トフラー予測を超えた

インターネットを通じて、モノやサービスを個人間で貸し借りしたり、企業から借りたりする生活スタイル「シェアリングエコノミー」が広がりつつある。
すでに、デジタル世代は音楽や動画、ブログニュース、ソーシャルメディア、無料の電子書籍など「シェア」している。
東京には、「傘シェアリング」のウエッブ・プラットフォームがある。にわか雨に見舞われた人は、のスマートフォン用アプリを利用し、この共有ネットワークに所属する最寄りのレストラン、店舗、劇場を見つけ、傘を借りられる。
ユーザーは、このサイトに登録したほかのどの場所でも、あとで傘を返すことができる。
ファッション分野では、ブランドバッグのシェアリングサービスの登録者は、スマホアプリで2000個のバッグから好きなモノを選び無期限で借りられる。
「持たざる」ものでも、「シェア」によって、充分に「ぜいたく」が味あうことができる。
また、空いている「駐車場」や「空き地」を持っている地主と借り手をネット上で引き合わせたり、掃除や料理、家具組み立てなどの家事や日曜大工などを代行してくれる人を募集できるスマホアプリもある。
このサービスでは、依頼者とサポーターが直接仕事を「受発注」をし、業者が徴収する中間マージンが低く抑えられ、登録すれば、仕事を依頼する側にも請け負う側にもなれる。
見知らぬ人が家に入ることに不安を感じる人もいることから、履歴書や面談で一定の条件をクリアした働き手に「お墨付き」のマークを付与するなどしている。
こういう出会い系サービスでは、「直接取引」が主流で、「原価=材料費」以外の人件費や広告宣伝費などの価格の上乗せがないため、製品やサービスが「原価」で入手できる。
最近、街中で見かけるカー・シェアリングでは、「15分200円」というシンプルな価格設定で、使った分だけ払う仕組みである。
返却時に給油の手間もコストもなく、自動車保険料も駐車場代も車検費用もかからないので、利用が週末など「限定」されている人にとっては、大幅なコストダウンになる。
また、スマホで予約をすれば会員カードやスマホによって「開錠」して乗車できる仕組みなので、レンタカーのように利用時にカウンターで行列に並ぶ必要も無し。事前に登録したクレジットカードから決済されるので、車両は借りた駐車場に乗り捨てるだけ。
ただ「常識」に捕らわれない諸々の工夫がされている。例えば、利用開始と返却時の確認作業がない。返却時にはガソリンを満タンにする義務もない一方、利用時間帯によってはガソリンが半分くらいしか入っていないこともあり、足りない場合は自分で給油をする。
これも従来の常識からすれば「不公平」ということになりかねないが、それはそれで割り切りも必要。反面、車の利用については、良識やマナーが大きくものいう。

経済人類学者のカ-ル・ポランニーは近代社会に特徴として「市場の勃興」というものをあげた。
経済というものは本来は社会に「埋めこまれて」いたのだが、土地や労働力が「経済的取引」の対象となるに及んで、社会から「離床」したのというのだ。
かつて人々は、お金だけで結びつく「抽象的な経済」ではなく、相互に知ったもの同士、仮に顔まで知らなくとも「通婚圏」でとか「葬儀圏」など「社会的」に色づけられた圏域があった。
その圏域を中心に経済的な取り引きが行われていたといってよい。
それは、人と人との永続的な関係を前提とした「贈与」や「交換」が行われていたのだ。
つまり経済行為が「社会的関係」を超えておこなわれるのではない。こういう状態コソが、経済活動が社会に「埋め込まれ」ていることを意味し、なにかしらの「市場機能」が存在したとしても、それはサブ的機能でしかない経済のことだ。
カール・ポランニーは、1980年代に市場を社会的関係に埋め込むことが必要だといったが、この「市場万能」の流れにあってそれは不可能にも思えた。
しかしそれは市場万能の行き過ぎの結果として、再び市場が「社会に埋めこまれる」ことが起きつつある。
しかも、ITを中心とした「情報技術」の高度化によって起きているということである。
ところで、今日に至る資本主義の発達は、「市場経済」と「政府経済」の成長ととらえることができる。
人は、市場によって収入を得、そこで人の価値さえ測られるため、市場経済に労力をつぎ込んできた。
一方「家庭経済」や「共同経済」に人々の価値が評価されるモノサシは存在せず、ここに時間やお金を使う場面というのは、少なかったといえるだろう。
ただ、資本主義自由経済は、「政府経済」の成長によって一部修正されたが、地域社会はその権限を国家に譲りわたしスギた傾向がある。
さらには、権限を国家から「ヨーロッパ議会」に譲り渡したところに、ヨーロッパに行き詰まり感がただよっている。
さて、政府は市場経済からの「あがり」を元手として、歳入・歳出というカタチで現れる「財政活動」を営んできた。
ところが今、市場経済からの上がりダケで政府経済を運営するのが難しくなり、あえてそれをしようとするならば「質の低下」は免れえない。
そこで、「市場経済」とも「政府経済」とも外れた地点に生活の基軸をおこうとしている人々が増えている。
その立地点コソが、「家庭経済」であり「共同体経済」なのである。
ただ、このような活動を通して得られた利益は「所得」や「利潤」として捕捉できないため、政府の税収を欠乏させ「政府経済」を縮小させる。それの良し悪しは別として、市場経済や政府経済が縮小するいくつかの兆候が表れている。
たとえば、ビットコインの拡大で、中央政府の発行する通貨の流通とは異なって、政府の捕捉外で手数料や税収には繋がらない。
また、市場経済の縮小は、人々が企業からモノを買わなくなっている動きで、それは本やCDの売れ行きが低迷していることや、シャアエコノミーの拡大は、人々が既存のものを互いに「共同利用」することを意味し、シェアビジネスという新しいビジネスモデルを生んでいるものの、新車販売市場の縮小をもたらすことになろう。
ところでこうした「共同化」への動きは、財政難や雇用難でサービスを受けられない、モノが買えないといった背に腹代えられぬ事情から生まれた。
例えば、ギリシアでは、「物々交換」が行わている範囲での「地域通貨」というものも生まれている。
例えば、肉屋の店主はスリ減ったトラックのタイヤの交換を延ばしに延ばしてきたが、タイヤを替えたら340ユーロ(約4万6千円)はするところを「肉」と交換で支払ったという。
この肉屋は「トレードナウ(Tradenow)」というアテネ発のオンライン交換クラブを通じてタイヤの売り手や本業での新客を見つけた。
しかも、トレードナウは独自の通貨「トレードポイント(tradepoint)」を発行している。
このシステムでは、1トレードポイント=1ユーロと見なす。これを元にして利用者は直接物々交換するか、物やサービスを得るために必要なトレードポイントをためるかする。
結局、トレードナウのシステムは、実際に物やサービスをオンラインにのせ、需要と供給を引き合わせる。いわば、何千年も前の伝統を「デジタル」でよみがえらせた、というものだ。
こうした交換システムは事態の後退を招くだけと見る向きもある。しかし、カネというものが存在しなかった昔から、経済は物々交換を通して行われていた。
今の時代のカネは信用できない。一部の者たちに偏在していて、他の多くの人びとには不足している。
また、ケタ違いの失業率に直面するスペインで、数百万におよぶスペインの無職の若者達は、まだ「銀行」と名がつくものが、自分の背中を支えてくれているという思いを慰めにしているという。
銀行といっても貸金業の金融機関ではなく、「時間銀行」といったもので、参加者が自分たちの労力を「時間」で交換するシステムのことだ。
例えばAさんは車持っておらず、タクシーには高くて乗れないのでほかの時間銀行のメンバーに移動手段を頼っている。
家の修理も同じだ。その代わりAはメンバーの高齢の親族の世話をしたり、子どものパーティーを準備したり、引っ越しの手伝いをしたりすることもある。
「時間銀行」の存在は、現金の節約になるだけでなく、大変な時期でも前向きに取り組むコミュニティーの一員だと感じさせ、気持ちを盛りたててくれる。
「時間銀行」に加え、自助活動のなかには都市部に増えてきた物々交換市場や、小売業界にてこ入れするための「地域通貨」、不用品を再利用するための「チャリティーネットワーク」といったものが含まれる。
環境保護グループは最近、空き地のオーナーと、野菜を栽培したい人たちを結びつけ、収穫を分け合うというシステムを導入した。
中間業者のいない運動」も起こり、中間業者の利益分を減らして生産者と消費者が直接売買した。
ただ、医師の診療時間の1単位はベビーシッターの1単位とは時間が同じでも価値が違う。
時間の等価交換をどうするかで、「取引の責任」をどう確立するかなどが課題である。
さて、日本にも伝統的な「相互扶助「の仕組みがあり、それはちょうどスペインの「時間銀行」を思わせるものである。
江戸時代まで、農村共同体では「ユイ」という労働交換、「モヤイ」という共同作業、そして「講」(金融講)という相互銀行に発展する機能などが存在していた。
家を建てるために隣の人の労働力を借りた人が、次の年に家を建てた人に労働力を貸すといったものが「ユイ」であり、「モヤイ」というのは、川の堤防つくりや木の伐採など村人達が、協力して行う作業である。
現代の「相互扶助社会」は「地縁」ではなく「知縁」によって結ばれる。その縁は、恒常的であるよりも暫定的なもので、特定の目的のために見知らぬものたちが「この指とまれ」で集まるという性格のもの。
したがって、課題が解消すればそこからいつでも離脱できるという側面をもっている。

現代のシェアリング・エコノミーにおいて、提供者と利用者を結びつけるアプリこそが「核心」で、万物のインターネット化が進む極限では地縁も血縁もない「大村落」「大家族」を作り出し、「資本主義=私的所有権」の前提を崩し、企業社会の屋台骨を飲み込んでしまうほどの変革が起きつつある。
30年ほど前、アルビン・トフラーの「第三の波」という本が大ブームとなった。
トフラーは、第一の波である農業社会、第二の波である工業社会で、その当時が第三の波にあたるの情報化社会の「入り口」にあることを提言していた。
そして、第三の波の特徴は、産業社会(第二の波)で分離した生産と消費が、「再び」統合する社会のことである。
トフラーは、それをプロダクションとコンシューマーを合成した「プロシューマー」という言葉でアラワし、家庭が「外在化」してきた機能を取り戻して「家族ベース」の社会がやってくると予言したのである。
確かに、家庭が居ながらにして「職場」になる動きはスデニ起きていた。
しかしトフラーの予測で一番「マサカ」と思えたことの一つは、家庭が「生産機能」をもつことであった。
当時でも、「DIY」の普及とか、家庭菜園の可能性とか、或る程度の「在宅医療」の可能性ぐらいは、頭に描くことはできた。
しかしこの程度では「プロシューマー」とはいえるほどのものではない。
家庭で、消費者が必要なものを自分でつくる「自給自足」に近似していく社会コソが「プロシューマーの時代」といえる。
しかし、大規模生産における「規模の経済」のメリットを捨ててまで、「プロシューマー」が広がっていく可能性があるのか。
ヨホド新たな「生産方式」でも生まれない限りは、「プロシューマーの時代」の「実現性」はカナリ薄いと思っていた。しかし今や、3Dプリンタがそれを可能にしてくれている。
3Dプリンターは、色々なカタチをした道具をまったく同じ形で立体コピーして作り出す技術で、家庭向けの3Dプリンターが相次いで発売されている。
設計図にあたる3Dデータは、ネットからもダウンロードでき、フィギュアや花瓶、コップなどが自宅で簡単につくれる。
ユニークなところでは、チョコレートや砂糖を原料に、菓子やケーキをつくるプリンターを発表した。
つまり「プリント」の対象となるものが、樹脂にかぎらず、食材にまで広がってきたことを意味している。
一方、トフラーの予言の中に、「家族ベース」の定住社会というものである。
トフラーは情報化がすすめば、人は会社にいかずとも家庭の中でコンピュータを使って仕事ができるので「在宅勤務」が増えると予言し、実際に今日、「テレワーク」の名で広がりつつある。
ただし、非正規雇用を多く抱え込む世代は、安定した家族ソノモノのを築くことを困難にしている。
そして多くの人々が「ノマド的生活」に頼らざるをえない。「ノマド」とは草を求めて移動する放牧者の意味で、非正規の仕事を求めて各地を移動するのを常態とするが、トフラーの予測には存在しなかった「携帯」が必需品となる。
また、トフラーの予測を超えたものとして「スマートシティ」の構想があげられる。
スマートシティは、ITや環境技術などの先端技術を駆使して、街全体で再生可能エネルギーの効率利用を前提とした「環境配慮型都市」である。
再生可能エネルギーの欠点は、供給が不安定になりがちだが、電力の需給をコンピュータで制御して安定的なものとして、街全体で電気と熱の同時併用などの効率化をはかるものである。
トフラーを超えたものとして、モノのインターネット化(Iot)があげられる。
今日実現しているものは、アプリの「遠隔操作」だけで家の中の様々な環境や条件を操作し、湯沸しから掃除までも自動的にできてしまうなどである。
Iotが描く未来は人とモノだけではなく、モノとモノがつながる社会で、「全てがインターネットにつながる」という意味で、IoE(Internet of Everything)(アイ・オー・イー)と呼ばれ始めてもいる。
モノとモノとの繋がりを制御するのが、トフラーの予測の中には登場しなかった「人工頭脳」(AI)である。AIの真骨頂は、データを解析し、最適な「解決策」を導き出すことだから、1つの街ないし共同体全体での福祉サービスの提供や移動をスムーズにコントロールすることさえできる。
例えば、車から送られてくる大量のビックデータをもとに、AIが信号の待ち時間をコントロールして渋滞を減らしたり、車のワイパーの使用頻度から地域のリアルタイムで天候予測をしたり、道路そのものと車椅子をつないで車椅子を安全なルートで誘導したりできる。また、ドローンによる宅配サービスも普及するかもしれない。
日本は、超高速ブロードバンド接続でコミュニケーション・インターネットの性能を高める点ではすでに飛び抜けており、IoTプラットフォームにおけるビッグデータの流れと処理の総効率を上げる点で、高い可能性を秘めている。
また日本は外国に比べて、太陽光や水、潮力、風力など豊かで、そうしたエネルギー源をスマートに利用しない手はない。
ただ、日本には「スマート・コミュニティ(共同体)」の恩恵にあずかる可能性が高いにもかかわらず、それを妨げているのは「既得権益」。
信号機がLED電球に変わるのさえ抵抗が入るくらいだから、原子力再稼働をはかる垂直統合型の巨大な電力公益企業、それに結びついた政治家や官僚などの抵抗は想像に難くない。