もうひとつの駒

図形の証明をするために、「補助線」をいれるとよく理解できるように、様々な出来事に「ひとつの駒」を入れ込むことよって事態がよくのみ込めたり、奥行きが見渡せたりすることがある。
例えば、戊辰戦争で新政府軍の江戸総攻撃が直前に回避されたのは、教科書的にいうと、西郷隆盛と勝海舟との会談によるとなっているが、今ひとつ腑に落ちない。話し合ったぐらいで、「江戸無血開城」なんてことがありうるのかと。
そこに、アーネスト・サトウという「ひとつの駒」をおくと、事態がよくわかる。
サトウは、イギリス大使パークスの意をうけた人物で、つまり、もしも新政府軍が江戸総攻撃を行うならば、イギリスは新政府軍の支援することはないという意思表明していたのだ。
そればかりではない。倒幕のシナリオはサトウの「英国策論」に書かれ、それが西郷はじめ倒幕派のリーダー達に読まれ、実際に「倒幕」はその筋書きどおり展開していったのだ。
つまり、本当に「実効性」のあることがらというのは、案外と表面には出ないものなのかもしれない。
ところで、近年NHKスペシャル「盗まれた最高機密~原爆スパイ戦の真実」で紹介された内容は、「公文書と当事者の証言を根拠にした「国家機密漏洩」を扱ったもので、「驚天動地」という言葉でしか表しようもない内容だった。
なにしろ、アメリカ核開発計画「マンハッタン計画」の中心人物が、ソ連に「原爆の作り方」の情報をソックリ渡したというのだから。
さらに驚いたのはその「動機」である。彼は次のような証言をしている。
「わたしは原爆の秘密をロシア人に渡すことに決めた。なぜならわたしには、…まるでナチス・ドイツを作るように一つの国を軍事的脅威に変え、その脅威を世界に野放しにすることになる『核の独占』などはあってはならない、ということが重要に思えたのだ。これにあたって一人の人間がすべきことには、たった一つの答えしかないように思えた。
なすべき正しいこととは、アメリカの独占を壊すように行動することだったと。 ロスアラモスで、原爆の破壊力を知って自問した。アメリカが原爆を独占したら一体どうなるのか。私には信念があった。核戦争の恐怖を各国の指導者が共有すれば、彼らは正気を保ち、平和が訪れると思ったのだ」と。
この人物の存在すなわち「ひとつの駒」によって、アメリカの核の独占は完全に崩れ、米ソ冷戦の幕開けとなったということになる。

ある本で、ハワイ移民の出身地として圧倒的に山口県が多いこと、その中でも特に瀬戸内海に浮かぶ周防大島の出身者が多いことを知った。
その理由は、周防大島は「芋くい島」といわれるほど農業の環境が悪かったため、長州出身で明治政府の外務卿であった井上馨が、耕作が難しく貧しい島民のために、ハワイ移民を勧めるために一役かったからだという。
またこの島の出身者の中には、民族学者の宮本常一や作詞家の船村徹がいることを知り、彼らの仕事の背景にはこの島の美しい風景があるのだろうと推測した。
ハワイ移民について知るうちに、世界各地に住む日系人を襲った様々な運命について興味をもつようになった。
例えば、スペース・シャトル・チャレンジャーの宇宙飛行士・エリソン・オニズカは我が故郷である福岡県南部筑後地方の浮羽町をルーツとしている。
オニズカの祖父は、移民としてハワイにわたりコーヒー栽培などを行っていた。
ところが1941年に真珠湾攻撃が行われると彼らの運命は暗転する。アメリカ政府の官憲からスパイ容疑者として財産を奪われ監視されるようになった。
こうした日系人はアメリカ星条旗への忠誠を表そうと志願してイタリア戦線に参加し、多くの戦功をあげたのである。
ものの本には、日系人こうした名誉回復の働きがあったからこそ、八ワイに住む一人の日系三世がスペースシャトルの搭乗員として選ばれたということになっている。
ここで留意したいことは、チャレンジャーの搭乗員男5人女2人は、「人種多元主義」の立場を表明するかのように、白人・黒人・日系人と多様な顔ぶれであった。
そのため、エリソン・オニズカは、ハワイばかりではなく、多くの日系人の英雄となった。
また、クリタ・マコーリフという名の白人教師がミッションに参加していたことは、チャレンジャーをより国民に近い「開かれた存在」としてアピールしたい狙いもあったのかもしれない。
彼女は高校社会科教師で37歳、2児の母であり、アメリカ全土の小学校にむけて「宇宙教室」のテレビ生放送が予定されていた。
これはスペースシャトルから世界中にむけての初授業となる予定であった。
当初打ち上げ予定であった1986年1月26日はとても風が強く、ミッションは1月28日まで延期された。 そして11時30分にチャレンジャーはついに打ち上げられた。
最初の1分30秒間は正常な飛行がなされたが、次には悲劇的な悪夢がチャレンジャーを襲った。
チャレンジャーは爆発し、7人の宇宙飛行士は全員死亡したのである。
彼らの死を悼む式典でレーガン大統領の黙祷の時、ハワイでは車が昼間ライトをつけて走りハワイの英雄の死を悼んだ。
ところでエリソンは、自分が宇宙飛行士に選ばれた背景として、第二次世界大戦における日系人のヨーロッパ戦線での活躍が日系人の忠誠心を証明したからだと語っている。
が、いまひとつ腑におちない。確かに、ヨーロッパでの日系人の奮戦は、日系人の星条旗への忠誠を印象付けたであろうが、だからといってアジア系初、ハワイ出身者初の宇宙飛行士に選ばれることと直接繋がるだろうか。それは背景でしかないからだ。
ハワイの日系人の歴史を調べると、そこに「もうひとりの人物」が浮かんできた。
「イタリア戦線」で戦い勲章を得たハワイ出身者の一人に、アメリカ上院議員最古参のダニエル・イノウエの存在を見出した。
なんといっても、イノウエのルーツは、オニズカと同じく福岡県南部の筑後地方なのだ。
ノウエの祖父母は、一家の失火による借金を返済する為に、1899年年9月福岡県八女郡横山村(現広川町・八女市)からハワイに移民した。
ダニエルは、祖父母とともに渡米した父母のもと、1924年当時アメリカの準州であったハワイのホノルルで生まれた。
その後ホノルルの高校を経てハワイの名門大学であるハワイ大学マノア校に進学した。
イノウエがハワイ大学在学中の1941年12月に日本軍による真珠湾攻撃が行われた。
アメリカが第二次世界大戦に参戦した後、アメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ前線で戦った。
イノウエはイタリアにおけるドイツ国防軍との戦いにおいて、右腕を負傷して切断し、1年8ヶ月に亘って陸軍病院に入院したものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から英雄として称えられた。
1947年に陸軍大尉として名誉除隊したが、右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめ、ハワイ大学に復学して政治学を専攻し同大学を卒業している。
イノウエは、1963年から50年近くにわたって上院議員に在任して、2010年6月に、上院で最も古参の議員となり、慣例に沿うかたちで上院仮議長に選出された。
上院仮議長は実質名誉職ではあるものの、大統領継承順位第三位の高位であり、アメリカの歴史上アジア系アメリカ人が得た地位としては最上位のものとなる。
2012年12月、イノウエは88歳で死去したが、アメリカ合衆国議会議事堂中央にある大広間に遺体が安置されるのは、リンカーン、ケネディなど一部大統領や、ごく少数の議員に限られており、アジア系の人物としては初めてとなった。
従ってエリソン・オニズカが、ヨーロッパ戦線でのハワイ出身の日系人の働きがなければ、チャレンジャーの搭乗員になることはなかったと語ったのは、実際にはイタリア戦線で戦い右腕を失った「イノウエの存在」を指したものではなかったか。
同じハワイ出身で福岡県筑後をルーツとする日系人オニズカとイノウエはこうした「奇縁」で結ばれていたのである。
オニズカが日系人初の宇宙飛行士に選ばれたことにつき、ダニエル・イノウエという「もうひとつの駒」の政治力があったのではなかろうか。

1968年といえば、4月にマーティン・ルーサー・キング.牧師、その2か月後の6月にロバート・ケネディが暗殺された年である。
ベトナム戦争に対する反戦運動が高まる中、多くの都市で学生運動や反戦運動が起こると同時に、アメリカ国内のいたるところで人種差別が引き金となった暴動や警察との衝突で多くの人が命を落とした。
その真っただ中に行われたのが、1968年のメキシコシティ・オリンピックであった。
10月17日夕刻、メダル授与のために表彰台に上がった二人のアメリカ人によりオリンピック史上に残る「ある事件」が起きた。
男子200メートル競争を世界記録で優勝したトミー・スミスと3位に輝いたジョン・カーロスが、アメリカ合衆国国歌が流れて星条旗が掲揚される間、壇上で首を垂れ、黒い手袋をはめた拳を空へと突き上げたのである。
二人が表したこの「ブラックパワー・サリュート」つまり、アメリカ公民権運動で黒人が拳を高く掲げ黒人差別に抗議する示威行為は、近代オリンピック史における最も有名な「政治行為」として知られている。
二人は黒人の貧困を象徴するため、シューズを履かず黒いソックスを履き、スミスは黒人のプライドを象徴する黒いスカーフを首に巻き、カーロスは白人至上主義団体によるリンチを受けた人々を祈念するロザリオを身につけていた。
スミスとカーロスは、オリンピックの規定に反する行為を行なったとして、その後長い間アメリカスポーツ界から事実上追放されることになる。
また、メディアからの非難・中傷にさらされた彼らのもとには、殺害を予告する脅迫文が何通も届けられたといいう。
しかし、この表彰台上にいた「もうひとりの存在」に注意を向けた人は、世界中でほとんどいなかったにちがいない。
それは、この競技で銀メダルをとった白人選手だった。
彼の名前は、ピーター・ノーマンで、オーストラリア史上最速の短距離陸上競技選手である。
このピーター・ノーマンもまたスミスとカーロスの両選手の意図に「共鳴」したことを示すバッジを胸に、二人の隣に立っていたのだ。
そして彼もまた、スミスとカーロス等同様に、その報いを受けることになる。
当時のオーストラリアには、アメリカと類似した「白人最優先主義」とそれに基づく非白人への排除政策が存在していた。
実際、南アフリカのアパルトヘイトはオーストラリアの先住民に対する差別政策を「見習って」作られたと言われているくらいなのだ。
1905年から1969年にかけて、「先住民族の保護」や「文明化」という名目で約10万人の先住民族であるアボリジニの子どもを強制的に親元から引き離し、白人家庭や寄宿舎で養育するという政策も行われていた。
そのため、この時代に白人オーストラリア人のノーマンが黒人やその他の少数民族と接触を持つ公民権運動に同調するというのは、本国では彼の人生を破壊しかねなない「危険な行為」だったのである。
決勝レース終了直後、銀メダルを獲得したノーマンは、スミスとカーロスに「人権を信じるか」と尋ねられたという。
ノーマンが「信じている」と答えると、スミスとカーロスは彼に「神を信じるか」と尋ねた。その質問にもノーマンは「強く信じている」と答えた。
そして、ノーマンは「ブラックパワー・サリュート」を行うことをほのめかす黒人二人に対して、「僕も君たちと一緒に立つ」と語った。
黒人カーロスは後に、そう語った白人ノーマンの目には少しも恐れはなく、ただ愛に満ちていたと追想している。
スミスとカーロスは、表彰台に向かった際「人権を求めるオリンピック・プロジェクト」のバッジを身につけていたが、ノーマンもまた他のアメリカ人選手から借りたバッジを胸に、オリンピック史上に残る「瞬間」へと導かれていったたのである。
三人の若いアスリートが表彰台に上がり、スミスとカーロスは拳を高く上げ公民権運動への敬礼をした。何百万人もの人々を前にしてオリンピック規定に反する「政治行為」をしたことに違いない。
しかし三人は、すべての人間は平等であるという信念のために行なったこの行為が永遠に残るだろうという気持ちからだった。
事件後、アメリカのオリンピックチームの代表は記者会見で、この選手三人が生涯にわたって大きな代償を支払うことになるだろうと発言し、実際にそのとおりになった。
時代は流れ、アメリカの人種差別が撤廃された後、いつしかスミスとカーロスは人権のために戦った「英雄」としての評価を受ける。
その一方で白人のノーマンは、オーストラリアにおいて歴史から「抹消」されたかのような扱いを受けたといってよい。
十分な成績であったにもかかわらず、オリンピックのオーストラリア代表から除外され、ノーマンはスポーツ界を引退。
その後は体育の教師や肉屋などの職を転々としていた。
白人中心のオーストラリア社会でノーマンは、あの事件がきっかけで、家族ともども疎外されてしまい、元トップアスリートはアルコール中毒とうつ病に苦しんだ。
ノーマンにも、「名誉挽回」のチャンスを与えられたことがある。
だがその内容はひどいもので、スミスとカーロスの行為を人類に対する冒涜だと公に非難すれば、ノーマンの行為も許されるというものあった。
しかし、彼はその申し出を退けた。
2006年、ノーマンは心臓発作で亡くなった。彼の葬儀に出席したはトミー・スミスとジョン・カーロスが棺を担いだ。
しかしついに2012年、ノーマンは死後ではあったもののオーストラリア政府から正式な「謝罪」を受けた。
政府はピーター・ノーマンに対し、「何度も予選を勝っていたにもかかわらず、1972年のミュンヘンオリンピックに代表として送らなかったオーストラリアの過ちと、ピーター・ノーマンの人種間の平等を推し進めた力強い役割への認識に時間がかかったこと」を謝罪している。
ちなみに、ノーマンは1968年のあの日、200m陸上で打ち立てた記録は、未だに「オーストラリア記録」として破られていない。
1968年10月17日、アメリカの黒人二人とオーストラリアア人白人の三人は、確かに同じ志のもとにあの場所に立っていた。歴史は黒人スミスとカーロスの行為に正当な評価を下し、彼らの母校サン・ホセ州立大学には二人の行為を祝して像が建てられた。
しかし、2位の表彰台を生める場所は空席となっている。
しかし今、アメリカで「白人の国」復活への動きがある中、ピーター・ノーマンという「もうひとつの駒」の存在が、光を放っている。

ところでアメリカの大統領選におけるトランプの勝利は、「人種多元主義」の敗北ともいわれている。
もともとアメリカは移民の国で、チャレンジに対しては平等なアメリカンドリームの国であった。
そのアメリカは、「白人」の国へと逆行していくかのようだ。
思い出すのは、日本人初の太平洋横断を成し遂げた堀江謙一についてのエピソード。
1962年、日本人で初めてヨット・マーメイド号で太平洋単独航海を果たしたのは、当時24才の堀江謙一氏であった。
しかし当時ヨットによる出国が認められておらず、この偉業も「密出国」、つまり法にふれるものとして非難が殺到し、堀江氏は当初「犯罪者」扱いすらされた。
対照的に、堀江氏を迎え入れたアメリカ側の対応は、興味深いものであった。
まず第一に、日本とアメリカの両方の法律を犯した堀江氏を不法入国者として「強制送還」するというような発想を、アメリカ側は絶対にしなかった。
その上サンフランシスコ市長は、「我々アメリカ人にしても、はじめは英国の法律を侵してアメリカにやってきたのではないか。その開拓精神は堀江氏と通ずるものがある」と是認した。
さらに「コロンブスもパスポートは省略した」と、堀江氏を尊敬の念をもって遇しサンフランシスコの名誉市民として受け入れたのである。
すると、日本国内でのマスコミ及び国民の論調も、手のひらを返すように、堀江氏の偉業を称えるものとなった。
今年元旦のTV番組(NHK/BS1)の「江戸無血開城」は、新政府軍と旧幕府軍が激突直前にいかに回避されたかを明らかにした。
西郷隆盛を総大将とする新政府軍が総攻撃にむけて江戸に迫る一方、幕府側の勝海舟は新政府軍の提示した条件を拒否し、「開戦必至」とも思われた。
ところが開戦寸前、西郷と勝の和平会談が実現し、旧幕府は戦うことなく官軍に江戸城を明け渡す。
100万都市・江戸は焦土とならず、インフラと巨大市場が残され、日本の急速な近代化を可能となったのである。
従来、勝海舟と西郷隆盛の「直談判」の背景に、公武合体で朝廷から13代将軍家定に降嫁した「和宮」や、その姑にあたる島津家から14代家茂将軍に嫁いだ「篤姫」、すなわち天璋院らの「必死の説得」が、西郷と勝の和平会談を導いたともいわれている。
しかしこの番組では、もうひとり陰に隠れた「功労者」の存在を明らかにした。
その人物とは、アーネスト・サトウ。新政府・旧幕府双方の事情に通じたイギリス人通訳官アーネスト・サトウの存在は、両者の和平に、欠かせないものだった。
ちなみに、サトウはハーフでも日系でもなく、「純粋なイギリス人」で、ロシア系の名前だという。
勝は、江戸を新政府軍に開け渡すにしても、「火で焼き尽くした江戸」を開け渡す腹づもりで、そのための準備に抜かりなかった。
NHKの番組では勝が、ナポレオンのモスクワ進攻の際に、モスクワを焼払ってロシア軍が撤退した出来事を参考にしていたことを明らかにした。
江戸っ子は火事は慣れっこであるにせよ、勝は用意周到にも、船を総動員して逃げ場を確保させ、その復旧費を支給する準備までしていたという。
サトウは新政府軍とイギリス大使パークスの連絡役を勤めながら、自身が老獪な西郷にイギリスの新政府軍支援の約束を引き出すよう操られていることに気がついていく。
しかしサトウは、西郷を総大将とする新政府軍が江戸を攻撃するというのなら、自分にも「ある考え」があることを西郷に匂わせる。
その「考え」とは、開戦直前にパークスから西郷の下に派遣された人物を通じて語られる。
旧幕府軍がすでに「降伏」を宣言しているのに、後を追って攻撃するのは「国際法違反」であり、それでも江戸総攻撃をするというのなら、イギリスは新政府軍を支援しないというものだった。
またサトウは、江戸から始まる内戦の長期化が、虎視眈眈とアジア侵略を狙う列強を利するだけであることを両者に説いた。
ここに至って西郷は総攻撃をとどめ、勝も新政府軍の条件を幾分修正し、それを「落とし所」として受け入れる。
ところでアーネスト・サトウの存在は、「江戸無血開城」の功労者であることに留まらない。
サトウの来日直後に生麦事件と薩英戦争が起きているが、倒幕間際の1866年には英字新聞ジャパン・タイムズに論文を連載したところ、日本語訳が「英国策論」として出版された。
この「英国策論」が、西郷隆盛はじめ倒幕に一役買った人々の読むことになり、事態はサトウの書いた筋書きに沿って展開していったのである。
つまりこの冊子は「倒幕のビジョン」を提示し、明治維新に与えた影響ははかりしれない。
サトウは日本人の妻をめとり3人の子を残している。イギリスに帰り、1929年に86歳の生涯を終える。

そこで周防大島には、ハワイ移民資料館があると知り、2004年の夏にこの島を訪れ、ハワイ移民たちの様々な生活資料に出会うことができた。
意外にも、周防大島は戊辰戦争では長州藩内で最初の火蓋がきられた場所でもあることを知った。