福岡市「熊本遺産」

熊本城は、約1年前の震災で大被害を受けたが、熊本城の実質上の建設者といっていいのが、飯田覚兵衛という人物である。
驚いたことにその飯田覚兵衛の直系の子孫が、森友学園問題で今話題の「教育勅語」の起草者・井上毅である。
そんな意外な事実を知ったのは、福岡市の繁華街・天神のバス通りから見ることができる「大銀杏(おおいちょう)の木」の存在によってである。
実は、この「大銀杏の木」が立つ場所は、飯田覚兵衛の屋敷跡なのだ。
ではなぜ、熊本に居るはずの飯田覚兵衛の家がこんな場所にあるのか。
飯田覚兵衛は、山城国山崎にて生まれた。
若い頃から加藤清正に仕え、森本一久、庄林一心と並んで「加藤家三傑」と呼ばれる重臣となった。
武勇に優れ、中でも槍術は特筆すべきものであった。
1583年の「賤ヶ岳の戦い」においても清正の先鋒として活躍した。
そしてその息子・飯田覚兵衛は、朝鮮出兵において、森本一久と共に亀甲車なる装甲車を作り、晋州城攻撃の際に一番乗りを果たしたといわれる。
なお、この功績により豊臣秀吉から「覚」の字を与えられたとされるが、書状などでは「角」兵衛のままである。
飯田覚兵衛は、土木普請も得意とし、清正の居城となった熊本城の築城には才を発揮した。180mにもおよぶ三の丸の百間石垣などは彼の功績といわれ、「飯田丸」と郭にも名を残している。
加藤清正の死後、三男・忠広が跡を継ぎ、忠広に仕えたが、その無能を嘆いて没落は必定と予言した。
1632年に肥後熊本藩が改易(つまり熊本の殿様から降ろされた)されると、他家に仕えずに京都にて隠棲し、同じ年に亡くなっている。享年70。
そして覚兵衛の子・飯田直国も、加藤清正の重臣として、一番備えの侍大将として重用されたが、加藤家は「改易」となってしまう。
その理由は諸説あるが、主君を失った覚兵衛だが、加藤家と親密な間柄にあった福岡の黒田家に「客分」として迎えられることになった。
そして、覚兵衛は加藤清正を偲んで、熊本城から「一本の銀杏」の苗木を持ってきて屋敷に植えたのが、天神バス通りの「大銀杏の木」である。
さて、明治憲法、皇室典範起草者井上毅(いのうえこわし)の生家である飯田家は、覚兵衛の直系の子孫にあたる。
井上毅は、肥後国熊本藩家老・長岡是容の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。
時習館で学び、江戸や長崎へ遊学し、明治維新後は開成学校で学び明治政府の司法省に仕官する。
その後、1年かけた西欧視察におもむき、帰国後に大久保利通に登用され、その死後は岩倉具視に重用された。
「明治十四年の政変」では岩倉具視、伊藤博文派に属し、伊藤と共に大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。
さて熊本の大名・加藤清正は、もうひとつ福岡に「熊本遺産」を残している。
「飯田覚兵衛」屋敷跡から、徒歩20分もあるところ、警固にある「上人橋通り」である。
朝鮮出兵において、日本軍の先陣は1592年4月12日に名護屋城を出港した。
日本軍の先陣は、翌朝に壱岐にて風が収まるのを待つことにしたが、1番隊・小西行長は功名を独り占めするためか、密かに壱岐を出帆して朝鮮半島へと渡った。
2番隊の加藤清正と3番隊の黒田長政は、後を追ったが、激しい波風に阻まれ、小西行長に遅れること4日、ようやく朝鮮半島に上陸することになる。
文禄の役の際に、破竹の勢いで進撃した加藤清正の軍勢は、なんと国境を越え満州にまで攻め込む。
1592年の7月末から8月にかけてのことで、ここで清正は後に清朝を興す女真族と交戦している。
後世「オランカイ征伐」と呼ばれる一連の戦いだが、加藤清正は、帰朝の折、朝鮮の「高麗国」王子の子(姉と弟)を連れ大切に養育した。来日当時、弟は四歳、姉は六歳であった。
厚い日蓮宗の信仰心をもつ加藤清正は、朝鮮王子の血をひく「日延」が法華僧として大成することを願い、物心両面で援護した。
そして日延は清正の願いどうりに成長し30歳の頃、日蓮生誕の地である安房(千葉県)小湊「誕生寺代18代」の住職となり、関東一円に多くの寺を建立する。
日延上人は、花の栽培を好み、晩年、東京・白金村の土地を「お花畑」として幕府より下賜された。
白金の地は、吉良邸討ち入り後に赤穂浪士17人を預かった熊本・細川家の下屋敷があった所だが、日延上人は、「清正に育てられた恩義」を感じ、清正の遺徳をしのんで、1631年に芝・白金に覚林寺を開いた。
そこには「清正公大尊儀」が祀られたことから、「清正公様」の名で江戸庶民に親しまれてきたのである。
さらに、日延上人は九州にて福岡藩2代藩主・黒田忠之と毛利・黒田家の姫の長光院殿の「後ろ楯」を得て、福岡市の警固の地に9000坪の寺地を賜った。
しかし法度で、新しく寺を建立することが禁じられていたため、やむなく宗像の禅宗の廃寺「立国山香正寺」の名前を受けて、1632年、日蓮宗に改め、「長光山香正寺(こうしょうじ)」として開山する。
これが、現在福岡市の繁華街・警固にある「香正寺」であるが、このあたりにはかつて「上人橋」という橋がかっていた。
日延上人は、福岡藩2代目藩主黒田忠之と大変に、親交が深く、特に囲碁の良き相手として過ごしていた。
ある時、囲碁のために、登城しようとしたところ大雨のために、お寺からお城へ向かう時に渡る小川が増水し渡ることができず、登城できなかったことがあった。
そこで、藩主・忠之は、上人がいつでも川を渡れるように、この小川に、橋をかけて便宜を図ったという。
これから、この橋は「上人橋」と呼ばれた。
この小川は、今の国体道路に沿って流れていたが、国体道路が建設されたときに埋められてしまい、今その川はない。
そして「上人橋」の碑は、もともと橋の下にあったものを、香正寺の境内に移設している。
そして、香正寺前の通りは「上人橋通り」と呼ばれ、通りは瀟洒な飲食店が多く人々に親しまれている。

福岡にはもうひとり、熊本出身の人物が足跡を残している。
それを示す一番わかりやすいオブジェが、博多駅近くにある「出来町公園」にある。3mばかりの鉄道の車輪のオブジェで、黒御影石に「九州鉄道発祥の地」と刻まれている。
実は、この場所こそが旧博多駅のあったところである。
1883年に鉄道敷設の声が上がったものの進展しておらず、玄洋社の頭山満と親交のあった杉山茂丸は郷里・福岡の開発の先鞭として鉄道敷設を行おうとした。
そこで、杉山が最初にとりかかったのが、伊藤博文に顔のきく安場保和を福岡県令に迎えることだった。
安場は熊本細川家臣で、横井小楠門下で開国派に転じて以来、神風連に睨まれ、それ以後、大久保利通の庇護を受けている。
杉山は、東京芝の宿屋で安場と会い福岡県令になって欲しいと懇願し、最初は乗り気ではなかった安場を説き伏せている。この時の話は尾崎士郎の小説「風粛々」に描かれているという。
安場保吉は細川家の家臣の家に生まれて横井小楠の門下に入ると開明派として鳴らし、大久保利通に気にいられていたエリートの一人だが、岩倉欧米使節団に入っていながらも途中で嫌になって帰ってくるような日本主義者でもあった。
実際に、安場が福岡県令になると、九州鉄道の敷設は一気に進捗していった。
1886年に「民設」が認可され、1888年には九州鉄道株式会社が設立された。こうして1年後、九州初めての「博多-千歳川(久留米近く)」間に蒸気機関車が走るのである。
さて、東京高輪の泉岳寺といえば、赤穂義士ゆかりの寺であるが、その裏手に、義士切腹の地があることは、あまり知られていない。
泉岳寺の裏を走る二本榎通りを挟んで、高松宮邸を擁するこの閑静な一帯が、肥後熊本藩五十四万石の細川家下屋敷のあった場所で、「大石良雄外十六人忠烈の跡」と記された案内板が立っている。
1702年、主君浅野内匠頭の仇を討ち、本懐を遂げた赤穂浪士一党は、大名四家に分散しお預けの身となったが、大石内蔵助以下17名は、この細川家に預けられた。
藩主・細川綱利は、義士に対し並々ならぬ肩入れがあったようで、自ら二度も義士の「助命嘆願」の訴えを行い、17名全員を自藩に召し抱える腹積もりでいた。
しかし元禄16年2月4日、幕命を帯びた使者による切腹の申し渡しが行われ、即日執行された。
家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた綱利は、「軽き者の介錯では義士たちに対して無礼である」として、17人の切腹人に対し、17名の介錯人を選定した。
大石内蔵助に対しては重臣の「安場一平」を当て、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。
この「安場一平」の子孫こそが、8代目福岡県令・安場保和である。
ちなみに福岡市南区寺塚の泉岳寺と同じ曹洞宗の興宗寺(穴観音)には、篤志家の寄付によって泉岳寺とまったく同じ形式で建てられた「四十七士の墓」が存在している。

近年、東京で近代絵画の巨匠・バルデュス展が開かれ、故バルデュスの日本人夫人がテレビや新聞に登場された。
バルデュスは「夢見るテレーズ」など、扇情的な少女のイメージを描き続けたことがよく知られるが、この夫人自身もバルデュスのモデルとなっている。
バルテュスはポーランドの貴族の流れを組む家柄の伯爵として、1908年にパリに生まれた。父のエリックは画家、また舞台芸術家として活躍し、母のバラディーヌもまた芸術家であったという。
幼い頃から多くの芸術家たちに囲まれて育ち、芸術家としての資質は自然と身についたが、両親は必ずしもバルデュスが芸術の道に進むことに賛同したわけではなかった。
そこでバルデュスは、ルーブル美術館で過去の巨匠たちの作品を模写することによって、独学で絵画技法の基礎を身につけたという。
バルデュス29歳の時、高貴な家柄の出で、誇り高い貴族的な雰囲気の女性と結婚し、一児をもうけている。その後に離婚するが、離婚後も互いの友情は絶えることがなかったらしい。
第二次世界大戦に従軍するが負傷してパリに戻るが、戦後はパリの喧噪を逃れたいとの理由から、モルヴァン山地のシャシーという小さな村に住んだ。
この頃、バルデュスの存在は才能ある画家の一人として一部には認められてはいたが、なお一般には理解されず、売れない画家の一人ではあった。
ところが、田舎暮らしに引き篭もるバルデュスに転機がおとずれる。
当時のフランスの文化大臣で熱烈な日本美術のファンであったのアンドレ・マルローが、バルテュスをローマにあるアカデミー・ド・フランスの館長に任命したのである。
バルデュスに与えられた仕事は、アカデミーが置かれていた由緒のある建物ヴィッラ・メディチの改修・修復であったが、バルデュスはこころよく引き受けた。
ほとんど過去の資料もない中、バルテュス自身の感性のみを頼りに、全身全霊で修復に取り組んだ。
バルデュスは、この頃ほとんど絵画の制作はしていないものの、生涯で最も幸福だった時期だと振り返っている。
そして59歳の時、マルローから任されたのがパリのプティ・パレ美術館での「日本美術展」であった。その準備のために東京を訪れたバルデュスは、当時20歳だった上智大学の学生・出田節子と出会う。
出田節子はフランス語を学んだ学生の頃、京都のお寺の国宝級の美術品が見られると聞いて、仏使節団の見学に参加していた。
そこでバルデュスに見初められ、モデルになるのを口実として交際するようになり、その後に彼女と結婚している。
バルデュスは節子夫人につき「憧れていた日本の形がその姿のうちに秘められていた」と語る一方、節子夫人は自分はバルテュスに誘拐されたようなものと語るが、次第に画家の考え方に惹かれ、一生を託してもいいと思うようになったという。
実は、バルデュスの最後の伴侶となる出田節子は、熊本の菊池一族をルーツとしている。
1984年6月、京都市美術館で開催中の「バルテュス展」にバルテュス、娘の春美さんと共に来日し、祖先の地である菊池市を訪問している。
ところで、福岡県の大刀洗には、町のシンボルともいうべき「菊池武時」の像がある。南朝の菊池軍が北朝軍と戦って血のついた太刀洗を洗ったのが町名の起こりである。
また、福岡市中央区の六本松のバス通りに「菊池霊社」、同じく福岡大学に近い七隈の住宅街の中にも「菊池神社」がある。
「建武の新政」が崩壊した後、後醍醐天皇は各地に自分の皇子を派遣して味方の勢力を築こうと考え、まだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせることにした。
懐良親王は薩摩に上陸し、足利幕府方の島津氏と対峙しつつ、九州の諸豪族である肥後の菊池武光や阿蘇惟時を味方につけ、1348年に隈府(わいふ)城に入って征西府を開き九州攻略を開始した。
そして、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。 一方、足利幕府(北朝)は、博多に鎮西府大将として一色氏らを置いて、南朝勢力と対決しそれを潰しにかかった。
少弐頼尚に支援を求められた菊池武光は針摺原の戦い(福岡県太宰府市)で一色軍に大勝し、懐良親王は菊池・少弐軍を率いて豊後の大友氏泰を破り、一色範氏を九州から追い払った。
ところが少弐頼尚が幕府方(北朝)に寝返ったため、菊池武光ら南朝方は1359年の筑後川の戦い(大保原の戦い)でこれを破り、懐良親王は1361についに九州の拠点である大宰府を制圧する。
しかし1367年足利幕府は、今川貞世(了俊)を九州探題に任命して派遣してそれに対抗した。
その結果、懐良親王は大宰府を追われ、征西将軍の職を後村上天皇の皇子である良成親王に譲り、筑後矢部において病により薨去したと伝えられている。
さて南朝方の九州の主力として、1333年に菊池武時は後醍醐天皇の密命を受けて、鎌倉幕府を倒すことを図っていた。
菊池氏は、元軍日本に攻めてきた元寇のときに奮戦したにも関わらず、満足な恩賞をもらえなかったことや、北条氏から良い待遇をされなかったことに不満をもっていたからである。
今の博多駅に近い祗園辺りに鎌倉時代につくられた幕府の出先機関である「鎮西探題」があり、菊池武時はそこを攻撃した。
しかし菊池武時は少弐氏・大友氏の離反によって敗れ、馬上の武時の首は福岡市六本松付近で落ち、七隈付近でその胴体が落ちたといわれる。
この首を祭ったのが六本松のバス通りに面した「菊池霊社」で、胴体を祭った胴塚が七隈の「菊池神社」の由来となったのである。
菊池武時はこの戦いで敗れたものの、その後の鎌倉幕府の倒幕運動のきっかけとなり、2ヶ月後には鎌倉幕府は滅亡している。
1978年、祗園町の東長寺前で地下鉄工事をしている際、110体分の火葬された遺骨がまとまって見つかった。
14世紀前半に埋没した溝の上から出土したこと、刀傷がある遺骨も含まれていたことから、「菊池一族」の遺骨ではないかと言われている。