
その反面、徳川将軍家を外戚とする明正天皇であるため、幕府は「禁中並公家諸法度」を根拠として朝廷に対する介入がやりやすくなったようにも思える。
しかし、事実はまったくの逆であった。
朝廷内においては、「院政」を敷いた後水尾上皇が依然として「実権」を握っていたためである。
院政は本来、朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、「禁中並公家諸法度」ではそれを統制できなかったのだ。
徳川家は当初、かつての摂関家のように天皇の外戚になることを意図して和子の入内を図ったが、その娘が明正天皇として即位することは、逆に公家や諸大名に通じて幕府に影響を与えることを警戒したということもいえる。
実際、後水尾上皇による「院政」が敷かれるや、明正天皇が朝廷における実権を持つことは何一つなかったのである。
それどころか、幼く即位した明正天皇を、できるだけ外部と交流がないカタチにしておく必要があった。
ただその後水尾天皇とて、和子の娘である明正天皇の成長を祈る気持ちは、普通の父親と変わらなかったであろう。
京都・山科の勧修寺の寝殿(明正殿)と書院は、明正天皇が生活した御殿を移築したものである。
書院の障壁画は、幕府や後水尾上皇らの許可なしでは外出や他人との面会もままならない一生を過ごした明正天皇を慰めるために、土佐光起親子が畿内の名所を描いたものと伝わっている。
また娘を憐れと思ったにちがいない父母は、娘に豪華な「雛人形」を与えた。そして、この雛人形のスタイルが、今日のように雛段の上に鎮座する「座り雛」の形になる。
さらには、この豪華な「飾り雛」が定番となって、雛祭りの際に、全国的に広まっていくのである。

細川ガラシアは、明智光秀の娘で、15歳の時、同じ年の細川忠興に嫁いだ。主君、織田信長の媒酌であった。
才長け、情けあり、信仰心強い婦人であったと伝わり、二人はたいへんに仲の良い夫婦であったという。
父親の明智光秀は、築城や砲術、軍学の第一人者でまた教養人で、一時は信長配下ナンバーワンで、丹波ばかりでなく丹後平定にも力を貸している。
一般には「逆臣」とか「三日天下」とも批判されるが、地元・福知山ではたいへんな名君と人気は今も高く、その遺徳を顕彰する「光秀祭」が盛大に行われている。
しかしながら、光秀が織田信長を本能寺で滅ぼした後、大勢としては光秀は天下を維持し続けられそうにもないと判断されていたようで、丹波・丹後を協力して平定してきた第一の親友であるはずの細川氏さえ味方になってはくれなかった。
戦国の世では、弱者に味方になるものはおらず、ガラシャ夫人は、もし光秀が天下を維持できれば天下人の娘であるものの、負ければ「逆臣の娘」であるため、その立場が微妙になってくる。
状況がどちらに転ぶか。早まってうっかり自刃でもさせれば一大事。一歩判断を誤れば、ガラシアの実家・細川家の存亡にかかわる難しい判断を細川父子は迫られた。
細川藤孝は、剃髪して「幽斎」と名乗り隠居し、息子の忠興は豊臣方についた。
本能寺の変の直後、夫忠興は、ガラシャ夫人は2歳の子を残し、ごくわずかの警護の者を伴って、明智領の丹波の屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後・味土野(みどの)に屋敷を作って珠を幽閉した。
しかし、この地こそガラシャ夫人の生涯を変え、特に精神的に、宗教的に飛躍的に向上させた。
このころまでは、信長も秀吉も切支丹を保護しており、武将の中にも高山右近や内藤如安のように切支丹大名がいた。
ガラシア夫人が味土野隠棲に従った侍女の中に「清原いと」という熱心な切支丹信徒(マリアの洗礼名をもつ)もいた。
細川家の親戚筋にあたり、清原家は高位の公家で、いとはガラシャとは一つ年下で、実の姉妹といってもいいほどよく似た佳人であったという。
そして、彼女と過ごした2年間こそは、ガラシャ夫人をガラシャ夫人たらしめたともいえる。
ルイス・フロイスは故国への報告書にガラシア夫人について、次のように書き残している。
「夫人は非常に熱心に修士と問答を始め、日本各宗派から、種々の議論を引き出し、また吾々の信仰に対し、様々な質問を続発して、時には修士をさえ、解答に苦しませるほどの博識を示された」。
秀吉は大坂城の建設にとりかかり、細川忠興はその脇の玉造に新邸を作って、秀吉の許しの下、夫・細川忠興は、別れて暮らす妻ガラシャを呼び寄せ、ガラシア夫人は玉造に移った。
ところが、秀吉は突如「切支丹禁令」を出し、教会には近づけなくなったものの、ガラシャ夫人は清原いとに洗礼をうけた。
秀吉なきあとの豊臣政権の実権はほぼ家康が握り、1600年、家康は会津にいた上杉景勝を討つという。
家康一群が会津に出陣、すぐに石田三成が家康討伐の兵を挙げる。
いわば、「関ヶ原の戦い」の前哨戦になっていく。
ガラシアの夫・忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた。
この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャ夫人を人質に取ろうとしたが、ガラシャ夫人はそれを拒絶した。
その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャ夫人に全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。
その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャ夫人を介錯し、その遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。
彼女が詠んだ辞世として「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」とある。
なお、忠興との間には3男2女があっが、跡を継いだ忠利は三男で、加藤清正のあとをつぎ、熊本藩54万石細川家初代藩主となった。
元首相の細川護煕(ほそかわもりひろ)氏は忠興・ガラシャ から数えて17代目となる。

糸島半島が突き出た玄界灘に浮かぶ姫島は、黒田藩の獄門島で、「玉姫伝説」からその名前がついたという。
「獄門」という言葉の響きとは裏腹に、ここに住む人々はとてものどかな暮らしをしており、人々は玄関に鍵をかけることもなく生活し、毎朝フェリーで届けられる新聞を中学生が交代で配達していると聞いた。
江戸時代末期、諸藩は幕府方(公武合体派)につくか朝廷方(尊王攘夷派)につくかで揺れていた。
そして一時、朝廷内部では尊王攘夷で藩論を固めた長州藩と結びついた公家が優勢をしめたが、1863年8月の公武合体派のクーデターで尊攘派公家7人が追放となり7人は一旦は長州に逃れた。
1864年京都での勢力回復をめざす長州藩と朝廷を守る公武合体派の薩摩藩・会津藩との間で京都御所周辺で戦闘がおこった。
長州藩はこの戦いに敗れ、その後幕府方15万の大軍によって長州藩が包囲されることになった。
この時、長州藩に謝罪恭順を求めて内戦の回避をめざす周旋活動が、他藩にさきがけて福岡藩で単独でなされたのである。
そして幕府方の解兵の条件として五卿(七卿のうち1人脱出1人病死)の長州藩からの移転が命じられたのである。
つまり、五卿を九州の五藩が一人ずつ預かることになり、一旦五卿は福岡の大宰府に移されたのである。
福岡の大宰府天満宮境内には三条実美ら五卿が滞在した延寿王院があり、近くの二日市温泉周辺には五卿滞在を記念して、五卿それぞれの歌碑がたっている。
しかし幕府にとって、五卿を預かる福岡藩・勤皇派の動きは気になるところであった。
そこで福岡藩は幕府への気兼ねから1865年6月、勤皇派の一掃を決意した。
特に福岡藩中老で勤皇派のシンボル的存在・加藤司書は自宅謹慎後、12月に切腹の命令が出されている。
またその自宅(平尾山荘)が勤皇派のいわばアジトと化していた野村望東尼に対しては自宅謹慎が決定した。
野村望東尼はこの平尾山荘で平野国臣ら勤皇派との交流をもつが、その手紙の内容には多くの和歌が詠まれており、「勤皇の歌人」とよばれている。
そして野村望東尼はその年の11月、玄界灘に浮かぶ糸島半島沖の姫島の座敷牢に幽閉されたのである。
この座敷牢の近隣の人々が監視人の目をかいくぐって望東尼に食事を届けたりした。その代わりに望東尼は詠んだ歌を短冊に書いて島の人々に渡した。
そのため、姫島にはそうした短冊をいまだに持っている家や、尼が使ったあんかを家宝のように保管している家もある。
福岡藩の勤皇の志士・籐四郎は、姫島流刑中の野村望東尼の救出を決意し、病床にあった高杉晋作と相談したところ、高杉は即座に同意し6人の救出隊を編成した。
かつて高杉晋作は、長州藩の保守派優勢のため失意にあった頃、野村望東尼の平尾山荘に匿まわれた時期があった。
つまり、この「野村望東尼救出作」戦は、高杉晋作の恩返しの意味も含んだものであった。
救出隊は1866年9月姫島に潜入し無事、尼を救出した。
そして望東尼救出の船は下関に着き、尼は倒幕派のスポンサーであった白石一郎宅に落ち着いた。
しかしこの頃、高杉晋作の病の床にあり病状は思わぬ早さで進行していた。晋作危篤の知らせに望東尼にも馳せ参じたが、高杉は間もなく死をむかえんとしていた。
その時高杉は有名な辞世の句「おもしろき こともなき世をおもしろく」と詠み、それに応えて望東尼は「すみなすものは こころなりけり」と詠み、高杉の最後を看取ったのである。
この時の望東尼の思いはいかなるものであったろう。
野村望東尼は1828年 福岡地行の足軽の家に生まれた。母の死、長男の病苦による自殺、次男の病死、夫の死と相次ぐ不幸の後に、「望東禅尼」と号した。
そうした彼女の人生を見る時、望東尼は晋作に「もうひとりの息子」を得、それを見送った感慨があったのかもしれない。 ↓