日本文化のブーメラン

文化や生活用品において「海外発か」と思ったら、実は日本が「発信源」だった。最近そんな発見が多くて、「ブーメラン」という言葉が浮かんだ。
「スターウォーズ」のジョージ・ルーカス監督は、「七人の侍」を目に焼きつけるくらい繰り返し見るほどに、黒澤明監督の「崇拝者」であった。
それで「スターウォーズ」 が、ヘルメット(かぶと)のカタチから、電子に光る剣を交えて戦うシーンまで、「日本の時代劇」を彷彿とさせるのも、ごく自然なことであろう。
さらに、「マカロニ・ウェスタン」は、クリント・イーストウッド主演の「荒野の用心棒」(1964年)が代表作だが、黒澤映画「用心棒」(三船敏郎)の完全な焼き直しといってよい。
というわけで、黒澤映画がアメリカ映画に与えた影響という「一方向」に気がとられて、迂闊にもアメリカ映画が日本映画に与えた「逆方向」の影響を見落としていた。
例えば、映画「シェーン」は西部劇史上不朽の名作といわれている。
天涯孤独の流れ者が、一夜の宿を貸してくれた一家の窮状を知り、その主人への友情あるいは主人の妻に対するほのかな愛情から、身を賭して悪人に立ち向かい、またいずこかへと立ち去っていく。
そのラストシーンで、馬で立ち去る主人公に少年が「シェーン カンバック」と叫ぶシーンは、西部劇史上最も印象的なシーンといっていい。
ある映画雑誌によれば、日本の「股旅もの」は、西部劇の影響を受けているという。制作年代からすると、「シェーン」より古く1910年代から20年代に一世を風靡したウイリアム・ハートの「西部劇」からの影響だったと指摘している。
日本の時代劇との「共通項」を探せば、「さすらいのガンマン」のように無宿者とか渡世人を扱った点で、「木枯し紋次郎」の世界に通じる。
そして、「わがアメリカ文化誌」(亀井俊介著)には実に意外なことが書いてあった。
著者は、黒澤明の「七人の侍」が、野盗達の襲撃シーンや、それを迎え撃つ七人の侍と彼らに導かれた百姓達の戦い方には、従来の日本のチャンバラ映画とは随分と違うという印象を抱いたという。
ところが、「七人の侍」の構想が、そもそも「西部劇の日本化された娯楽ものをつくろう」というネライの元に構想されたということを知って、自分の「違和感」の謎が解けたとあった。
つまり、「七人の侍」は、日米の文化がブーメランのように行きつ戻りつして影響しあうことになる。
「意外」ついでにつけ足すと、黒澤明は、福岡藩の寄贈によって東京文京区に設置された黒田小学校を母校としている。黒田小学校は、現在は音羽中学校として改称・統合されたが、永井荷風も通っていたという。

福岡県前原市では、日本最大の銅鏡が発掘されているが、それが見つかった平原遺跡の主は、文書や装身具などから「女王」だといわれている。
気になったのは、その墳墓の四隅におかれた銅鏡がことごとく意図的に叩き割られて埋められているということだ。
伊都歴史博物館で、破片をつなぎ合わせた銅鏡をみたが、その割られ方に、なにか「憎しみ」のようなものさえ感じた。
個人的に、ライバルともいえる別の女王の存在さえも想像したのだが、そこで思い浮かんだのが、イギリスの女王同士の確執である。
16世紀、ヘンリー8世の正妻カザリンとの間に生まれたメアリ1が王位につき、愛人のアンブーリンとの間にできたのエリザベスとの間には 葛藤が絶えなかった。
、 メアリは自分が王位にある間、腹違いの妹・エリザベスをロンドン塔に幽閉するが、メアリの突然の死でエリザベスに王位が転がりこんできた。
そのエリザベス女王には、「メアリ」と名のつくもうひとりの女王との戦いが待ち受けていた。
それが、スコットランド国王のメアリ・スチュアートで、このメアリは、遠くヘンリー8世の血をひいており、イングランドでは、エリザベス1世が王位継承者として即位していた。
メアリー・スチュアートは、美貌かつ多才であり、絶対王権をめざすエリザベスにとって穏やかならぬ存在であった。
なぜなら、イングランドでは、エリザベスがヘンリ8世の「庶子」であったことを問題にし、チューダー家の正統な血筋にあたるメアリ・スチュアートこそが「正統な」王位継承者とみなす意見がくすぶっていたからだ。
ところが、そのメアリ・スチュアートがエリザベスのもとに転がり込んでくる。
夫の殺害疑惑など様々なスキャンダルにまみれた末、スコットランド王を廃位となり、祖国を追われる身となったのだ。
エリザベス1世にとってそれは脅威となり、家臣たちの不穏な動きを察したため、ついにメアリを謀反の罪で死刑にしてしまう。
ところでエリザベス1世の写真を見ると、ある一箇所に自然に目が行く。それは、滝のように首から流れている「真珠の首飾り」。
フランス育ちのメアリ・スチュアートは、イングランドへの亡命に際し、当時は非常に珍しかった「黒蝶真珠のネックレス」などたくさんのジュエリーを持ち込んで来たからである。
エリザベス女王が、大きく目立つ真珠を身に着けるようになったのは、メアリ・スチュアートへの「対抗心」によるものだと推測できる。
ところで、真珠は形状において一般的に「真円」に近いほど価格が高くなるが、生き物が生み出した石だから多少のクボミがあって当然で、「真珠のエクボ」などとよばれている。
ちなみにヨーロッパで17世紀頃より普及したバロック芸術の「バロック」は、ポルトガル語で「歪んだ真珠」を意味している。
そしてバロックとよばれる真珠が、「ペイズリー」の形を思いださせるのにはわけがあるのかもしれない。
「ペイズリー」とは、インド北西部のカシミール地方で織られたカシミア・ショールに付けられたパターンが起源だが、19世紀にヨーロッパでカシミア・ショールのコピー製品が作られるようになり、その「代表的生産地」こそがメアリ・スチュアートの国スコットランドの町「ペイズリー」なのである。
さらに「ペイズリー」のカタチ、我々日本人にとってどこかで見た感があるのは、日本の古墳で時々発掘される「勾玉 (まがたま)」とよく似ているからだ。
「ペイズリー」といえば、「海外発」とばかり思い込んでいたが、その起源は「日本発」ではないかと思えるほどウリ二つだ。
実際、ヨーロッパで「バロック様式」が最盛を極めた17世紀は、イギリスやオランダの東インド会社の設立により東洋の産物が西洋に流れ込んだ時期で、実はオリエンタルな影響が非常に強い時期だった。
日本は鎖国の時代であったが、長崎の東インド会社「出島支店」を通じて日本の文物はヨーロッパにかなり拡がり「ジャポニズム」とよばれる文化現象も起きている。
ヨーロッパで起きたバロックの勃興は、実は東洋との接触、なかでも日本との接点を見逃してはならない。
ちなみに、マリーアントワネットの母親であるオーストリアの女帝マリア・テレジアは、「有田焼」(古伊万里)の愛好者である。
「日本の女王の勾玉」、「インドのペイズリー」、「ヨーロッパのバロック」と、相互に繋がっていてモノが生まれ変わる「輪廻」の世界さえ思わせる。

アメリカやカナダの中華料理店に行くとカナリの割合で出される「フォーチュン・クッキー」 とは、意外なことに日本人が「創案」したものだった。
お菓子の中に「運勢」が表記されている「紙片」(おみくじ)が入っているため、「フォーチュン(運勢)クッキー」とも呼ばれた。
その源流は意外にも日本の「辻占い」である。元々の「辻占」は、夕方に辻(交叉点)に立って、通りすがりの人々が話す言葉の内容を元に占うもので、「万葉集」などの古典にも登場するほど古いものである。
江戸時代になると、「辻占」は、お祭りや市の日に辻に立ち、そのオミクジを小さな紙片にして、せんべいの中に入れたものが「辻占せんべい」である。
フォーチュン・クッキーとは、「二つ折り」にして中に短い言葉を表記した紙を入れた形状は、日本の北陸地方において新年の祝いに神社で配られていた「辻占せんべい」に由来するものある。
ところで、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パーク内にあるジャパニーズ・ティー・ガーデンは、1894年に開催されたカリフォルニア冬季国際博覧会のアトラクションとして建設され、その後恒久の庭園となった。
そして、庭園やその敷地内の茶屋を運営していたのは、萩原真という日本人移民の「庭師」であった。
萩原は、訪れた客に「お茶請け」としてこの煎餅を提供した。
博覧会の終了後、恒久的な公園の一部となり、1895年から1925年まで、萩原は庭園の公的な「管理人」を務め、庭園を運営した。
萩原は庭園のために、今日庭園の名物となっている金魚や、千本以上の桜をはじめとするさまざまな動植物を日本から取り寄せている。
園内にある五重塔は、1915年のサンフランシスコ万国博覧会(パナマ太平洋国際博覧会)において、日本から送られた資材で建設された展示物を移築したものである。
「フォーチュン・クッキー」は、この万国博覧会に出品されてから広まり始め、戦後、次第に中華料理店がこの煎餅を取り入れるようになったため、いまだに「フォーチュン・クッキー」は中国発と思っている人が多い。
ところで、明治時代、東京大学のお抱え教授で大森貝塚の発見者モースは「フォーチュンクッキー」について「ある種の格言を入れた菓子」として「糖蜜で出来ていてパリパリし、味は生姜の入っていないジンジャースナップ(生姜入の薄い菓子)に似ていた」と書いている。
モース(1838ー1925)は、ボストン郊外のマサチューセッツ州セイラムに住んでいた動物学者である。
1877年、船で横浜に着いた彼は、横浜から東京へ向かう列車の窓から偶然に「大森貝塚」を発見した。
当初3か月の滞在予定で来日したモースは東京大学の教師となり、前後3回の来日で通算2年半滞在することになった。
この間、モースは日本の陶磁器や各種民俗資料の収集に励んだ。彼が日本の陶器を集めるきっかけとなったのは、ある店で自分の研究対象である貝の形をした陶器を見付け、購入したことだったという。
知人から、その貝形の陶器は骨董品でも何でもない安物だと聞かされたモースは、一念発起して陶磁器の勉強を始め、日本人をしのぐ目利きになったという。
なお帰国後のモースは、米国北東部セイラム市のピーボディー博物館長となり、日本で収集した民具類を展示し、異文化紹介にも尽した。
さて、日本の近代美術の「恩人」ともいうべきアーネスト・フェノロサ(1853年-1908年)は、モースと同じセイラムに住む「知り合い」同士であった。
東京帝国大学が政治学の教授を捜していることを知ったモースはフェノロサをその職に推薦した。
フェノロサは1878年に来日し、政治学や哲学の講義をするかたわら、日本絵画に魅せられ、「日本美術」の研究と収集に没頭するようになった。
さらに、モースやフェノロサの出身地であるセイラムの近くで、日本と関わりの深い世界ブランド「ティファニー」が立ちあげられた。
T・カポーティー原作で映画化された「ティファニーで朝食を」ではオ-ドリー・ヘップバーンが自由奔放な女性ホリ-・ブライトリ-を演じ、彼女がティファニーのショーウィンドウを覗きこむシーンで映画は始まる。
映画では、このホリーの部屋の上にうウニヨシなる日本人が住んでいて、出っ歯とめがねでステレオタイプ化された当時の「日本人像」というものを見せ付けられのには、かなりガッカリさせられるが。
とはいえ、ティファニー社の世界ブランドへの発展の大きなエポックは、「日本の伝統美」との出会いであった。
ティファニーの祖は清教徒の最も初期の移民団に属し、アメリカ・ボストン近くに居を定めるが、ニューヨークで現在のティファニー社の基礎を作ったのはチャールズで、1837年に同郷で義兄のヤングとともに「雑貨店」を開いたのがハジマリである。
店の売り上げを伸ばそうと、品物をいれ変えたり並び替えたりしたが、ある日「ボストン港」に入港する船から降おろされた「日本製」の食卓やラィティング・デスクなどの工芸品に目を奪われた。そして店にその工芸品を置くと非常な高値で売れたのである。
これが、ティファニーと日本との出会いの始まりとなった。
ところで、ティファニーといえば宝石であるが、この宝石は「革命」のドサクサの中で多く入手したものである。
フランスで2月革命がおこり、ヨーロッパに革命が広がりはじめると、ヨーロッパの王族・貴族は国外脱出のための資金が必要となり、チャールズは資金をすべて宝石購入にまわし、その過程で「門外不出」と通常考えられたような貴重品が次々とティファニーのものになったのである。
ところでチャ-ルズの息子のルイスは、画才がありソレナリの評価を得たのであるが、生来同じ場所にいられない性格で、室内装飾の色ガラス製作を試みる中で「ガラス工芸」に魅せられる。
そのうちジャーナリズムにとりあげられ、世間の注目をあびるようになるのだが、ルイスのガラス器は「生活雑貨」にすぎず「芸術」とは認められないと評されるや、熱がさめたように売れなくなってしまった。
この「行き詰まり」の中で、ラファージという日本を旅した最初のアメリカ人画家が、ルイスの「ガラス工芸」確立に協力したのである。
ラファージの妻は「マ-ガレット・ペリー」という名前で、その名が伝えるとおり、黒船来航のペリー提督の弟の孫という関係にあたる。
ラファージは、妻の実家で偶然にも「広重の浮世絵」を見て、すっかり日本画に魅せられたのである。
これがティファニーと日本との第二の関わりのキッカケとなった。
ラファージはボストンで岡倉天心らと交友し、日本の美は、シンメトリックではないのに「形の均衡」がとれていると評した。
ラファージとの協力により、ルイスはガラス工芸の中でも、乳白ガラスと紅彩ガラスの製造工程を「確立」していった。 しかしルイスとラファージの「蜜月」はそう長くは続かず、「製法特許」をめぐって裁判沙汰になってしまう。
そして、ティファニー・グラスというブランドは、今度はこのラファージとの「熾烈な競争」の中から生みだされたといっても過言ではない。
ラファ-ジは「日本美術」を範としてステンドグラスの第一人者として1889年パリ万博でも勲章を得たが、ガラス製品を大量生産し全米に流通させたのはルイスの方だった。
ルイスは、新しい技術者やデザイナーを招いて工場を拡充させ、ランプ類を庶民にとっても手がとどくほど安価で提供するほどの「大量生産」で応えていったのである。
そしてティファニー・グラスは飛ぶように売れ、世界ブランドの地位を確立したのである。
ティファニーの歴史は「文化のブーメラン」の真髄を表している。
もしも過去を映し出す「水晶玉」のようなものがあったならば、ティファニーの「水晶玉」の中にはメイフラワ-号の清教徒達、フランス革命の擾乱、南北戦争の戦火、そしてペリ-来航に沸く日本の姿なども映っていることだろう。

マカロニウエスタンが撮影されたイタリアは、ラテンのノリとかと最も懸け離れた民族で、イタリア人と「共通項」を見出すのは難しいような気がする。
しかし日本人とイタリア人特に古代ローマ人と共通項をアエテ探したら「お風呂好き」という共通項が浮かんでくる。
最近、ヤマザキ・マリというイタリア在住の漫画家が描いた「テルマエ・ロマエ」という漫画が評判をよび、阿部寛・上戸彩主演で映画化されている。
しかし、日本の銭湯とローマのテルマエ(浴場)を結びつけたのは、面白いめのつけどころかと思う。
「テルマエ」とはラテン語で「浴場」で、「ロマエ」はローマのことだから「ローマの風呂」という意味のタイトルになる。
物語は、古代ローマの浴場設計技師のルシウスが、設計の行きヅマリに悩み、現代日本の風呂へタイムスリップしてしまう話である。
マンネリで古臭いと批判されたルシウスは、公衆浴場(銭湯)、個別の浴場、露天風呂といったエピソードごとに、現代日本のふさわしい場所へタイムスリップするという展開である。
そして、ルシウスの目に新鮮に映ったのが「ペンキ絵」とか「フルーツ牛乳」とか「脱衣籠」などの日本のお馴染みの風景であった。