我が目、我が耳

かつて作家・松本清張の女性編集者が書いた手記で記憶に残ったものがある。それは清張が、戦後まもなく起こった「スチューアデス殺人事件」を題材に「黒い福音」(1959年)を書いた時の話である。
女性編集者は、杉並区善福寺川での遺体発見現場の現地取材をやって、そのノートを清張に見せたところ、清張は自分が見たかのように見事にその情景を再現し、その文筆力に脱帽したという。
松本清張は体ヒトツでは足りないと思えるほど日本各地を歩いているようだが、実際にはすべて現場に足を運んだわけではないことを知った。
複数抱える連載や、身体的な困難さもあるだろうが、この場合、女性編集者が清張の「目となり耳となった」のである。
ところで最近、年金支給年齢を引き上げのために、75歳以上を高齢者として定義するなどというトンデモナイ話が浮上している。現在の若い世代は、一生働きずくめで、「充実した老後」は遠のいていく。
それならそれで、人生を同じベクトルの延長にはしたくない。
人間は「二つ」の人生を送るわけにはいかないので、伊能忠敬やシュリーマンのように「前半/後半」にキッチリ分ける生き方もあれば、平凡なサラリーマンがネット社会ではカリスマというような「同時並行的」セカンドライフの生き方もある。
また、もうひとりに自分の人生の一部を分担してもらったり、自分の身近に、自分とは違う視点や観点を持つ人がいてくれれば、人生は豊かになるであろう。
それはけして架空の話ではなく、そういう「パラレル・ライフ」を可能にした人々もいる。つまり一人がもう一人の「目となり耳になる」という関係が実際にあるのだ。

宮本常一は1906年、山口県の周防大島の貧しい農家に生まれた。
苦学して天王寺師範の夜学を終了し小学校の教員になったのち、民俗学に目覚め教師のかたわら土地の古老などから「昔話」の蒐集を始めるようになる。
宮本は、柳田が主宰する雑誌で「昔話」の募集をしていることを知り、日頃書きためていたノ-ト2冊分を柳田に送ったところ、柳田はその原稿を高く評価し長文の手紙を書いている。
一方、渋沢敬三は財界の大立物・渋沢栄一の孫で、幼い頃から動物学者になりたかったものの、日本の経済界には優秀な人材が一人でも必要だと説得され学問の道を諦めている。
そして渋沢敬三は、東大卒業後に銀行員として勤め1944年に日銀総裁にまでなっている。
戦後、幣原内閣の大蔵大臣として預金封鎖、新円切り替え、財産税導入などの政策を打ち出し、日本経済の復興の足場を築いた。
しかしその反面で学問への情熱は冷めやらず、古くからある各地の玩具などを集めて自宅を開放して「アンチック・ミュ-ジアム」としていたのである。
それでは、宮本常一と渋沢秀雄双方にとっての「運命の扉」はどのように開かれたのだろうか。
渋沢と宮本の出会いは、1935年柳田の記念講習会に出席したおり、渋沢敬三が自宅に蒐集しているアンチック・ミュ-ジアムを仲間とともに見学したのがきっかけである。
そして宮本は、渋沢に郷里である瀬戸内海の漁村生活誌をまとめるように勧められ、1939年妻子を大阪に残して単身上京し、芝区三田にあった渋沢のアチック・ミュージアム(のちの日本常民文化研究所)に入り民俗調査を開始したのである。
渋沢は宮本に、自分の処に居ればいくらでも旅をしてよいからと勧められ、宮本は渋沢の家に起居るようになり、爾来宮本は渋沢の家族の一員となってしまった。
宮本は1961年に博士号を取得するまで渋沢の邸宅に居候し、渋沢をして「わが食客は日本一」とまで言わせしめている。それは後に、赤塚富士夫がタモリを評した時の言葉と同じである。
渋沢は、宮本常一という学問におけるいわば「分身」を身近に置いたというわけである。
宮本は柳田国男の知遇を得て、渋沢に育てられたのだが、象牙の塔に籠もり文献相手の研究に従事した柳田とは対照的に 離島や山間僻地を中心に日本列島を自分の足で広く歩きまわり、漂泊民や被差別民を取材し研究した。
つまり宮本民俗学は、柳田のような解読可能な「記録の文化」ではなく 語り継がれた解読不可能な「記憶の文化」(無字社会)を現地で見聞し調査した点がユニークであった。
宮本は、日本の離島や山間僻地を訪ねて歩いた4000日の距離は16万キロ(地球を10周)、泊めてもらった民家は1000軒を越えるという。
ノンフィクション作家の佐野真一は宮本常一を、単なる民俗学者ではなく徹底的に足を使って調べるフィールドワークを実践したすぐれたノンフィクションライターの先駆者と評している。

1932年、満洲事変の真相調査のため国際連盟から派 遣されたリットン調査団の一部の団員が倉敷の「大原美術館」を訪れた。
団員はそこにエル・グレコ、モネ、ルノワールの絵画や ロダンの銅像をはじめとする数々の世界的な名品が並んでいるのに仰天した。
このことから、日本の地方都市クラシキの名が米国でも知られるようになり、大東亜戦争中も、米軍はこれらの美術品を焼いてはならないと倉敷を爆撃目標からはずしたという。
そもそも、この地に大原美術館レベルのものがあること自体が「奇跡」のような話だ。
大原孫三郎は、1880年、岡山県倉敷市の大地主で 「倉敷紡績(クラボウ)」を営む大原孝四郎の三男として生まれた。
跡継ぎとして育てられたが、広い世間を知りたいと、1897年上京して東京専門学校(現・早稲田大学)に入学したが、放蕩の限りを尽くして、高利貸しに多額の借金を作ってしまう。
父・孝四朗の命を受けた親族が孫三郎を倉敷に連れ帰り、高利貸したちとの談判をするが、父はその最中に脳溢血で倒れ、そのまま世を去る。
自責の念に駆られた孫三郎は倉敷とともに生きようと決心した孫三郎の最初の仕事が、義兄の残したマッチ会社の整理と、父の始めていた苦学生に「奨学金」を給付する会を軌道に乗せる事だった。
また働く若者のために、夜間の商業補習校の設立を図ったが、 校長となる孫三郎自身が23歳と若すぎるため、県当局は認可を渋ったが、県知事は「教育への熱情に年齢は関係なし」として認可を与えた。
さらに社会各層の人々が勉強する機会を作ろうと、新渡戸稲造、徳富蘇峰など一流の知識人を自費で招き、講演会を始めた。孫三郎はそれから24年間にわたり、76回の講演会を続けることになる。
「自分は勉強しない代わりに、他人に勉強して貰う」というのが、孫三郎の口癖だった。
孫三郎にとっても、自身が運営する「奨学金」を給付する会は大きな意味をもっていた。
1900年の夏、下原村(現・成羽町)の出身の若者が奨学金を求めて大原のもとにやってきた。孫三郎よりは一歳年下の東京美術学校に学ぶ児島虎次郎という若者だった。
風景画などを見せながら自己紹介をする若者に、孫三郎は好印象を持ち、奨学金を支給することにした。
児島は1907年、東京美術学校研究科在学中の26歳で、勧業博覧会美術展に一等賞に入るほどの才能をみせた。
しかし孫三郎が買ったのは、児島の才能よりも、素朴でまじめな人柄で、そんな児島を見込んで、ヨーロッパに5年間、留学させた。
これも、孫三郎の「他人に勉強して貰う」方法の一つで、自ら設立した社会問題研究所の大内兵衛ら6人、 労働科学研究所の2人、中央病院の5人など、学者・研究者が中心だったが、画家の児島や、音楽研究家、牧師などもいた。 その留学資金の多くは、孫三郎が工面している。
さて、1908年に渡欧した児島虎次郎は、翌年ベルギーのゲント美術アカデミーに入学し、1912年に首席で卒業し、大正と改元した同年11月に帰国した。
孫三郎は児島を倉敷の北酒津にある大原家の別荘に住まわせ、母屋から離れた所にアトリエを作らせた。絵を売ることを考えることなく、好きな仕事だけに打ち込むようにと、生活の一切の面倒を見た。
しかし、いつまでもここに篭っていては進境がないと、ヨーロッパへの再渡航をすすめた。
1919年6月、児島は2度目のヨーロッパ留学に出発した。児島は欧州で師や友人と会い、美術館や美術商を廻り、時間を惜しんで制作に励んだ。
児島の絵はパリでも高い評価を得て、フランス画壇を代表するサロン・ソシエテ・ナショナルの正会員にも推された。
そのうち児島は、自分が勉強するだけでなく、日本の画家たちの勉強のために、これはと思う名品を日本に持ち帰る事だと「絵の収集」をはじめた。
孫三郎が児島を送り出したのは、あくまで本人の進境を期待した為である。
児島は「絵を買いたい」と繰り返し手紙を書き、その熱意に、孫三郎は考え直した。児島の熱意は、孫三郎自身の教育への熱情に通ずるからだ。
「エヲカッテヨシ カネオクル」という孫三郎からの電報が届いた。
児島は画商に依頼するだけでなく、自分で画家のアトリエへも出かけた。児島はパリ郊外に住むモネを訪ねた。
当時モネは79歳。すでに一流画家として雲の上の存在だったが、白内障でほとんど視力は失われ、キャンバスに顔をくっつけるようにして描いていた。
モネは、日本の浮世絵の大胆な構図や色彩を愛し、自宅の庭に日本式庭園をつくる親日家としても有名だった。
児島は、モネに「日本の絵描きのために是非作品を譲って欲しい」と頼み、モネもその熱心さに心動かされたにちがいない。
モネは「今は大作に取りかかっている。1ヵ月したらまた来なさい」といって絵を譲る約束をしてくれた。
1ヶ月後児島が再訪すると、モネは日本の絵描きのためにと絵を数点用意してくれ、児島は、その中から「睡蓮」を選んだ。
児島が持ち帰った25点を中心に、1921年の春休みの3日間、倉敷女子小学校の2教室を借りて展示会 が開かれ、西洋画家の名作を集めた日本ではじめての展示会という事で、おすなおすなの大盛況となった。
それを見た孫三郎は、孫三郎に再々度の渡欧をすすめ、今度の渡欧では、孫三郎からすべて任されていた。
そしてパリの画廊でエル・グレコの「受胎告知」が売りに出されているのを見つけ、途方もない値段だったが、どうしても日本へ持ち帰りたいと考えた児島は、孫三郎に「グレコ買いたし、ご検討のほどを」と、写真を添えて手紙を送った。
孫三郎からは「グレコ買え、金送る」との返事が来た。
当時ヨーロッパは、第一次世界大戦直後で大変な不況にあえいでいた。その不況が、やがて日本にもやってくるであろうと予見した孫三郎は、円の強い今が名画収集がチャンスと考え決断した。
現在、このエル・グレコの「受胎告知」が日本にあることは奇跡であるとさえ言われている。
大原社会研究所の所長で留学もしたマルクス経済学者・大内兵衛は、金を儲けることにおいては大原孫三郎よりも偉大な財界人はたくさんいたが、金を散ずることにおいて、高く自己の目標をかかげてそれに成功した人物はいなかったと評した。
孫三郎が儲けた金は、児島の夢を通じて大原美術館として結実し、今も日本人の財産となっている。

スティーブ・ジョブズが立ちあげたアップル社は初期において、当時ペプシコーラの副社長であった37歳のジョン・スカリーをヘッドハンティングしようとした。
スカリーは、マーケティングの達人として知られていたからだが、ペプシでの輝かしい未来が約束されていたため、なかなかイイ返事をしなかった。
そこでスカリーの気持ちを翻させたのが、ジョブスの有名な言葉である。
「残りの一生を砂糖水を売って過ごしたいか、それとも世界を変えるチャンスを手にしたいのか」。
このエピソードを、自身の仕事を「水商売」と謙遜したサントリーの二代目社長の佐治敬三との「対比」として思いだした。
というのも、佐治は、会社帰りにバーで一杯という「文化」をわが国に根づかせ、「サントリーオールド」を生産量世界一のウイスキーに育て上げた。それは単なる「アルコールの入った水」ではなかったのだ。
初代社長の鳥井が赤玉ポートワインとウイスキーを作り、ビール事業で失敗。後を継いだ次男の佐治敬三が勝算が薄いと思われたビール事業に再チャレンジし、サントリーの代名詞といっていい「ザ・プレミアム・モルツ」を生みだし、45年もかかって事業を黒字にしていく。
佐治はバーでウイスキーを飲むという文化から作っていくというコンセプトを現実のものとしたのは、サントリー「宣伝部」を中心とした「イメージ戦略」があった。
サントリー宣伝部は、ひとりひとりが違った方向を向いたとても素直に社長のいうことの聞きそうもない異能派集団。
在職中に芥川賞をとった開高健、直木賞をとった山口瞳やイラストレーター柳原良平らは、数々の伝説的な広告をつくってきた。
サントリーがまだ「寿屋」と呼ばれていた時代、佐治は開高健を拾い上げ、伝説のPR雑誌「洋酒天国」の編集長として活躍する場を与えた。
とはいっても、「洋酒天国」にウイスキーの宣伝があるわけではなく、小説、ファッション、車、女性の口説き方まで面白いと思えるものはなんでものせた。
佐治は自分の力量を超えるような異質な才能をも抱え込み、宣伝部に負けたように見せながら、「やってみなはれ」と上手にのせて使っていたともいえる。
当時コマーシャルで流れた「アンクルトリス」は柳原良平が生んだキャラクターだが、爆発的にヒットし、サラリーマンの仕事帰りの一杯は赤ちょうちんでの一杯ではなく、バーでウイスキーをたしなむという文化を生んだ。
そして、彼らの存在がなければ現在の銀座の風景もちがっていたにちがいない。
サントリーという会社もしくは佐治敬三という人物を解するキーワードが「断絶」である。 それは、1つの成功体験にとらわれず、絶えず過去からの「断絶」を繰り返して成長した。
ウイスキーの売れ行きが好調な時、佐治は突然大手三社(キリン、サッポロ、アサヒ)が占める「ビール業界」へと打ってでる。
社内では、それに対する反対もあったが、佐治は社員が苦労することによって会社の体質を強化しようという狙いがあった。
壁があってそれを超えようという努力と挑戦が生まれる。壁がない時はあえて壁をつくる。それが「断絶」が意味するところである。
開高が芥川賞を取ったのは1958年1月のことだったが、佐治はその4ヵ月後、寿屋を退職した開口を破格の給料で週二回勤務の嘱託にしてくれた。
生活の安定と書くための時間を確保したい開高にとって、願ってもない厚遇である。
こうして高度成長期、経営者と作家が友情で結ばれ、「やってみなはれ みとくんなはれ」のたぐいまれなタッグを組んで、次々とヒットを飛ばした。
そんな二人の関係について、佐治は次のように述べている。「弟じゃあない。弟といってしまうとよそよそしい。それ以上に骨肉に近い、感じです」。
また、二人は「戦場」を共有したともいえる。
佐治は勝算なき「ビール事業」に挑み、開高はベトナム戦争の最前線に身を投じ、戦時下のベトナムに従軍し、「真実」を見ようとした。
ところが、彼を待っていたのは、200人の大隊のうち、生き残ったのがわずか17人という「本物の戦場」であった。
そこでの体験が、開高健の傑作「輝ける闇」となる。この本につき、三島由紀夫は「想像力で描いたのなら偉いが、現地に行って取材してから書くのでは、たいしたことではない」と評している。

<以上、名言のまとめ>
渋沢敬三:「わが食客(宮本常一)は日本一」
大原孫三郎:「他人に勉強してもらう」
佐治敬三:「やってみなはれ」