名将および名伯楽

イビチャ・オシムは、1941年5月6日に旧ユーゴスラビアのサラエボ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)で生まれた。
彼の父親は鉄道で働く肉体労働者で、ボディビルの選手。しかし、賃金は安く彼にとって子供時代の娯楽と言えば、ボロ布で作ったボールを裸足で蹴る路上サッカーだけであった。
14歳でジュニア・チームに入った彼は勉強とサッカーを両立させながら大学の入試にも合格。特に彼の数学の成績は抜群で、大学教授の道も夢ではなかった。
しかし、家庭のことを考えたオシムは大学を中退して本格的にサッカーに集中、地元のトップ・チームに迎えられると大活躍を始める。
現役時代のオシムは、天才的なドリブラーとして知られ、1964年に開催された東京オリンピックにユーゴ代表として出場。
1966年には、ユーゴのフル代表のメンバーとしてヨーロッパ選手権に出場し、準優勝。27歳で、フランス・リーグのストラスブールに移籍し、海外へとその活躍を移していく。
ところが膝の慢性的な故障もあり、12年の現役生活後には、あっさりと引退し故郷のサラエボに戻る。オシムは、すぐに指導者となる道を歩み始め、古巣のチームの監督に就任して好成績をあげ、1985年には早くもユーゴ代表チームの監督に就任する。
1990年のイタリア・ワールドカップにおいて、「ユーゴ史上最強」と言われたチームを率い、予選を首位で突破するも、母国ユーゴスラビアは民族紛争による国家分裂の危機のただ中にあった。
5月13日リーグ優勝が決まった消化試合にも関わらず、クロアチア人サポーターとセルビア人サポーターの間で乱闘となり、150人に近い怪我人を出す騒動となる。
それは、民族対立の「代理戦争」のような異様さであった。それでも、決勝リーグでスペインに勝利してベスト4に進出し、前回優勝のマラドーナ擁するアルゼンチンと対戦することになった。
お互いに一歩も引かない闘いは0-0のまま延長に突入し、延長戦でも決着がつかず、PK戦に突入する。
ところが、選手達の心の中で民族紛争の火種がくすぶり出した。PK戦を前にメンバーのうち二人を除いて、PKを蹴りたくないとシューズを脱いでしまった。
それぞれの民族を代表する立場でキックして、自分のせいで試合に負けたら、自分だけでなく家族までもが危険にさらされるからだ。
結局、監督はキッカーを自ら指名するが、結局PK戦では非情な緊張の中、シュートをミス連発する結果となる。
この段階で、戦わずしてユーゴ代表チームの敗戦は決まっていたともいえる。
さらに1992年、スウェーデンで開催されるヨーロッパ選手権の予選に参加したが、もうこの時、クロアチア、スロベニア、セルビアの民族対立は実質的な「内戦」に発展していた。
長い間セルビア人、クロアチア人、ボスニア人など「民族融合」の象徴であったセルビアの街は完全に孤立状態となり、サラエボに生まれ育ったオシム監督自身にも火の粉が降ってきた感さえあった。
市民にとって、危険と隣り合わせであっても、サラエボに居座わることこそが、ひとつの抵抗を意味していた。女たちは皆、いつも綺麗な洋服を着て、お化粧をしていた。それは爆弾が落ちて、死ぬ時もせめて美しくありたいという思いからだという。
オシムが代表監督である新チームであったが、有力選手でも民族分裂ゆえに新チームへの参加を断ってきた。
オシムは代表監督を辞任し、ギリシャ・チームを率いたのち、オーストリアのチームに就任し2度のリーグ戦優勝を果たし、欧州クラブ・チャンピオンズ・リーグにも出場、一躍チームの名前を世界に知らしめる。
1994年、彼は2年半ぶりに家族と再会を果たすものの、サラエボには未だ平和を訪れず、家族と平和に暮らせる国への移籍を決意した。
それがアジアの果ての日本プロリーグ、しかも予算規模の小さなチーム「ジェフユナイテッド市原」(千葉)であった。
ところが、「ジェフ市原」は強豪チームへと生まれ変わり、天皇杯での優勝という快挙を成し遂げている。
オシムはその手腕を高く評価され、2006年神様・ジーコの後を受け、日本代表チームの監督に就任し、病で辞任するまで日本人に愛される「名将」としてチームを率いた。

台湾が日本統治下にあった1931年、夏の甲子園大会に出場し決勝にまで進出した台湾チームがあった。その時の監督は近藤兵太郎という日本人であった。
近藤は1888年に愛媛県松山市萱町で生まれ、1903年に松山商業に入学し、創部間もない弱小の野球部に入って、どこでもこなしつつ主将も務めた。
卒業後は徴兵検査を受けて松山歩兵二十二連隊入営、陸軍伍長として満期除隊し、家業を継いだ。
1918年に母校・松山商の初代・野球部コーチ(現在の監督)となり、翌年にははやくも松山商を初の全国出場(夏ベスト8)へと導いている。
周囲からは「コンピョウさん」と呼ばれ、親しまれる反面、生徒から「まむしと近藤監督にはふれるな」といわれるほどに恐れられた。
1919年秋、野球部コーチを辞任するや台湾へと赴き、1925年に嘉義商工学校に「簿記教諭」として着任した。
その後1931年、同じ嘉義にある「嘉義農林学校」の野球部の監督に就任した。
この年には、はやくも嘉義農林を第17回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)においてを初出場ながら決勝まで導くという快挙を達成している。
決勝では、この年から史上唯一の3連覇を達成する事になる中京商に0-4で敗れ、「準優勝」に終わった。
近藤は嘉義農林の野球部が台湾人、日本人、原住民族の混成チームであることに違和感を覚えず、校内で野球に適した生徒を見つけて野球部に入部させた。
そこで台湾最強チームを作るべく、松山商直伝のスパルタ式訓練で選手を鍛え上げ、チームを創部3年めにして、全国準優勝するまでの強豪へと育て上げた。
準優勝したメンバーのうち、レギュラーメンバーは日本人が3人、台湾本島人2人、先住民族(高砂族)4人であった。
先住民族の走力のせいか、非常に快速のチームで、準々決勝の札幌商戦では1試合で8盗塁を記録している。
ちなみに、現日本ハムファイターズの「陽岱鋼」(よう だいかん)は、台湾の台東県台東市出身で、台湾の原住民・アミ族出身である。
当時の嘉義農林の活躍はセンセーショナルで、作家の菊池寛は観戦記に「僕はすっかり嘉義びいきになった。日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」と記している。
近藤兵太郎監督は、異なるバックグランドをもつ選手達の特性を見極め、強豪に仕立て上あげた「名将」といえる。
「異人種」をよくまとめたという点において、オシム監督と近藤監督はよく似ている。
オシムは、民族対立の火種を内包したユーゴ代表チームを、常に自分の使いたい選手を使うと公言し続けてきたが、マスコミは様々な圧力をかけてきた。
そして1990年ワールドカップのの初戦・西ドイツ戦で、あえて新聞の要求に従って各民族を代表する大物選手3人を先発メンバーとして起用してみせる。
それはどんな結果かご覧くださいといわんばかりの選手起用で、その試合は1-4の大差でユーゴの大敗で終わる。
こうしてマスコミやうるさい観客たちを黙らせたうえ、ユーゴ代表はメンバーを「入れ替え」て試合に挑み、楽々と予選リーグを突破したのだ。
一方、近藤兵太郎は、「日本人、台湾人、先住民族(高砂族)が混ざりあっている学校、そしてチーム、これこそが最も良い台湾の姿だ。それが負けるとしたら努力が足りないからだ」と生徒たちを鼓舞した。
足の速い台湾の原住民族、打撃が素晴らしい漢民族、そして守備に長けた日本人の3つの民族の混成チームが弱いはずがないというわけだ。
2014年台湾で、近藤が指導した嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)の野球部の活躍を描いた映画がつくられ、台湾映画史上空前の大ヒットとなった。
近藤兵太郎は、嘉義農林を率いて春夏連続出場した1935年夏の甲子園で、「準々決勝」の対戦相手となったのが母校の松山商業であった。
延長戦の末4-5で惜敗したが、松山商はその後、準決勝・決勝と勝って初の全国制覇を達成している。
応援に駆け付けた近藤兵太郎は松山商を率いていたかつての教え子・森茂雄監督と涙を流して喜んだという。
この夏の甲子園に出場し8強に進んだ時の日本人選手の中に、今久留主淳(いまくるすすなお)という選手がいた。
今久留主淳は、戦後はプロ野球・西鉄(現西武)などで内野手として活躍し、現役引退後、西鉄のコーチや寮長として選手を育てた。
その息子の今久留主邦明は「1969年春」、博多工業高校の4番捕手として甲子園に出場し、岩崎投手とバッテリーを組んで「ベスト4」に進出した。
現在は福岡市西区の筑前高校のコーチとして高校生の指導にあたる。
1969年といえば夏の甲子園、松山商業が三沢高校との再試合に至る死闘の末、全国制覇を成し遂げた。

ボクシングの世界で多くの世界チャンピオンを育てたエディ・タウンゼントという名トレーナーがいた。 1914年に弁護士であるアイルランド系アメリカ人の父と山口県出身の日本人の母の子としてハワイで生まれた。
母はエディが3歳の時に病死したが、11歳からボクシングを始め「無敗」のハードパンチャーとして活躍。
ハワイのアマチュア・フェザー級チャンピオンになったが、真珠湾攻撃のために、エディは日本人の血を引いていることもあり、それまでもてはやしていた仲間達は次々と去り孤独の身となった。
そしてエディは、ボクサーに見切りをつけトレーナーとして次の世代を担う人材育成を志すようになった。
当時、日本のプロレスラーの力道山はボクシング進出を企図しており、自らの名を冠した「リキボクシングジム」を設立していた。
そして1962年,当時ハワイでボクシングトレーナーとして実績のあったエディ・タウンゼントを強引に連れてきてトレーナーとしたのである。
この時エディは48歳で、以後、藤猛、海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、そして井岡弘樹の6人の世界王者をはじめ、「和製クレイ」と称されたカシアス内藤や「浪速のロッキー」と称された赤井英和等の名選手を育て上げている。
エディは、当時日本のボクシングジムでは当たり前のように指導用の竹刀をつかっていたが、牛馬みたいに叩かなくても言いたいこと言えば分かると拒絶した。
またエディは勝ったボクサーの祝賀会には一切参加せず、負けた選手にずっとついて励ました。
ボクサーは勝った時には友達いっぱい出来るから自分はいなくてもいいが、負けたボクサー励ますのが自分の役割だと考えていた。
エディは生涯に6人の世界王者を育てたが、エディが育てた最後のチャンピオンが井岡弘樹である。
老人となった自らと少年との年齢差に戸惑いつつも、名実ともに二人三脚で世界チャンピオンへの道を歩み続け、井岡はついにストロー級の初代世界王者となるのである。
しかし、その頃からエディは体力の衰えを覚えるようになり、直腸ガンに冒されていることが判明した。
1988年1月31日、大阪城ホールで行われた初防衛戦で井岡弘樹が世界同級1位の李敬淵(大韓民国)と戦う。
井岡が挑戦者の李を12回TKOで退けた知らせを病院で聞くと、右手でVサインをかかげた後に静かに息を引き取った。享年74であった。
過去に育て上げたボクサーたちに「エディに最も愛されたボクサーは誰か」という質問をしたところ、皆迷うことなく「自分が最も愛されたボクサーだ」と答えたというエピソードがある。
スポーツ界でエディ・タウンゼントほど「名伯楽」は少ない。「名伯楽」とは中国周代の馬を見分ける名人のことをいうが、野球界には「名伯楽」の名にふさわしい高畠導宏がいる。
高島は、若い日の選手としての挫折、若者を育てる情熱、夢なかばで病に倒れた点などエディと共通するものが多い。そして何より、二人ともいい意味での「人たらし」であった。
高畠は南海ホークスの選手(1968~1972)として活躍し、29歳で南海ホークスのコーチとなった。それ以後のコーチ歴は延べ7球団で30年にもおよび、打撃コーチとして数多くの好打者を育て上げた。
プロ野球入りのきっかけは、中央大学4年生だった時に、読売ジャイアンツから5位指名を受けた。しかしこれを断り、日鉱日立へ入り、全日本の四番の強打者として鳴らした。
その実績を評価されて1967年、南海ホークスからドラフト5位指名を受けてプロ入りを果たした。
南海ではノンプロ時代の実績から先輩の野村克也とクリーンアップを打つ左の強打者として新人王をも期待されたが、練習中での怪我が響き大きな実績を残すことなく選手生活を終えた。
引退後の1973年に野村兼任監督にその研究熱心さを買われ、29歳の若さで打撃コーチに抜擢される。
高畠コーチの真骨頂は、なんといってもそのアイデア溢れる練習内容で、その1つはバットを投げる練習である。
これは正しいバットの軌道を掴み、バットをなるべく身体の近くを通す、つまりインサイド・アウトでバットを出せるようにするための練習だった。
もちろん打つためのバットではなく、投げるためのバットを用意した。しかしプロ野球の選手が、無人のグラウンドでバットを投げ続ける風景を見たら、気が狂ったとしか思う他はないだろう。
1977年、野村監督解任に伴いロッテオリオンズに移籍した。高畠はロッテ・コーチ時代の12年間で落合博満や水上善雄らを育成した。
落合博満(ロッテ在籍時)に対しては、「オレ流」の性格を考えて最小限のアドバイスをしたという。
その落合は、ロッテ在籍8年間で3度の「三冠王」に輝いている。
また当時のロッテからは落合以外にも高沢秀昭、西村徳文が首位打者となり、高畠は名コーチの評価をうけるに至った。
結局、高畠は結局7球団を渡り歩いて落合、イチロー、小久保、田口などの30人以上のタイトルホルダーを育てたのだから、「名伯楽」という言葉に相応しい人物であった。
「名伯楽」の本能なのか、高校野球の指導者となることへの思いが強くなり、1998年、日本大学の通信課程に入学し、5年かかけて教員免許を取得した。
高畠は、プロ野球の選手に対して技術だけではなく、精神的な指導をしたいという思いから心理学の勉強を始め、それがきっかけで高校野球の指導者への道へと向かわせた。
そして2003年、59歳の時に以前に教育実習を受けた私立・筑紫台高校(福岡県太宰府市)で教職につく道が開かれた。これは中央大学の野球部の先輩が、筑紫台高校の校長と親友であったことから紹介されたものだった。
この時、当時の筑紫台高校の校長は高畠に次のような印象を語っている。
「教師というのは、一度飛び込めばそのままです。でも、高畠先生は、1年1年契約の世界で生きてきた人。真剣勝負の中で本物の指導をする人だけが生き残ってきた世界の人なので、特別、魅力と迫力を感じたのだと思います」。
高畠は、エディと同じく年の差のある若者たちと共に甲子園を目指すべく「第二の人生」を始めたが、癌が見つかり赴任わずか1年半後に亡くなった。
監督として甲子園球場のグラウンドに立つという最後の夢は叶わなかった。享年60。

近藤兵太郎は、嘉義農林を率いて春夏連続出場した1935年夏の甲子園で、「準々決勝」の対戦相手となったのが母校の松山商業であった。
延長戦の末4-5で惜敗したが、松山商はその後、準決勝・決勝と勝って初の全国制覇を達成している。
応援に駆け付けた近藤兵太郎は松山商を率いていたかつての教え子・森茂雄監督と涙を流して喜んだという。
台湾人史上最高位の指名(ドラフト1位)を受け、台湾では話題となった。
日本国籍を持たないが、日本の高等学校(福岡第一高校)に3年以上在籍していたため、規定により日本国籍を持つ選手と同等の扱いを受けている。
近藤は終戦後の1946年に日本に引き揚げ、晩年は新田高等学校や愛媛大学などで野球部監督を務めた。
その年の夏の甲子園で、 この今久留主淳の息子が、 さて楠城と今久留主は「主将で4番捕手」以外にも色々共通点があるが、まずは高校卒業後に巨人からドラフト指名(楠城:巨人7位/今久留主:9位)をうけたことである。
そして二人ともそれを拒否し、それぞれ早稲田大学、明治大学と進んでいる。
特に楠城は早稲田大学の野球部主将として「日米大学選手権野球」の第二回全日本チーム主将もつとめた。
この時のオーダーには、「藤波(中大)・山下(慶大)・山本功(法大)・佐野(中大)・中畑(駒大)」など錚々たるメンバーがいた。
一方、今久留主は博多工業高校で主将と捕手を務め1968、69年の春に甲子園出場し、69年にはベスト4に入ったが、その夏は福岡大会4回戦で敗退している。
明治大に進学して、その後は社会人の日本鋼管福山(現JFE西日本)でアマチュア界で活躍した。
そして楠城と今来留主の最終の共通点は、ふたりとも故郷・福岡県の高校野球の指導者となっていることである。
楠城は、九州国際大学付属高校監督であるが、楠城監督の下に複数のプロ野球選手の子弟が高校野球球児として入学しているのも、プロ野球時代の繋がりによるのかもしれない。
20014年癌でなくなった山本功児の長男の山本武白志(むさし)もその一人である。
山本功児は、巨人、ロッテでプレーし、ロッテで監督を務めた。長男は、育成枠でDeNAに入団したが、1軍でのプレーを見届けることなく、2016年4月早過ぎる旅立ちとなった。
また、牛島とのバッテリーでドカベン香川(香川伸行)の長男の香川英斗がいる。2006年に3年生の時に福岡工大城東高校で夏の甲子園に出場し、テレビで見る限り、その体型もバッティングスタイルも父親譲りで似ていた。
2014年9月福岡県朝倉郡の自宅で倒れているところを家族が発見し、救急搬送されたが死亡が確認された。死因は心筋梗塞。52歳没。
また、同じ北九州でライバル校が「自由ケ丘高校」(旧:八幡西高校)だが、赤嶺監督は沖縄水産の名将・栽弘義監督の長男である。
栽監督の野球人生は、近年「沖縄を変えた男」で映画化された。
1984年夏に初出場を果たすと、1988年まで5年連続で夏の甲子園に出場するなど、「黄金時代」を築いた。
1990年夏・91年夏に2年連続で決勝戦に進出、2回の準優勝を果たしことは、確かに沖縄の高校野球ばかりか沖縄のイメージを変えたといってよい。
栽の長男で自由が丘高校野球の赤嶺琢監督も、2013年に同校を選手権初出場に導いていたが2回戦で、 同じ九州勢の延岡学園に逆転負け(2-4)してうるものの、かなか沖縄代表にさえもなれなかった父親の栽監督よりも、まだ出だしは恵まれているといえよう。

1969年「春の選抜」で「福岡県立博多工業高校」の主将捕手4番として、岩崎投手とバッテリーを組んで「全国ベスト4」に進出したのが、今来留主邦明である。
今来留主は福岡市西区の筑前高校のコーチとして高校野球の指導にあたっているが、その野球一家としての家系には、日本と台湾を又にかけた奥深い歴史が横たわっている。
最近、たまたま福岡県の高校野球指導者の中に、記憶に残る元・高校球児の名前をみつけた。
「楠城徹」と「今久留主邦明」の名前。懐かしさと同時に、福岡県の二人の高校球児が時を隔てて、こうして「相まみえる」ことに感動さえ覚えた。
実は、この二人が出場した1969年の「春の選抜」を、当時小学生だった自分は、テレビにかじりつくように見ていたのだ。
そしてNHKの解説者が、「楠城(くすき)と今久留主(いまくるす)は、今大会で一、二を争う好捕手でしょう」と語ったのを鮮明に覚えている。
福岡県に住む野球好き少年として、そのことがとても嬉しかったからだ。
に生まれる。
4歳のときに沖縄戦に遭遇し、3人の姉を失い、自らも背中に重傷を負った。
小学生のときに野球を始め、高校球児時代は糸満高校野球部に所属。
当時、夏の甲子園は現在のような一県一代表制は採用されておらず、夏の沖縄大会で優勝しても、九州の学校との決定戦に勝たないと甲子園に出場できなかったため、沖縄勢にとって、甲子園出場は至難であった。
首里高校が第40回大会で夏の甲子園初出場をして、結局、栽は選手としては甲子園出場は果たせず、その後中京大学へ進学して指導者としての道を目指す。
豊見城高校に転任し、1975年春、2年生エース赤嶺賢勇を擁して甲子園初出場を果たす。この大会では、大会初日に優勝候補でその年の夏に優勝する習志野を破るなど旋風を巻き起こし、ベスト8に進出した。
この後、豊見城では、赤嶺や石嶺和彦らを擁し、春夏合わせて6回甲子園に出場したものの、べスト8の壁は破れなかった。
1980年、全県から選手を集められ、学校が所有する広大な敷地を自由に使う許可を出してくれた沖縄水産高校に転任した。