唯一の「目撃・報告者」

この世界には、たった一人の目撃者によってしか語られない、もしくはその詳細が伝わらない出来事というものがある。
それは、その出来事の当事者であったり、目撃者であった場合もある。
また、いわゆる「語り部」となって出来事を伝えることを自らの使命と自覚したようなケースもある。
さて、博多から北九州にむかう鹿児島本線に「東郷駅」がある。
ここに東郷平八郎を祀る神社があるためだが、その西岸に広がる玄界灘から日本海あたりは、日露戦争のハイライト「日本海海戦」の舞台となった。
そしてこの沿海の地・宗像は「神話の里」でもある。
「記紀神話」によれば、宗像三女神「田心姫神(たごりひめのかみ)、多岐津姫神(たぎつひめかみ)、市杵島姫神(いちきしまひめ)」はアマテラスとスサノヲの誓約(うけい)から生まれ、「海北道中(宗像より朝鮮半島に通じる道)」に降臨した。
宗像大神には「道主貴(みちぬしのむち)」の別称があり、これは「最高の道の神」という意味である。
このたび世界遺産登録が決定した「沖ノ島」には宗像大社の「沖津宮」がある。
現在でも神職以外立ち入り禁止で、島からの持ち出しも禁止されている。
さらに、「女人禁制」や島に入る前の「みそぎ」など、厳格なしきたりが今なお守られている。
宗像の古代祭祀跡から見つかった遣納品には中国だけでなく、朝鮮半島の新羅や百済の文物が多数含まれており、大陸との通交を生業としていた宗像族と朝鮮半島諸国の王朝、航海民が共に航海の安全を祈念して奉納したものが数多くある。
ちなみに、宗像三女神の次女・多岐津姫命を祀る「中津宮」のある筑前大島は、遠藤周作の「沈黙」の主人公・ロドリゴが上陸 した島である。また、「沖ノ島」は、福岡県宗像市の沖合約60キロの玄界灘に浮かぶ周囲約4キロの孤島である。
朝鮮半島製の金の指輪や中国製の金銅製竜頭など豊かな国際色から「海の正倉院」とも呼ばれている。
1905年5月27日、ロシアバルチック艦隊が、東郷平八郎率いる「連合艦隊」に撃破された日本海海戦は、宗像三女神のひとつが祀られた「沖ノ島」沖で展開された。
この時、宗像大社の神官とその小使いの少年が沖ノ島にいた。
戦いが始まったその時、神官は必死の戦勝祈願。少年は木に登って海戦の一部始終を見て、後にその戦況を報告した。
当時16歳だった佐藤市五郎さん(1889~1974)は、宗像大社神職の身の回りの世話をしていた。
手記に「砲声は『ヅドンヅドン』と萬雷(ばんらい)共怒るが如く」と緊迫の様子を伝えている。
神職が沖津宮社務日誌に海戦の様子を記したことは知られていたが、息子が保管してた佐藤さんの手記では、社務日誌ではわからない沖ノ島での様子が臨場感をもって記されていた。
手記によると、当時沖ノ島の山頂には望楼(監視所)が設けられ、海軍兵士ら30人が駐在していた。
1905年の5月27日は「西風が最も強く、海上は大荒波」。
午後2時ごろ、沖ノ島近海を北上するバルチック艦隊と、南下する日本の連合艦隊の戦闘が始まった。
「数十隻の艦隊が打ち出す砲声は耳をつんざき……無数の水柱が沖天高く突上る」「艦隊が吐き出す煙は海上一帯に墨を流したように暗黒な恐ろしい風影を呈す」などと海戦を伝える。
望楼では、「信号長」が戦いの様子を逐一打電。佐藤さんは風で飛ばされた信号長の「艦型一覧表」を見つけ出し、「金鵄(きんし)勲章だ」とほめられたという。
激戦3時間、360余通の長文電報が発せられたとも記し、その緊迫感が伝わる。
海戦が勝利に終わった時、神官と佐藤さんはうち震えていたという。
その後、佐藤さんは宗像大社の神職となり、太平洋戦争後に沖ノ島の学術調査が行われた際には、案内役も務めている。
宗像大社には、連合艦隊の司令長官だった東郷平八郎が旗艦「三笠」の羅針儀を奉納しており、島内には、今も弾薬庫や砲台跡が残っている。
沖ノ島の海軍部隊に所属した元軍人が古賀市立歴史資料館長にあてた手紙には、食糧不足でオオミズナギドリやその卵を食べ、炊事、暖房用に原始林を伐採したことを告白したうえで、原始林を、陸海軍合計2000名ほどの男たちの生活のために莫大な量の古木が伐採されたことにつき、祭神にお詫びしたいとあったという。
かくして、神官と佐藤少年こそが、当事者以外で唯一の日本海海戦の「目撃者/報告者」となったのだが、最高の「道の神様」たる宗像大社の三女神の存在も、ゆめゆめ忘れてはなるまい。

1868年8月23日未明、官軍の猛攻を避け飯盛山に退いた白虎隊は、「捕虜になって敵の恥辱を受けるより、いさぎよく自刃し武士の本文を明らかにする」道を選ぶ。
ソニー創業者の井深大(いぶか まさる)は、栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に生まれたが、愛知県安城市の祖父もとに引き取られ、そこで育った。
井深氏の一族に飯盛山で自刃した白虎隊士・井深茂太郎がいる。
戊辰の役が起きると、茂太郎は三十七人からなる「白虎士中二番隊」に編入された。
西軍破竹の勢いをもってまさに城下に迫らんとするや、これを戸ノ口原に迎え撃ったが戦い遂に利あらず、退軍して飯盛山上に自刃した。この時茂太郎16歳であった。
井深茂太郎は会津藩内における青年文士の筆頭に数えられた秀才で、井深茂太郎は白虎隊の「記録役」を命じられて戦いにおける行動を記録したが、「白虎隊」の出来事は、こうした記録に加え、その当事者による「口伝」が大きな情報源となっている。
井深大氏は実業家以前に、優れた電子技術者であったが、白虎隊にはもうひとり、後に電気技師となる飯沼貞吉という人物がいた。
飯沼貞吉も、母ふみから贈られた「あずさ弓むかふ矢先はしげくとも ひきなかえしそ武士(もののふ)の道」を反芻し、覚悟を定め「同僚の者が咽喉を突き、あるいは腹をかき切って倒れるので遅れてはならぬと脇差の鞘をはらい、力を込めて咽喉に突きたてた」。
しかし急所をはずれたのか、人事不省のまま奇跡的に一命を取り留め、救出された。
そして戊辰戦争のハイライト飯盛山における「白虎隊自刃」の出来事を後世に伝えたのは、この時の少年・飯沼貞吉である。
彼こそが「白虎隊自刃」の唯一の生き残りで、この出来事の唯一の「目撃者/報告者」となった。
飯沼貞吉が命をとりとめることにより、その詳細は「口伝」によって伝えられたのである。
死ぬべき時に死ぬことが武士の道とされた時代である。死に損なうことがどれほど恥ずべきことか、飯沼の心中には自責の念が渦巻いたことだろう。
しかし、偶然に通りかかった武具役人の妻・印出ハツとの運命的な遭遇と救出は、あたかも「この若者を死なせてはならぬ、次代に生かせ」という天の意思が働いたかのごとくである。
飯沼は赦免後は名を貞雄と改めて静岡の林三郎塾に入り、1872年、工部省の技術 教場に入所して電信建築技師となった。
工部省(後の逓信省、現在の総務省)に任官した貞吉は、印出ハツに救出されて5年を経たその時から飯盛山に散った同士19人の生をも引き受け、ひたすら電信事業に尽くすことを決意する。
さまざまな出会いを通して、生かされて在る命の重みを自覚したのであろう。
日本の電信(電報)事業は1870年1月、東京と横浜間の開通に始まる。電信網の全国整備に伴い飯沼は技術専門家として東奔西走する。
1873年には東京から長崎まで1340kmが開通。アジアで電信を独力で構築した国は唯一日本のみで、その後の通信大国への基礎となった。
そして逓信省仙台逓信管理局工務部長を最後に1913年60歳で退官している。
、 飯沼貞吉は千年におよぶ武士の時代の終焉に殉死し、明治新時代の誕生とともに回生した。
晩年、「すぎし世は夢かうつつか白雲の空にうかべる心地こそすれ」と詠んだ。
この歌の一節は、白虎隊の悲劇を描いたテレビドラマの主題歌「愛しき日々」(堀内孝雄歌/小椋桂作詞)の歌詞の一節を連想させるものがある。
例えば、♪♪雲の切れ間に輝いて 虚しき願い また浮かぶ♪♪などである。
1931年2月、飯沼は78歳で没し、彼の墓は仙台市北山金剛寺輪王寺にある。
1958年、会津若松市で戊辰戦後 90年祭を執行するにあたり、他の隊士らの眠る飯盛山の一角に彼の毛髪を移して墓碑を建てその霊を慰めた。
飯沼貞吉は、ようやくにして「白虎隊」の友と処を同じにしたのである。
記念碑には「君と十九人の同士は泉下に手を採り合い満足の笑みを交わしていることであろう」と刻まれている。

日露戦争で相対したロシア軍から乃木大将に送られた一台のピアノがある。
日露戦争で降伏したステッセル将軍は、旅順軍司令官の乃木大将と水師営で歴史的会見をするが、その際乃木は、敗軍の将であるステッセルに帯刀を許し、その礼節あふる武士道精神に感激したステッセルは、アラブの愛馬一頭と夫人愛用の恩賜のピアノを乃木にプレゼントした。
そして乃木は、このピアノを戦闘で最も多くの犠牲をだした金沢の連隊に鎮魂の思いをこめて託した。 金沢は、旅順陥落後約6000人のロシア人捕虜がおくられた地でもあった。
その後ピアノは金沢市内を転々とし一時陸軍偕行社におかれたが、戦後さらに人手にわたった後、金沢女子短期大学におさめられたという。
実は、ステッセルから送られたピアノの行方については、金沢の他に旭川、水戸、遠軽などの地にも同じような話が伝わっているために本当のところはよくわかっていない。
さて、戦争中に弾かれた「伝説のピアノ」の話は、佐賀県鳥栖にもある。それは、映画「月光の夏」で知られることになったフッペルのピアノである。
鳥栖小学校の体育館にかつて一台の古びたピアノがあった。子ども達が乗って遊んだりボールを投げたりで危険なため廃棄が決まった。
そのことを聞いた一人の女性教諭が教頭に語った思い出が、思わぬ波紋を広げてゆくことになる。
この女性教諭の証言から、テレビのドキュメンタリー番組が作られ、さらに1992年映画「月光の夏」として封切られることになった。
1945年6月、鳥栖小学校で音楽を担当する上野歌子教諭は、校長室に呼ばれた。
校長室に入ったとき、上野先生は、首に白いマフラーを巻き飛行服姿で立っている二人の青年を見つけた。
青年達は、自分達が音楽学校ピアノ科の学生であり、出撃の前に思いきりピアノを弾きたいと告げる。
当時、全国のほとんどの小学校にはオルガンしかなかったが、この鳥栖小学校にはドイツ製フッペルという名器のグランドピアノがあったのである。
グランドピアノがあると聞いて、二人の青年は、長崎本線の線路を三田川の目達原(めたばる)飛行場から、3時間以上(12㎞以上)の時間をかけて歩いてきたのである。
上野教諭は急いで2人を音楽室に案内し、大好きなベートーベンの「月光」の楽譜を持ってきた。
それはまるで青年の運命を知っているかのようであった。なぜなら彼の専攻はベートーベンだったからである。
一人の青年が「月光」を弾き、もう一人の青年が楽譜めくった。上野教諭は、1つ1つの音をしっかりと耳に心に留めておこうと心をこめてその演奏を聴いた。
演奏が終わり二人の青年が音楽室を去ろうとしたとき、上野教諭は、この短い時間を共有した証を残してあげなければと思い、白いゆりの花を胸一杯に抱きかかえて来て二人に渡した。
二人は何度も振り返りながら長崎本線の線路を走って戻っていったという。
その約2ヵ月後戦争は終わり、上野教諭は二人の青年との再会を願われたがそれもかなわぬまま、彼らの消息は不明のままであった。
十数年後、上野教諭は鹿児島の知覧平和記念館を訪れ、戦没者の写真によりピアノをひいた方の青年の死を知る。
しかし、元新聞記者やテレビ局などの協力により楽譜をめくっていた方の青年の生存を知り45年の時を経で再会することになる。
その青年は出撃後エンジン不調のために帰還され生存されていた。
しかし鳥栖でピアノを弾いた特攻隊の青年のことがマスコミで話題になった時も、自分の過去のことを誰にも語らず家族にも秘匿しておられた。
毛利恒之著の「月光の夏」では、表に出ることはなかった「振武寮」という施設の存在を明らかにしていた。福岡市の九電体育館あたりにあった帰還兵を収容するための施設である。
この施設は、特攻隊員として出撃したが、何らかの理由により攻撃に至らずに基地に帰還した特攻隊員が収容された施設である。
特攻隊員は一方向・一回限りの攻撃であり、その原則を崩すと隊員の士気に関わると考えた特攻隊の指揮官は、これらの帰還特攻隊員を他の特攻隊員から「隔離すべし」と命令を下したのである。
また死して軍神となったのに実は生きていたとなると、大本営発表が虚をついたことになるため、一般軍人や一般市民からも隔離されたといわれている。
「振武寮」に送致された帰還特攻隊員が、自分より先に特攻で出撃し戦死したとされていた同僚と再会することもあったという。
したがって「振武寮」の最終目的は、帰還隊員にもう一度死地に赴かせることであったが、隊員のなかには精神的に追い詰められ、自殺を図る者もいたといわれる。
「振武寮」が存在した期間は1945年の5月から6月頃までの1ヶ月半ほどで、約80人が収容されたといわれている。
そもそも、個人的に「フッペルのピアノ」について初めて知ったのは、鹿児島の知覧(特攻隊の出撃基地)の平和記念館に行った時のことであった。
この平和記念館にも「フッペルのピアノ」が展示してあり、そのピアノが鳥栖で上野教諭が語ったピアノの「兄弟」のピアノであることを知ったのである。
二人の青年の平和への願いを永遠に残そうと、特攻隊員の仲間たちが、知覧の地にもう一つのピアノを残すことにしたのだそうだ。
またこの時、二人の青年がひいた本物のフッペルのピアノが、JR鳥栖駅前の「サンメッセ鳥栖」に展示してあることを知り、さっそくピアノを見に行いった。
そして、この出来事に寄せられた多くの人の思いを、寄せ書きや絵画、書、そして花束などによって知ることができた。
ちなみに、知覧の展示資料の多くを収集した板津忠正氏も、「月光の夏」に登場した青年と同じように出撃後、エンジン不調のために帰還されて終戦をむかえている。
その負い目から戦友の遺骨収集に精力を注がれ、それらが「知覧平和記念館」が誕生の基となったのである。
上野教諭は、二人のピアノ演奏の唯一の「目撃者/報告者」で、「語り部」としてこの出来事を伝えつづけたが、1992年講演先で突然亡くなられた。
鳥栖文化会館では現在でもこの出来事を記念して毎年フッペル平和コンサートが開かれている。
また、フッペル社があるドイツのツァイツ市には、鳥栖に近い太宰府光明禅寺をモデルにした日本庭園がつくられドイツ人に親しまれているという。

した島である。
「万葉集」にも歌われた金埼(玄海町鐘崎)の宗像君(朝臣)は本来的には海人であり、鐘崎海人の潜水活動は近代にまで及んでおり、壱岐・対馬・長門・石見。そして遠く能登へ至ったという。
「魏志倭人伝」には3世紀の「倭人」が入れ墨をして水に潜り漁労にいそしんでいた様子が描かれている。
水中での作業はサメやウミヘビなどの危険が伴い、これを避けるために体や顔に「入れ墨」をしていたと言われる。
海人族は航海だけでなく漁労に携わっていたであろうから、そうした「入れ墨」をした人々が居た可能性がある。
一説には「宗像」は、もともと「胸形あるいは胸肩」と記していて、これは胸に入れ墨をした人という意味があるらしい。
古代海人族としては対馬や壱岐、志賀島を拠点として、対馬海峡・玄界灘をわがに庭のごとく通交していた「安曇族」の方が先輩格で、1世紀の奴国の栄枯盛衰に関わりがあることが推測できる。
「住吉族」も、元々は「安曇族」の中から出て来た海人族と考えられているが、後にヤマト王権により、摂津の住之・住吉を拠点とする航海守護神として祀られる。
一方、宗像族はあくまでも筑紫の神ノ湊、鐘崎辺りを拠点とし、筑紫を出た形跡はない。
527年磐井の乱以降、敗れた磐井側についた安曇氏が筑紫を去り、ヤマト王権に呼応した宗像氏が筑紫に残って外交祭祀を執り行うようになったと推測できる。