草の根「学習会」

日本社会は、市民社会を経ずに明治維新をむかえたので、オカミ(行政)に依存して自立しきれていないという批判がなされる。
その一方で、昔から互いに智恵を出し合って問題を解決しようという伝統がある。
それは「個」の力に頼る西洋文化とは異なる有り様であり、それは芸術の有り様にもあらわれている。
欧米では、詩人や作家は、しばしば孤独で天才的な隠遁者である。欧米で芸術とは、啓示を受けた個人が作るという発想である。
芸術は、神の啓示を受けて作られるので、詩人や作家があまり人付き合いをしない隠遁者であっても全然かまわない。
「ライ麦畑でつかまえて」のサリンジャーや、女流詩人のディキンソンは、今でいう「ひきこもり」といってよく、ショーン・コネリー主演の映画「小説家をみつけたら」の主人公も、隠遁者的作家であった。
ところが、日本の伝統では、和歌や俳句は歌会や句会といった他者との「関わり」の場でつくられるというのが、基本的な考え方である。
その時々の「場」の雰囲気や感情を共有し、お互いに関わり触発しあう中で、よりよき詩歌が生まれる。
つまり社交の場にあってこそ、芸術が生まれるとしたのである。
こういう「芸術観」は、労働や仕事の場おける「協調性」とも無関係ではないように思う。
つまり日本人は、歴史の諸相において「相互連帯」をもって自らを育んでいく「草の根」精神をそれなりに保有してきたといえる。
これは「個」が確立とは異なる性格をもつが、こうした不可視のインフラが急速な近代化を可能にした一因ではなかろうか。
幕府統制の強い江戸時代には、領主からいたるまで年貢納入システムが確立され、農民の代表が「村方三役」として年貢納入や、非キリスト教であることを証明する「宗門改め」などの責任を担い、幕府体制に「完全」に組み込まれたようにもみえる。
しかし、こうしたタテの力学が働いているなか、村人達はヨコの連帯をつくり、タテの締め付けをある程度、緩和していた。
例えば、村のヨコ連帯の表れのひとつが「講」であり、「若者組」で信仰を学んだり、大人になるための様々な知識を学んだ。
また、ユイやモヤイといった労働交換や相互扶助にもヨコの繋がりを見出すことができる。
さらに「寺小屋」という庶民教育機関が江戸時代に数多くつくられたが、幕府によって奨励されたわけでもなく、税金によって運営されているわけでもなく、教師がお上に任命されたものでもなく、自発的・自主的な「学習会」であった。
寺小屋の名称は、「お寺」に檀家の子供達が集まって「読み書き」を習っていたことに由来する。
江戸時代中期以降で「商人文化」が花開きはじめると、読み書き、ソロバンが不可欠となり、これが飛躍的に発展したのである。
教師はお師匠さんとよばれ、町年寄り、庄屋、武士、医者、僧侶、神官などがなり、寺小屋とよばれながらも自宅を教室として使い、男女共学であったことは特筆に価する。
そして、1872年の学制により全国に3万近くの小学校が創られたが、これらの多くは寺小屋を「衣替え」した小学校であったのだ。
つまり、寺小屋学習こそが、近代日本の飛躍を可能にした「助走」とみてよい。
こうした自発的精神は、教育ばかりではなく、西洋文明導入の際に生まれた「学習会」の基盤でもあった。
東京経済大学の色川大吉教授らの五日市周辺の土蔵調査による「民衆史」の発見はきわめて感動的である。
色川教授らの「発掘」によって、北村の友人である石坂公歴や五日市憲法の草案をつくた千葉卓三郎などの行跡が明らかになっている。
石坂は、困民党が弾圧されたあとサンフランシスコにわたり、最後は太平洋戦争中に日本人強制収容所に入れられ、失明のうえ落命している。
また千葉は戊辰戦争の敗者・仙台藩の出身のいわゆる「落人」で、東京にでてギリシア正教でニコライにより洗礼をうけ、現在の東京・五日市に流れてきた。
この地で、西洋の啓蒙書を多く所有する深沢権八という豪農と出会い、「五日市憲法」という当時最も民主的であった「憲法草案」をつくった。
深沢権八の63項目にわたる手書きの討論題集が残されており、そこには、「憲法は国民がきめるのか、国王がきめるのか、議会は一院制がいいか、二院制がいいか、女帝をたてることはどうか、皇居は東京に置くべきか、田舎に置くべきか、衆議院議員に給料を払うべきか、払うと悪いことをするか、 死刑は廃止すべきか否か、人民に武器を与えてもよいか」などが書かれていた。
この手記は、「学芸講演会」での討論の内容を良く伝える資料となっており、そしてできあがった五日市憲法は体裁上は君主主権を認めながら、運用面で君権と民権と競合した場合には民権にくみするといった憲法であった。
自由権・平等権の規定の規定があり、その後発生した華族制度 を見抜いた警世の条文ともなっている。
また、教育権と義務教育が規定されて、国家による教育内容の画一 統制は明らかに否定され、教育権の所在は教授者と親権者にあることが明記されている。

現代においても、市民の問題意識の中で自然に生まれた「学習会」というものがある。日本の原水爆禁止運動の起点となったのは、「杉の子会」という小さな学習会であった。
「杉の子会」は、当時、杉並区の公民館館長であった安井郁(元・東大教授)をリーダーに、社会科学書をテキストとした、地域の主婦中心の読書会としてスタートした。ところが1954年に「運命的」なことがおきた。
アメリカのビキニ水爆実験により被爆した「第五福竜丸」のマグロが築地市場にあがった。「マグロの放射能汚染」という出来事は、主婦達にとって政治や外交や思想の問題ではなく、生活ソノモノの問題であった。毎日の買い物通いの中で、主婦達は何となく薄汚れたものを感じるようになったのである。
この出来事に対する「杉の子会」の反応の素早さは、読書会で社会科学書を読み進めていたことも一因であった。そして、わずか1年間の間に国内3000万人、全世界で7億の原水禁の署名を集めるのである。
日本の市民による最初の公害反対運動であったとみることもできるが、こうした運動を革新政党が目をつけ、運動の主導権を握ろうとしたことが、この会を「分裂」に追い込んでいく。
何しろ、米ソ冷戦の只中で、社会主義圏の核実験ならばヨシという意見さえ真面目に語られていた時代である。
やがて「原水協」理事長として原水禁運動の「顔」となった安井氏は、1963年の第9回原水禁大会で、「いかなる国のいかなる核実験にも反対」という表現をめぐってアラワになった安保議論や、運動の「党派的対立」のなかに巻き込まれていく。
そして「杉の子会」メンバ-にも動揺と混乱おこり、ついに1964年4月の機関誌の発行をもって事実上終止符が打たれた。
ともあれ「原水爆禁止運動」の発祥は、東京の杉並区の「主婦達」であったということは、「世界の記憶」に充分値するにちがいない。
原水禁運動の発祥の地である「荻窪公民館」は現在は存在せず、同じ場所には荻窪体育館があり、その傍らには、原水禁運動の記念碑「オーロラ」が立っている。
「杉の子会」のように予期せずに重い歴史的役割を担ってしまったがゆえに、政治的に利用され本来の姿を見失った一方で、しかりと地域に根ざした学習会もある。
それは筑豊の炭鉱で山本作兵衛の絵に触発され、山本とも親交が深かった人物によって始められたものである。
京都生まれの上野英信は、父の転職により北九州の黒崎に移転した。戦時中「民族協和」(五族協和)の理念に憧れ満州に向かい、旧制八幡中学から日本が作り出した満州国の大学に学んだ。
しかし現地で目のあたりにしたのは、厳然と存在した「民族差別」であった。
上野は1944年8月6日見習士官として船舶砲兵隊付として広島県・宇品において働く中で被爆している。戦後、京都大学に編入したものの、彼の実体験はそのままのかたちで学業をこれ以上続けることを拒絶させた。
そして上野は「何か」に引き寄せられるように、朝鮮・中国人・沖縄終身者が流れ込んだ「炭鉱」に向かった。
上野英信は東京オリンピックの年1964年に家族とともに、筑豊炭田の一隅、福岡県鞍手に移り住み、崩壊寸前の鉱夫長屋を補修して、集会所と図書室をつくり、事務室、居間を備えた「筑豊文庫」を設立した。
その宣言文では、「筑豊が暗黒と汚辱の廃墟として滅びることを拒み、未来の真に人間的なるものの光明と英智の火種であることを欲する人々によって創立された」と謳っている。
上野はその宣言文に沿うように、炭住でのトラブルの仲裁から悩み相談まで引き受けて、自らも鉱夫として働きつつ、筑豊を訪れる人びとの案内者として奔走した。
そして、高度成長期の繁栄の陰で中南米にまで追いやられていった炭鉱離職者を追い、その記録を「追いやられた鉱夫たち」として発表し、それが大反響をよんだ。
上野の「砦」でもあった「筑豊文庫」は、地域の人達が集まる公民館であり、スラ、テポなどの採掘具から炭券一枚までを大切に保存する資料館でもあった。また、学習会の場を提供し、合宿所としても利用された。
そしてもうひとり、山本作兵衛の「絵」に啓発された人物に土門拳がいる。
山本作兵衛が「絵」、上野英信が「文筆」ならば、土門拳は「写真」をもって炭鉱の記録を後世に残したといえよう。

布施明の大ヒット曲「シクラメンのかおり」の歌詞(小椋圭作)の一節、「真綿色したシクラメン」とは大嘘である。そしてこんな恋愛も。
シクラメンは赤色しかなく真綿色のシクラメンなどあるはずがなく、小椋氏のイタズラ心の所産にすぎない。
加えていえばシクラメンの球根は豚のエサとなるもので、和名で「豚の饅頭」という名前がついて、見た目とは裏腹に、実情はスガシイと言える花ではない。
しかし、嘘が真になってしまうのが、この世の中の面白さであり、または恐ろしさでもある。
この歌のヒットを機に、なんとか「白いシクラメン」をつくろうという努力をした人がいて、今や実在する花になってしまった。
果実についていえば、宗像で「四角いスイカ」までもつくられていると聞くが、福岡の筑後地方では「夢かなって」実在のものとなった果物の話がある。それは意外にも「アメリカの民主主義」と結びついて生まれたものだった。
現在、世界の葡萄の品種は2000を超えるが、戦前の日本で目にすることができたのは甲州葡萄を含め、わずか3種類しかなかった。
だが、静岡の中伊豆町で「栄養周期説」を提唱していた大井上康博士の苦労に苦労を重ねた品種交配により1940年に「巨峰」が誕生した。
しかし、在野の学者であったがゆえにその説は日の目を見ることはなく、戦中の「果樹亡国論」などもあって全国的に巨峰の栽培例はなかった。
さて、終戦間もない1946年のある日のこと、福岡県の田主丸町にひとりのアメリカ人がやってきた。彼の名はジエームス・ヘスターで、久留米にあった駐留米軍の教育課長として働いていた。
このアメリカ青年は、田主丸の村人たちに「民主主義とはなにか」を流暢な日本語でわかりやすく語った。その晩、ヘスター氏の宿となったのは老舗の造り酒屋・若竹屋酒造であった。
若竹屋の十二代目、林田博行氏はスキヤキをつつき、酒を飲みかわしながらヘスター氏と夜遅くまでこれからの町づくりについて語り合った。
林田氏が、なぜアメリカ人はそんなに体が大きいのかと尋ねると、ヘスター氏はミルクや肉など良質なタンパク質をいっぱいとっているからだと答えた。
そしてヘスター氏は、将来を担うこどもたちの身体をつくることが大切で、乳牛がこれからの地域振興につながるので、牛を集めて立派な子供達を育ててはどうかと提案した。
林田氏が、こんな田舎でも牛を手に入れることができるかと問うと、ヘスター氏は北海道には多くの牛がいるので、我々も最大の援助をしようと米軍の協力を約束した。
こうして3年間で200頭もの乳牛が田主丸へとやってきた。しかし牧草の不足から田主丸の酪農は8年で行き詰まってしまう。
多くの酪農家は再び田畑へ戻り、新たな農業の指針を建て直そうと模索した。田主丸の再生のためには、農民もこれからは学習しなければと、研究者をよんで新しい技術を身につけようとした。そして越智通重という研究者と出会う。
越智氏は、品種交配により新しい葡萄品種「巨峰」を生み出した前述の大井上康博士の一番弟子だったのである。
そして47人の農家が出し合った開設資金をもとに、越智先生を招いて「九州理農研究所」を設立した。
田主丸の農民がつくりあげた九州理農研究所は、全国でも例のない農民による農民のための研究所であった。彼らを中心に、より高品質な巨峰の栽培を追及する「果実文化」という機関紙も発行されていた。
越智氏が師匠の大井上博士から受け継いだ「栄養周期説」とは、あらゆる植物は発芽から枯れるまで同じ育ち方をするのではないので、その段階に応じた手入れや施肥をするというものだった。
農民たちは毎日のように研究所に通い、議論し、時に越智が愛する酒を酌み交わしながら、巨峰栽培の情熱を語り合っていた。
越智氏は彼らと学習をすすめるにつれ、大井上博士の遺志「巨峰」をこの地で花開かせることができるかもしれないと考えるようになった。
この土地が山砂まじりの排水性の高い土であるうえ、不思議と十分に肥えた地力を備えていたからである。
農民達は、アノ8年間の酪農への挑戦の「副産物」をこの時に思い知る。
実はその土には、アメリカの「民主主義」を説いた教育課長ヘスター氏との出会いで導入された牛達の糞が染み込んだものだったのである。
その後、越智氏生が持ち込んだ葡萄の苗木は、悲願の大粒の実をつけることに成功した。そして田主丸は、全国初の「観光果樹園(果物狩り)」という商法を編み出し、「巨峰ワイン」を生むなどして「巨峰のふるさと」として知られている。
実は、ヘスター氏との出会いから53年後の1999年は「巨峰開植40周年」であるが、田主丸の農民達はヘスター氏の消息をたどった。
すると驚くべきことがわかった。ヘスター氏は、田主丸を訪れた翌年に帰国し、その後再釆日して1975年には東京青山の「国連大学」の初代総長として、その創設に関わっていたのである。
さらには、グツゲンハイム財団のトップとして、アメリカ教育界の重鎮であることも判明した。
農民達が手紙を出すと、若竹屋酒造の十二代目の林田氏のもとにヘスター氏からの返事が届いた。
そこには、田主丸の産業へ思わぬ寄与ができたことへの驚きと喜び、そしてできるならば田主丸を訪れてみたいとの一文が記されていた。
林田氏は、ヘスター氏が日本に来ることになったら、またスキヤキを一緒に食いたいと返事を書いた。
そうして、その年の秋の「巨峰ぶどうとワイン祭り」で林田氏とヘスター氏の二人は再会した。
そして、ヘスター氏の提案で呼び寄せた乳牛が、農地を巨峰つくりに相応しい土に変えていたこと、ヘスター氏が去った後の越智先生との出会いと「巨峰誕生」への日々を分かち合った。

そうした延長にも思える東京の西の山間部の土蔵で見つかった「五日市憲法」とよばれる草案作りは、今の人々が読んでも、その人権意識など非常に高いものがみられここで学んだ人々の意識といえる。
ホームや故郷というのは、たとえ失敗したり落ちぶれたとしても、温かく迎えて入れてくれるものと思いたいが、「現実」としても「心象」としても、ソウイウものは消滅しつつあるのだろうか。
リポーターの奥山さんがどんなカタチで発見サレルかまたサレナイカわからないが、失踪や行方不明から「回生」する人生も、あるにはアルようだ。

数年前に「エリザベスタウン」というアメリカ映画をみたが「すべてを失った僕を、待っている場所があった」というサブ・タイトルであった。
ある売れっ子のシュ-ズ・デザイナ-が、会社で大きな損失を出す失敗をして会社を首になり、つきあっていた恋人にも「露骨に」別れを告げられる。
死を考えていたところ、「父の訃報」が届いた。
生まれ育ったケンタッキ-の山懐にあるエリザベスタウンという名の町に帰郷したところ、思わぬ人々の暖かさにふれる。
親族の子供達はドンチャン騒々しいが、いろんな失敗があっても皆で「笑い」にかえてしまう。
親戚の還暦パーティなんかに出ると、抱腹絶倒のトンデモスピーチが登場し、その中にも少々涙サソウものがあり、ジーンとくる。
青年は帰省の途中の飛行機の中で、フライトアテンダントの女性と出会っていて、彼女はオリジナルのCDを送って青年の心を回生させてくれる。
この新恋人との出会いはかなりムリがあったが、失意の青年がホームタウンで心癒されていく「6日間の奇跡」のストーリーは、案外とリアリティがありグッドな映画であった。