分断を防いだ人々

今年元旦のTV番組(NHK/BS1)の「江戸無血開城」は、新政府軍と旧幕府軍が激突直前にいかに回避されたかを明らかにした。
西郷隆盛を総大将とする新政府軍が総攻撃にむけて江戸に迫る一方、幕府側の勝海舟は新政府軍の提示した条件を拒否し、「開戦必至」とも思われた。
ところが開戦寸前、西郷と勝の和平会談が実現し、旧幕府は戦うことなく官軍に江戸城を明け渡す。
100万都市・江戸は焦土とならず、インフラと巨大市場が残され、日本の急速な近代化を可能となったのである。
従来、勝海舟と西郷隆盛の「直談判」の背景に、公武合体で朝廷から13代将軍家定に降嫁した「和宮」や、その姑にあたる島津家から14代家茂将軍に嫁いだ「篤姫」、すなわち天璋院らの「必死の説得」が、西郷と勝の和平会談を導いたともいわれている。
しかしこの番組では、もうひとり陰に隠れた「功労者」の存在を明らかにした。
その人物とは、アーネスト・サトウ。新政府・旧幕府双方の事情に通じたイギリス人通訳官アーネスト・サトウの存在は、両者の和平に、欠かせないものだった。
ちなみに、サトウはハーフでも日系でもなく、「純粋なイギリス人」で、ロシア系の名前だという。
勝は、江戸を新政府軍に開け渡すにしても、「火で焼き尽くした江戸」を開け渡す腹づもりで、そのための準備に抜かりなかった。
NHKの番組では勝が、ナポレオンのモスクワ進攻の際に、モスクワを焼払ってロシア軍が撤退した出来事を参考にしていたことを明らかにした。
江戸っ子は火事は慣れっこであるにせよ、勝は用意周到にも、船を総動員して逃げ場を確保させ、その復旧費を支給する準備までしていたという。
サトウは新政府軍とイギリス大使パークスの連絡役を勤めながら、自身が老獪な西郷にイギリスの新政府軍支援の約束を引き出すよう操られていることに気がついていく。
しかしサトウは、西郷を総大将とする新政府軍が江戸を攻撃するというのなら、自分にも「ある考え」があることを西郷に匂わせる。
その「考え」とは、開戦直前にパークスから西郷の下に派遣された人物を通じて語られる。
旧幕府軍がすでに「降伏」を宣言しているのに、後を追って攻撃するのは「国際法違反」であり、それでも江戸総攻撃をするというのなら、イギリスは新政府軍を支援しないというものだった。
またサトウは、江戸から始まる内戦の長期化が、虎視眈眈とアジア侵略を狙う列強を利するだけであることを両者に説いた。
ここに至って西郷は総攻撃をとどめ、勝も新政府軍の条件を幾分修正し、それを「落とし所」として受け入れる。
ところでアーネスト・サトウの存在は、「江戸無血開城」の功労者であることに留まらない。
サトウの来日直後に生麦事件と薩英戦争が起きているが、倒幕間際の1866年には英字新聞ジャパン・タイムズに論文を連載したところ、日本語訳が「英国策論」として出版された。
この「英国策論」が、西郷隆盛はじめ倒幕に一役買った人々の読むことになり、事態はサトウの書いた筋書きに沿って展開していったのである。
つまりこの冊子は「倒幕のビジョン」を提示し、明治維新に与えた影響ははかりしれない。
サトウは日本人の妻をめとり3人の子を残している。イギリスに帰り、1929年に86歳の生涯を終える。

大阪に行くと何箇所かで五代友厚という人物の石像と出会う。実業の世界で「東の渋沢栄一、西の五代友厚」と言われるだけのことはあると実感する。
五代友厚は薩摩の人だが、その五代が「大阪の父」と呼ばれているのは、五代が分裂・瓦解寸前の大阪の復興を支えた「大恩人」だったからである。
五代友厚が薩摩に生まれたのは1836年。14歳の時、人生を変える貴重な資料を目にする。
それは五代家がその「複写」を請け負っていた、藩が外国商人から購入した詳細な地図であった。
その地図を見て五代は、アジアの隅々にまで勢力を伸ばしていたイギリスが日本と同じような小さな島国だったという事実に着目する。
この頃から五代にとって、日本も世界有数の国になれるというのが、一生を貫くテーマとなった。
その後、日本が開国に踏み切ると五代友厚は薩摩藩の貿易係として長崎に派遣された。
この地で五代友厚はイギリス商人と交渉し、近代兵器の輸入や薩摩の特産品の輸出事業で頭角を表す。
さらに、貿易により培われた経済センスと、藩の命を受けて上海、イギリスなどに渡航する中、外国人と対等に交渉できる英語力も備わっていった。
そして、西郷隆盛や大久保利通らが倒幕運動を進める中、五代友厚は軍備や財政面から藩を支え明治維新に大きく貢献する。
明治の世となり、政府は五代友厚を「大阪府権判事」として派遣し、五代は弱冠34歳にして日本第二の都市であり商業の中心でもあった大阪の近代化を任される。これが、その後17年に及ぶ「経済改革」の始まりであった。
さて日本で「造幣局」が最初におかれたのが大阪だが、五代が日本最初の近代的な貨幣を作るにあたり、海外から輸入したのが圧印機であった。つまり、日本で最初の「円」は五代が生み出したものだった。
少し話がそれるが、戦争がおきて相手をやっつけるには、武器は不要で血を流す必要もない。
相手の国の紙幣の印刷機または印刷工場を手にいれればそれでことたりる。
紙幣を大量に印刷し、ヘリコプターで大量にばら撒けば超インフレが起き、政府や軍は物資を調達できなくなる、すなわち戦争が出来なくなるというわけだ。
実はこの話は全くの架空の話ではなく、朝鮮戦争の時にあわや現実化しそうになった。
1950年6月北朝鮮軍は38度線を越えてソウルで韓国銀行(中央銀行)を襲撃した。
ここで北朝鮮軍は、韓国銀行券とみなされて通用していた旧「朝鮮銀行券」の印刷原版を発見したのである。
これが北朝鮮軍の手中に落ちた以上は、韓国経済は徹底的に破壊されるのが決まったも同然であった。
反対に北朝鮮は未発行の紙幣をバラマクことで、兵站維持に必要な物資を意のままに調達できるのである。
また新規に紙幣を印刷して散布し、韓国経済を収束しようもないインフレに突き落とすことすら、侵入軍(北朝鮮軍)に可能となったのである。
この上は一刻も早く、朝鮮銀行券の流通を禁じ、新たに韓国銀行券を刷ってそれへ切り替えさせなければならないというのに、当時の韓国政府の全機能は半島の南端の釜山に追い詰められていた。つまり、新紙幣の印刷などできる状態ではなかったのだ。
そこで米軍当局は、韓国銀行券の印刷を日本の「大蔵省印刷局」に命じた。
その作業は徹夜の突貫作業のように過酷そのものだった。極度の機密上、場外作業に出すことはできず、何があっても米軍が命じた作業計画の変更は許されなかった。
そしておよそ2週間をかけて2千万枚の「韓国銀行券」を刷り上げ納入を完了したのであった。
造幣や銀行券印刷の重大さを教えてくれる「朝鮮戦争秘史」だが、大阪城造幣局前には、五代が香港から輸入した「圧印機」(貨幣の縁をプレスする機械)が設置してある。
さて話を戻して、五代が赴任当時の大阪は深刻な経済不況に陥っていた。
その理由は江戸時代の大阪は「天下の台所」と言われ全国の藩の年貢米が集められる場所であったが、この制度が廃止され大阪は「物流センター」としての機能を失い衰退しかけていた。
もう一つの理由は、大阪を支えてきた豪商たちの倒産であった。幕末動乱のさい、幕府や全国の藩は軍備を整えるために大阪の豪商たちから多額の借金をしていた。
しかし明治に入り幕藩体制が崩壊すると借金の踏み倒しが続出し、いわゆる「貸し倒れ」により商人の破産が相次いだ。
豪商たちが守ってきた秩序が崩壊したことで仕事の奪い合いや潰し合いが横行し、無法状態と化していた。
1868年、五代は横浜への転勤辞令を受けるものの、大阪のあまりの「惨状」を見て官職を辞し、実業家として大阪に留まることを決意する。
五代の「大阪立て直し」において、幕末の薩摩で「分断を防いだ」経験が大きかった。
1863年、外国人商人の殺傷事件(生麦事件)をきっかけに薩摩藩とイギリスは激しく対立し、互いに一歩もひかない戦闘を繰り広げ、双方に多数の死者を出す。そんな中、突如イギリス艦隊に姿を現したのが五代友厚であった。
提督キューパーに対し薩摩の戦力や士気はイギリス側に匹敵するほど充実してる、争うより「和解」した方が双方にメリットがあるのではないかと提案する。
この言葉が契機になったのかイギリス艦隊は撤退し、その後、薩摩とイギリスは交渉を通じて和解し、次第に貿易を行う仲間となっていった。
イギリスとの協力は薩摩の国力を高め、幕府との戦いを有利に進めることに繋がった。
五代にとってこの経験は大く、生き残りをかけ仕事の奪い合っていた大阪商人たちを集め、「商売敵と力を合わせろ」と訴えた。
さらに五代は、外国ではある人が事業を思いつくと、それに賛同した人が共同で出資、呼びかけた人は元手が増えるため大きな利益がある一方、それを分配すれば出資した人も儲かると教えた。
これは五代がイギリスで目の当たりにした「株式会社」の概念であった。
すると、そうそうたる名家の主たちが五代友厚の計画に参加し、五代たちが1878年に設立したのが大阪株式取引所(現在の大阪取引所)である。
この場所に五代の大きな石像が建っているが、大阪では炭鉱や鉄道など商人同士による様々な「共同事業」が発足し、大阪復興の糸口となる。
だが、五代にとってもうひとつ気になるは、大阪の「商人文化」の衰退であった。
かつて大阪商人が何よりも大切に考えていたのは「信用と算用」で、互いの信頼を裏切らない安心できる商取引や収支を見極める伝統的精神であった。
幕末明治の混乱で老舗企業が次々と倒産し、古き良き商人文化が廃れつつあったのを感じていた。
五代は、約300年にわたる伝統を新しい時代に引き継げないかと考えるなかで、恰好の事例が海外にあることを思いつく。
それは五代がヨーロッパ各国で見た「商業会議所」で、取引上の混乱や争いを防ぐためのルールを定めたり、国や政府に対し共同で提案したりするための組織であった。
五代は、この仕組みを大阪に取り込めば「商人文化」が継承できると考え、商人達を説得し1878年、「大阪商法会議所」がスタートした。
ここで定期的に開かれる会合で、公正な商取引を行うための書式づくりや適切な支払期限の設定など基本的なルールが整備され、かつての「信用第一」とした商習慣が大阪に戻ってきた。
さらに五代友厚が取り組んだのは商家が長年培ってきた商習慣を伝承する仕組みを作ることで、そこに実現したのが「大阪商業講習所」で、この学校からは野村徳七や鳥井信治郎など日本経済を支える企業家が幾人も輩出し、学校は後に大阪市立大学に発展していく。

フィンランドは森と湖の国であり、国土の4分の1が北極圏で幻想的な白夜やオーロラをみることもできる。
そして日本人と同じくキャラクターが大好きな国民性。サンタクロースの生誕地でムーミンを生んだ国、そしてサンタクロースは季節をかまわずに活躍している。
そしてフィンランド人と日本人は、「風呂好き」の点でも共通している。
ただフィンランドで風呂といっても日本のようにザンブとはいる風呂桶などはなくシャワーとサウナである。
そのかわり目の前の湖が風呂桶がわりになる。
フィンランドの首都ヘルシンキは青い空にのんびりとかもめが空を飛び交う。
2006年、フィンランドを舞台にした日本映画「かもめ食堂」は、なぜか見るものをひきこむ不思議な魅力をもつ映画で、静かなるブームをよんだ。
日本人女性サチエ(小林聡美)が経営する「かもめ食堂」を舞台に、夢かウツツか会話も少なくストーリーといえるものもない。
映画は、サチエが「かもめ食堂」にやってきた日本かぶれのフィンランド青年に「ガッチャマン」の歌詞を質問され、たまたま見つけた日本人女性(片桐はいり)に「ガッチャマンの歌詞を教えて下さい!」と話しかけると、彼女が全歌詞をメモに書き上げるシーンではじまる。
この映画を見た時、フィンランドの青年が日本の「ガッチャマン」を知っているという設定には、無理があるのではないかという疑念が残った。
しかし、その疑念は数年後に見たテレビドキュメンタリーによって氷解した。
ヘルシンキ郊外の公園では「桜まつり」が行われていて、桜を愛でながら和太鼓に剣術、また東京神楽坂発祥のパラパラ・ダンスまでが演じられていたのである。
というわけで、フィンランド人がガッチャマンを知っていたとしても、何ら不思議ではない。
それにしても、このフィンランド人の「親日ぶり」の背景には一体何があるのだろうか。
この番組では、フィンランドと日本との「接点」に一人の日本人がいたことを伝えていた。
その日本人とは、「旧五千円札」の肖像でなじみ深い新渡戸稲造である。
新渡戸稲造は第一次世界大戦後に設立された国際連盟の事務次長として、常任理事国だった日本を代表する世界のリーダーの一人であり、日本人の精神を「BUSHIDO」として世界に紹介した人物でもある。
さて、国連事務次長であった新渡戸稲造が直面した大きな問題は、現在の「ウクライナ情勢」の北欧版といったものだった。
オーランド諸島の面積は、千葉県と愛知県を合わせたくらいの面積で、もともと「スウェーデン領フィンランド」の一地方としてスウェーデン王国に帰属していた。
しかし、1809年にスウェーデンがロシアとの戦争に敗れため、オーランド諸島は「ロシア領フィンランド大公国」の一部となった。
一方、1853年11月に始まったロシアとオスマン・トルコの戦争(クリミア戦争)では、トルコ側についた英仏両国はスウェーデンの「参戦」を期待し、艦隊を派遣してこの方面のロシア軍を攻撃した。
スウェーデンは「中立政策」を採ってきたものの、英仏政府は執拗に賛成を催促し、スウェーデンは、英仏側の勝利が見えた戦争末期に、ようやく重い腰をあげた。
1856年のパリ講和条約でクリミア戦争は終結し、この条約でオーランド諸島はスウェーデンとロシア間にあって中立の「非武装地帯」となった。
しかし1914年、第一次世界大戦の勃発に際し、ロシアはこの条約に違反したまま、オーランドの要塞化を図り、事態はさらに混迷を深める。
そしてオーランド代表が「スウェーデンへの統合」を求める嘆願をスウェーデン王に提出する一方、フィンランドは「オーランド分離」を阻止すべく、1920年にはオーランドに対し広範な自治権を付与するオーランド自治法を成立させた。
するとオーランドは逆にスウェーデンに対し、島の帰属を決定する住民投票を実施できるように要請し、スウェーデンとフィンランドの両国間の緊張が高まる結果となった。
このため、スウェーデンは国際連盟にオーランド問題の「裁定」を託し、フィンランドもこれに同意したのである。
1921年、新渡戸稲造を中心として、オーランドのフィンランドへの帰属を認め、その条件としてオーランドの更なる自治権の確約を求めた「新渡戸裁定」が示された。
そして1922年にフィンランドの国内法(自治確約法)として成立し、オーランドの自治が確立したのである。
その内容とは、なんと「オーランド諸島は、フィンランドが統治するが、言葉や文化風習はスウェーデン式」という意外なものだった。
これにより、「オーランドの分断」を防ぐことができ、オーランド諸島は今や「平和モデルの島」となり、領有権争いに悩む世界各国の視察団が来るまでになったのである。