京劇「王対江夏」

今年、スカイツリータワーに昇る機会があって探したのが、かつて南千住にあった「東京球場」という野球場があったあたり。
それは、隅田川の川面にも映し出された強烈なナイター照明で、人々から「光の球場」と呼ばれていた。 東京球場は1962年、当時大映映画社長で「大毎オリオンズ」のオーナーであった永田雅一の発案により28億円の巨費を投じて建設された。
その年から大毎オリオンズ(現在のロッテ・マリーンズ)のホーム球場となった。
サンフランシスコの「キャンドルスティックパーク」をモデルにしており、内野スタンドは2階建てで、1階と2階の間にはゴンドラ席が設けられた。
永田氏の巨人に負けたくないという思いが、その威容を東京の下町・南千住に輝かせる「下町の太陽」ともなったのである。
毎日オリオンズは、1969年球団名を「ロッテ・オリオンズ」と名前を変え、その翌年には「パリーグの覇者」となり、ホーム球場建設に応えた。
オールスターゲームや日本シリーズの舞台となったが、斜陽の一途を辿る映画産業のため会社は経営難に陥り、セリーグ人気にも押されて客が集まらなくなった。
1972年を最後にプロの球場として使用されなくなり、その5年後に解体された。
実働わずか11年間の短い命で、現在は「荒川総合スポーツ・センター」となっている。
さてスカイツイリータワーのすぐ近くに、もうひとつ「野関連遺跡」がある。
それが、「隅田公園少年野球場」で、墨田区教育委員会によって、次のような言葉が刻まれた「石碑」がたっている。
「この少年野球場は、昭和24年戦後の荒廃した時代に"少年に明日への希望を"スローガンとして、 有志や子ども達の荒地整備による汗の結晶として誕生した日本で最初の少年野球場です。以来数多くの少年球児がこの球場から巣立っていったが、 中でも日本が誇る世界のホームラン王巨人軍王貞治氏もこの球場から育った一人です。昭和61年3月」。
また、この場所は、野球少年・王貞治とその運命を開いた荒川コーチとの出会いの場所でもある。
毎日オリオンズの選手だった荒川が隅田公園を犬を連れて散歩をしていたろころ、野球の快音が聞こえてきた。荒川は、その快音にいち早く反応し、そこにいる少年達の野球を眺めた。
ひときわ体格が大きな少年がおり、それが王貞治だった。荒川は少年をはじめ高校生と思っていたが少年は中学3年だと語った。
荒川は早速、左で打つようアドバイスをし、少年は、そのアドバイス通りに実践したところ、見事に二塁打をはなったという。
王は小学生の頃、当時の横綱・吉葉山から相撲取りになれと勧められるほど相撲が強かったし、また喧嘩の強さは近隣に鳴り響いていた。
父は息子を電気技師にしたかったらしく墨田川高校を受験するが失敗し、荒川のすすめで荒川の母校である早稲田実業高等部に進学することになった。
早稲田実業時代は2年生の時、エースとして春の甲子園に出場し3試合連続完封により決勝へ進出した。決勝は完封は逃すものの完投勝利で関東に初めて選抜大会の優勝旗をもたらした。
3年生の時には春の甲子園では2試合連続本塁打を放つなど活躍したが、夏の大会では、東京都予選決勝で敗れたため、甲子園には出場できなかった。
さて、王貞治と荒川コーチとの出会いが運命的というのは、王が巨人軍に入団した時、巨人の打撃コーチがたまたま荒川コーチだったからだ。
打撃不振で「三振王」とよばれていた王に、荒川コーチがアッパ-スイングを矯正するため「一本足で行こう」という指示を与えたところ、王はそれにヒットとホームランで応えた。
二人が最初に出会った日、隅田公園で起きたことと同じことが、この時にまた起きた。
あの日もしホームランが出ていなかったら、「一本足打法」は陽の目をみることはなかったかもしれない。
王は以後「一本足打法」に切り替え、「荒川道場」と呼ばれる場所でそれを磨いていった。
天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を日本刀で切るという殺気走った練習もあった。
この練習は、技術を磨くというよりも打席内での集中力を高めるための鍛錬となった。
練習に使った部屋の畳が、自然と擦れて減りささくれ立った。
ところで、王貞治は甲子園には出場し大活躍したものの、当時の国籍規定のために国体には出場できないという悔しい体験があった。
しばしば誤解されるところだが、王は中華民国籍だが、台湾とは関係ない。
王の父・王仕福は、中国・浙江省麗水市青田県出身で、台湾に移る前の中華民国籍をとっている。
王仕福さんは1922年に渡日し、富山県氷見市出身の登美の次男として1940年に生まれた。
父親の故郷はその後、中華人民共和国政府が支配するところとなったが、父親は「国民政府寄」りで、中華民国籍を維持したということである。
そして、王は台湾においても「棒球英雄」としてもてはやされ、たびたび、台湾を訪れて国民的英雄とされた。
しかし、日中国交回復で微妙な立場に立たされることになり、日本人女性と結婚したものの、国籍の変更はしなかった。
というわけで、王貞治を「台湾人」とか「台湾国籍」とするのは、間違いである。
王がどうして、帰化しなかったかという点の真相は不明だが、父親の気持ちを尊重していたためともいわれる。
ただ、王貞治が「国民栄誉賞」を受けたときは、日本人でないのに「なぜ」と論争になったことがある。
王は国籍はともかく、野球人としては、日本人という意識でいるようだ。
WBCの監督として海外遠征したとき、海外メディアから、「あなたは日本人ですか?」と質問された際、王は「父は中国人だが、母は日本人です。私は生まれたときより日本で育ち、日本の教育を受け、日本のプロ野球人として人生を送ってきました。疑うことなく日本人です」と答えている。
本塁打世界記録を打ち立て、「世界の王」と呼ばれた王が、いつのまにか国籍と国境の枠から解き放たれ、正真正銘の「世界の王」になっていったのである。

さて、王が「世界の王」となった場所「後楽園球場」の由来について述べよう。
江戸初期、中国では漢民族の明朝が倒れ、北方の満州族の清朝に代わろうとしていた。 日本では、鎖国政策が採られたが、長崎だけは海外への窓が開かれていた。
そんな折、万治2年(1659年)に長崎に亡命してきた中国人のなかに、明の遺臣で儒学者の朱舜水(1600~1682)がいた。
この朱舜水を自藩へ招いて厚遇したのが、水戸二代藩主の徳川光圀(1628~1701)である。
明末清初、日本へ亡命した明の遺臣や学者を受け入れた日本の大名は多い。
それは中国伝統文化に対し、江戸期の日本人が、敬意と礼節をもってこれを迎える「受容性」をもっていたことを示している。
特に光圀は、朱舜水に傾倒したらしい。今日の東京ドームに隣接する小石川後楽園は、水戸徳川家の祖である徳川頼房が造った大名庭園であり、二代光圀によって完成された。
その造成に当たり、光圀は朱舜水の意見を大いに取り入れ、園内の各所に中国の風物を取り入れている。
ではそのような経緯で朱舜水は日本にやってきたのだろうか。
1644年 徳川家光の時代、中国では李自成が反乱を起こして北京を占領したため、明の崇禎帝が自殺し明は滅びた。
その後、満州族(女真族)の世相・順治帝が即位して「清朝」が成立し、中国における漢民族の歴史が終わった。
しかし、「明朝復活」をはかろうという遺臣達がいた。
その一人が明の武将・鄭成功で、海上経営を行っていた父親を引き継ぎ、清に降伏したのちも海上権を守って、大陸に「反攻」を試みようとしていた。
明末の儒者であった朱舜水は、その鄭成功に期待したものの、鄭はあえなく39歳の若さで台湾で急死したため、「明朝復興」を諦めざるをえず、日本に亡命したのである。
そして長崎の地で朱舜水と最初のコンタクトをもったのが、福岡柳河藩の安東省庵であった。
安東が京都で朱子学を修めている時、日本に亡命している朱舜水の情報を得てさっそく長崎に赴き、朱と会談して「師弟」の交わりを持った。
この時、安東は朱が日本に居住できるよう長崎奉行に働きかけ、柳川の地にあって6年もの間、自分の俸禄の半分を朱舜水のために送りその生活を支えた。
そのうち、明朝を救おうとした「大義の人」朱舜水の名は江戸にも届いた。
朱舜水ははや60を過ぎ、5代将軍・家綱の時代になっていた。ここで動くのが4代家綱の叔父、水戸光圀(水戸黄門)である。
水戸藩は「江戸定府」の定めにより、藩主の光圀は江戸小石川すなわり現在の東京ドーム近くの水戸藩上屋敷に居る事が多く、朱舜水は駒込に邸宅を与えられ、光圀に儒学を講義した。
朱舜水の教えは朱子学と陽明学をベースにした「実学」で、藩内の教育・祭祀・建築・造園・養蚕・医療にも及んだ。
光圀は庭園の造成に当たっても朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れた。
後楽園の名は、中国の范仲淹(はんちゅうえん)「岳陽楼記」にある「先憂後楽」から名づけられた。
これは、「民衆に先立って天下のことを憂い、民衆がみな安楽な日を送るようになって後に楽しむ」という光圀の政治信条に沿うものであった。
とうわけで、朱舜水こそが「後楽園」の実質的な名づけ親といってよい。

現在東京ドームがある場所にあった後楽園球場における圧巻は、巨人・王貞治と江夏豊の対決ではなかっただろうか。
ところで最近、霧島酒造という焼酎の会社の贈答品パンフレットを眺めた時、その社長の名前に目にとまった。
「江夏順吉」~もしやと思って調べてみると、予想があたった。
元プロ野球選手の江夏豊は、その一族であった。
予想があたったというのは、江夏豊の風貌とかプレーばかりではなく、その生き方が薩摩隼人を感じさせるものがあったからだ。
よくいえば「美学を貫く」、悪くいえば「頑ななまでに不器用」。
ただし、江夏豊が野球選手として活躍していた時代には、「黒霧島」の名さえも存在しなかったため、そのことが話題にのぼることは、一切なかった。
さて、江夏豊が巨人戦に初めて登板したのは、1967年5月31日後楽園球場のゲームであった。
リリーフの大役が廻って来た高卒ルーキー江夏は、怖じることもなく当時5年連続本塁打王の大打者・王貞治と対戦し、三球三振で斬って取った。
この時はじめて「プロでメシが食える」と自信がついたと、回想している。
そして先輩の村山実が長嶋茂雄との対決にこだわったように、王貞治との対決にこだわった。
そして王との対決ではほとんどストレート真っ向勝負にこだわり続けた。
そして江夏が、生涯でもっとも本塁打を多く打たれたのも王貞治であった。
その一番のエピソードは1970年6月11日。通算1000奪三振記録を「王さんから獲る」と志願の登板。王に対し「ストレートの握り」を見せて勝負を挑んだ。
しかしその王に2ホーマーを打たれ、新聞は「個人記録に拘り、チームの勝利を犠牲にした」と批判した。
また1968年には401奪三振世界記録を樹立するが、日本タイ記録である353個目の三振を王から奪った。
さらに「新記録は王さんから獲る」の公約を守るため打者一巡「三振を獲らずにアウトだけを獲る」という曲芸をやってのけ、実際に新記録の354個目の三振を王から奪った。
こうした江夏は、「勝ち負け以上のものがあること」をプレーで示したサムライともいえる。
さて江夏豊は、鹿児島県出身の母親が、大阪大空襲で疎開した奈良県吉野郡で父親と知り合い、そこで生を享けた。
間もなく両親が離婚し父も失踪したため、生後半年で鹿児島県市来町の母の実家に移って5年間を過ごした。
その後、母と二人の兄と共に兵庫県尼崎市に移り、高校卒業まで尼崎で育っている。
兄弟姉妹皆父親が違う複雑な家庭であり、江夏姓も母方の姓だった。なお、江夏とは南九州に多い姓で、本来は「こうか」と読む。
「江夏(コウカ)」は中国河南省泌陽県の北にあり 漢朝になって湖北省武漢あたりが「江夏」と称されたといわれている。
1646年、明末の乱をさけて、中国広東省潮州より、船を出して薩摩の国内之浦に入港した一団があった。
鹿児島県・内之浦は当時都城藩の飛地であったが、この一団の中に漢方医・何欽吉(かきんきつ)がいた。
彼らは志布志を経由して都城の唐人町に入居する。
欽吉は漢方の医者としてかなり功績があり島津家にも仕えていた。
都城市営西墓地の北側に黒い自然石で墓石があり これは「県指定の史跡」ととなっている。
その一団の一人が 江夏七官で、その後出身地にまつわる日本名を名乗り都城に住み始めた。つまり、この江夏七官が江夏家第一代である。
江夏家の祖先は漢学者であったらしく島津家で漢学を教えていた。
江夏七官は日本人と結婚した後、都城市三股町梶山に住み、そこに氏神様を祭って大切にしていた。
というわけで都城には江夏の子孫が多く住んでおり、プロ野球界で名をなした江夏家も、焼酎界のNO1「黒霧島」の江夏家もその分家のひとつである。
ところで霧島酒造は創業者の江夏吉助が、1916年都城で芋焼酎の製造を始めたのが会社の起源である。
「乙類焼酎」を「本格焼酎」の名称・表示にすることを提案したのは、二代目社長・江夏順吉であった。
江夏順吉は地方酒造会社の跡継ぎながら、東京帝国大学(現・東京大学)工学部で応用化学を学んだ学者肌の人物でもあり、自ら焼酎のブレンディングや蒸留機の改良などに取り組んだ。
3代目社長の江夏順行時代には、芋焼酎の臭みを押さえた新商品「黒霧島」の開発と営業拡販に努め、2000年代の焼酎ブーム期にも着実な事業拡大を継続した。
そして、本格焼酎メーカーで売上高日本一となって、「黒霧島」の名は全国区となっている。
さて、ここまで書いてきて中国出身の「役者」がそろった感がある。
王貞治のルーツが浙江省なら、江夏豊のルーツは湖北省。
そして、両者の対決の舞台は、明末の亡命者・朱舜水が名付け親となった「後楽園」球場。
突然に、中国の伝統劇「京劇」の舞台が閃いた。
「京劇」とは、清朝・北京を中心に発展した中国の伝統的な古典演劇である戯曲のひとつである。
京劇の一番の見せ場は、銅鑼の音が伴なった「顔面切り替え」。
その秘技は、中国の国家機密とさえいわれている。
京劇において「一瞬」にして顔面が切り替わるのは、「一球」で局面が変わる投手と打者の駆け引きを思わせる。
日本刀の素振りで一歩足打法を磨いた王と、野球界のラストサムライ・江夏との真っ向勝負は、「京劇」の舞台さながらであった。