EU統合とMITUKO

「香水」の世界は、知れば奥深い世界で、香りは人肌のヌクモリによって変化するそうだ。
最初に飛び出すつけてから匂いだす揮発性の高い「トップノート」、次に30分くらいかかってもっとっもバランスのよいカオリが出る「ハートノート」。最後に、約3時間以降に持続するように残るラストノートで、「残り香」といわれるものである。
ちなみに「ノート」というのは「~調」ぐらいの意味で、香水の世界では、基本となる「~ノート」を作りだすのにどのような植物や花を合成するかという一応の「ベース」があるらしい。
ところが、そんな「香水」にはあまりポジティヴなイメージの名前は使われていない。
「矛盾」「妄想」「羨望」「強情っぱり」「 禁断」「 阿片」「 爆薬」「優しい毒」 あげく「強迫観念」「阿片」などを意味するものまである。
「香水」を身にまとって誰かに近づくということは、それこそ巧妙な「ワナ」を仕掛けるようなものかもしれない。
ところで、日本女性の名前が、世界的な香水のブランド名となっている。「MITUKO」である。
この「MITUKO」同様に、名前の由来となった日本人女性にも「いくつもの表情」が隠されていた。
明治初期に、東京牛込の骨董商の娘に青山光子という女性がいた。ある冬の日この骨董屋の前で氷水に足を滑らせ怪我をしたオーストリア人男性の世話をしたのが「シンデレラ物語」の始まりであった。
それどころか1874年のこのハプニングが、はるか「EU誕生」のプロローグとなるなど、一体誰が想像できようか。
青山家は、九州佐賀の出で、手始めに扱った商売が「油」。パリの街を明るくしたのは鯨油だが、江戸を明るくしたのは、菜の花のたね油を使う行灯で、この時勢の油ブームに乗りあわせた。
青山喜八は石油がはいってきて、たね油の命の長くないことを見抜き、元来興味を抱いていた骨董品を扱うようになった。
とうのも、明治にはいって三百諸侯といわれた大名がことごとく没落し、旗本も全国の士族も禄を失って路頭に迷っていたのだから、蓄積した芸術的な名品を、一時に手放して、二束三文で売買される状態であった。
このことは、青山家に骨董品好きのハインリッヒを近づけたのだから、両家にとってすくなからぬ意味をもつものであった。
さて、現在、東京タワーがたつ所には「紅葉館」という会員制の社交場があった。
1881年設立の紅葉館は、欧化政策の舞台「鹿鳴館」の陰に隠れて目立たないが、万事古雅な和風で、当時流行文士、新聞記者などが出入りし、彼らの宣伝力によって世に親しまれた。
この「紅葉館」に女中として働いたのが、青山光子である。女中とはいっても、当時の雑誌によれば、「十四から十八ぐらいの少女」を集め、多いときは50人前後いた彼女達を、花柳界にまさる「美姫」として書きたてており、歌劇団のようなものだった。
光子は、「オ-ストリア大使代理」として日本を訪れていたクーデンホーフ・ハインリッヒをかいがいしく世話をしたが、二人はお互いに美術面における知識と趣味を共有し、いつしか恋に落ちる。
周囲はその結婚に反対したが、3年後に反対をおしきって結婚することになる。
東京において、二人の間には「光太郎(ヨハン)」「栄次郎(リヒャルト)」という二人の子供ができた。
青山光子はクーデンホーフ家というオーストリアの由緒正しき「名家」に入ることになった。
クーデンホーフ家がどれくらい「名家」かというと、ハプスブルク家に仕える家臣ナンーバーワンの家柄、つまり天皇家に仕える「近衛家」の家格に匹敵するとみてよい。
クーデンホーフ家の領土はボヘミア地方にあり、夫とともに光子は十数人の使用人のいるロスンベルク城で7人の子供と優しい夫に囲まれ幸福な日々を送った。
実際、夫の光子に対する愛情の注ぎようは、尋常なものでなく、彼女を侮蔑するものには、決闘を申し込むとまでいいきっている。
ところが1906年、夫ハインリッヒの突然亡くなり、庇護者を失った彼女は、異国の地で一人で生きていく他はなくなる。
ところが、その「遺言書」には驚くべき内容のことが書かれてあった。
ロンスペルク邸の継承は長男ヨハンを指名したが、その他の財は光子のものであり、子供達が成人するまでの後見人としても彼女を指名していたのである。ヨハンはまだ12歳であった。
親族一同は驚愕した。言葉もまだ上手ではない異邦人ミツが、「包括相続人」として広大な土地・邸宅の管理権を相続し、さらに子供達の後見役とは。
光子は子供達を連れて帰国するかもしれないし、財を目当てに近づく男と再婚するかもしれない。
こういう場合、子供達が成人するまで幾人かの親族と財の共同管理をするというのが常識である。
日本ではせいぜい小学校しか出ておらない光子、しかもオーストリアの法律には無知であった彼女は、優秀な弁護士を雇うと同時に、自身法律を勉強するようになる。
予想通り、ミツに対して訴訟が起こった。対する、光子は驚くほどに賢かった。訴訟中に邸に立ち寄る親族にたいして、以前にもまして愛想よく接し、心からのもてなしを続けた。
親族達も、当初考えていた光子像が崩壊し、なぜハインリヒが妻一人を後見人にしたかを理解するようになった。
裁判に勝った光子は、広大なロンペルスの領地の管理に力を集中した。
この頃を境に光子は変身した。それまでの可憐で従順な妻役から、無慈悲で「専制君主」の家長へと変貌をとげたのだ。
、 光子がオーストリアの社交界で生きていけたのには、若き日に働いた「紅葉館」での体験が少なからず役立ったのではなかろうか。
自分の命に背いた従僕は、容赦なく首にし、逆に自分は主人に頼られていると自負するような者も解雇した。ただ、彼女自身、好きで変身したわけではなく、彼女の双肩にのしかかる責任感ゆえに、そうせざるをえなかったといえる。
だが皮肉にも、日本で生まれた子供達二人は、いずれも彼女の意に反した結婚をしため、「勘当」の憂き目にあっている。
「香水」が時の経過とともに、香りを変えるように、光子も状況に応じて変異する「メタモルフォーゼ」だった。
実際に、次男リヒャルトは、人間とはいろいろな性格を所持しているもので、人生のその場その場の状況に合わせて内なる性格が表出するとして、彼の母ミツ(光子)は、もしシナの女帝であったら躊躇なく、一片の良心の呵責もなく人の首を撥ねさせていただろうし、もし修道女であったら、聖なる後光を身にまといながら死んだであろうといっている。
光子は家をよく守り、光子はすべての子供たちを名門学校に入れて、子供達を熱心に教育した。
その教育理念は子供達に残した数多くの手紙の中にあり、日本の「明治思想」と「欧州の理念」を融合させた厳しくも優しい教育理論は上流階級をはじめヨーロッパでも高い評価を得ている。
そして、クーデンホーフ家の伯爵夫人として日本人として初めてウィーンの社交界に登場するや、彼女の凛とした立ち居振舞いから「黒い瞳の伯爵夫人」として社交界の花形となっていく。
彼女の噂で拡がるつれ、フランスのゲラン社は「MITUKO」という名の香水を発売する。
ところが1914年に第一次世界大戦勃発し、敗戦国オーストリアの光子は、皮肉なことに日本によって財産を奪われる結果となる。
その後光子はウィーン郊外で晩年を過ごし、病と闘いながらもクーデンホーフ家の復興のため尽力した。
彼女はオ-ストリアでの45年間、一度も日本に帰国することなく1941年に67歳で亡くなった。
ところで息子の”栄次郎”は、1923年に著書「パン・ヨーロッパ」を発表し、近代におけるEU(欧州連合)の提唱者として知られる「リヒャルト・クーデンホーフ・カレツキ」である。

国際連盟を提唱したウイルソンは「民族自決の原則」を主張したが、それが結果したものは、民族対立によるヨーロッパの分裂とあまたの弱小独立国家だった。
そうした不安定な情勢を克服する為にリヒャルトが唱えたパン・ヨーロッパ思想は、国家同士が連邦を形づくることで国の乱立に統一を与え、生産や販売をその連邦内で調整するという構想だった。
リヒャルトはパン・ヨーロッパ思想を普及させる為に、月刊雑誌を創刊し、1926年には第一回パン・ヨーロッパ連合会議を開催するまでに至った。
その後このビジョンは着実に拡がっていくかに思えたが、ヨーロッパに暗雲が立ち込め始めた。ヒットラー率いるナチスが台頭し、1938年には強力な軍事力を背景にオーストリアを併合した。
この時期、ヒットラーは「ウイルソン大統領の宣言から20年近く経て、やっとゲルマン民族の自決権を行使すべきときがやってきた」と豪語した。
ウイルソンの「民族自決の原則」はかくも悪用され、その脆さを露呈してしまった。
「ナチスの思想」と「パン・ヨーロッパ思想」はまったく正反対のものであったから、リヒャルトにナチスの魔手が及ぶのは必定だった。
身の危険を感じたリヒャルトはすんでのところでスイスに亡命したのだ。
その時には14歳も年上の女優イダ・ローランも一緒だったのだが、その状況が映画「カサブランカ」に材料を提供したといわれている。
ところで、モロッコの都市カサブランカは、ヨーロッパの戦災を逃れた人の群れが、ポルトガル経由でアメリカへの亡命を企ろうとしていた所で、地中海を挟んでポルトガルの対岸に位置する。
映画「カサブランカ」は、「君の瞳に乾杯」はじめ、数々の名文句に彩られている。
ひとつ間違えば認知症と誤解されかねない以下の会話も、ハンフリー・ボガードだとサマになる。
酒場の女 「昨夜はどこにいたの?」
ボガード 「そんな昔のことはおぼえてない。」
酒場の女 「今夜はどこにいるの?」
ボガード 「そんな先のことはわからない。」
映画の主役リックつまりボガードは、かつてナチス抵抗運動の指導者ラズロの妻(イングリット・バーグマン)を愛していたが、自ら反ファシズム・レジスタンス運動に関わった過去もあり、二人を親ドイツ・ビシー政権下のフランス植民地警察の目を欺き、彼らの脱出に手を貸す。
宵に旅発つ飛行機を見送るリックの姿が印象的なラストシーンであった。
映画「カサブランカ」の脚本を書いたのが、タイミング的に1940年のリヒャルト・クーデンホーフとイダ・ローランのニュースのアメリカへ逃避行きと一致したため、この物語の「原型」ではないかと推測されている。

戦後の復興過程でリヒャルトの思想は息を吹き返し、「シューマン・プラン」そしてヨーロッパ共同体つまり「ヨーロッパ連合」へと結実する。
ヨーロッパ連合は、ヨーロッパをひとつの国にしようという壮大な実験である。
ヨーロッパ全体がひとつの国になって国境がなくなれば、戦争もなくなるだろうというわけだ。
そのはじまりは、1951年の「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」で、当時の産業にとって大切な石炭と鉄鋼を国際管理することは、資源をめぐる争いが起きないようにしようというものだった。
こうしたリヒャルトの思想に共鳴したのが、日本を代表する政治一家がある。
戦前の文部大臣・鳩山一郎はリヒャルトの本に感激し「自由と人生」として翻訳し、その本の中心思想「友愛社会」の考え方を自己の血肉とし、「友愛社会」は鳩山ファミリーの家訓ともなっている。
さて、神田川沿い江戸川橋を渡り、護国寺に向かって歩けばそこは音羽の街がある。この辺りは国立大学の付属小学校や高校もあり、文字通りの「文京地区」である。
ここに立派なマンションが数多く立ち並ぶのは、まずは「お受験」に有利なことが頭に浮かぶ。
そして、音羽通りから見える高台に「鳩山御殿」を見ることができ、文部大臣を輩出する鳩山ファミリーにとって、そこはまさしく「お膝元」なのだ。
鳩山一郎は戦後の公職追放が解除され、1953年の政界復帰宣言で「友愛社会」を実践していくことを宣言し、「友愛社会」は、人間の「内なる革命」によって実現するものであり、自然に「青年教育」に力点を置いた。
リヒャルトも、著書「自由と人生」のなかでファシズム やボルシェニズム の終焉を予告し、技術の進歩は階級闘争や貧窮、それに当時まだ残っていた奴隷制度までも無くし、社会を大きく変えると宣言した。
それに強く動かされた鳩山一郎は、その政界復帰宣言で、自由のための革命が成功せず、平等の革命も失敗した後では、「友愛革命」こそ諸国民間・諸階級間をかけわたす橋となるという「リヒャルト」の言葉を引き合いに出して、人々に語った。
さらには、リヒャルトからヒントを得たヒューマニズム哲学に基づいて、「友愛青年同志会」を結成し自ら総裁となっている。
青年教育を進める意図で結成されたこの会で、10万人の会員を主導し、当時の日本の政財界はじめ、日本の思想や文化に大きな影響を与えた。
それでは、鳩山一郎の思想「友愛哲学」は、政治の世界にどのように生かされたのだろうか。
鳩山一郎が、前任の吉田首相の親米一辺倒の外交に対し、ソ連をも視野に入れた外交路線を主張したのも、そういう人類皆兄弟的な友愛社会哲学によったのかもしれない。
そのさらに大きな成果として1957年「日ソ共同宣言」が実現し、その結果日本の国連加盟につきソ連が拒否権を行使せず、日本の国連加盟が実現したのである。
ところで、「汎ヨーロッパ」に対して、「汎アジア主義」というのがある。日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称である。
欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した主張で、明治中期までの日本ではもっぱら興亜会に代表される「興亜論」の名称で呼ばれた。
その内容は、論者の思想、立場によって異なり一義的な定義はなく、また国際情勢の変化に伴って主張内容が変化する。
当初は日本と中国・朝鮮との「対等提携」を指向するものであったが、江華島事件や壬午事変、甲申政変を経て起こった日清戦争あたりから、福沢諭吉の「脱亜論」が登場し、政府や国内の新聞も清や朝鮮への「対外強硬論」が主流となる。
というわけで、日清戦争以後のアジア主義の定義は、元来のアジアとの平和協調路線とは完全に正反対のものになった。
さて、我が地元の九州(福岡)の地に国立博物館設立の構想を提唱したのが、岡倉天心の「アジアはひとつ」という思想である。
岡倉には「もし我が国が文明国となるのに血なまぐさい戦争の栄光によらねばならぬなら、我々は甘んじて野蛮人でいよう」という言葉があり、「友愛哲学」と一脈通じるものがある。
100年も前に岡倉天心は「アジアは一つ」「アジアは一体」と喝破し、アジアの協力、統合、一体化を唱えた。
翻ってみるに、「分析」を思考の中心とするヨーローッパ流の思想に対して、こうした「統合」を思考の中心とするのは、むしろ「アジア的」なものかもしれない。
青山光子を通じて、リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギに流れる「日本人の血」は、鳩山ファミリーを共感させ、今なおヨーロッパ連合の背後で、その残り香を留めている。